アルビオン大火(8)戦争の王

〈ロンドン戦史研究会〉のサイトはすぐに見つかった──イギリス人がなぜこうもかつて自分たちを散々に叩きのめしたナポレオンを褒めちぎっているのか、龍一にはさっぱりわからなかったが。ともあれ、見た目は他の好事家が運営するサイトと大して変わらない。

 電話番号とメールアドレスを登録しメッセージを書き込むと、驚いたことに一分とかからず携帯電話の着信音が鳴り出した。ただし登録に使ったのは、使い捨て方式のプリペイド携帯だ。

「もしもし?」

『承りました。本日15時、セント・ジェームズ・パーク正面入口付近にてお待ちしております』若い、溌剌とした男性の声だ。『誠に恐縮ではございますが、時間厳守でお願い致します』

 返事を待たず通話は切れた。龍一は傍らのアレクセイに頷く。「話はついた。準備しよう」

 アレクセイも頷き返す。「僕はバックアップに回る。が……いざとなったらなりふり構わず脱出してくれ。情報は大切だが、それ以上に君の命も大切だ」

「ありがとう。だが、まあ、大丈夫じゃないかな。いきなり頭を撃たれてテムズ川に浮かぶ前に、たぶん二言三言くらいは喋らせてくれるさ」龍一も恐怖がないわけではない。が、これが罠であろうとなかろうと、まずは直面してみるしかないとも思う。

「……それに、スティーブがどう死んだか、どうあっても知りたいのは向こうのはずだ」


【半日前の深夜── ベイズウォーター地区、オーウェン宅】

「……にわかには信じ難い話だが」座りたまえ、と居間のソファを進めて腰を下ろしたオーウェンという家の主人──やや頭髪の後退した中年男性であり、ブリギッテの話では、刑事だ──の顔は困惑を絵に描いたようだった。なぜ自分の家に指名手配中の凶悪犯がいるのかさっぱりわからないといった顔だ。

 もっとも、自分たちも相当な間抜け面を晒しているに違いない、とは思った。この家を教えたタンが意識を失ったままなのもあるが、まさか着いたのが刑事の生家だとは思わなかった。

 毛布に包まれたタンがひたすら眠っているソファの傍ら、写真立ての中にはオーウェンと、妻らしき勝ち気そうな女性が映っている。写真の中のオーウェンは今よりも若々しく、頭髪が多く……ついでに言えば、幸せそうな顔をしていた。

「あの……家の方は?」

 尋ねる龍一に、オーウェンは苦笑する。「気を遣う必要はない。女房が死んでからは、ずっと一人暮らしだ」

「……すいません」

「気を遣うなと言っただろう」苦笑が深くなる。「ただの事実だからな」

 ディロンも黙って腰を下ろしているが、デカの家なんぞでどんなツラしてりゃいいんだよ、と言わんばかりの顔だ。

 ブリギッテはおずおずと質問する。「もしかして、刑事さんが謹慎しているのは、私のせいなんですか?」

「きっかけぐらいにはなったかも知れないが、気にするな、時間の問題だったさ。私は以前からマギーやその一党をに罵っていて、上から煙たがられていたからな。その理由を、長年の相棒なら言わなくともわかってくれると思っていたのだが……そう思っていたのは、私だけだったようだ」

 グラスの水を飲むと(その前まで相当に飲んでいたのは一目瞭然だったが、龍一は何も言わなかった──礼儀として)その分、少し頭が冷えたようだった。

「〈日没〉で、ロンドン警視庁はマギー・ギャングに返し切れない負債を作ることになった。警察よりもギャングの方が頼りになるなんてパブリックイメージは、そう簡単に覆せるものじゃない。言わば今のロンドンは半分死体で、マギー・ギャングなどその傷口に山ほど湧いた蛆虫だ」

「おい、デカだと思って随分と吹いてくれるじゃねえか!」黙って聞いていられなくなったように、ディロンが憤然と立ち上がる。怪我人が寝ているのよ、とたしなめるブリギッテの制止も聞こえない様子だ。「確かにマダムが完全に慈善事業で『鎮圧』して回ってたとは言わねえや。だがマギー・ギャングの働きがなかったら、今頃てめえが息をしてたかどうかさえ怪しいんだぜ。少なくともマダムは警官を殺せ、なんて指示は出してないんだからな!」

「代わりに抱き込んだ」龍一は指摘する。「単に殺すより、その方が後々になって旨味が増すからな」

「結果、ロンドンから他のギャングは一掃され、マギー・ギャングの供給する銃器と麻薬がロンドンを席巻した」ブリギッテがひどく冷たい目になる。「私たちのお腹に30センチ突き刺さったナイフを10センチくらい引き抜いただけで、感謝しろってあなたは言うの?」

 誰も味方してくれないとわかったディロンは甲高い声で喚こうとした。「畜生てめえら、やっぱりつるんでたんじゃねえのか、このサツの犬どもがよ……」

「なあ、坊やボーイ」オーウェンの声が低くなった。「この家に犬はいない。女房が生きていた頃は『子供が生まれたら犬でも飼おうか』なんて話したこともあったが、それだって今は昔だ」

「何の話だ?」

「人間は犬じゃない。だからこの家で誰かを犬呼ばわりする必要はないって話だ。意味がわかるな?」

 穏やかな声の下で本物の怒りが蠢いていた。若者は一瞬で唇を震わせて黙り込む。

「座りたまえ」アレクセイが穏やかに言う。「君がギャングの一員だからといって君個人を貶めるつもりはないよ、ディロン」

 立ち上がった時の勢いは完全に失せたようだった。叱られた子供のように彼は悄然と腰を下ろす。

「……そうだな。マギーと君に直接の関わりはない。すまなかった」子供の前で過ちを認められる大人は多くない。龍一はやや彼の印象を改める。

 当のオーウェンにまで謝られて、彼はますます立つ瀬がないようだった。口の中で何かもごもごと言っている。罵倒は慣れていても、謝るのにも謝られるのにも慣れていないのかも知れない、と龍一は思った。

「しかしブリギッテ、君の学校に刑事が訪ねてきたなんて初耳なんだがな」

「……ごめんなさい」ブリギッテは肩をすぼめた。「言えなかったの。今度こそ龍一たちに『もう来るな』と言われるんじゃないかと思って」

 そう殊勝に謝られると、龍一も怒りようがない。そもそも怒る筋合いのない話ではある。

「その辺りにしておきたまえ」見かねた様子でオーウェンが割り込む。「君たちが暴力や脅迫で彼女に沈黙を強いていないのはわかった。だが、そもそも口止めされてその通りにする謂れは彼女にないのを忘れるな」

 案外、しっかりと観察しているものだなと龍一は感心した。

「ごもっともです。であれば、刑事さんもぼかさず答えてほしいものですね」黙っていたアレクセイが口を開く。誤魔化しは許さない口調だ。「なぜあなたが〈コービン〉の本名……ジェレミー・ブラウンを知っていたのか。そもそもなぜ、あなたはタンを、初対面なのに一目で見分けたのか。しかも彼には、孤児院の脱走歴がある。発覚すればそれなりの責任を問われますよ」

 しばし、お互いがお互いを観察し合う。ディロンは露骨に「俺、そろそろ帰っていいかな?」という顔をしていたが。

「……私が自分の職務を思い出したら? 謹慎中とは言え、私はやはり、警官だ」

「正直困りますね」実際、ものすごく困ることにはなる。「するなという資格は俺たちにはありませんし、今夜はもう血を見たくないんです」

「充分脅迫になっている気がするが……」

「今のところ、僕たちもそこまで思い詰めたくはありません」すかさずアレクセイが口を挟む。「いかがでしょう。この際お互いの痛い箇所は突かない、というところでは?」

「相互確証破壊かね」

 龍一はつい天井を仰いでしまった。「また相互確証破壊かよ。相互確証破壊がそんなに好きなら結婚すりゃいいのに」

「そういう問題じゃないでしょう」ブリギッテは口を尖らせようとして、失敗してつい吹き出してしまった。

 龍一としてはようやく軽口を叩くタイミングが回ってきただけなのだが、おかげで室内の空気が少し和んだ。オーウェンでさえ頬を緩ませている。

 自然と、全員の視線がソファに寝かされているタンに向くことになる。彼はひたすら眠り続けているが、傷が痛むのか時々身じろぎしている。

「あの子がここにいるということは……ジェレミーは死んだんだな」

 これまた頷くしかない。「お察しします」

「そんなふうにくたばりそうな奴ではあったな。誰にも看取られず、どこか暗い場所でひっそりと息を引き取りそうな……」オーウェンは顔をこすった。「最も、予感と実際にそうなるかどうかは別だ」

「彼についてお聞かせ願えますか?」龍一はあえて事務的に尋ねる。親しい誰かの死を聞かされた者の反応を見るのは初めてではないし、相対するこちらとしてもそれなりに堪える。

「私は元々、この辺の出じゃないんだ。爺様はスコットランド出でな。餓鬼の頃に親父の仕事の都合でこっちに越してきた。ジェレミーはその時以来の、まあ、ダチだ」

「あなたがジェレミーと知り合いだったということは、エドワードとも親しかったのですか?」とアレクセイ。

「当然の疑問だが、いいや。ジェレミーはいい奴だったが、私の目から見たエドワードは口ばかり達者な腑抜け野郎にしか見えなかった。もっとも奴の方でも私を『何が面白くて生きているのかわからない木っ端役人もどき』としか思わなかったみたいだな。しょっちゅう陰口を叩いているのだけは知っていた」

 つながりはあったが親しくはなかったということか。

「私たちは模型店の店主からジェレミーの足取りを辿ったんです。覚えていらっしゃいますか?」

「忘れるはずもないさ。そうか、あの爺様に会ったのか」刑事の目にほろ苦い思いが揺れる。

「ジェレミーと再会したのは最近になってからだ。カレッジ以降疎遠になっていた彼がいきなり訪ねてきたのも驚いたが、見る影もなく落ちぶれて情報屋になっていたのにはもっと驚いた。どうも身寄りのない子供と暮らしているらしいと聞かされた時には、呆れて言葉さえ思いつかなかったな」

「その時には何と?」

「いざとなったらその子を頼むと。そうだ……おかしなことを言っていたな。と。そんなエキセントリックな物言いをする奴じゃなかったから余計おかしく思ったが。どういう意味だといくら聞いても、曖昧に笑うだけで答えてはくれなかった」

 。全員がそれぞれの疑問を顔に浮かべて沈黙する。

「この子は私が預かろう。直接聞きたいこともあるからな」

「助かります」これはこの刑事の純粋な好意であり、頭を下げるしかない。

「ただ、私は見ての通り謹慎中の身だ。いずれは然るべき機関に彼を預けることも検討する。それは理解してくれ」

「無論です」

 所詮はお尋ね者の龍一に、子供連れで(しかもそれにブリギッテを加えて)逃亡を続けられる自信はない。

 双方がそれなりに納得の行く結論が出たところで、気分転換に何か飲まないか、とオーウェンが提案した。深夜でろくに買い置きもないから(それは部屋の惨状を見ればわかった)とホットミルクを出されたが、かえってありがたかった。ディロンまで「これはデカに屈したわけじゃねえからな」と言いながら子供のような顔でカップを抱え込み、ブリギッテに黙って飲みなさいよと叱られている。

「さて、今度は君たちの話を聞かせてもらおう」苦笑。「どうもいかんな。職業柄こんな物言いになる」

 龍一はダイジェスト気味にだが、イギリス入国からブリギッテとの出会い、そして今に至るまでを話した。〈竜〉については、適当にぼかさざるを得なかったが。何しろ龍一自身、どう話していいのかわからなかったのだ。

「何とまあ……ちょっとした冒険譚だな。いや失礼、刑事などやっていれば奇想天外な話など幾らでも聞くが、今のはその中でもトップクラスだ」オーウェンは感心しきりとばかりにソファにもたれかかる。

「わからないのは〈将軍〉についてです。彼の方では俺のことを知っているようなんですが、俺はその人が誰なのか知らない」

 ディロンが難しい顔になる。「待てよ、〈将軍〉って……あの〈将軍〉か?」

「他に〈将軍〉がいたら教えてほしいわね……」

 ブリギッテとオーウェン、それにディロンまで互いの顔を見合わせている。笑いどころのわからないジョークを聞かされたような顔だ。

「……龍一。そのスティーブという元兵士は、確かに〈将軍〉と言ったのだね?」

「ええ。何か心当たりが?」

 オーウェンはそれに直接答えず、ブリギッテに向き直る。「ブリギッテ。彼は私たちをからかっていると思うかい?」

「職業柄、彼を易々と信用できないのはわかります」幾分かむきになって彼女は応じる。「彼は犯罪者には違いませんが、少なくとも、命に関する冗談は言いません。これは彼が命を賭けて入手した情報であることをお忘れなく」

「そうだったな。すまん」オーウェンは残り少ない頭髪を掻く。

「……どうも話が見えないんだが、〈将軍〉ってのはそんな有名人なのか?」

「有名人どころの騒ぎじゃないわ」興奮を隠せない口調でブリギッテ。「今のロンドンでは〈鬼婆〉マギーに匹敵する名前よ。それも、日の当たる世界での」

 オーウェンは頷く。「今のロンドンで〈将軍〉と呼ばれるのはただ一人……かつて半島への派遣経験を持つ生粋の軍人であり、血筋としても王室の遠縁に当たる人物、軍退役後に現アテナテクニカCEOへ就任した男、エイブラム・アッシュフォードだ」

 

「半島有事で各国の平和維持軍が数少ない犠牲を出す中、彼の指揮する部隊だけは被害を最小限度に抑えて半島を脱出した。〈日没〉発生時も治安維持部隊として首都ロンドン入りし、各犯罪組織へ睨みを効かせたことで彼の名声は嫌が上にも高まった。その人気を保ったまま政界入りするものと誰もが信じて疑わなかったが、彼はCEO就任後、複数の流通・通信・セキュリティ産業の買収にも成功した」

 そこまで一息に語り、オーウェンは苦笑した。「とまあ、こんなものはネットで幾らでも読める記事の受け売りに過ぎん。今や彼の体制は盤石だ。個人的には、後継者問題が深刻なのはマギーより彼の方だと思っているよ。彼の立場に取って代わる者など、そうはいないだろうからね」

「雲上人には違えねえな」ディロンまで腕組みをして頷いている。「ロンドンっ子で〈将軍〉を知らなかったら、のどっちかに決まってら」

 全員がそれぞれの疑問符を顔に浮かべる。

「どこまで信じていいのかしら?」

「わからん。だが俺としては、死に際の人間は嘘を言わないと信じたいね」

 仮に嘘だったとしても、それを本人に問いただすことはもうできない。

「スティーブ・ウェスト。元近衛歩兵連隊、か」気を取り直してオーウェンがメモを取る。「『女王陛下のガーズ』が付く部隊の出なら相当なエリートのはずだ。所属部隊と本名が揃えば、照会は容易い。こちらで調べてみよう」

「お願いします」

 話はお終いと言うようにオーウェンはメモ帳を閉じた。「夜も更けてきた。続きは明日以降にして、君たちも帰りたまえ。特にブリギッテは気をつけて帰るんだよ。私が言うのも何だが、今度からはもう少し常識的な時間に来てくれ」

「仰る通りです……」

 玄関先でオーウェンに見送られて門扉を潜った後に、ディロンが腹の底から盛大な溜め息を吐いた。

「何だか盛り沢山の一日だったな……頭が追いつかねえよ」

 それに関しては龍一も同感ではある。

「ま、もしかしたらてめえらは、俺にとっての幸運の遣いなのかもな。おかげでマダムに顔を覚えられたし、幹部昇進の目も出てきたし……ああ、もちろんそん時は、てめえらにも甘い汁を吸わせてやらないこともねえぜ」

「『やらないこともねえぜ』も何もないもんだよ……」

「ここまで正直だといっそ清々しいね」アレクセイでさえ何がしかの感慨を受けたようだ。が、ブリギッテはまた別の感想を抱いたようだった。たちまち眦を吊り上げる。

「いらないわよ、ギャングのご厚意なんて。そんな汚らしいもの」

「何てこと言うんだよ!? 大体、さっきからあんた、なんで俺にだけ冷たいんだよ!?」

 情けない声での抗議など、彼女は歯牙にも掛けない。「もう忘れたの? 命懸けで戦っていたのは龍一であって、あなたじゃないからよ。それだけならまだしも、その上前だけかすめていこうなんて……図々しいにも程があるわ」

「その辺にしておけよ、ブリギッテ」なるほど、彼女にしてみればそれなりに筋の通った怒りであるわけか。「ディロン。なら、こちらからも頼みがあるんだが」

「先に言っとくけど、あの刑事がガキんちょを匿ってるのを黙っててくれ、なんて頼みは聞けねえからな。俺だってそれなりに本当のことを報告しなきゃなんねえし、嘘がバレたらマジでベルガーさんに殺されるんだよ」

「わかってるよ。逆だ。話すのは構わない。ただマギー・ギャングに何かの動きがあったら教えてくれ」

 ブリギッテが不服そうに眉根を寄せる。「いいの? ギャングに私たちの動きが全部漏れるのよ?」

 得心が行ったようにアレクセイが頷く。「いや、確かにその方がいいよ、ブリギッテ。考えてもごらん、あの抜け目ない女が僕たちにつけた見張りが、このお調子者でいまいち信用できそうにないお兄さん一人、なんてことがあるかい?」

「それもそうね……」

「人の顔見ながら感心するんじゃねえよ! マジでムカつく連中だな!」

 龍一は苦笑いする。「で、どうだい、ディロン? それを呑んでくれれば、俺たちにどれだけ着いてきてくれてもいいんだが」

 このいまいち信用できない若者だってギャングの一員なのだから、いざとなれば彼を通してマギーと交渉もできるだろう。というより、案外その辺りにマギーの意図はあるのかも知れない。やはり油断できない女だ。

「わかったよ……でも、俺だって命が惜しいんだからな。マジで喋ったらやべえことは喋れねえぞ。俺に何かあったら、お袋も妹も路頭に迷うんだからな」

 ブリギッテがまじまじとディロンの顔を見つめる。「あなた……家族いたの?」

「家族ぐらいいるよ! あんたが俺に抱いてるイメージ、悪すぎないか!?」

 それにしても俺様の人生も面白くなってきやがったぜ、と妙に鼻息荒くディロンが帰った後に次いでブリギッテも帰った。家に帰ったら何時間寝られるのかしら、と首を振りながらではあったが。

「……何だか今日一日で、ロンドンの知人がどっと増えたな」

「全くだよ。それも随分とバラエティ豊かな知人がね」

 アレクセイとともに顔を見合わせて苦笑いする。そろそろ空も白んでくる時間だ。

「マギー・ギャングの内情を探るにも協力者が必要不可欠なのはわかる。が、これが吉と出るか凶と出るかはまだわからない」

「その通りだ。でも俺は軍と同じくらい、マギー・ギャングの……いや、マギー本人に気を配る必要があると思ったんだ」

「いつもの勘かい?」

「いつもの勘だ。どうも彼女には気を許せないものがある」

 単にヨハネスと通じている、というだけでなく……もっと別種の警戒を要する相手に思えてならないのだ。

「君の勘がそう告げているのなら、無意味な用心とも言えないな。もっとも僕は、あの刑事にこそ気を許せないけどね。それこそ、君の勘が働かないのが不思議なくらいだよ」

「そうか? まあ、わからなくはないけど……」

「確かに彼は得難い味方には違いない。だが、彼が治安機関の人間であることを僕の頭から抜くのは無理だ。それだけは覚えていてくれ」

「念を押されるまでもないよ、アレクセイ」

 とは言ったものの、アレクセイの言葉は龍一の耳に痛かった。幸運が──それもとてつもない幸運が味方したとは言え、彼は龍一たちの「天敵」なのである。

「確かに俺も、あの刑事の目は少し気になったな」

「目?」

「血に飢えた復讐者リベンジャーの目だ。かつての俺みたいな」

 それだけでアレクセイは全てを察したようだった。

「復讐者は言い過ぎにしても、何か腹に一物はありそうだった。思うに、それはあのマギーが絡んでいるんじゃないか」

「悪気なくこちらの調査を捻じ曲げてくる可能性があるということだね。わかった、それも覚えておこう」

 頷き返しながら、龍一は内心で冷やりとするものを感じた。死者から始まったこの一件は、もう少なくない数の生者を巻き込み始めている。一体、それはどこまで増えるのだ?

 同時に、これはもう死人に託されたものだけではない、生きている者のためでもあるのだ、との思いを新たにする。


 少年少女が帰っていった後(彼ら彼女らが部屋の惨状に何も言わなかったのは素直に感謝せねばな、と思った)、オーウェンは酒瓶を全てシンクに集め、中身を空けた。酒を飲んでいる場合ではない、その予感がそうさせた。

 薄汚れたシンクにとめどなく琥珀色の液体が吸い込まれていくのを見つめながら、彼女が死んで以来、今日まで俺は何をやっていたのだろう、と思わずにいられなかった。

 あの若造たちは、最も容易くマギーの懐に潜り込んだ。幾ばくかの幸運も味方したとは言え、それはプロの刑事が何年かかってもなし得なかったことだ。

 しかもそれにつられて、マギーの背後にいる巨大な「何か」が引きずり出されようとしている。それを突き止めない限り、本当の意味で彼女の仇を討ったことにはならないのだ。

 そして今では、その理由にジェレミーも加わった。

 彼女、ジェレミー、そして生まれるはずだった俺たちの子。もう沢山だと思った。

「始めるよ、スージー」彼は呟く。「君は忘れろと言うだろうが、俺には無理だ」


【現在── セント・ジェームズ・パーク付近】

 幸か不幸か、その日は朝から濃密な霧がロンドン中に立ち込めていた。視界はいつもの半分、道行く車のドライバーたちの機嫌の悪さは倍増しといったところだ。

 まあ仕方ないさ、と龍一は指示された待ち合わせ場所へ歩きながら思う。神様もそう毎日毎日上天気にはしてくれないだろう。それに、俺の目的は観光ではない。

 歩いているうちに、スマートフォンが通話音を奏でた。

「……ブリギッテ? どうしたんだ? 今は授業中だろう?」

『トイレよ』道理で小声だと思った。『口実を作って抜け出してきたの。〈将軍〉に会うんでしょう? どうしてもあなたのことが心配になって』

 やれやれ何て可愛いことを言い出すんだ、と口走りそうになったが、後で本気でひっぱたかれそうだからやめた。「気にかけてくれるのはありがたいけど、気に病む必要はない。いきなり取って食われやしないだろうし、アレクセイのバックアップだって付いている」

『あなたは充分強いし、アレクセイを信じていないわけじゃない。それでも心配なのよ……あなたもアレクセイも、たぶん〈将軍〉の恐ろしさを理解していないし、できないと思うの。どれほど私が言葉を尽くしてもね』ブリギッテの声には笑い飛ばせない深刻さが込められていた。『ロンドンのもう一人の支配者、という表現は誇張でも何でもないのよ。彼を避けようと思ったら、バスにも自動車にも乗れなければ、スーパーで買い物もできない。ううん、たぶんネット自体使えないんじゃないのかしら』

 そう言われると確かに空恐ろしくなってくる。

『今のロンドンで、いいえ、この国で生きている人々にとって〈将軍〉は「そうだ、今日はちょっと〈将軍〉に会ってみよう」なんて気軽に考えられる人じゃないのよ。良くも悪くも重すぎる名前なの、〈日没〉以降は余計にね。それをあなたもアレクセイも、たぶんわかっていない』

「……わかった。いや、俺がよくわかっていないことはわかった。でも今の俺たちに『会わない』選択肢だけはない」

『それは……そうだけど』彼女の声はまだ不安そうだ。

「用心はするさ。だから君も、落ち着いて授業を受けろ。水分を充分取って、すぐ飲み込まずによく噛んで食べるのが大切だ。ああそう、眠くなったら教科書で顔を隠してあくびするんだぞ」

『からかわないでよ! 怒っていいのか感謝していいのか、わからなくなるじゃない!』

 いやそこは怒っていいんじゃないかな、と思っているうちに通話が切れた。

 大きく深呼吸する。うむ、確かにちょっと怖くはなってきた──が、罠かどうかもわからないうちから逃げ出す必要はない。

 果たして──前方に、それらしい車が停まっているのが見えた。カタログで見覚えがあった──実用一点張りのワンボックスカーでも、見慣れた自家用車でもない。要人警護でも定評のある、デザインと実用性を両立させた車だ。これで送り届けられるのなら各国首脳クラスでも不満は出ないだろう。それに、今のご時世で道路事情にそぐわない高級車など、自動車爆弾やロケット砲の餌食にしてくれと広告を出して走るようなものだ。

(……あれか)

 龍一の内心の呟きを聞いたわけではないだろうが、運転席のドアが開き、一人の青年が降り立った。

 美丈夫、という表現がふさわしい青年だった。龍一と変わらない背の高さ、胸板は分厚く、それでいて目元は涼やかで、道行く女性たちが思わず振り返るような端正さと気品がある。緩くウェーヴのかかる黒髪に褐色、黒い目は中東系の出身かとは見当をつけたが、実際のところはわからない。

「相良龍一様ですね。承っております」青年は気さくだが礼を崩さない調子で右手を差し出した。あの電話応対したのと同じ声だ。「本日、あなたの運転手を務めさせていただきます。ギルバートとお呼びください」

「こちらこそよろしく、ギルバート」正直、身長ぐらいしか競えるものがないなと思いながら手を握り返した龍一はその握り返す力に驚いた。分厚く温かく、それでいて揺るがぬ芯がある。腕相撲でもしたら、龍一でもかなり手こずるのではないか。

 いや──実のところ、この青年に「勝てる」というイメージが、どうにも湧かない。こんな相手は初めてだった。まるで底が読めない。

 青年は気遣わしげに龍一を見た。「いかがなさいました? お気分でも?」

「いや、失礼」咳払いで誤魔化す。「この車に乗っていいのか?」

「無論です。どうぞ」青年は恭しく後部座席のドアを開けて示す。

 半ば覚悟を決めて車内に滑り込んだ。見かけよりも内部は遥かに広く、窮屈さを感じない。驚いたことに、内装は真紅一色で統一されていた。天井もクッションも、全て燃えるような真紅だ。

「ようこそ」

 そして、龍一は自分の差し向かいに座っている巨体に気づいてぎょっとなった。

 その人物は、ただ一人で後部座席を埋め尽くしていた。座席のクッションがたわんでいるのは当然として、そのたわみを中心に車自体がへこんでしまわないかと心配になるような巨体だった。

 身長ならともかく、横幅では絶対に勝てそうにないな、と龍一は踏んだ。喪服を思わせる黒一色のスーツは、内部からの圧力ではち切れそうだった。ジャケットの肩部分にはパットは入っていないようだったが、この体躯ではそんなものは必要あるまい。岩を削ったような鼻筋に、岩を削ったような顎、そしてそれらに強引に嵌め込まれたような荒っぽい目鼻立ち。頭髪は黒々としていて綺麗に撫でつけられていたが、どうやらこれはウィッグのようだった。龍一の予想では、その下に毛髪は一本もない。

 これが〈将軍〉か。〈鬼婆〉マギーに並ぶロンドンのもう一人の支配者、現アテナテクニカ社CEO、エイブラム・アッシュフォード。

 内装が燃えるような真紅で統一されている理由がわかった。他の色では、内装が車の主の体格が醸し出す迫力に負けてしまうからに違いない。

「川沿いを適当に流してくれ、ギルバート」低い、よく通る声で男は命じた。人に命令を出すのに慣れている口調だ。さすが元軍人、と言うべきか。

「かしこまりました」車がスムーズに動き出す。まるで振動を感じない。百合子や夏姫とともに高級車へ乗ったのは初めてではないのだが、それでもこの車の乗り心地は格別だった。爆弾どころか、戦車砲でもびくともしないのではないかと思わせる安心感がある。実際はどうなのかわからないが。

 男──エイブラムは改めて龍一を正面から見据えた。カブトムシを観察する昆虫学者のような目つきだ。「私の、かつての部下について報告したいそうだな」

「はい」

 巌のような顔の中で、ライトブルーの瞳が微かに動いた。見ようによっては、笑ったようにも見える。「私の記憶が確かなら、君は国際指名手配中だったはずだが?」

「その通りです」否定しても始まらない。「ですが、逃げるなり出頭するなりする前に、あなたに伝えるべきことがあると思って来ました」

「会ったばかりの男の死を伝えることが?」

「会ったばかりの男の死を伝えることが、です」

「よろしい」エイブラムは今度ははっきりと笑った。目の動きに加えて口の端を少々吊り上げる、程度のものだったが、笑みには違いない。「君の侠気にはそれなりに応えねばな。話を聞こう」

 龍一は闘技場に至るまでのことをかいつまんで話した。またしても自分が〈竜〉に変じたことはぼかして語らざるを得なかったが。

 龍一が話し終えると、エイブラムは深々と溜め息を吐いた。それだけで、小山が揺れたような迫力がある。「スティーブは優秀な男だった……『酒と博打に溺れなければ』という但し書きはつくが。陸軍士官学校をトップに近い成績で出ていながら、結局はそれで将校への道を踏み外した。私の前に現れた時は見る影もなく落ちぶれていたな。私なりに哀れんで仕事を分け与えてやったのだが……それが裏目に出るとは」

 龍一は黙って頷いた。口調に嘘は感じられないし、スティーブ本人から聞いた話とも一致する。だが意地悪く見れば、表沙汰にはできない仕事を、それも金さえ貰えば何でもするほど食い詰めた元部下に振った、と解せなくもない。

「彼には別れた妻との間に子供がいた。できる限りのことはするつもりだ」彼は再び、ちらりと目を動かした。「責任を感じているように見えるね」

「全てとは言いません。責任の一端を感じてはいます」実際、スティーブの無残な最期は思い出にするにはあまりにも生々しかった。止める暇がないのに、死ぬ暇があるはずもない。

「ところでこれはあくまで噂だが──君はその闇試合で優勝したにも関わらず、優勝賞金を受け取らなかったそうだが、本当かね?」

 なるほど、と思う。マギーの闇試合に潜入したのがスティーブだけと考えるのは、ちょっとばかり無邪気すぎる発想だろう。おそらく観客席にもエイブラムの息のかかった者が潜り込んでいたに違いない。

「受け取る資格がないと思いました」

「しかし金だぞ」

「欲しくないとまでは言いませんが、受け取れません」

 エイブラムは今度こそ、感じ入ったように顎を動かした。「元職業犯罪者だからと足元を見ているからではない、とは言っておこう。私ならマギーの報酬以上のものを提示できる。それに加えて、この国での君達の安全も保証しよう。どうだね、スティーブの仕事を引き継ぐつもりはないかね?」

 龍一の脳内で黄信号が点滅し始めた。彼の経験則に基づくと、権力者がこちらに都合の良すぎる報酬を、それも具体的な内容を話す前に提示してくるのは要警戒である。

「内容にもよりますね」ひとまず玉虫色の返事を返しておく。「そもそも、スティーブはマギー・ギャングの何を探っていたのですか? 彼の話ではある種のテロ行為、という話でしたが」

「〈鬼婆〉マギーの組織は犯罪界だけでなく、既に政財界にまで腐敗を及ぼしている。あの女の寝技によってたらし込まれた、あるいは弱みを握られた大物が何人いるかは想像もつかないほどだ。となれば、目を光らせておくのはむしろの義務でさえあるだろう」

 もっともらしい答えではある。が、そのもっともらしさが気に食わなかった。

「マギーの組織がどれほど強大でも、国家を転覆させるほどの勢いはないでしょう。ロンドンの他犯罪組織を一掃した女の関心ごとなんて、それこそ後継者問題ぐらいではありませんか?」

「あの女の関心ごとがその程度なら、むしろ恐るるに足らんのだがな。少しばかりの勇気と叡智、それに多少の装備増強を警察に持たせるだけで制圧は充分可能だ──それを徹底的に欠いているのが問題なのだが」エイブラムはまたも小山のような肩を大きくゆっくりと動かして深呼吸した。

「この際だ、君には腹を割ろう。

 龍一の顔に浮かんだ不審をエイブラムは見て取ったようだった。「信じられないかね?」

「信じられませんね。この国の人々が女王陛下に抱く敬愛は疑わないとして、ギャングが自ら当局介入を招きかねない、彼女の暗殺計画を? むしろそれを口実に軍が介入を目論んでいる、と言われた方がまだ信じられますよ」

「君は極めて公平な見方をする男のようだな」犯罪者にしては、という皮肉だろうか。「ギャングは常に恐怖と暴力で他者を支配する。彼らの行動原理が合理的に見えるのは、単に自らの『ファミリー』を食わせる必要があるからに過ぎん。だが同時に、恐怖と暴力による支配には限界がある。彼女らの組織はそれをばら撒きすぎて、ロンドン市民もいささか惓んできたからだ。下賎な物言いをすれば『一味ぴりっとした』何かを必要としているのだろう」

「ある人が言っていました。マギー・ギャングなどロンドンの膿んだ傷口に湧いた蛆だと」

「上手い喩えだ」

「俺も実に含蓄のある表現だと思います。宿主が死ねば、蛆も助からない」

「なるほど、私と……その人物の間には、どうやら相通ずるものがあるようだな」龍一の言葉は、彼に予想外の何かをもたらしたようだった。「かつて美しいものがあり……今は失われて見る影もない、いや失われたのならまだいい。生き腐れ、溶け落ち、ますます醜くなっていくのを何もできず見守るしかないことを」

 何だかおかしな話になってきたぞ、龍一は眉間に皺を寄せた。「失礼、ミスター・アッシュフォード。この話はどこへ向かっているのですか?」

「私は半島で地獄を見た」

 突如、〈将軍〉の声がしわがれた。座席を一つ、丸ごと占拠するほどの男の巨体が、不意に厚みも横幅も重さも失い、書き割りになったような錯覚を覚えた。

「老人と子供の死体で埋め尽くされた川を見た。戦車に轢き潰された妊婦の死体を見た。砲弾で十数人、まとめて引き裂かれる少年兵たちを見た。知性も、教養も、言うまでもなく家柄でさえ、その地獄に歯止めをかける役には立たなかった」

 龍一はただ黙って頷くことにした。おそらくは人生で挫折を知らない──どころか挫折する余地など誰かが事前に取り除いてくれたであろうやんごとなき人が戦場で何を見て何を感じたのか、感想など思いつかないし、思いつかなければ何も言わないのがせめてもの礼儀だ。

 彼は微かな倦怠と、微かな疲労の混じった眼差しで窓の外を見た。いつしか車は市街を抜け、ランベス橋へと差しかかっている。「……しかし、私を絶望させたのは夥しい死ではない。何よりも最悪だったのはその地獄の中で、私が真に求めていたものを見出したからだ」

「それは?」

だ」

 目の前の男は龍一にではなく、自らにのみ語りかけているような口調だった。自分の中に黒々と口を開けている、底なしの穴を覗き込むように。

「怒号も叫喚も、銃声も砲声も絶え、虫の音や草のそよぎさえも途絶えた真の静寂──喧騒と人いきれに満ちたロンドンでは望むべくもない真の静寂。凄惨極まりない情景の中で、自分と部下の血に塗れながら、私はそれに魅せられた。それまで人生の中で積み重ねてきた何もかもが、意味をなくすと思えるほどに」

 龍一は何も言わなかった。同意さえできなかった。わかる、と言ったら自分はおしまいだ、そんな気さえした。

「帰国したロンドンはに塗れていた──耐え難いほどに。私はすぐさま静けさを取り戻すための戦いを開始した。戦地に匹敵するギャングたちとの血みどろの戦いも、アテナテクニカ最高経営者に登りつめるための努力も、企業買収の手間と費用も、私が感じたあの感覚に比べればどうということはなかった。だが、まだ足りない」彼は再びソファにもたれたが、まるで影のように音ひとつ立てなかった。「私に言わせれば、警察もギャングもけたたましさの点では差異はない。阿諛追従のつもりだろうが、私にいっそ政界へ出馬してはどうかと言う者もいる。とんでもない話だ。私から見れば保守も革新も、右派も左派もけたたましさでそう違いはないからだ。私はネット関連企業を幾つも保有しており、我がグループの中でも確かに少なくない利益を上げてはいるが、個人的にはネットなど好きではない。時代の最先端を行くガジェットのような顔をしてはいるが、それで人々がやることと言えば、どうでもいい阿諛追従と、自分が誰かにどれだけ必要とされているかというと、排泄物の投げ合いに過ぎんからだ。私が求めているのは、ただ静けさだけだというのに」

 エイブラムは大ぶりのハンカチを取り出し、額を拭った。それと同時に厚みと重みが、彼の全身に戻ってきたように見えた。「途中からどうも取り止めがなくなったな。論点を見失ったへぼ記者が書く出来の悪いコラムのようだ」

「論点は充分に伝わりましたよ、ミスター・アッシュフォード。あなたは誰もが羨むような地位と財産をお持ちだが、それはあなたにしてみれば煩わしいものでしかないことがね」

 じろりと大きな目玉が龍一を見据えた。「気をつけた方がいいぞ、お若いの。私は当てこすりが好きではない──君が思っている以上にな」

 言葉ほど腹を立てたようには見えませんね、と龍一は思ったが、口にはしなかった。

「思った以上に面白い会見だった。気が変わればいつでも連絡したまえ。だがあまり時間は与えられないぞ──マギーは早晩、自らの意志を行動に移すだろうからな」別れ際の握手は、先刻のギルバートとはまた違う手応えがあった。まるで薄いゴムに包まれた花崗岩のような感触だった。「来てくれてありがとう。どこかお望みの場所に降ろそう。どこがいい?」

「この辺で降ろしていただければ、後は自分の足で帰りますよ。お気遣いなく」

 龍一が降りると、運転席のギルバートは軽く黙礼し、車を出した。

 遠ざかっていく車を見送りながら、龍一は身震いを抑えきれなかった──


「……思った以上に面白い男だったな」

「面白い男です。そして、それだけの男でもない」エイブラムの呟きに、運転席でハンドルを握るギルバートが応じる。「握手を交わした時、あの掌を握り潰さないよう我慢するのが辛いほどでした」

「言っておくが、の機会はそう簡単に与えんぞ」釘を刺す口調でエイブラム。「お前は切り札なのだ。万策尽きた時にこそお前は輝く。わかっているな、〈ペルセウス〉?」

「……充分承知しておりますよ、

 彼の握るハンドルがみしり、と微かに軋みを発したが、エイブラムは聞こえないふりをした。考えなければならないことは幾らでもある。

 駒は揃いつつある。だがには、まだまだ時間を要する。

 急がねばなるまい──彼は軽く目を閉じ、いつもの彼の内にしか存在しないヴィジョン……灰燼と化したロンドンを夢想して心を落ち着けようとした。

 半島から戻って以来、それのみが彼を安らいだ気分にしてくれるのだ。


【数時間後── ベイズウォーター地区、オーウェン宅】

 集合場所は再びオーウェン刑事の家となった。タンが意識を回復したらしいので、顔を合わせておきたかったのも理由の一つではある。

「……それ自体に文句はないけど、そうなると結局あなたも来るのね」

「悪いかよ!?」来て早々ブリギッテに邪険な扱いを受けるディロンは本当に泣きそうな顔になる。「できるかぎりあんたらの動向は報告しろってベルガーさんに言われてんだ。俺があの人に逆らえるわけないだろ!?」

「勤勉なごろつきなんて余計にタチが悪いわ。しかも、約束の時間通りに来るのがますます苛つくわね……」

「約束通りならいいだろ! もう最初からケチしかつけねえつもりじゃねえか!」

「相変わらずブリギッテは彼に辛辣だねえ」

「つまり世界は平和ってことだ」

「そんな納得の仕方あるか!?」

「お前ら、人ん家の玄関先で何騒いでんだよ」意外にも出迎えたのはオーウェンではなくタンだった。袋から出したばかりらしい真新しいシャツとズボンはいかにも子供の服選びをしたことのない独身男性のチョイスらしかったが、その分年相応の子供らしく見える。

「もう起きていいのか」

「歩くだけで全身が痛えけどな」実際、少し身じろぎするだけで顔をしかめている。「まあ入れよ。玄関先で騒いだらおっさんが近所から変な目で見られるだろ」

 まさか彼に諭されるなんて、会った数日前には思わなかった。「ずいぶん馴染んでいるみたいじゃないか」

「あのおっさんが刑事だから信じてるわけじゃねえ」自分でも恥ずかしいのか、タンは吐き捨てるように言う。「信じてるのは、あいつが〈コービン〉のダチ公だったからだ」

 そういう理由で折り合いをつけたわけか。

「お前らのことも、ちゃんと名前で呼ばないとな。チンカスじゃなくてよ」

「やっとか」苦笑いするしかない。「相良龍一だ。改めてよろしくな」

「アレクセイだ。礼なら龍一に言うことだね」

「ブリギッテ・キャラダインよ。よかったわ、やっと人間と認めてもらえて」

「お……おう、よろしくな」ブリギッテの自己紹介の時だけ、タンが妙に赤くなってへどもどし始めたのを見て龍一は内心で「おやおや」と思った。

 ディロンと視線が合った時だけはタンの眼差しが敵愾心たっぷりのものになった。ディロンの方も何だてめえ、と言わんばかりに睨み返す。まあ、無理もあるまいとは思った。

 奥の方からオーウェンの声。「君たちか? 準備はできている。入ってきたまえ」


「さて、今日の『会見』はどうだった?」

 龍一たちに椅子を薦めて座った後で、オーウェンは額を撫でて苦笑する。「どうもいかんな。警官としての態度が身につきすぎている。君たちは私の部下でも何でもないのに」

「お構いなく」龍一はクッキーを噛み砕いた後で言う。それほど高級品ではないが、小腹が空いているのでちょうどいい。警官にもピンからキリまであるが、オーウェンは年少者にかなり気を遣う方だろう。「〈将軍〉に会いましたよ。いや、会うのは初めてでしたが、本人に間違いない」

 ディロンなどは驚きすぎて神妙な顔になってしまっている。「マジかよ……本当に〈将軍〉本人が出張ってきたのかよ」

「替え玉も疑ったんだが、まあ十中八九、本人だろう」あんな良くも悪くも存在感のある人物がこの世にそうそういるとも思えない。

「ふむ。それで、君の受けた印象はどうかね?」

「何と言えばいいのか……戦いたくない相手ですね。敵としても、味方としても」

 オーウェンは眉をひそめた。「手厳しいな」

「馬鹿とは程遠い。人望もある。地位も財産も俺とは桁違いのものを持っているし、人望もあるんでしょう。暇ではないだろうに、わざわざ俺みたいなごろつきに部下の生死を確認しにやってくるくらいですから……ただ、その全てをマイナスにできるくらい、おかしな妄想に取り憑かれた御仁と思いましたね。それも正気の権化のような顔で、それらを世間から隠し通すことにもほぼ成功している」

 上品な仕草で紅茶を飲んでいたブリギッテが、カップを置く。「それは何と言うか、ぞっとしない話ね。それが名にしおう〈将軍〉の素顔だって、あなたは言うの?」

「おっかなくなってこないか? その気になればロンドンを更地にできる火力が彼一人の手にあるんだぞ。しかも本人からして、それをぶっ放したくてうずうずしてやがる」

「歴戦の軍人なのに?」

「『旅に出したところで騾馬が馬になって戻るわけではない』、古い諺にもある通りさ。なまじ実戦を経験してしまったことで、意固地な価値観がどうしようもないほど歪んだ可能性もある。しかも彼は『業績』を叩き出しているんだ。誰も文句のつけようがないから、本人も矯正の必要なんて感じてないんだろう」

 とは言ったが、本人のいないところで精神分析じみた真似も下品だとは龍一も思っている。だが一方でこうも思うのだ──彼にとってはスティーブの最期など二の次で、と。

 何しろ〈海賊の楽園〉では龍一を巡り、結果的に艦隊が一つ沈んだのだ。自意識過剰とも言い切れない。

 ブリギッテが目を丸くしている。「何だか……あなたがそこまで直裁的に誰かを悪しざまに言うのを、初めて聞いた気がするわ」

「そんなこともないさ。これでも年末のバーゲンセール並み、罵倒を40%オフってところだからな。ま、それはともかく……俺の印象を差っ引いても、どうにも取引の相手としてはやばすぎる相手だとは思ったよ。向こうから何かしてこない限り、こちらからも手出しはしない方がいいんじゃないかな。都合よく俺たちを忘れ去ってくれるかどうかまではわからないが……」

「寓して遠ざかる、か。それならわかる」アレクセイは納得したように頷く。「警戒はしておくに越したことはないけどね」

「ああ。軍のご厚意なんて、俺たちが当てにするには重たすぎる代物だからな」

 考えてみればブリギッテを拐おうとしたあの男たちも、軍と無関係とは今だ断言できないのだ。もし彼が黒幕で、知っていて今回の面談に応じたなら、あの〈将軍〉の面の皮の厚さも大したもの、ということになる。

「そう来なくっちゃよ!」ディロンが喜色満面で立ち上がる。「い、いや、俺は最初から信じてたぜ! あんたらがいけ好かねえスーツ野郎どもとつるむはずないってよ!」

「いいから座ってなさい」呆れ顔でブリギッテが諭す。彼女の方がディロンより数歳年下のはずだが、これではどちらが年上かわかったものではない。

「しかし、そうなると情報収集以外で〈将軍〉周りへのアプローチは閉ざされたことになりますね」

「かと言ってマギー・ギャングを嗅ぎ回るのも、当分はどうだろうな。全然自慢にならないが、あれだけの騒ぎを起こしちまった直後だし……」

 ブリギッテが冷たい目でディロンを見つめる。「そうね。こんなギャングの下っ端を拷問にかけても、得られる情報なんてたかが知れているものね……」

 ディロンが腰かけたままブリギッテから1ミリでも遠ざかろうと努力し始めた。「ほ、本当に拷問を始めそうな目つきをするなよ!」

「そこで、私から一つ提案がある。ジェレミーについて、君たちに調べてほしいのだ」

 龍一たちは目を瞬かせる。「それはまた、どうして?」

「あいつが姿を消す少し前のことだ。昔からあまり自分について語りたがらない奴だったが、『信じられないようなもの』を見たと聞かせてくれたんだ。それも珍しく、興奮を抑え切れない様子で」

 オーウェンはかなり使い古した大判の地図を机の上に広げた。ロンドン近郊の地図だ。「君たちが帰った後で思い出したんだ。全く、健康の一番の近道は酒をやめることだな……」

 全員の目が地図に注がれる。

「あいつは子供の頃、父親と一緒にあちこちの地方を転々としていたらしい。ニュー・フォレスト、ノーフォーク・ブローズ、まあそんなところを二人っきりでだ。母親はとっくに死んでいたし、自分がどこで生まれたのかも本当はよくわからない。だからスコットランドから引っ越してきた私に親しみを抱いたのかもな。……まあ、それはともかく、ある日彼と父親は道に迷ってしまった。人里離れている上に、自分達のキャンピングカーの位置すら判然としない。おまけに天候まで悪化し始めた。

 彷徨っているうち、打ち捨てられた屋敷に出くわした。鍵もかかっていなかったから、やむを得ず二人はそこで夜を明かし──朝になって、そこが家だけではなく、人っ子一人住んでいない一つの村だということがわかった。教会と数軒の商店、それに近くを流れる川以外何もなかったが、村には違いなかった。

 彼はわくわくを抑え切れなかった。何しろ子供だから無理もない……そして教会の地下聖堂を見つけて入り口をこじ開けて入り、そこで隠匿されていた、膨大な道具を発見した」

「道具、ですか?」

「第二次大戦中、イギリス軍の情報部がドイツ軍の侵攻に備え、レジスタンス用に密かに準備していた物資の隠匿場所だ。消音拳銃、小型無線機、一回限りの暗号表、鉛筆型時限信管、そういったものだ。子供にしてみれば宝の山に迷い込んだ気分だったろうな」

 話を聞いているうちに龍一まで興奮してきた。「それは……確かにすごい」

「彼は物資の幾つかを持ち出そうとしたが、父親は法律を守る類の人間だったので頑として反対した。侵入だけなら罪にはならないが、持ち出せば確実に法に触れる、とな。彼は言いつけを守った──その時だけは、だったが。後になって彼は何回かそこを訪れ、頑丈な鍵まで据え付けて、自分以外の誰も入れないようにしたんだそうだ」

 タンがそうだぜ、と言うように頷く。「〈コービン〉も俺にそんなことを言っていたっけな。ロンドンの地下以外にもヤサがある、みたいな。じゃあそこへ行けばいいじゃないかって言ったら、あそこには色々なものを置いているからこそ簡単に戻れないんだ、って笑ってたっけ」

「この通り、タンの言葉からも裏が取れた。私の経験則では、人は自分の人生が行き詰まった時、あるいは死の覚悟を決めた時、最も思い出深い場所へ戻ろうとする。追い詰められた犯罪者、あるいは自殺志願者は特に。……どうだね、行ってみる価値は充分にあると思わないか?」

 アレクセイが頷く。「思いますね。そもそも僕らがここにいること自体、ジェレミーに導かれた結果と言えなくもない。彼の過去を探る作業は、これから先、重要性を帯びてくると思います」

「私も、そこへ行きたいわ」ブリギッテも力強く言い切る。「私は彼のことを何も知らないのに、彼は私のことを知っていた。それはなぜか……彼の過去を掴む手がかりがそこにあるなら、行ってみたい」

「結構。それで肝心の場所だが、十数年前に打ち捨てられた、教会を含む数軒の商店がある村、それも川が近くにある場所……となると、国立公園には該当しなかった。が、国防省管轄の敷地にはあった。ダートムア地方の、ここ。ブラック・ダウン・ハウスの広大な原野だ」

 アレクセイでさえ感嘆を抑え切れていなかった。「よく国防省の情報が手に入りましたね。通常は機密扱いでは?」

「なあに、知人が全くいないわけではないからね。それに、君が奥さんに隠れて付き合っているブルネットの可愛い子ちゃんなんだが、とさりげなく口にしたら、自分から教えてくれたよ」

 ブリギッテは「この悪徳刑事め」と言いたげな目つきになり、ディロンは「やるじゃん」と言わんばかりに口笛を吹いて彼女に睨まれた。

「ロンドンからそんなに離れていないわね」

「一日あれば行って帰ってこられるだろう。だが……場所がまずい」

「なぜです? そんな、崖だの谷だのがあるような秘境なんですか?」

 オーウェンが渋い顔をする。「いや、この一帯はほとんどが平地だ。歩き回るだけならそれほど苦にはならない。だがさっき言った通り、ここは数年前から国防省管轄の敷地なんだ。当然、民間人は立ち入り禁止だ」

「それに加えてこの広さ、ですか」アレクセイが顎に手を当てる。「人の足で探し回るには、いささか広すぎますね。車でも使わない限り、確実に数日は要する」

「そもそも車で入れるような道路がないんだ。首尾よく敷地に侵入できても、ドローンによる監視は確実にあるだろう。厄介だぞ、眠りもサボりもしない見張りというのは」

 龍一も、アレクセイも、そしてオーウェンも揃って難しい顔になってしまった。強固なセキュリティや屈強なボディガードとはまた違った困難さだ。

「……面白い位置にあるわね」男たちが黙り込む中、ブリギッテだけは呟きながら何事かを計算している。「うん、うん……そうね、何とかできるかも知れないわ」

 今度はディロンが目を剥いた。「マジか。何とかするって、どうするんだよ?」

「気を悪くしないでもらいたいんだが、ブリギッテ」オーウェンでさえ、やや気を遣うような言い方になっている。「君に、国防省の敷地についてどんなコネがあると言うんだい?」

「要するに、自動車以外の『足』があればいいんでしょう?」

 だがブリギッテは気を悪くするどころか、むしろ自信たっぷりに微笑んでみせた。「まあ、私に任せておいて。いい考えがあるの」

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