アルビオン大火(7)死合

【十数分前──元リバティ百貨店内、〈闘技場コロセウム〉選手控室、元は厨房として使われていた一室】

 控室の空気は重く澱んでいて、何より臭かった。選手たちのおびただしい血と、汗と、おまけに油まで混じった臭いだ。換気口のファンはフル回転しているが、大した役には立っていない。

 銃を持った見張り役の男は「ここで待っていろ」とだけ告げると出て行ってしまった。一瞬遅れて錠を下ろす音が響く。まるで死刑囚が執行を待つ部屋だ、と龍一は思う。いや、実際にそうなのかも知れない。

 龍一の手に持つトレイには、パック入り牛乳と妙に湿気たライ麦パンが乗っている。「始まるまでこれでも食ってろ」と言われて渡されたものだ。さほど腹は減っていなかったが、何しろこれから戦うのである。腹ごしらえしておくのも悪くないだろう、と思って袋の封を切ろうとした時──その男に気づいた。

 部屋の暗さもあったが、龍一に気づかれなかった者などこれまでの半生を通してもそうそうはない。崇やテシク、〈ヒュプノス〉の頃のアレクセイ、そして波多野仁、まあそれくらいだ。

 上半身裸の、逞しい男だった。白髪混じりの蓬髪に、これまた白いものが混じる顎髭が顔の下半分を覆い尽くしている。上半身の逞しさに比べ、顔面の憔悴具合が凄まじい。一週間近く眠っていなかったような顔色に加えて、全身からは汗と垢の臭いがぷんと漂ってくる。正直言って、あまりお近づきになりたくない面相だ。

 彼の目が先ほどからトレイの上に注がれていることに気づく。それも尋常ではない注視具合だ。「あの、もしよかったら……」

 言い終わるより先に、トレイの上から牛乳とライ麦パンが消えた。龍一が呆気に取られる勢いで音を立てて喉に牛乳を流し込み、むせながらパンを飲み下す。飢えと乾きに極限まで痛めつけられていたような有り様だ──いや、実際そうなのだろう。

「あ……ありがとう」顎髭に牛乳の雫をつけたままで、男は喘ぎながら礼を言う。「すまない、みっともないところを見せた……何しろ5日間、飲まず食わずだったんだ」

「いや……あまり腹も減ってないから……」道理で、と思う。それを咎め立てするほど俺も心は狭くない。

「ずいぶんと若いな」改めて男の目が龍一に向けられた。明るいグレーの瞳には早くも生気と理性が戻りつつある。「なあ、まさかとは思うが、君は〈将軍ジェネラル〉の手の者か?」

「何だって?」

「違ったら違ったでいい。〈将軍〉の命で来たのか?」

 一瞬そうだ、と答えたい誘惑が心を掠めた。だが男の切実な眼差しに対して嘘を言いたくはなかった。「すまん。俺はその〈将軍〉が誰かも知らないんだ」

「そうか……いや、謝る必要はない」男は明らかに落胆したが、同時に納得もしているようだった。「俺も焼きが回ったな。あの人がわざわざ助けを寄越す価値は、俺にはない」

 だが今度は龍一の方に閃くものがあった。「俺からも聞きたい。あなたは〈コービン〉という情報屋を知っていますか?」

 男は弾かれたように身を起こす。「〈コービン〉? ジェレミー・ブラウンのことか? なら〈将軍〉のことは知らなくても、全くの無関係ではないな」

 男が背筋を伸ばすと、今までの惨めな印象が嘘のように払底された。「俺はスティーブ・ウェスト……王立近衛連隊ロイヤルガーズレジメントの出だ。元……な」

「元」という響きの陰にあるなけなしの誇りと、今はそうではない、という羞恥と悔恨に龍一は気づいたが、あえて何も言わなかった。

「俺は〈将軍〉の密命を受け、マギー・ギャングに潜入していた……奴らがこのロンドンでいずれ起こす、大規模なある種のテロについてだ。だがどうやら情報が漏れていたらしい。俺は捕まって拷問を受けた……」

 スティーブの顔が屈辱に歪んだ。「俺はギャングどもの拷問技術を甘く見ていたんだ。対拷問訓練なんてまるで役に立たなかった。防音室を利用したギャングどもの拷問部屋に5日間閉じ込められたんだ。音も光もない、ただ暗闇の中で自分の呼吸と鼓動だけが響く部屋の中に……俺は耐えきれず、全部喋ってしまった」

 5日間耐えただけでも大したもんだ、と龍一は震え上がった。俺なら二日と保たず音を上げる自信がある。

「いいか、龍一、よく聞いてくれ。奴らの『恩赦』なんて嘘っぱちだ……こんな試合は事実上の公開処刑だ。だが、これは逆にチャンスだ。どんな手を使ってでも君を逃してやる。だから君はここを脱出したら〈将軍〉に連絡を取ってくれ。そして伝えてほしい。スティーブは自分の失態を償うため、最後まで戦って死んだと」

「その〈将軍〉は俺のことを知っているのか? 俺が彼のことを何も知らないのに?」

「君が彼のことを知らないからこそ、だ。いいか、〈将軍〉は必ず君の味方になってくれる。俺の名前さえ出せば」

 銃を持った見張りがドアを開け放つ。「時間だ。出ろ!」


【数分前──〈闘技場〉上層階部分、VIPルーム】

 VIPルームを謳うだけあって、一流ホテルのスイートルームと言われても違和感のない一室だった。完璧な空調と、尻の下の上等すぎるクッションがかえって落ち着かない。

「ねえアレクセイ、龍一は大丈夫かしら。いくら彼が強くても、一人では……」

「……彼を信じるしかない」応じるアレクセイも幾分か苦々しげな声だ。囁き声を交わす二人にディロンが眦を釣り上げる。

「おいてめえら、何をマダムの前でこそこそ話をしてやがるんだ」

 マギーは首を振った。「構わないわ。招いた客人ゲストが、私の目の前で何を話そうと自由だもの」

「お前こそ、何をマダムを差し置いて客人を咎めているんだ?」

 ベルガーの叱責は低かったが、その分凄まじい迫力があった。弁解すらできずディロンは蒼白になって硬直している。とっさにブリギッテは口を挟んだ。

「飲み物を頼んでいいかしら?」

 もちろん、とマギーがにこやかに頷くのをろくに確かめず、ブリギッテは震えているディロンを見上げる。「喉が渇いたわ。よかったら水を持ってきてくださらない?」

 彼女の意を察したアレクセイがすかさず援護する。「僕にも頼む。どのくらい長い試合になるかわからないからね」

 ぎごちない動きでディロンがベルガーの方を見る。仕方ない、と言わんばかりに彼が肩をすくめると、若者は救われたように席を外した。ブリギッテ自身、内心では冷や汗をかいている。ギャングの女ボスと組織のNo.2の前でこんな口を叩くことからして、白刃を踏む思いだ。

 さりげなくアレクセイが腕に触れてくる。口に出して礼を言う代わりにそれに手を当てた。先日までは真っ二つにするかされるかの関係としては大した進捗ね、と思う。この状況下でチームワークが芽生えてくるのは皮肉としか言いようがない。

「ありがとう」トレイにペットボトルを乗せて戻ってきたディロンに礼を言う。正直なところかなりありがたかった──何しろ、先ほどは豪華なカーペットの上に胃の中身をぶちまける寸前だったのだ。ディロンは口の中でもごもごと聞き取れない何かを呟いた。礼のつもりらしい。

 ブリギッテの視界に映る客席は、日が落ちたのにかなりの人手だった。いや、彼ら彼女らにとってはこれからが『今日』の始まりなのかも知れない──気のせいだろうか、その中の一人と目が合った気がした。


【同時刻──〈闘技場〉一般客席】

『……君はさっきから何をしている?』

「え? ああ、蜂蜜色の髪のスイートガールと目が合ったんで手を振ってるところー」

『本当に何をしているんだ……』イアホンから聞こえる〈ダビデの盾〉渉外調査部2課所属、海外投射要員フィリパ・ゲルプフィッシュの呆れ声に、その補佐アイリーナ・ランツマンは舌を出す。相手に見えないのは承知の上だ。

 今のアイリーナは虹色(!)のウィッグと真紅のファッショングラス、タンクトップにショートパンツという、〈本社〉に顔を出そうものなら警備員につまみ出されそうな出立ちだ。もっとも周囲の人間は誰も彼も、対戦表に目を血走らせているか、酒かドラッグでラリっているかで、彼女に注目する者は誰もいない。龍一はともかく、あの元〈ヒュプノス〉に出くわしたら目も当てられないから用心のためだ──本当に出くわしたらこの程度の変装などないも同然だろうが。

「にしても、本当にあの二人が現れると思うー?」

『思う。今やロンドンの暗黒街を支配しているのはマギー・ギャングのみと言って良い。彼らがヨハネスにつながる手がかりを探すなら、かならずマギーと接触するはずだ』イヤホンからフィリパの声。骨振動マイクを使っているため、囁き声程度でも充分に会話は可能だ。

「ま、ロンドンがマギーのものって言われれば納得するけどねー。見えるー? こいつら全員これから始まる〈深夜の血みどろ列車ミッドナイト・ミートトレイン〉の客よー。絶望となけなしの希望と、ついでに酒とドラッグと反吐の絶妙なブレンドって感じねー。私が生まれたゲットーを思い出すわー」

 ファッショングラスに内蔵された小型カメラのおかげで、フィリパとも視覚は共有できている。『マギー・ギャングの主要な「収入源」の一つだからな。ここの住民は「保護税」に加えて、この闘技場でなけなしの小金まで憂さ晴らしと引き換えに吐き出していく。貧乏人から財布の底のチリまでむしり取るつもりだな』

「で、それも含めて見物できるのがあのVIP席ってわけか」アイリーナは目を転じる。見晴らしの良さそうな完全空調のVIPルームは、見上げていると首が痛くなるほどの高みにある。まさに視覚できる格差だ。

『あれこそマギーの本当の「客」だな。医者、弁護士、実業家、スポーツ選手……ローマ貴族を気取りたい小金持ちどもの接待には、もってこいの残酷ショーなんだろう』

「ムカつく話ねー。爆撃してやろうかしらー」

『我慢しろ。まずは彼らを探せ』

「へいへい了解ー」

 観客たちの嬌声が一際大きくなった。試合が始まるのだろう。


【現在】

「走れ、走れ、走れ!」

 銃を持った見張りに追い立てられて、龍一とスティーブは闘技場へと走り出る。他の複数のゲートからも上半身裸の参加者たちが走り出てくる。極端に太った者、極端に痩せた者、全身刺青だらけの者もいれば先ほどまで拷問を受けていたような生々しい傷だらけの者までいる。

「スティーブ、もしかしてこの人たちは……」

「お前の想像している通りだ。マギーと敵対するギャングや、幹部の女に手を出した奴、金をちょろまかした奴、裏切り者や密告者ばかりだ。俺やお前と同じ、まあ、死刑囚だな」

 会場の真上に移動したコンテナが傾き始める。次の瞬間、コンテナの扉が大きく開いて中に詰まっていた大量の何かが音を立てて雪崩れ落ちてきた。

「何だあれは?」

「得物だ。好きなものを取れ」

 小高く積もった金属の山は……確かに、武器の山だった。飛び道具の類こそないものの、ナイフや鉄パイプ、手斧、金属製の鎖、ヌンチャク、さらにはチェーンソーまで混じっている。

 またブザーが鳴る。反対側のゲートが開き、何かが進み出てきた。

 数は三体。異様なシルエットではあったが、人の姿はとどめていた。だがそれを「人間」と言うべきなのか。

 中でも一番大きい、縦にも横にも広がる巨体が進み出る。悪夢の中から滑り出てきたような姿だった。両目も両耳も、そして唇も針金で縫い合わされ、顔面や首筋から触覚のようなセンサーが突き出ている。ドラム缶でもすっぽり入りそうな太鼓腹では、スパイクだらけの金属製のローラーが耳障りな音を立てて高速で回転していた。下半身は普通の人間であるのが異様さを際立たせる。ミキサー人間、とでも呼べばよいのだろうか。

 その背後から進み出てきた姿も異様だった。顔面中の穴という穴が縫い合わされているのはミキサー男と同様だったが、奇妙なほどに上半身を折り曲げ、切り落とされた両腕の代わりに散弾銃が一対、前方を向いている。バランスがおかしいのかよたりよたりと頼りない動きをするその姿は、まるで人間のふりをする鳥類のようだった。こちらはさしずめ「フラミンゴ人間」か。

 残る一体もまた負けず劣らずの異形だった。フラミンゴ人間と同じく両腕が切り落とされているが、何ともおぞましいことにこれには人間らしさをとどめた顔面の鼻から下に、ぱくぱくと開閉する金属製の牙と巨大な顎を無理やり取り付けられていたのだった。鮫人間、としか形容のしようがなかった。

「何なんだ、あいつらは……!?」

「前試合の敗北者たちだ。いいか、負けたら俺たちもあの化け物フリークスどもの『素材』になるんだぞ」

 ブザーが鳴り、それをかき消すような参加者たちの怒号と、そしてそれを上回る観客たちの歓声と罵声が闘技場全体を揺るがせた。


「はあ!?」

 龍一の姿につい素っ頓狂な声を上げてしまい、アイリーナは近くの顔中にピアスを入れたパンクなカップルから目つきで咎められてしまった。声をひそめてマイクに囁きかける。

「ちょっとー! なんであの子がギャングどもの闇格闘試合に出場してんのよー! 逃亡者って自覚がないのー? 馬鹿なのー?」

『……否定しようにも根拠が見当たらないな』


 耳障りな金属音と銃声、参加者たちの怒号と悲鳴が入り混じる。

「ミキサー人間」の両腕は大型のワイヤーアンカーになっていた。圧縮空気で射出されたアンカーが参加者を数人まとめて貫通し、ウィンチで手元に引き寄せる。まだ死にきれずもがいている者たちの哀願など一顧だにせず、腹のローラーに突き込んだ。長々と響く悲鳴が肉と骨の砕ける音にかき消される。

「伏せろ!」

 龍一の叫びにくぐもった銃声が重なった。フラミンゴ人間の腕部に装着された散弾銃が火を吹く。龍一はとっさに身を投げ出し、ミキサー人間の巨体を利用して銃火から逃れたが、逃げ遅れた者が顔面や胴体を吹き飛ばされた。

 たちまち周囲に悲鳴が沸き起こった。重傷を負った者たちから助けを求められても、他の者たちにはどうしようもない。しかもこれはまだ前座でしかないのだ。

(こんな馬鹿げたイベント、さっさと終わらせてやる……!)

 砂地を転がりながら、落ちていた鎖の一端を投擲する。龍一の投げた鎖が、うまくフラミンゴ人間の足に絡みついた。

「引けえ!」

 スティーブの号令で、男たちが一斉に鎖を引っ張る。強化された上半身に比べて下半身は未強化なのか、バランスを崩したフラミンゴ人間は呆気なく転倒する。体勢を立て直す暇も与えず、男たちが手に手に得物を振りかざして殺到した。ナイフと、バットと、シャベルと路面破砕用のハンマーがその身を切り刻み叩き潰していく。

 こんなものだったのか?

 鉄棒を振るいながら、龍一は自問する。

 がちがちと歯を鳴らして鮫人間が走り寄ってくる。渾身の力で鉄棒を投げた。口の中に突き刺さったそれを握り直し、力を込める。鉄棒が鮫人間の口蓋に突き刺さり、後頭部から突き破って抜けた。

 俺や夏姫、テシクや崇、そして百合子さんたちが戦ってきたのは、こんな世界を作るためだったのか? もっと……もっと別の何か、美しく素晴らしいもののために戦ってきたんじゃなかったのか?

「邪魔だ、どいてろ!」

 誰かが傍らを走り抜け、龍一は我に返った。最後に一体だけ残ったミキサー人間が銛の先端をこちらに向けていたのだ。鉄塊に棒をつけたような大型ハンマーを振りかざした巨漢が、それに突進していく。彼は銛の存在など気にするつもりもないようだった──気にしたところで避けられる距離ではなかったが。

 銛が射出され、巨漢の太鼓腹に突き立つ。

「うぐ……!」

 だが巨漢は止まらなかった。込み上げる鮮血を飲み下し、なおも突進する。唸りを上げて回転するローラーにハンマーが直撃した。ローラーの回転数が上がり、ハンマーの先端部が砂糖菓子のように粉々に砕けた。巨漢の両手もそれに吸い込まれ、おぞましい破砕音と悲鳴が上がる。

 しかし、巨漢は龍一さえ目を見張る行動に出た。最後の力を振り絞って自分からローラーに上半身を突き込んだのだ。砕けたハンマーに加え、大男一人分を飲み込もうとしたところでローラーに限界が来た。ぎしぎしと軋みを上げて幾多もの命を飲み込んだ金属のローラーが止まる。

 ここぞとばかりに参加者たちが殺到する。苦し紛れにミキサー人間が両腕を振り回し、不運な数人が叩き潰される。鉄棒を振りかざして突進しながら、龍一はまたも自問する。──俺たちが戦ってきたのは、こんな世界を作るためだったのか……?

 我に返ると、周囲に動くものはなくなっていた。ミキサー人間は血肉と鉄屑の山と化しており、龍一もスティーブも、自分の血と返り血とで全身血塗れになっている。他の参加者たちも、どこかしらに怪我を負って呆然と立ちすくんでいた。動けなくなるほどの傷の者はいない。動けなくなった者から殺されたからだ。

「これで終わりか?」

 スティーブは首を振る。「そういう愉快な発想も嫌いじゃないがな。生憎、ここからが本番だ」

 再びブザーが鳴る。ゲートから重々しく登場した巨体を見間違えるはずもない。

 鉄仮面だ。


 鎧袖一触、という言葉の意味が実によくわかると思った。

「かかれ! チャンピオンだろうが何だろうが、この数だ!」

 そう声を張り上げる男の声からして震えているのだ。手に手にナイフや鈍器を持った男たちの群れがまるで赤子をあしらうも同然だった。腕の一振りで男たちがまとめて吹き飛び、蹴りの一撃が内臓を破裂させて壁に叩きつける。

 龍一までその煽りを喰らった。頭部を掴んで振り回された男の身体がそのまま鈍器となり、他の参加者たちを叩きのめした。とっさに腕を交差させて直撃は防いだものの、数メートルほども砂地の上を転がる。

「大丈夫か?」

「ああ……しかし、どうにもならないぞこれは」

 スティーブに助け起こされ、龍一は起き上がる。視線の先では、動けなくなった男が脛骨を踏み折って殺されていた。

 もしかして俺と戦った奴らも、こんな無力感を感じていたのか……?

「龍一、俺が言ったことを覚えているな。ここを出られたら〈将軍〉に連絡してくれって」

「ああ、それが……」どうかしたのか、と言おうとして龍一は息を呑んだ。彼の目の色が明らかに変わっていた──覚悟の色に。

「〈ロンドン戦史研究会〉のアカウントにアクセスし、『〈将軍〉への面会希望』とだけ書き込め。向こうからお前に接触してくるはずだ」

「待てよ。出るんならあなたも一緒じゃないのか……!?」

 スティーブの髭面が歪んだ。自分を笑おうにも笑えない顔だ。「俺はお前の優しさに値しない屑だ。酒と博打で身を持ち崩して、それを拾ってくれた〈将軍〉の恩に報いるどころか、拷問で軍の機密まで喋っちまった。戻りたくても、もう戻れないよ」

「でも……!」

「なあに、あいつにちょっと痛い思いをさせてやるだけさ」血に汚れた手で、彼は龍一の頭髪をかき回した。「達者でな」

 龍一が止める間もなく、スティーブは残りの力を振り絞って鉄仮面に突進する。そのまま正面から激突するかと思いきや、

「そらよ!」

 身をかがめざまに、鉄仮面の両足を薙ぎ払う。彼の背中で蹴つまずくような形で鉄仮面は、転びこそしなかったものの、体勢を大きく崩す。

「ダンディーっ子を舐めるんじゃねえぞ……卑怯技ダーティインファイトなら負けねえ!」

 龍一でさえ目を見張る疾さで、スティーブが鉄仮面の関節を固めにかかる。多少の体格さがあろうと関節技だ。決まってしまえば力では振りほどけない。

「やめろ、俺のために命まで賭けないでくれ。スティーブ!」

「俺との約束、忘れるなよ……」最後に一瞬だけ、スティーブは龍一に笑顔を向ける。「それに、お前からもらえるもんは全部もらったさ。だ」

 だが。

「駄目だ、逃げろ! 罠だ!」

 唸りを上げて鉄仮面の腕が振り抜かれる。凶器に近い威力の拳が、裏拳のような形でスティーブの鼻から下、顎部全体を破砕させた。

 血だけでなく肉片と骨片までもが周囲に散らばっていた。一撃で粉砕されたスティーブの顎の成れの果てだ。その血溜まりの中に転がっていた小さな金属部品──起爆装置を、鉄仮面の足裏が無造作に踏み潰す。

 それでも、スティーブはまだ戦おうとしていた。顔面の下半分を失いながらも鉄仮面に掴みかかる。だが鉄仮面は子供の手でもあしらうようにそれを跳ね除け、ベアハッグの体勢でもがくスティーブを軽々と抱え上げた。

「やめろ!」

 龍一は叫んだが、遅かった。彼の耳にスティーブの背骨が真っ二つにへし折れる音が響いた。


「……本当によろしかったのでしょうか」ぼそりとした声でベルガーが疑問を呈する。

「何が?」

「あの元兵士を処刑したことを知れば、〈将軍〉の態度が硬化するかも知れません」

「どうもあなたは〈将軍〉に対して点が甘いわね。同じ元軍人同士、思うところでもあるのかしら?」マギーは悪戯っぽく片眉を上げる。「硬化するからといって、だから何? 〈将軍〉のスパイは他にも私の組織に侵入しているし、現に私自身、〈コービン〉に彼の組織を探らせていた。そんな羽虫を一匹二匹潰したくらいで機嫌を損ねるほど〈将軍〉だって初心ではないはずよ」

「はっ……」

「彼と私は理念を共有できなくとも、利害は一致している。今のところはね。当面はそれで充分よ。それに……」マギーの口元に、ユーモアなど微塵も感じられない笑みが浮かび上がった。「個人的にちょっと確かめてみたいのよ。それを見られるくらいなら、元兵士の命一つくらい安いものだわ」

 アレクセイが耳を澄ませているのは承知のようだった。それとも、聞かれてもどうでもいいと思っているのか。


 手足をねじ切られた人形のようなスティーブの遺骸が、闘技場の砂の上に投げ出される。生死を確かめるまでもなかった。彼は死んだ……死んでしまった。出会ってから一時間も経たずに、彼は殺されてしまった。自分の名とかつての身分だけを告げて。どんな子供だったのか、家族はいたのか、彼自身のやりたいことは何だったのか、何一つ龍一に語らないままに。

 意識して、龍一は静かに息を吐き出した。それは怒りよりも義務感に近かったかも知れない──だが義務感であろうとなかろうと、今は怒らなければならない、と思った。自分が彼のために怒るのは、これが最後になるだろうから。

 砂の上を歩き出す。足元の砂が、スティーブの血と肉片で奇妙に湿った音を立てる。観客たちの野卑な歓声も罵声も、今の龍一には聞こえていない。

 そのまま鉄仮面の前まで来た。

 

「歯を食い縛れよ」

 その龍一の呟きを、当の鉄仮面以外の何人が聞いたのか。

 掌底で顎部を跳ね上げ、浮き上がった巨体を反転させて砂地に叩きつける。鉄仮面の巨体が地響きとともに周囲の砂を派手に巻き上げた。

 まるでスイッチを切られたように周囲の歓声が止む。

 むくりと鉄仮面が起き上がる。さほどダメージを受けた様子はない。だが、自分に何が起こったかわからない様子だ。

「どうだ、少しは痛くなったか?」龍一は冷ややかに告げる。「立てよ。こんなものじゃ済まないからな」


「やった……!」

「マジかよ……初めてチャンピオンに砂を付けやがった」

 息をすることすら忘れるように見入っているブリギッテやディロンとは別に、アレクセイは内心で苦く呟く。

(いいのか、龍一……君は確かに只者じゃないが、あの鉄仮面だってもっと得体が知れないんだぞ?)


「チャンピオンが……」

「これは……ひょっとしてひょっとするかも知れねえぞ……!」

 客席のアイリーナの周囲でもざわめきが広がりつつある。それを聞きながら、彼女はぽつりと呟く。「私もどっちかに賭けておくべきだったかなー?」

『……君は自分の仕事を覚えているか?』


 大して痛そうな様子を見せず起き上がる鉄仮面を、龍一は観察する。その巨体ではない。そんなものは嫌でも目に入る──もっと別の部分だ。

 脇腹の筋肉は締まっているな、と分析する。ボディビルのような全身隈なく肥大した筋肉はむしろ打撃技の威力を軽減させるからだ。むしろ絞め技を警戒した方がいいのかも知れない。何よりあの図体で組みつかれたら、それだけでも脅威だ。

(なら打撃でカタを付けるか……!)

 しゅっ、と鋭く呼気を吐き出し、龍一は突進する。

 どすっどすっ、と鈍い音を立てて龍一の連撃が鉄仮面の胸板に、あるいは腹に炸裂する。背後に飛び退きながらも回し蹴りを脇腹に一発。これも確かな感触。見事な連続攻撃に客席からも歓声が上がる。

 だが、当の龍一は内心で舌打ちしていた。

(びくともしねえ……)

 やや褐色を帯びた肌の、彫像のように均整の取れた巨躯は身じろぎもせず立ち尽くしている。痛みを感じている様子もない……逆さにしたバケツにスリットを入れただけのような、不格好なヘルメットでは表情も窺えないが。

 こうも自分の打撃で堪えない相手と戦った経験はない──あのペルーで出くわした、半身義体の女くらいだろうか。手加減したつもりもない。今の一発だけでも、大抵の相手ならノックアウトできる自信はある。それが通じないのだ。

 舐めてかかると痛い目を見そうなのは確かだ──龍一は決意する。

 前蹴りを腹にぶち込む。だがさっきとは逆にこちらがフェイントだ──本命はフック気味の、脇腹への直突き。胸も腹も駄目なら、そこしかない……!

 が、それがあっさりと払いのけられた。

(しまっ……)

 体勢を崩した拍子に、右肩の関節を決められた。まるで万力のように無慈悲な力がかかる。ぐしっ、と関節が嫌な音を立てた。

「があっ……!?」

 濁った悲鳴が勝手に喉から迸った。解放された、と思った瞬間に打撃が来た。腹にボウリングの球、いやそれどころか、ドラム缶でもぶつけられたような衝撃。

 身体が砂地をバウンドする。どうにか外された肩をかばって受け身は取れたが、脈打つような激痛は避けられない。全身から嫌な臭いの脂汗が一気に噴き出す。

 迂闊だった。鉄仮面が打たれるままに任せ、打撃で応酬しなかったのはこれを狙っていたのか。

 起き上がろうとして、驚愕した。鉄仮面の巨躯がもう目の前にある。信じられない素早さだ。大きく、強く、そして速い。先ほど鉄仮面の懐に飛び込んだ動きを、今度はそのままやり返された形だ。

(本当に自分と戦っているみたいだ……!)

 牽制のため、転がった姿勢から蹴りを繰り出す。が、それをさらに上回る速さで鉄仮面が蹴り足を抱え込んだ。

 失策を悟った時には遅かった。妙に湿った音を立てて、龍一の足首がほぼ一回転した。

 自分の喉から迸る悲鳴が自分のものとは思えなかった。痛みというより、足全体が爆発したような衝撃。


「アレクセイ、龍一が……!」

「わかっている。君は動くな」ブリギッテを制し、アレクセイは指先に神経を集中させる。ぎりぎりではあるが、〈糸〉の稼働範囲だ……。

は駄目よ、アレクセイ」マギーの声は優しく、穏やかで、砂のように乾き切っていた。傍らではベルガーが切り詰めた散弾銃ソートオフショットガンを油断なく構えている。

 間髪入れずにドアが開き、アサルトライフルを構えた男たちが雪崩れ込み、一部の隙もなしにアレクセイとブリギッテへ銃口を向けた。ついでのように銃口を向けられたディロンは棒立ちになったまま、30センチの歩幅で真横へ移動していく。

「勘違いしないでね。私は単に、ショーに無粋な邪魔を入れられたくないだけ。何が何でもあなたたちを殺したいわけじゃないの。あなたはどう、アレクセイ? 何が何でも私を殺したい? そちらのお嬢さんの命を引き換えにしてまで?」

 認めざるを得ない。何が何でもマギーを殺したいなら、この局面でなりふり構わず行動に移すことは可能だ。後先さえ考えなければ。自分の、あるいはブリギッテの命と引き換えに。馬鹿げている。この女の命にそこまでの価値はあるか?

 駄目だ。できない。そこまで殺したい相手ではないし、自分の命もそこまで安くはない。

 まだ死ねないな──ブリギッテの視線を横顔に感じながら、むしろうんざりとその決意を噛み締める。それを見たマギーは頬を緩め、身振りで男たちに銃口を下ろさせた。

「さすがね。頭の回る相手は嫌いになれない──私の、どうしようもない性分としてね」

「それはどうも」そう吐き捨てながらも、思わざるを得ない。龍一がこの場にいればマギーを殺す必要なしに、ブリギッテを死なせることなしに、さらに自分の命を犠牲にするでもなく、この場を逃れていたに違いないと。


 龍一の太腿ほどもある二の腕が、鉄の輪のようにぎりぎりと喉元に食い込んでくる。両腕が揃っているならともかく、左腕一本ではとても振り解けそうにない。踏ん張ろうにも、関節を外された足では地を踏み締められない。

(肩と足首を外したのは、この布石か……!)

 後悔しても手の打ちようがない。赤黒く染まった視界が、今度は薄暗くなってくる。唇から涎が勝手にこぼれ落ちる。全身が酸素を求めて暴れている。これは既に断末魔のあがきだ。

 足が……薄れゆく意識の中で思う。せめてこの足が、元通りに動けば……。


 ──足が動けばいいのか。


 誰かが不思議そうに、興味深そうに呟いた。


 


 龍一のねじ曲がった足に、細かなスリットがいくつも出現した。そこから滑り出るのは、細く長く薄い刃だった。あの〈海賊の楽園〉でハイチ海軍歩兵たちを何十人と血祭りに上げた、人の胴体を軽々と両断する刃だ。

 それが龍一の足に幾重にも巻きつき、ぎりぎりと締め上げてギプスのようになった。音を立て、強引に関節が戻る。やや歪ではあるが形を元に戻した龍一の足が天を突き、地にめり込む勢いで踏み下ろされた。

 慄くように地が鳴動し、闘技場全体が揺れ動いた。土砂がもうもうと舞い上がり、発生した衝撃波が観客たちの顔面を叩く。何人かは不運にも吹き飛ばされ、踏みとどまった者たちも悲鳴を上げて身を屈める。

 龍一の足から伸びる刃の奔流は止まらず、次々と砂地に突き刺さった。まるでアンカーのように龍一の両足を固定する。

 誰もが──下は一般席の観客から、上はVIPルームのアレクセイやブリギッテ、マギーやベルガーたちまでもが自分の目よりも先に、自分の正気を疑っていた。。首を鉄仮面に締め上げられながら、じりじりと強引に上体を起こしつつある。

 細く長く薄い刃の奔流は、外された右肩にも及んでいた。腕に巻きつき、関節を強引に戻し、さらにさらにその上から幾重にも巻きついて右腕全体を補強する。

「……はを……くいしばれ……」

 そのひどく歪んだ声を、鉄仮面以外の何人が聞けたかどうか。

 次の瞬間、雷鳴のような轟きとともに鉄仮面の巨体が砂地に叩きつけられた。

 は口を開き、吼えた。その咆哮は、もはや人のものではなかった。


「ロンドン中心部、旧ソーホー近辺に反応! ……ですが、変です。こんな反応、今までのケースにありません……」

「さすがに数百万都市の真ん中で〈竜化〉するほどイカれてはいなかったみたいだね、」部下の報告を聞きながら赤みがかった髪の中年女性──白木透子は薄く笑う。「もっとも、人の正気と〈竜〉の正気、同列に考えるべきじゃないだろうけど」


「……一体どうなっている? あいつは生身じゃなかったのか?」

 闘技場の異変を見つめるベルガーの呟きを聞き、傍らの係員がびくりと全身を震わせた。「そんな……ありえませんよ! 薬物増強も人体強化も、試合前の検査じゃ全く発見できなかったんだ……あれだけの検査にも引っかからず、あんなギミックを仕込めるはずがない……!」

 レギュレーション違反が発見できなければ彼が全責任を追求されるのだから無理もない。が、

「誰もお前のせいだなどと言っていない」慰めるというよりどうでもいいような口調でベルガーは吐き捨てる。「大体、あれがただの人体強化なものか。もっとたちの悪い代物だ」

 そのような騒ぎなど目もくれず、オペラグラスで闘技場を見下ろすマギーは静かに呟く。「……素晴らしい。あれがあなたの言っていた〈ドラゴン〉なのね、ヨハネス?」

「アレクセイ」ブリギッテは息を詰めるようにして見入っている。「あれは龍一なの?」

 そうだ、と問われた彼は苦く呟く。「彼は時々、なるんだ」


「フィリパ!」

『ああ、こちらでも確認した』遊びのない口調のアイリーナに、回線の向こうのフィリパもまた口調を変える。『〈海賊の楽園〉と全く同じ兆候だ。出てくるぞ、が』

 その意味に気づき、アイリーナは息を呑む。「嘘でしょ……ここは無政府主義者たちに占拠された絶海の孤島じゃないのよー? 何百万市民が住まう、大都市ロンドンなのよー?」


 龍一の右腕が、みちみちと音を立てて収縮する。腕全体の筋肉が倍ほどにも膨れ上がり、腕へ何重にも巻きついた刃がそれを補強する。

 空気そのものを引き裂くように拳が振り抜かれる。ほぼ音速に近い打撃。

 鉄仮面が打撃を腕で防ぐ──その巨躯が衝撃を抑え切れず、砂地に深々と跡を残して後退する。身を低め、どうにか体勢を崩さずに済んだ鉄仮面の上に、ふっと影が差した。

 龍一は高々と跳躍していた。ほぼ斜め上から、容赦ない拳が鉄仮面のヘルメットを襲う。鉄塊同士を力任せに衝突させたような轟音とともに、ヘルメットごと彼の首が「ぐりん」と一回転した。

 頸骨をぶらつかせたまま、鉄仮面がよろめく──だがその手が自らの頭部を掴み、逆方向へと強引に捻った。妙に湿った音を立てて外れた頸骨が噛み合い、頭部全体が元に戻る。

 今や闘技場全体が静まり返っていた。観客も係員も皆、自分たちが何を観ているか理解できていないのだ。


『アイリーナ、私たちは一体何を観ているんだ……』

「さあねー」とぼけた口調とは裏腹にアイリーナの目は鋭い。「、ってのはわかるわー」


 遥かに威力を増した拳が、立て続けに鉄仮面の腹へと叩き込まれる。体勢は崩れない──だが、その巨躯は確実に後退りしている。闘技場の壁面へと鉄仮面が追い詰められている。当然、観客たちが一度も観たことのない姿だ。

 が、龍一が大きく振りかぶった隙に──タイミングを合わせ、鉄仮面が肩から突っ込んだ。ショルダータックルで龍一を弾き飛ばす。距離を詰め、体勢を崩した龍一へ関節技をかけ──その動きが、不自然に中断された。

 両足へとあの「刃」が巻きついている。地下深くまで潜って忍び寄っていた刃の先端が、完全にその動きを戒めているのだ。

「……バランスを、崩しただろう?」

 龍一の腕が蛇のように、鉄仮面の腕へ巻きつく。

「充分だ」

 何の溜めも予備動作もなく、肘を逆方向にへし折った。


「龍一……!」

「えげつねえ……あれ完全にさっきの仕返しだろ、肩外したあれの。意外に根に持つタイプだったんだな……」

 口に手を当てるブリギッテと、しきりと感じ入った様子のディロン。だがアレクセイは、他の二人とはまた別の感想を抱いていた。

(どんなに恐ろしげに見えても、あれは確かに龍一なんだ)

 最も恐るべきは──あれほどの異形に変じても、龍一がその身につけた技は全く損なわれていないということだ。

(龍一、あれは一体、……?)


 片腕をへし折られながらも鉄仮面の動きは止まらない。折れた腕を物ともせず、渾身の膝蹴りを龍一の腹に見舞ってくる。

 だが龍一の動きもまた止まらない。身体を開いて膝蹴りを躱し、反対側の足に全体重をかけた前蹴りを叩き込む。

 軟骨の潰れる音を立て、鉄仮面の膝が逆方向に折れ曲がる。さらに懐へ飛び込みヘルメットを抱え込み、首投げに近い体勢で投げた。鉄仮面の巨躯が石礫のように宙を舞い、一瞬後、大音響とともに壁面へ激突した。


 建物全体が砕け散ったような轟音がVIPルームを襲った。立っていた者全員が例外なく足元をよろめかせる。相当の重量があるはずのソファまでが横転し、座っていたブリギッテとアレクセイもひとたまりもなく投げ出された。

「ブリギッテ!」

「大丈夫よ……」床の絨毯のおかげでそれほどひどい目には遭わなかった。それよりも、

「龍一……!」

 目を転じたブリギッテは、分厚いガラスに大きな割れ目が生じているのを見て取った。外に出られるのだ!

「お、おい馬鹿、行くな! 殺されっちまうぞ!」

 ディロンのうわずり気味の制止になど構ってはいられない。躊躇せず、彼女は傍らの豪華な調度の椅子を持ち上げ、一気に叩きつけた。

 今度こそ開いた大穴に向け、ブリギッテは跳んだ。数メートル近くから落下した衝撃は受け身で相殺する。


「あ」浮き足立ち、早くも非常口へ殺到しかけている観客たちの中で、まずアイリーナが気づいた。「……さっきの、蜂蜜色の髪のスイートガールだ」

『何だって!? 相手は艦隊一つ沈める怪物なんだぞ!』

 砂に足を取られながらも必死で走るブリギッテの表情をアイリーナは見て取る。「当のスイートガールちゃんは、そうは思ってないみたいだけどー?」


 走り続けていたブリギッテは、不意に何かを感じて横飛びに身を投げ出した。おかげで全身砂まみれになってしまったが、結果としては正しい行動だった。

「……!」

 もう少しでボールのように飛んできた鉄仮面の巨躯の、下敷きにされるところだった。彼が為した惨たらしい行為はさんざん見てきたはずなのに、その無惨な姿に目を背けずにはいられなかった。返り血以外何の傷もなかったはずの裸体は、至るところで肉が弾け、骨が折れている。車に轢き潰されたミルク飲み人形を思わせる惨状だ。

 砂煙の中から、龍一が歩み寄ってくる。しかし一回り以上も膨れ上がったその姿は、本当に龍一なのか。人の形をかろうじてとどめてはいる、しかしその歪んだ姿は、本当に人間なのか。

 筋肉に沿って皮膚が裂け、隙間から金属とも鉱石ともつかない輝きが鈍く煌いている。腕や脚だけでなく背や腹に開いた細かなスリットからは、あの細長い刃が何十本と滑り出て触手のように空を撫でている。口は耳近くまで裂け、唇から覗く歯は三角に尖り、しかも金属状の輝きを帯びており、歯並びからして人のものではない。なまじ龍一の面影を残している分、余計におぞましかった。

 何よりも慄然とするのはその目だった──琥珀色の瞳孔は爬虫類のように縦に裂け、その周囲を黄金の輝きが取り巻いている。

〈竜〉の目だ。

 全身が勝手に、小刻みに震え出すのを感じた──立ちはだかるどころか、逃げることさえ思いつかなかった。こんな生物、いや存在に立ち向かえる生物など地上にいるはずがない。ライオンだろうと象だろうと、こんなものに勝てるはずがない。人間に至っては論外だ。オリンピック級の運動能力があろうと、薬物強化や人体強化をしていようと関係ない。ただの前菜オードブルだ。

 しかし──だからこそ、なおさら看過できないと思った。

 当の龍一は、ブリギッテに一瞥すらしなかった。戦意を完全に失った──少なくともそう見える鉄仮面の頭部を踏みつけている。傷もへこみもしなかったヘルメットは、今や殴りすぎたドラム缶のように歪に変形している。

 それだけでは治まらないとばかりに、握り締めた鉄仮面の左腕に力を込める。掌の中で、まるで小枝のように鉄仮面の左腕が折れた。

 声を限りに叫ばずにはいられなかった。「やめて、龍一!」

 そして今度こそ、あの目がブリギッテを捉える──美しく恐ろしい〈竜〉の目が。


「もう終わったのよ、龍一。終わったの」

 焦点が合う。金色と白色とラベンダー色でできた、指の一押しで溶けて消えそうな儚い生き物の顔へと。

「……帰りましょう」

 涙を湛えたラベンダー色の目が、自分を見ている──

「ブリギッテ、どうしたんだ?」

 自分の声で我に返った。どこかで審判が自分の名前を声を限りに叫んでいる。そうか、試合は終わったのか、と気づいた瞬間、意識がふっと薄れた。

 ──度し難いな。

 意識が途絶える瞬間、自分の中から呆れ果てたような声が聞こえた。


「〈アンドロメダ〉とはよく言ったものね」残らずガラスが砕け散ったVIPルームから、マギーは下階を見下ろしていた。崩れ落ちる龍一をブリギッテが慌てて支えて転びそうになり、とっさに駆け寄ったアレクセイがそれをさらに支える。「〈将軍〉の思惑なんて見え見えよ……〈アンドロメダ〉さえ手に入れば、〈竜〉と〈ペルセウス〉の両方に首輪を付けられると思っているんでしょうね。間違っていないけど、その理屈には穴がある。私が〈アンドロメダ〉を自分のものにする可能性を外していることよ」

 それを考慮さえしていないのだったら〈将軍〉は阿呆ね、と付け加える。

「……しかしこの有り様では、来週からの試合は難しいですな」ベルガーは幾分か渋い顔をしている。組織のNo.2としては損害とその穴埋め分を気にせずにはいられないのだろう。

「あら、構わないわ。この闘技場からの上がりは悪くないけど、今日の結果で充分お釣りは取れたもの。むきになってこだわるほどではない……それにベルガー、、なんて聞いたらあなたはどう思う?」

 ベルガーは目を瞬かせた。「まさか」

 マギーは口角をわずかに上げてみせる。「冗談よ」


「先生、どうなんですか?」

「どうと言われてもなあ……瞳孔反射は正常、呼吸脈拍ともに異常なし。ただ意識だけが……おう、気づいたぞ」

 焼けつくように眩い光が目を射る。目がチカチカするからそれどけてくれよ、と言おうとして、龍一はその光が医師のペンライトであるのに気づいた。

「龍一、よかった……!」

「……今の俺に触ると服が汚れるぞ、ブリギッテ」言いはしたが、今の彼女がそれを半分ほども聞いているかどうかは怪しかった。目の前の龍一が宙に掻き消えやしないか、というくらいの目でこちらを見つめている。

「あなたが俺の診察を?」

「おうよ。必要なかったみたいだがな」白衣を着ていなければ飲んだくれと大して変わらない風態の医師はそれなりに小粋に肩をすくめる。たぶん、闇医者の類なのだろう。「診てたまげたぞ。あんたの全身の傷、本当に見る見るうちに治っていくんだ。傷口に薄皮が張っていく様子までな」

 龍一は自分の全身を見下ろす──確かに血糊こそ派手だが、その下の傷は確かにもう塞がりつつある。はっと思い出す。「タンは?」

「あの坊主ならそこに寝とるよ。傷はひどいが、命に別状はない……栄養剤も打っておいた」

 指差された先に、毛布にくるまって横たわるタンの姿があった。隙間から覗く顔は痣と傷だけだったが、寝息は規則正しく、ひとまずは安堵する。

「彼の手当も先生が?」

「ああ。うっかり死なないようにマダムから念を押されたよ。あのギャングどもがやりすぎんようにな」老医師は肩をすくめる。「そんな目で見るなよ。マダムには借りがあるんだ。私が百回死んでも返し切れない借りがな」

 彼にもまた、今にふさわしくない過去があるのだろう。

 黙っていたアレクセイが頷く。「おかえり。まずは、あの少年が無事だったことを喜ぼう」

「……にしちゃ、浮かない顔だな」

「その理由は君が一番よくわかっているんじゃないのか、龍一?」

 穏やかだが冗談で返されるのを許さない声色だった。何となく、ブリギッテを巡って対峙したあの日を思い出す。「〈海賊の楽園〉と全く同じ展開になったな」

「彼女がいなかったらね。龍一、君はこれから先ますます死ねなくなるよ。君のためにも、そして君以外の人々のためにも」

「どういう意味だ?」

「君が殺されそうになった時、転じたあの姿……あれを何と呼べばいいのかはわからないけど、つまり君の命が危うくなるとああなるんなら、何度だって同じ危機は訪れるんじゃないのか? ブリギッテが無事だったのだって、ただの偶然だったかもしれないんだ」

 肝が冷えた。アレクセイはいつも、その場の全員が言いたがらないことを指摘する──俺が彼を信頼しているのはそれがあるからじゃないか、と龍一は気づく。

「ますます死ねなくなった、ってことだな。俺以外の命のためにも」

「そうだ。ここは〈海賊の楽園〉とは違う、何百万都市なんだ」

 黙り込んだ龍一の顔をブリギッテが心配そうに覗き込む。「龍一、苦しい?」

「いや。どころか、試合前より調子がいいくらいだ」嘘ではなかった。恐る恐る手足を動かしてみたが、問題なく動く。関節など完全に砕かれたはずなのに。腹の中でも大容量のダイナモが回っているように、全身が熱く、あれだけの激闘の後だというのに何の疲労感もない。「見ての通り、俺の身体はこんなふうにおかしくなるんだ。今度から、寝る前の夜食は控えないとな」

「ふざけてる場合じゃないでしょう」

 真剣に怒られた。

「まずは優勝、おめでとうと言わせてもらうわね」マギーとベルガー、それにかしこまった様子のディロンが後から入ってくる。「いろいろと椿事はあったけど」

 俺のあの姿を見て平然としているこの女も尋常じゃないな、と密かに思う。油断ならない眼光をこちらに向けるベルガーとどちらが危険なのかわからないくらいだ。

「約束よ。その子は連れて行きなさい。ただし、次に同じことをしたら今度こそ殺すとも伝えて」

「よく言い含めておきますよ。たかがギャングをからかっただけで君の行く手に広がる無限の可能性を棒に振るなんて割に合わないぞ、ってね」

「減らず口はやめろと言ったはずだぞ」

「いいのよ、ベルガー」マギーは鷹揚に言う。「ああ、それと〈ヨハネス報告書〉の所在も教えないとね。これもまた約束だもの」

「……ああ、そう言えばそうでしたね」

「真にも受けてなかったわけ? ひどいわ」苦笑。「まあ、実を言うと〈報告書〉の現時点での所在はわかっていないのだけど」

 たちまちブリギッテが気色ばむ。「……騙したのね! 龍一を命懸けで戦わせておいて、嘘を吐いたのね!」

「そうよ。騙して嘘を吐いたのよ。それがどうかしたの?」ブリギッテに対し、マギーは何をそんなに怒る必要があるのかとばかりに涼しげな顔をしている。「私はロンドンの地下世界アンダーグラウンドを統べる女王。自らの〈王国〉の権益を守るために部外者のあなたたちへ嘘を吐いたところで、誰も私の名誉に傷がついたなどと思わないし、実際、傷なんてつかない」

「わかりました。それについては置きましょう」なおも何か言おうとするブリギッテを龍一は制する。「『現時点では』と言いましたね。途中まではトレースできていたということですか?」

「鋭いわね」マギーは満足そうに頷く。「そう、ある時期までは〈ヨハネス報告書〉が英国情報部──MI6の秘密書庫にあったことは確かよ。警戒は厳重、持ち出しも複製も一切不可の秘密書庫にね。でもそれがある日、煙のように消えた──まるで初めからなかったようにね。ああ、それをどうして知ったかは言えない。困る人が大勢いるから」

「今までの話は全てあなたの一方的なもの、それも伝聞に過ぎない。どう信じろと?」

 アレクセイの当然の指摘にもマギーは揺らがない。「それは信じてほしい、としか言いようがないわね。私は私の知るところを全て伝えたつもり……あなたたちが信じないのなら、悲しいけど仕方ない」

「よくも抜け抜けと……」

「信じますよ」そう言ったのはそうでも言わない限りブリギッテがマギーの喉に掴みかかりかねないのと、信じたふりでもしないと話が進みそうにないからだったのだが。「ただ同じ手口で、二度とカモってほしくはありませんがね」

「ならよかった。誰憚ることなくここを出なさい。この〈ソーホー戦闘区域〉を出るまでの安全は保障するわ」

 出た後の安全までは保障しないってことか。

「ロボタクを拾おう」アレクセイはいち早くスマートフォンを操作している。「人間の運転手じゃ、怖がってここには来てくれそうにないからね。建物を出ればすぐに拾える」

「そうね。こんなところ早く出ましょう。……ディロン、その子を抱えてついてきて」

 ブリギッテに言われた若者は目を丸くして自分を指差す。「え、俺?」

「そうよ。あなた、私たちの連絡役なんでしょう? それくらい手伝ってくれてもいいんじゃない?」

「そうかなあ……俺、なんか騙されてないか?」釈然としない顔ながらも、ディロンは毛布ごと気絶したタンを担ぎ上げる。

「連絡役はもちろん今後も必要よ、ディロン。働きによっては幹部への昇格も考慮します」

「あ……ありがとうございます! 俺、何でもやります!」 ディロンは無罪放免を告げられた死刑囚のように顔を輝かせた。現金な野郎だとは思ったがわからなくはない。

 去り際に龍一は一度だけマギーの方を向いた。「これで貸し借りはなし、そうですね?」

 気を悪くするどころか、マギーは艶然と微笑む。「ええ。でも貸し借りがなくなったからと言って、それは人間関係の終焉を意味しないわ。もしかしたら、今度はあなたたちの方から頼み事をしてくるかも知れない……」

「真っ平よ」ブリギッテがにべもなく吐き捨てる。「龍一、行きましょう。ギャングボスのご機嫌を取ることなんかより、この世には大切なことが幾らでもあるわ」

 気にはなったが、今は追求したくなかった。龍一は黙って一礼し、踵を返す。


「動いたよー」ヘルメットを被りながら、アイリーナはマイクに囁く。

『よし。行き先さえ割り出せればいいんだ、気取られるなよ』

「任せてってばー」全員がロボタクに乗り込むのを確認し、彼女は電動バイクのスターターをキックする。フィリパに念を押されるまでもない。何もカーチェイスをするわけではないのだし、相手は法定速度を絶対に越えないロボタクだ。尾行は容易だろう。


「……お前、いつかのそびえ立つチンカスか……?」

 タンがうっすらと目を開けたのは、龍一たちの乗り込んだロボタクが〈ソーホー戦闘区域〉を出る直前でだった。焦点の合い始めた目を、龍一とブリギッテは覗き込む。

「そうよ。私たちがわかる?」ブリギッテはディロンから毛布に包まれたままのタンの身体を奪い取るようにして抱え込み、おろおろとさすってやっている。「何か飲む? 水は?」

「くれ」

 龍一はペットボトルの水を乾き切った唇に流し込んでやった。大半はこぼしてしまったが、少しだけ目に光が戻ってくる。「……おい、なんでチンカスどもがここにいるんだよ」

「要点を省くと、君を助けた」極めて簡潔に前部座席のアレクセイが説明する。

「マギーのことは気にするな。彼女はもう君に手を出さない。言質も取った」

「これから病院に行くの。あなたは……行政に保護されたくはないだろうけど、他に方法がないから」

「もっとはっきり言ってやった方がいいんじゃねえのか? マダムの邸宅に忍び込んで、ぶっ殺されなかっただけでもありがたく思えってよ」

 鼻で笑うディロンをブリギッテが睨みつける。「黙ってなさい」

 なんで怒るんだよお、とディロンが情けない声を上げる。「本当のことを言っただけじゃねえか……」

 少しの間黙って、タンは口を開いた。消え入りそうな声だった。「ごめん。俺、お前らに黙ってたことがあるんだ」

 咎めることでもない。龍一は頷いてみせる。「どんな?」

「死ぬ前に……ジェレミーが一度だけ俺に会いに来たんだ。もし自分に何かあったら、自分の知り合いのところへ行けってさ……」

 全員が顔を見合わせた。「ジェレミーに、協力者が?」

「俺が警察には頼りたくないって言ったら、警察には行かなくていいからそいつを頼れって言ったんだ。それじゃあんたもうすぐ死ぬみたいじゃないか、って言ったら、あいつ、そうかも知れない、なんて言いやがってよ……」

 苦しげに息を吐いたが、話すのはやめなかった。「てめえらが来た時、もうあいつを待つ必要はないってわかった。そこへ行く前に、どうしてあいつは殺されたのか、ギャングどもは地下で何をちんたらやってやがるのか、調べたかったんだ。それで、ドジを踏んだってわけさ」

 ブリギッテの目に深い悲しみと理解が同時によぎった。「ジェレミーの仇を討つつもりだったのね」

「そんなんじゃねえよ……」顔を背けたタンの声はくぐもっていた。「そんなんじゃない」

 タン、と龍一はあえて事務的に聞いた。「その人の住所はわかるか?」

「一字一句、忘れてねえよ」

 タンに聞いた住所を、アレクセイがロボタクのタブレット端末で検索する。「近いな」

 覗き込んだディロンが首を傾げる。「でもここ、サツでも病院でもねえよな? どう見てもただの一軒家だぜ」

「頼むよ……そこへ行った後なら、サツでも病院でもどこへでも行ってやるから。お前らのことだって、チンカス以外の名前で呼んでやってもいい……」

「そりゃありがたいが……おい、タン?」

 その言葉を最後にタンは気を失っていた。限界だったのだろう。

「どうする、龍一?」

「行くしかないだろう」龍一は即答していた。〈ヨハネス報告書〉は完全な空振りだったが、ジェレミーにつながる糸口は掴んだのだ。悩む必要などなかった。


【シティ・オブ・ウェストミンスター──ベイズウォーター地区、ケンジントン・アンド・チェルシーとの境界近くに位置する一軒家】

 自分の吐く息の酒臭さでオーウェンは目覚めた。時刻はとうに真夜中を回っている。頭がずきずきした。ひどい顔をしているだろうと思ったし、テーブルの上の惨状は見たくもなかった。帰宅してからずっと飲み続けていたのだから無理もないが。

 まるで酔えやしなかったし、美味しいとも思わなかった。だが、他にやることも思いつかない。このペースで飲み続けていたら、半月もせずに立派なアル中だろう──思いながらよろよろと起き上がる。今は酒よりも水が欲しかった。

 一週間の自宅謹慎プラス3ヶ月の減給。良家の子女が通うジュニア・カレッジで醜悪な口論を繰り広げ公僕としての権威を失墜させた、がその理由だった。オーウェンとランディの上司はそれだけの内容を述べるのに数時間を費やした(明らかに人を怒鳴り慣れていない、上ずった声での年下の上司の罵倒を聞きながら、十分で済む内容を数時間に引き伸ばす術は確かに官僚だな、とオーウェンは妙なところで感心した)。

 ランディとも一瞬だけ目が合ったが、すぐ相手の方が逸らした。以降、彼には会っていない。

 不服はなかった。むしろ軽い方だ、とさえ思った。だがそれを言い渡すのがギャングどもに飼われた警官のトップなら、何もかもが馬鹿馬鹿しくてやっていられるか、と思うのが正直なところだった。

 ──ただ正義にだけこだわるのであれば、警官である必要はないわ。

 懐かしい声に、オーウェンは振り向く……幻聴だ。そこには誰もいない。座る者のいないソファがただしんと冷えているだけだ。

「……君の言う通りだよ、スージー」虚ろな家の居間で、オーウェンはぽつりと呟く。彼女が間違ったことなど一度もない──彼女がかくあれかしと言ったことでその通りにならなかったことなど、一度もない。彼女がどうにもできなかったのは、自らの生死のみだ。「だが俺が警官でなくなったら、何ができるって言うんだ?」

 時ならぬ玄関のチャイムに、オーウェンは我に返る。誰かが来ている。しかも一人や二人ではないらしい。こんな時間に誰だろう──ギャングのお礼参りにしても非常識じゃないのか。第一、俺は謹慎中の身だ。わざわざ報復に来るほど奴らは暇なのか?

 インターホンの返答ボタンは押さず、カメラだけ作動させる。映っているのはいずれも若者だ──男が三人、女が一人。とりあえず風態はギャングには見えない。中の一人はそれらしいが。

『返事がないぜ……寝てんじゃねえのか? こんな時間だし』

『ディロン、あなたどうしてこういう時だけまともなことを言うの? ギャングの癖に』

『ブリギッテこそ、どうして彼にそうも辛辣なんだい?』

『医者の家にも見えないんだがな。もう一度鳴らしてみるか。ここで駄目なら、それこそ救急に駆け込むしかない……』中の一人が動き、その拍子に別の男に抱き抱えられた、毛布にくるまれてぐったりしている少年の姿が映った。

 どういうことだ、掴みかかるようにオーウェンはカメラを覗き込む。あれは……。

「おい、君たち!」頭で考えるより先に、彼は外へ飛び出していた。「その子は、ジェレミーの言っていた子じゃないのか?」

 家の中から突然現れたオーウェンに、若者たちは呆気に取られた──驚きを通り越して、昼間の梟ほどにも頭が回らない様子だ。

 ブリギッテは開いた口が塞がらないような顔になっている。「あなた……オーウェン刑事? 昼間会った刑事さんでしょう?」

 傍らではディロンが目を剥いている。「マジかよ! ここデカの家なのか?」

 アレクセイが耳聡く聞きつける。「待ってください。あなたは今『ジェレミー』と言いませんでしたか? なぜあなたが〈コービン〉の本名を?」

 龍一は目を白黒させている。「いや待て……そもそもこの子に、ジェレミー以外で大人の知り合いがいたのか?」

 それぞれの理由で驚いたり目を剥いたり天を仰いだりしている若者たちを前に、オーウェンはひたすら困惑していた。「……とりあえず中に入ってくれんかね。近所の目もあるからな……」


「まさか本当に優勝賞金を受け取らないなんてね」

「はい。気骨あるを通り越して、訳のわからない連中ですな」

「泣く子も黙る〈猟兵〉を困惑させるなんて、将来性のある若者たちね」マギーはくすくす笑ったが、すぐ真顔に戻った。「それにしても、どうしたものかしらね」

「とおっしゃいますと?」

「率直に言えば、『手駒として使う』などという考えは甘すぎた」珍しく遊びのない口調でマギーは言う。「我が強すぎるし、『糞』がつくほど真面目すぎる。おまけにベルガー、あなたのを跳ね除けられるほど強い」

 立ち尽くすベルガーの目尻が微かに痙攣したが、マギーはそれに気づきもしなければ気づくつもりもなかった。「次の会合で〈将軍〉に伝えて。甘く見ると痛い目を見る、って」

 ベルガーが一礼して下がった後、マギーはふと思いついてデスクのタブレット端末を起動させた。暗い、裸電球以外の光源は一切ない地下室に逞しい男の裸体が横たわっている。

 鉄仮面だ。ろくに手当もされていないのか、両手両足は無惨にもねじ曲がったままだ。

 マギーは目を細める──画面の中で、ねじ曲がった鉄仮面の関節がうっすらと煙を上げ、ごきごきと音を立てて関節が嵌まり、元に戻りつつある。

「あなたもさぞかし退屈だったでしょう? 脆くて弱い人間をいくら投げつけられたって、ティッシュを巻きつけた濡れ雑巾程度の手応えしかなかったんじゃない?」

 本人にしか意図のわからない微笑みを浮かべ、マギーは囁く。「相良龍一にもう一度会いたい? 私もよ。だって彼、

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