断章 廃棄計画
「このシラキという女性が、龍一のお母様? でも名字が……」
「離婚した時に、旧姓に戻したからな」
説明はしたが、ブリギッテはどうもぴんと来てはいないようだった。離婚後は名字を旧姓に戻す、という発想自体が日本国内ならともかく、海外では合点が行かないのかも知れない。
ディロンが龍一の顔をまじまじと見つめる。「あんた、お袋さんいたのかよ!?」
「いるよそれくらい」人を何だと思ってやがるんだ。「俺が今よりずうっとガキの頃、出てったけどな」
「あんたも苦労してんだな……」
「龍一のお母様は、自分の仕事について話したことはあるの?」
「いや。一言も話さなかった。そもそも何をしているのかすら話さなかったからな。毎年、俺の誕生日に絵葉書を送ってくるくらいで。去年はホンジュラス、その前はモンゴル、その前の前はギリシャ、てな具合にな……だから最初は、母さんのことを国際スパイかなんかだと本気で信じていたよ」
「この書き方から見るに、こちらのプロジェクト内でもかなり重要な位置にいたらしいね」アレクセイが指摘する。龍一の肉親云々に言及しないのは、彼なりの気遣いだろう。
【◯月×日】
被験体の第一陣が到着した。これでプロジェクトも本格始動だ。
被験体の状態はいずれも悪い──手当たり次第に様々な国、様々な地方から掻き集めたのだから当然だが。勢い、質の悪さは量で補う形になる。まあ、研究が研究だ。秘密裏に行うしかない以上、あまり贅沢も言えない。
贅沢は言えないが、しかし、被験体のほぼ全てが若い女性、しかも初潮を迎える前の少女というのは何の悪い冗談なのだろうか。噂によれば〈ペルセウス計画〉の被験者も、精通前の年端も行かない少年ばかりだとも聞く。
案外このプロジェクト自体、何らかの宗教的狂熱に突き動かされたものなのかも知れない。
「いやだ。気持ちの悪い話……」ブリギッテがおぞましそうに身震いする。
「くそインテリにも変態はいるって動かぬ証拠だな。いや、くそインテリだからこそ変態なのかも知れねえけど」ディロンも顔をしかめながら同意する。
【◯月×日】
彼女の赴任から数日、停滞していたプロジェクトが動き始めた。
実際、上は適切な人材を寄越してくれたと認めるしかない。年齢不詳の、やたらと童顔の東洋女(ただでさえ東洋人の表情はわかりにくい)に顎でこき使われていい顔をする者はいなかったが、まもなく不満の声は雲散霧消した。何より彼女は、あれの母親だ。
それにしても彼女の持ち込んだこの物質は何なのだろう……生物でもなく鉱物でもなく、人体への親和性、特に脳組織への浸透性は従来品の比ではない。こんな物質が今までに存在していれば軍事・医療、その他無数の分野に革命が起きてもおかしくないはずなのだが。一度、思い切って彼女に直接尋ねてみたが、ただ笑って「私たちの心の中から産まれたのさ」としか言わなかった。はぐらかされたとその時は思ったが、案外、何らかの真実だったのかも知れない。
【◯月×日】
被験体の中でも特筆すべき個体が二つある。〈大きいブリギッテ〉と〈小さいブリギッテ〉だ。
どうも片方が「大きい方」を勝手に名乗り、もう片方を「小さい方」と呼び始めてから自然にそうなったらしい。いちいち名をつけて感情移入などしていたら身が持たないし、識別も楽になるので周囲も合わせてそう呼ぶのに支障はなかった。二人の間に血縁関係は一切ないはずだが、そうするうちにお互い段々似て見えてくるのだから不思議なものだ。長年連れ添った夫婦の顔つきが似てくるようなものだろうか。
他の候補者たちが次々と脱落していく中で、この二人だけは現状課題をパスしている──〈大きいブリギッテ〉は軽々と、〈小さいブリギッテ〉はどうにか、といったところだが。
【◯月×日】
〈大きいブリギッテ〉の運動神経はずば抜けている。同年代の子供どころか、高精度のトレーニングを積んだ成人男性にすら引けを取らない。
つくづく彼女が〈ペルセウス〉でないことを残念に思う。悲しいかな、我々が〈アンドロメダ〉に期待しているのは身体能力ではないのだ。
いつ私は〈ペルセウス〉になれるの? そう彼女に聞かれるたび、我々は笑いながら首を振るしかなかった。女の子は〈ペルセウス〉にはなれないんだよ。
「あらまあ。性差別をお疲れ様」たちまちブリギッテが憤然となる。
「この〈ペルセウス〉が何らかの兵器だとすると、〈アンドロメダ〉というのはその補助機能、あるいは戦力倍増要素なのかな。兵器を開発する一方で、その兵器の利点をさらに伸ばす機能を模索するのは不思議ではない。例えば、長距離砲と対砲迫レーダーのように」とアレクセイ。
「今のところ俺には〈アンドロメダ〉は正義の味方のかわいいアシスタント、以上の役割には思えないんだが」
「性差別主義者がここにもいたわね」
ディロンがたちまち眉間に皺を寄せる。「なあ、さっきからそのペルだかアンドロだかは何なんだ? 中国人が使う香辛料か何かか?」
「呆れた。ギリシャ神話も知らないの?」
「〈アンドロメダ〉はギリシャの神話に出てくる、海の怪物に生贄として捧げられそうになった王女様の名前。〈ペルセウス〉はそれを助けた英雄の名前だよ」龍一は慌てて説明する。こんなことでいがみ合いをされても困る。
「へえ……あんたら、やっぱりくそインテリなんだな。俺なんかよりも遥かにさ」
かと言って感心されても困るのだが。
「待って、ここ……」ブリギッテが壁に投影されたファイル内のページに顔を近づける。「これが何ページかわかる?」
『586ページです』
ブリギッテは分厚いファイルをめくり、壁の映像と照らし合わせる。「やっぱり……こうして見比べると明らかに他のページと紙質が違う」
「何かわかったのか?」
「見つけたかも知れない。ジェレミー本人の手記を」
【ジェレミーのメモ】
本来、僕のような職業で自分について書き記すのは致命的だ。だから僕は日記をつける習慣があることを誰にも話したことがない──上司にも同僚にも、一番親しい友人にすら。
こうしたアナログな手法にも利点はある。いざという時に燃やして証拠隠滅できるし、火が近くになければトイレに流してしまえる(詰まる危険はあるが)。何よりネットにアップしたものと違って、ハッキングされる恐れがない。
だからこの文章が誰かに読まれているとしたら、たぶんその時、僕はこの世にいない。
〈ペルセウス計画〉を探れ、それが僕らの部署(
しかしプロジェクトに関わっているのは政府内でも相当の高位者であり、直接の侵入は極めて困難そうではあった。金の流れから探ろうにも、裏社会が関わっているとなると警察との連携は不可欠であり、それも難しい。
ならば搦め手として派生物としての〈アンドロメダ計画〉の方から責めてみては、そう僕は提案した。
件の研究機関はただ〈
「おいたしている身内を探れ、か……となると国外諜報活動を行う
「何にせよ、ジェレミーの『職場』の背景が少し見えてきたな……」
龍一たちの話に、ディロンは宇宙人同士の会話でも聞いているかのように目をぱちくりさせている。
【ジェレミーのメモ】
今回の任務に際し、信じられないような話を上から聞かされた。
どう話半分に聞いてもコミックスじみた話だった。数年以内に全世界規模、地球規模の災厄が発生し──便宜上それは〈
当然、世間には良識や常識という奴が馬鹿や阿呆と同じくらい生き残っている。そんな研究にまともな予算が付くはずもない。だから〈ペルセウス計画〉は名目上『対テロ戦闘、あるいは市街地での大規模戦闘を想定した増強兵士計画』ということになっていたし、まともでないやり方で人員や資金、研究施設を調達することになる。結果として〈竜〉への対抗措置を研究する各国機関のほとんどがヨハネスの息のかかった犯罪組織に汚染されるという、後世に取り返しのつかない禍根を残す結果となったのだ。
それはずいぶんと歪んだ世界地図だった──少なくとも、僕が漠然と信じていた世界地図とは似ても似つかないものだった。
龍一は目を瞬いた。瞬いて、原文を十回ばかり読み返したがやはり内容は変わらなかった。自分のことが書かれている。いや、自分ではないが、かと言って全くの無関係でもないことが書かれている。
俺の信じていた世界地図も、やはりジェレミーと同様、実際とは似ても似つかぬものなのではないのか?
【ジェレミーのメモ】
調べてみれば、やはり優遇されているのは〈ペルセウス計画〉の方だった。人員も、予算も、そして資材も──対して〈アンドロメダ計画〉はそのお下がり、人員も二線級、三線級の者ばかりだ。彼らが腐るのもわからなくはない。
実際のところ、カルト集団への潜入は困難ではない(命の危険を恐れなければ)。いつの時代だろうと、どの国だろうと、少数精鋭のエリート集団はカルト化する。宗教団体に限らない。組織と名のつくものは皆そうだ。軍隊、ギャング、大学のサークル活動、教育機関、研究機関、そして僕ら諜報機関だって例外ではない……秘密を共有し、外部からの批判をシャットアウトし、裏切り者は絶対に許さない。あとはカルト化するのが遅いか早いか、時間の問題だ。
だからそのややひねこびたエリート意識をくすぐった途端に、彼らの態度は拍子抜けするほどに軟化した。少数精鋭であるが故に、彼らは慢性的な人員不足に悩まされていた。それで口が固く、係累がなく、おまけにリストラの恐怖に日々びくびくしているうだつの上がらない平社員(それが僕に用意された偽の身分だった──実際、そうひどい嘘でもない)となれば、彼らの目に止まらないはずがない。
今にして思えば、僕がMI5にスカウトされた理由もそうではなかったのか? 口が固く、係累がなく、おまけにリストラの恐怖に日々びくびくしているうだつの上がらない平社員。もう幾つかの偶然が重なれば、MI5より先に僕へ接触していたのは〈家〉の方だったのかも知れない。
ともあれ数日後、僕はもう〈家〉スタッフの一員だった。そしてその中でも最も注目株の被験体、〈大きいブリギッテ〉と〈小さいブリギッテ〉の世話係に任命されるのは、何の苦労もなかった。
僕が〈家〉に配属されたのと同じ日に、2号室のリアムが死んだ。全身が内側から金属とも骨ともつかない黒光りする突起に貫かれていたそうだ。
【ジェレミーのメモ】
似ているとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。彼女たちの間に血縁関係はないはずなのに。
もちろん、注意深く観察していれば差異はある──とにかく明るく活発な子、というのが〈大きいブリギッテ〉の第一印象だ。だが僕の顔を見た途端に言ったことが「それで、私は何をすればいいの?」だった。
〈小さいブリギッテ〉の方はもう少し手を焼いた。何しろ僕の姿を見た途端に狭い部屋の中を、文字通り飛び上がって逃げたのだ。〈大きいブリギッテ〉はおかしそうに「この人は大丈夫よ」と言ってベッドの下に潜り込んだ彼女を引っ張り出したのだが、その後も随分と長いこと彼女は〈大きいブリギッテ〉の背後からしか口を開かなかったし、〈大きいブリギッテ〉のいないところには頑として行かなかった。
接してみて数日。僕は彼女たちの素顔が第一印象とはかけ離れたものであるのを思い知らされた。
たとえば〈大きいブリギッテ〉は必要とあれば何十分でも何時間でも黙っていることができた──彼女との会話の最中で、ずっと彼女に観察されていたことに気づいた時はぎょっとしたものだ。お前の正体も目的も何もかもお見通しだぞ、と言わんばかりの目つきだった。
〈小さいブリギッテ〉は一度教わったことを何時間も考え続けた末、僕ですら忘れた頃になって疑問点を尋ねてきた。
要するに二人とも、スタッフ以外の人間、それも「外」を知る人間に飢えていた。半月もしないうちに、彼女たちは僕の知識を残さず吸収した。ほとんどではなく、全てだ。元素の周期表も、イギリスの主要都市名とその面積と人口も、イングランド歴代君主の名前と在位期間も、ブリテン諸島を流れるあらゆる川と湖の名前も、餌を使わずに魚を釣る方法も、ついでに言えば身体の大きい男の子に勝つ戦い方も(これはついうっかり〈大きいブリギッテ〉が虫の好かない職員に試してしまい、後で大変な騒ぎになった。彼女は職員を『ちょっとばかりへこます』どころか完全にノックアウトしてしまったのだ。彼女は僕と一緒にこってりと叱責を受けたが、それはかえって妙な自信をつけさせただけだった)。
「ジェレミーと私が会っていた……?」ブリギッテの表情は〈呆然〉という芸術作品のようだった。「嘘よ、だって……私、何も覚えてない……」
「お、俺は別に疑っちゃいねえぞ。だってガキの頃だろ?」ディロンが慌てて宥めに入る。「俺なんてくたばった親父のツラをほっとんど思い出せねえんだぜ。まあ、赤の他人なら尚更だろうが……」
「そんなはずがないわ。だって……だってここに書かれているのが本当なら、ギリシャ神話や連立方程式を教えてくれたのはこの人なのよ! それをまるで覚えてないなんて……私、そんな薄情な人間じゃない!」
アレクセイもまた宥めようとする。「単に忘れただけではないのかも知れない。何らかの故意、外科的手段があったのかも」
「……読み進めよう」龍一は促した。「きっとここにその答えがある」
【ジェレミーのメモ】
しまいには彼女たちに今日は何を話そう、明日は何を話そう、それで僕が困るほどだった。不愉快ではなかった。一人っ子の僕にとっては、妹が一度に増えたようなものだった。オーウェンも、エドワードもいい奴だった──だが異性の、しかもこれほど小さい子供からこうも慕われて毎日のように「おはなし」をせがまれるのは僕の人生でも初めてだった。
殊に彼女たちが気に入ったらしいのはギリシャ神話だった。自分たちがこれからなれるかも知れないものだから当然だったが。〈大きいブリギッテ〉は自分こそが〈ペルセウス〉になるのだと信じて疑わなかったし、〈小さいブリギッテ〉の方はアンドロメダ姫になっていつか見目よく優しい王子様に助けられるのを夢想していた(その意味では〈小さいブリギッテ〉の方がいささか少女趣味ではあった)。
しかし、彼女たちの出身地はどこなのだろう? 犯罪組織の人身売買ネットワークにより世界からかき集められた少女たちの出身地を探り当てるのは不可能だ──金髪にラベンダー色の瞳、白い肌、あたりからはヨーロッパ系と推測されるが、それ以上は全く不明だ。イギリス人どころか、アイルランド人ですらない。正常不安定な東欧の小国かも知れないし、オーストラリアかも知れない。そういう意味では「わからない」としか言いようがない。
二人が僕に気を許し始めた頃、4号室のマルヤムが死んだ。全身の骨が液状化していたらしい。
「……思い出せない」ブリギッテは眉間に皺が寄るほど考え込んでいたが、結果ははかばかしくないようだった。「そんな身近な、物心つく前から傍にいた人たちを思い出せないなんてことあるはずないのに……どうしても、どうしても思い出せないのよ……」
やはり単に忘れているのではないのではないか、龍一は思った。その記憶は忘れるべくして忘れていたものなのではないのか、と。
【◯月×日】
〈大きいブリギッテ〉の価値が日に日に上がりつつあるのは認めざるを得ない。何しろ彼女は〈小さいブリギッテ〉を我々が廃棄処分にしたら、以降の実験には一切参加しないし自分の喉首を掻き切って死ぬとまで言って脅したのだ! 通常ならこんな戯言に耳を貸す謂れはない──被験体の言い分をいちいち聞いていたら実験など成り立たないからだ。
だが彼女は、Gの我々への評価がマリアナ海溝に投げ込まれたドラム缶並みの早さで悪化しつつあることを嗅ぎ当てていた。施設全体の空気は悪く、スタッフ同士のくだらないトラブルの数が以前の数十倍に増えた。軍が施設を接収にかかるという噂も絶えない。もしこのまま成果が出せなければ、我々全員の首が──それも物理的な意味で──危うくなるのは明らかだった。
Gの懸念もわからなくはない。〈アンドロメダ〉が完成しなければ、〈ペルセウス計画〉自体が頓挫するのだから。
「G、か」龍一は呟く。こいつがもし〈将軍〉だとしたら……。
【◯月×日】
問題が発生した。例の組織が治安当局の摘発を受けたのだ。関係各所への鼻薬は作用していたはずなのだが、どうも
被験体の搬入が滞れば、ただでさえ捗々しくないプロジェクトがさらに遅延を余儀なくされる。早急に手を打たなければ。あのMにまたも借りを作るのは業腹だが。
「『M』はマギーかマダム、どちらかの隠語だな」
「マギー・ギャングと設立段階から癒着していたのね。自浄作用も何もあったものではないわ」
珍しくディロンから反論がない。反論のしようがないのかも知れないが。
【ジェレミーのメモ】
〈家〉とギャングの関わりが明らかになってきた──関係が深いどころか、切っても切れないほどの。
治験アルバイトの募集など出すわけにはいかないから被験体の調達をギャングに頼らざるを得ない、そこまではわかる(妥当性はさておき)。ところでこの理屈には裏がある。犯罪組織に一度頼ったが最後、死ぬまで脅されるということだ。ギャングに頼るその遥か以前から、いや始まりと同時にこのプロジェクトは終わっていたのかも知れない。
「瀬川運輸が嵌まった落とし穴と同じだ」龍一は唸る。「夏姫の親父さんも、それで結局は骨までしゃぶられたんだ。たかを括っていたのか、自分ならギャングどもを『制御』できると思ったのか、たぶん両方だろうが……」
「オーウェン刑事はこの事件を知っていたのかしら?」
「わからない。だが彼に直接聞いてみる必要はあるな」
関係ないと判断したから黙っていたのか、それとも故意にか。ジェレミーの日記からではどちらともつかない。
「彼の奥さんは病気か何かで亡くなったのかと漠然と思っていたけど、どうやらそうでもなさそうだね」
壁に投影されたジェレミーのメモを目で辿っていた龍一は眉をひそめた。彼の筆跡がひどく乱れ始めている。彼の精神の乱れを顕すかのように。
【ジェレミーのメモ】
今日は三人で『マザーグース』を覚えて歌った。
──3号室のエマが溶け崩れた肉と腫瘍の山となった。
今日は〈大きいブリギッテ〉が〈小さいブリギッテ〉とともに壁に描いた『大作』を完成させた。
──5号室のロッテは全身がガスとなって爆ぜ、耐爆構造の実験室を半壊させた。
今日は〈大きいブリギッテ〉が三回転宙返りに成功し、僕と〈小さいブリギッテ〉の惜しみない拍手を受けた。
──33号室のマリアンヌは全身の細胞が歯に変じた。
今日は〈小さいブリギッテ〉が5分以上逆立ちを保てた。
──6号室のアマンダは全身が収縮し、高純度の鉄よりも密度の高い小さな小さな球体となった。
今日は〈小さいブリギッテ〉が生まれて初めてのケーキ作りに挑戦し、ケーキ(と称する何か)を僕と〈大きいブリギッテ〉に振る舞った。
──10号室のシャルロッタは実験中に◼️ ◼️ ◼️ ◼️(判別不能)へ変貌し、5人の研究員を引き裂き、射殺されるまでに小隊規模の警備部隊を挽肉に変えた。
──42号室のレミーは全身の穴という穴からあらゆる種類の穀物を噴き出しながら跡形もなく消えた。
──53号室のキャロルは生きながら雷雲となった。
──88号室のヨエルは皮膚が溶け血管と内臓のみで三日間生きた
──74号室のハンナは
──91号室のヴィアンカ
──103号室
「おい、俺ぁこのジェレミーって奴のおつむが心配になってきたぜ。目の前の出来事を『大したことないぜ』って感じに流そうとして、流せてねえじゃねえか」
不安げなディロンの呟きに龍一は頷く。「俺もそう思った。これは持たないな」
【ジェレミーのメモ】
〈家〉へ来てからどれだけの死を見てきたのだろう? どれほどの少女の肉が溶け、骨が腐り落ち、爆ぜた脳が耳腔から滴り落ち、全身の皮膚が細かいガラス片になって死ぬのを見たのだろう?
たとえ浜辺に打ち寄せる海豚の死骸のように、少女たちの亡骸がうず高く積まれることになっても、それでも心を凍らせれば耐えられると思っていた。
でもいつものように部屋に入り、二人のブリギッテに「おはなしして! おはなしして!」とせがまれた瞬間、堪えていたものが全て決壊した。僕は泣き出した。泣き出したばかりか、胃の中を全て戻してしまった。僕の全身が僕自身を拒んでいた。
僕がしたかったことはこんなことだったんだろうか?
僕はこんな人間になりたかったんだろうか?
今となってはもうその全てに確信が持てない。
僕が祈るべきは大英帝国の栄光じゃない。どうか我らが罪を赦したまえ、だ。
うずくまってしまった僕を二人が心配そうに見下ろす。どうしたの、どうしたの、どこかいたいの、と呟きながら僕の髪や頭を撫でてくる。
やるべきことは決まった。いや、やるべきことはとっくに決まっていて、ずっとそれから目を逸らしていただけだったのかも知れない。
シラキ主任とは一度だけ言葉を交わした。僕というより、「有望株」の被験体二人の方に関心があったのだろうが。二言、三言、〈大きいブリギッテ〉たちの近況や健康状態について問われただけだったが、去り際に彼女はこう言い残した──私の国には「憐憫は愛情にさも似たり」という言葉があってね。いや、悪いとは言っていないよ。君を突き動かしているものが憐憫だろうと愛情だろうと、君は止まるつもりもないんだろう? じゃ仕方ないね。行き着くところまで行ってみたまえ。
今にして思えば、彼女は僕たちの行く末を悟っていたに違いない。
この文章を書きながら、僕は彼女が今でも生きていると確信している。あれほど聡い人が大人しく〈大掃除〉を受け入れたなんて信じられない。研究成果を携えていち早く脱出し、捲土重来を待ち望んでいると考えた方がまだ納得できそうだ。
「君のお母さんとも会っていたのか、ジェレミーは」
「どんだけ顔が広いんだよジェレミー……」
【資材課よりスタッフ各位へ】
備品リストを操作して子供たちへの嗜好品、特に菓子類を横取りする行為は厳粛に控えるように。あなたたちはいい大人なんですよ!
「……おかしいと思わない?」
「何がだ?」
「研究スタッフの記録にも、ジェレミーの手記にも、内部事情まで事細かに描かれているのに、どうして肝心の〈アンドロメダ〉の仕様が一切ないのかしら?」
あっと声を上げそうになった。
「確かにおかしい。ジェレミーはまた別のどこかに隠したのか……」
「さもなければ、俺の母さんが持ち去ったか、だ」
【◯月×日】
終わりの時が来た。
シラキ主任の部屋が空になっています、と報告を受けても私は驚かなかった。施設や私たちと運命を共にするなどという殊勝な女ではない。おそらくは可能な限りの研究成果をかき集めて暁を見ずに逃亡したのだろう。施設のセキュリティは外部からの侵入者には強いが、内部からは弱い。警備プロトコルを知り尽くした主任以上の役職にはなおさらだ。
追跡隊を編成しますかと提案した警備隊長に私は首を振った。女一人取り逃がした連中に何ができるのだろう。
〈家〉の命運は尽きた。
〈将軍〉がどんな手を使ってでも〈アンドロメダ〉を確保しようとしていることを私たちは見抜けなかった。身内ならそこまではやるまい、という甘さがあった。私たちは自分を吊るすロープを毎日せっせと撚り合わせて作っていたのだ。
これを読む君が、何があろうと表沙汰にできない政府の秘密プロジェクトの責任者だったらこんな時どうするね? 警察に助けを求めるか? 相手は本物の軍隊なのに?
怒声と、悲鳴と、銃声と、軍靴の音が私の部屋に近づいてくる。
常にデスクの一番奥に入れてある小瓶が役に立つ時が来た。私のキャリアを救うことはできないが、遺される家族を救うことぐらいはできるだろう。
【ジェレミーのメモ】
軍の〈大掃除〉が始まる寸前に二人を連れて脱出できたのは幸運としか言いようがない。数週間前から、〈家〉には荒んだ空気が流れ始めていた。定期的に行われる清掃作業とゴミ捨ては滞り、職員どころか警備員の中にさえ勤務時間中に違法な薬物を使用している者を見かけた。規律の緩みは僕にとっては好都合だった──それでも守るべき何かを喪失し、乱れた〈家〉と職員らを見るのは愉快ではなかった。
彼女たちに薬液を投与しようとしていた職員を射殺し(笑うしかない──最終的に頼るのが暴力なんて大した敏腕スパイだ)二人を連れて脱出用通路を抜けた。たぶんシラキ主任もここを使ったのだろう。
僕が二人のブリギッテを教会の地下聖堂に隠し、引き返した時は全てが終わっていた。
遠くからでもはっきりとわかった──施設内は至るところが焼け焦げ、性別さえ定かでない焼死体がそこかしこに転がり、死体の大きさで成人子供の区別を付けるしかなかった。
僕は泣いた。泣きながら、泣いても赦されないことはよくわかっていた。自分一人、生きるのがやっとの僕が彼女たちを連れてイングランド中を逃げ回るなんてできるはずがない。ましてや職場に戻るなんて論外だった。
地下聖堂に戻り、二人に記憶除去薬──あの研究所では〈再プログラミング剤〉と呼ばれていた──を渡し、飲むように頼んだ。〈アンドロメダ〉の精神を安定させる研究の副産物として産まれたこれは、読んで字の通りの代物だ。本当に何もかもを忘れるわけではない。自分の名前も、今日が何月何日何曜日かも、僕が教えたギリシャ神話や連立方程式も、全て覚えている。ただ、僕を思い出せなくなるだけだ。
二人は何の疑いもなく薬を飲み干した。
教会を出、飛ばしの携帯を使って匿名でオーウェンに子供たちの保護を頼んだ。名乗りたくなるのをどうにか堪えた。今さら彼に事の顛末を語れるはずがないし、語る資格もない。
僕はこれでいいんだ、と思った。たとえそう思えなくても、そう思うことにした。
手記はそれで全てだった。もう、誰も口を開こうとはしなかった。
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