アルビオン大火(6)女王蟻
龍一がボトルシップの残骸から見つけ出したメモリーチップは、陳腐な表現をすれば宝の山だった。
ネットカフェというより、ライブハウスと製鉄鍛造所と、ついでに拷問施設を足してミキサーにかけたような場所だった。耳がおかしくなりそうな音量のテクノミュージックががんがん鳴っている割りに、人と人との会話はなく、不気味なほど静かだった──もっともこの音量ではなまじの会話など聞こえやしないだろうが。
並べられた端末のユーザー登録証はどれも空欄で、まともな方法で入手されたとは思えない。もちろん、利用客たちは毛ほども気にしていない。
そもそもその利用客にしてからが極端に痩せているか太っているか、あるいは狂ったように身体を鍛えているかで、まるで中庸な体型が見られない。化粧している男にスキンヘッドの女、VRヘルメットとデータスーツで全身を覆った者まで当たり前のように歩いており、性別すら定かではない。西部劇に登場する地の果ての酒場の、21世紀ハッカー版といったところか。カフェの名前が〈
周囲にはアルコールともアロマとも線香ともつかない、あるいはもっとやばい薬物の臭いが立ち込めていて、手元のキーボードに至っては煙草の灰やらこぼしたジュースやら菓子の食べカスやらでべたべたに汚れている。肉体精神双方の意味で健康によくなさそうな場所ではあった。が……誰も彼もが自分の作業に夢中で、とりあえず龍一たちに見向きもしないのは悪くない。
「アテナテクニカ社がマギー・ギャングと密接な関係にあったというのは、以前から暗黒街ではそれなりに有名な話だったよ」端末を操作しながら、アレクセイは背後の龍一とブリギッテに向けて解説する。「もっとも、ここまでとは思わなかったけどね」
モニター上に展開されている報告書、入出金記録、画像・音声・動画データの数々──それは理想を掲げて設立されたはずの企業が、じわじわとだが着実に犯罪組織へ侵食されていく様子を示していた。ペトリ皿に落とされた水滴に混じっていた細菌が、見る見るうちに容器を覆い尽くしていくように。
「〈日没〉によってロンドンに生じた広大な廃墟──〈テムズ煉獄〉を封鎖しているのは、アテナテクニカ謹製の自動防衛システムだ。これは〈テムズ煉獄〉に出入りする軍・警察・企業一切の出入とその管理を、アテナテクニカが独占したに等しい」
画面が切り替わる。表示されるのはアテナテクニカの関係者で内務査察を要求していた重役、〈テムズ煉獄〉の警備をアテナテクニカ一社が独占することに反対していた政治家、及びジャーナリストらのリストと、死亡年月日と、その主な死因だ。刺殺、絞殺、射殺、爆殺、轢殺、毒殺。
「そしてその際の邪魔になる人物の排除を、マギー・ギャングが引き受けた……いわば犯罪の下請け業者として」
「穢らわしい話ね」ブリギッテの顔が青ざめているのは恐れではなく怒りからだ。「『行きずりの暴力』を隠しもしていない」
「露骨な見せしめだな。ギャングの力の源泉は暴力と恐怖だ」
そんなところだろうね、とアレクセイが頷く。「アテナテクニカ社が〈日没〉を引き起こした、は現時点では確証の取れていない陰謀論としても、社が〈日没〉で生じたロンドンの空白地帯と社会的不安を、徹底的に利用し尽くしたのは間違いないね」
でもおかしいわね、とブリギッテが首を傾げる。「ここまで動かぬ証拠が揃っていたら、堂々と上層部に提出すればいいじゃない。なぜそうしなかったのかしら?」
確かに──自分だけで機密を抱え込んでいるから命を狙われるのであって、だったら然るべきところに公開してしまえばいい。確度は落ちるが、最悪でもネットに放流してしまう手もある。
答えは一つだ、龍一は呟く。「自分の職場こそが信用できなかったんだろ」
「彼が本来命じられたのはあくまで『集金システム』自体の解明だった。だがその調査過程で背後にあるものに気づいてしまい……殺された。確証こそないけど、だいぶ全体の『図面』は見えてきたね」
「まだわからんことだらけだけどな。だったらそれを、どうして俺たちに託そうとしたんだ? 何度も言うが、俺は当のジェレミーと顔を合わせたこともないんだぜ」
会ったこともない男が、龍一の行動パターンまで熟知していた。不気味な話だ──龍一は考え込む。何もかもが手の混みすぎた悪い冗談のようだが(むしろそっちの方がありがたいくらいだが)そのために国家機関が動き、死人まで出ているのだ。あまり笑ってもいられない。
「やっぱり、ジェレミーの所属先はわからないのか?」
「不明のままだ」珍しくアレクセイの口調に隠し切れない徒労感が漂う。「彼が過去に勤務していた貿易会社も、既に倒産している。それ以上は僕の伝手では探るのが無理だった。〈ヒュプノス〉が健在なら、英国内の端末たちと同期して情報を得られたんだけど、詮無い話ではあるね……」
力なく笑うアレクセイに、龍一もかける言葉が見つからない。しかし、ここ数日寝る間も惜しんでロンドン暗黒街の情報収集に当たっていた彼がそこまで言うのだから、本当に当面では困難なのだろう。
「待てよ、これは……」アレクセイの声が変わる。「信じられない。君とブリギッテにだ」
「何ですって?」
ポインターが重ねられた音声ファイルの名前は『Deadman′s Switch』。なるほどこれはジェレミー本人が付けた名前に違いなさそうだ。全ては彼の死から始まったことを考えれば、皮肉なネーミングとしか言いようがない。
「イヤホンを」龍一が鋭く言った時には、もうブリギッテは一方を自分の耳に、もう一方を龍一に差し出していた。大した勘の良さだ。この轟音の中で聞き耳を立てている者もいないだろうが、念のためだ。
「再生するよ」
クリックと同時に再生が始まる。けたたましいテクノ・ミュージックの中で、その声は確実に龍一たちの耳朶を打った。
『今、この音声を聴いているのは誰だろう? 誰だろうと構わない。僕は生きていないだろうから』
一瞬で総毛立った。間違いなく龍一の目の前で殺された〈コービン〉、ジェレミー・ブラウンの声だ。
『話したいことはいくらでもある。なぜこうなってしまったのかという後悔も……僕がしたことで何人が死んだのかも。僕がしなかったことで何人が死んだのかも。時間さえあれば何もかも話したい。が……今はあまりにも、それがない』
悔やむような。恨むような。それとも自分が生きていた頃を懐かしむかのような。文字通りの、死者からの声だ。
あの日、龍一の掌を伝った生温かい血の感触までが蘇った。アレクセイもブリギッテも、さすがに言葉一つない。
『マギーに〈
急に名前を呼ばれて、彼女の背が反射的に伸びた。
『彼と共に、ロンドンを救ってくれ。頼んだぞ』
音声の再生が終わる。龍一たちは顔を見合わせた。誰の顔も、疑問符をそのまま擬人化したような顔になっていた。
「余計に謎が深まったな。それにしても、もう少し具体的なことを言ってほしかったな。ちょっと思わせぶりすぎるだろ」
「このメモリーチップを敵に奪取される可能性まで考えたのかも知れないけど、それにしても意味深ではあるね」
「要するにハッタリでマギー・ギャングのボスに近づけということでしょう? 失敗したらどうなるかまでは考えてくれなかったのかしら?」
全員が難しい顔をして唸り始めた。が、
「この際だ、やってみるか」
これが何かの罠にしても、無視できない手がかりには違いないのだ。
「そうね。他に手がないんなら仕方がないわ」やけに決然とした態度でブリギッテが頷く。
「……なあ、ブリギッテ。今さらだけど、これに関しては無理についてこなくてもいいんだぜ。相手は本物のギャングなんだ。おじいちゃんおばあちゃんに紹介して一緒にランチを楽しめる連中じゃないんだぞ」
それを龍一が言うのはどうにも面映ゆいのだが。
案の定、本当に今さらね、と彼女は口を尖らせた。「何よ、私を除け者にしないって決めたんじゃなかったの? もう私たちは『チーム』なんでしょう? 置いていくつもりなら、無理にでも着いていきますからね。また屋根の上を追いかけ回してほしいの?」
「勘弁してくれ。いや、勘弁してください」
すっかり仲良くなったねえ、と傍らでアレクセイが呆れている。
しかし彼女の様子は何かおかしいな、龍一は内心で訝しむ。やる気に満ちているのは結構なんだが、やる気に満ちすぎているようにも見える。どこか焦りのようなものが垣間見えるのは、俺の錯覚なんだろうか?
──実のところ、ブリギッテには焦るだけの切実な理由があった。
【数時間前──セントウルスラ・レディース・カレッジ校長室】
「事情聴取……ですか?」
「申し訳ありません。先のロンドン
そう歳もいっていないのに早くも頭髪が薄くなっている刑事の口調は、丁寧だったが目つきの鋭さは隠せなかった。体型だけならブリギッテがまとめて三人並びそうな肥満体の刑事は、その傍らでしきりと額を拭いている。
近くでは卵のような体型の校長と痩せぎすの副校長が、息を詰めるようにして成り行きを見守っていた。
「
「お気になさらず。警察の方の職務についての重要さは理解しているつもりですわ」その気になればブリギッテもこの程度のお嬢様言葉は使える。気は進まないだけで。
「さっそくですが、当日のスケジュールをお聞かせ願いたい」
「構いませんけど、刑事さんが取り立てて興味を引くようなものはありません。17時まではクラブ活動、以降はアンナの自宅で級友たちと勉強会を。お疑いなら、本人にも聞いてみては?」
アンナたちには口裏を合わせるよう前持って頼んである。なぜかアンナが「全てわかっている」と言わんばかりに重々しく頷き、背後でケイトとモリィが「ついに我らが姫にも春が!」とか何とか大喜びしながらハイタッチしているのが妙に気になったが。
「いや、それには及びません」オーウェンという刑事は手帳に何事かを書きつけている。「伺いたいのはアリバイではありません。もっと別の件についてです」
アリバイなど口裏でいくらでも誤魔化せる、そう言わんばかりの口調と手帳の影から覗く鋭い眼光に、ブリギッテの脳内で警報が鳴った。見かけによらず油断ならない相手のようね、と相手の第一印象を改める。
「どのような?」
「お友達との勉強会の帰りにどぶ川に落ちて帰還なすったわけですか」
電流に打たれたようなショックを完全に隠し終えたかどうかは自信がなかった。オーウェンという刑事の手帳が自分の口元を隠し、相手の反応を伺うためにあるのをブリギッテは思い知った。だが、その程度でぼろは出せない。自分だって龍一たちの「一味」なのだから。
「仰る通りです。お恥ずかしい話ですわ」肩をすくめてみせる。「頭を使いすぎたせいかしら、足がもつれてしまって。母が心配するのも無理はありません──年頃の娘が臭くなって帰って来たのですから」
「そのうっかりミスと、あの戦闘犬の口中に
頭髪の薄い刑事は懐から一枚の写真を取り出す。心臓が止まりかけた──ブリギッテの矢を口中に深々と貫かれ、息絶えているあの戦闘犬の無惨な死骸だった。
「押収された矢には見覚えがあるでしょう? アーチェリーで使用する標準的なアルミの矢です。それでこの精度とは。大したものだ」
皮肉を感じさせない、心底感心したような口調が余計に気に入らなかった。「私だったら目を狙いますね。獣とは言え、殺すのはあまりにも心ない」
「お友達の命がかかっているとなれば、そうも言っていられますまい」
おいオーウェン、と傍らの太った刑事がたまりかねたように割って入る。邪険にそれを振り払ったオーウェンが向き直る。「個人的には賞賛に値するとは思いますよ。軍用規格の戦闘犬による大惨事を防いだのですからね。ですので、どうか本当のところをお話いただきたい──女王陛下に近々お目通りが叶うというカレッジきっての逸材が、〈月の裏側〉残党と行動を共にしていた理由を」
申し訳ありませんが、とそこで校長が間に入る。「当初の話を逸脱して来ているようですし、彼女も忙しい身ですので。これ以上の話を伺うようなら、後日正式な令状を……」
「令状ならもちろん用意しますよ」怯んだ様子も見せず、刑事は一礼する。「ではまたいずれ」
校長と副校長に挨拶し、悄然とブリギッテは退室した。
(どうしよう……)
校長たちが取りなしてくれなかったら、完全に逃げおおせていたかどうかわからない。だが心配なのはそれではない。
龍一たちには話せない──経緯こそ知らないが、警察にマークされているなんて。決定的な証拠を掴まれる前に、ケリをつけるしかない。
足早どころかほとんど走るような勢いで、オーウェンは駐車場のパトカー前まで戻ってきた。「彼女の通話とネットの閲覧記録を洗う。戻ったら令状を申請するぞ」
「わかってねえな。令状も何も終わりだよ。終わりだ、オーウェン」
車に乗り込もうとして、オーウェンは初めて気づいたようにランディの顔を見る。「何が終わりだって? まだ始めてもいないだろうが」
「『何が』って疑問がどうして出てくるんだよ、この田吾作野郎! てめえにはつける薬どころか薬をつける頭もねえのか?」たまりかねたようにランディはボンネットを平手で叩いた。帰路についていた女生徒たちが、怯えたように遠ざかっていく。
「捜査中止命令の直前まで続けたいって頼むから付き合ったらこの様だ。俺の首を何だと思ってやがるんだ? 俺が仕事をなくせば家族が揃って飢えるなんて、考えたこともないんだろ?」
「お前は家族さえ引き合いに出せば俺が黙るとでも思っているのか?」
「お前こそ死人さえ引き合いに出せば俺が黙ると思ってやがるんだな?」
ランディの胸倉を掴み上げたくなる衝動を、オーウェンは必死で抑えなければならなかった。「図体に似合わず、薄っぺらい男だな……!」
後はもう、同僚や相棒と一度でも呼び合った仲なら決して口にしてはいけない言葉の応酬となった。ランディがてめえなんざ誰かとチームを組む資格もない一生を一人ぼっちで終えるに決まってる無神経で惨めったらしい田舎者だと罵れば、オーウェンはお前こそギャングの女ボスの膝に自分から這い寄っていく警官の面汚し野郎であり戦う前から負けている負け犬だと言い返した。通りすがりの人々が何事かと振り返るような口論だった。
騒ぎを聞きつけて血相を変えた警備員が足早に近づいてくるのを見て、ランディはさっさと自分だけパトカーの運転席に乗り込んでしまった。タクシーでも拾って帰るんだな、と捨て台詞を残し、ランディの運転するパトカーはタイヤを路面に擦り付けるような勢いで走り去る。
「邪魔したな」
強張った顔で睨みつけてくる警備員をいなし、オーウェンは身をすくめて歩き出した。足取りが重い。
スージー、君が今の俺たちを見たらどう思うんだ?
【再び現在──ソーホー
夕闇に沈みつつあるリバティ百貨店は、まるでファンタジーに登場する悪漢たちの要塞のような異様な雰囲気をまとっていた。いや、実際そうなのだが。
周囲にたむろしている男も女も、まともな出立ちではない。ほぼ全員が半裸か、全裸に近い格好か、さもなければ正気を疑いたくなるけばけばしい服装ばかりだ。電気は来ているはずなのにほうぼうで火を焚いている理由はさっぱり想像がつかない。
「……すごいところね」呆然と建物を見上げるブリギッテは、灰色のフード付きパーカーに細身のジーンズを合わせている。どこにでもいそうなストリートキッズの平均的な服装だが、周囲が異様すぎて大人しく見えてしまうあたり、どうも尋常ではない。
「そうだな」龍一も平坦な口調で応える。とんでもないところへ来てしまった、が正直な感想だ。だがそうも言っていられない。
「二人とも、そこで待っていて」言うとアレクセイは自然な足取りで、燃えるドラム缶を囲んで柄悪く談笑していた若者たちに近づいた。中の数人が気づいて胡散臭そうに彼を見やる。
「何でえ?」
「マダム・マギーに会いたい。〈秘密の部屋〉の件で話がしたいと伝えてくれ」
案の定、若者たちはまともに受け取らなかった。酒かドラッグでも入っているのか、無駄に声が大きい。「てめえは阿呆か? それとも馬鹿か? いきなり押しかけてきてマダムに会えると思ってんのか?」
「そっちのスケを俺たちの膝に座らせてくれるってんなら、まあ考えてやってもいいけどな!」
「へっ、中国人だか韓国人だか知らねえが、アジアの田舎もんにしちゃ気が利いてるじゃねえか!」
周囲からどっと野卑な笑い声が上がった。フードの下で眦を吊り上げたブリギッテが前に出ようとするのを、龍一は必死で止める羽目になった。
アレクセイは平然としていた。元〈ヒュプノス〉の彼から見れば、群れて凄んでくる若者たちなどぴよぴよとうるさいヒヨコ同然だろう。「僕は伝えた。後で怒られるのは君たちだよ」
笑い声が止んだ。「なあ、マジで言ってんのか? 俺たちだってまともに口聞いたことさえねえんだぞ」
「本人に難しいようなら、君たちの直接の『上』に伝えてくれ。ああ、それも実際に話すのはマダムにだと付け加えるのを忘れないでくれよ」
若者たちは薄気味悪そうに互いの顔を見合わせ、やがてその中でババを引かされたらしい一人が周囲からつつかれながら建物にしぶしぶ入っていく。ドアをくぐる際、彼は龍一たちを睨みつけるのを忘れなかった。「余計な手間取らせやがって。ハッタリだったらただじゃおかないからな」
ちょっとひやりとしたのは否めない。
数分後、先ほどの若者が顔を出した。「入ってこい。おかしな真似はするなよ」
詰所から監視カメラか何かで見張られているに違いない。もちろん、龍一たちに異存はなかった。
好奇の視線を痛いほど背に感じながら建物に入る。従業員専用らしい廊下を歩きながら若者は説明した。「まずベルガーさんが話を聞く。俺も初めて聞いたが、〈秘密の部屋〉についての話はまずベルガーさんを通すことになっているんだそうだ」
「僕たちはマダムに直接話す必要があるんだ」
赤みがかった髪をポニーテールにした、龍一どころかブリギッテとも大して変わらない歳の若者は苛立たしげに舌打ちした。「駄目だ。まずベルガーさんに、だ。お前が言ったんだろう、後で怒られるのは俺なんだぞ。うちはそういうの、すごく厳しいんだよ」
「それならそのベルガーさんに君から頼んでくれないか」
「うるせえ。自分で直接言え。俺はお前らのためにできることは全部したからな」にべもなく吐き捨てられた。「自分の都合ばっかり並べ立てやがって。人に言うことを聞いてほしけりゃ、てめえも適当なところで折れたらどうだ?」
ごろつきに諭されてしまったアレクセイの顔こそ見ものだった。龍一とブリギッテは揃って下を向き、噴き出すのを必死で我慢しなければならなかった。
「こっちだ」これまた従業員の待機室らしい部屋を若者が示す。入った瞬間に心臓が縮み上がった──机も椅子も含めて何の調度も置かれていない。卑猥な落書きで埋め尽くされたここまでの廊下と異なり、室内は綺麗に洗い清められていたが、そこかしこにこびりついた奇妙な染みは完全に落ちてはいなかった。これは文字通り、何でもするための部屋だ。リンチも、拷問も、そして殺しも。
背後でドアが締まり、代わりに二の腕を剥き出しにした屈強な男たちがさりげなくその前に立つのを感じ取り、龍一は「ああやっぱり」と思った。そう易々とお目通りは叶わないだろうと踏んでいたから、意外でも何でもない。
「こいつらか、マダムに会いたいと言っているのは」
室内で待っていたのは、静かな男だった。黒髪に黒い目、さほど頑強には見えないがひ弱にも見えない引き締まった体つき。黒と焦げ茶色でまとめた服装が、地味な印象をさらに強めている。こけ脅しに頼っていないだけ、あの若者たちとは比べ物にならない迫力があった。そうです、と答えた若者の声は実に神妙だった。
「ベルガーだ。〈秘密の部屋〉について話があると言っていたな。まずは聞こうか」
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません」アレクセイに続き龍一も、そしてブリギッテも不承不承頭を下げる。
「社交辞令はいい。面接をやっているんじゃないんだ」ベルガーは片手で払うような仕草を見せた。「その言葉、どこで知った」
「重ね重ね恐縮ですが、それはマダム・マギー以外には話せないことになっているのです」
「話さなければ、もっと困ったことになると言ってもか」
「はい」
「では困ってもらおう」ベルガーの目配せで、龍一たちの正面に屈強な男たちが立った。手に握られているのはかなり大型のクロスボウだ。近距離では下手な拳銃よりも威力がある。
同時にドアが開き、空気をその体格で押し退けるようにして屈強な男たちが入ってきた。鋲を打った革ジャンを着込んだ者、裸の上半身を銃と薔薇を象ったタトゥーで埋め尽くした者、鉄塊のようなメリケンサックを両掌に装着してかちかちと打ち合わせている者。全員が弱者への侮蔑と暴力の気配をこれみよがしに漂わせている。本物のギャングたちだ。
「悪く思うな。俺たちもおかしな奴をマダムに合わせるわけにはいかんのでね」ひたひたと押し寄せてくる暴力の気配と同じくらい、ベルガーの静かな声は剣呑だった。
「いきなり押しかけて、初対面の俺たちを信用できないのはわかります。ですが俺たちも、もったいぶって話せないわけではないんです。同時にマダムを害する気もありません」
「その言葉を信用できたらと思うよ、
「綺麗な言葉で笑わせないでよ、一山いくらのギャングが」
今まで黙っていたブリギッテが口を開いた瞬間、龍一は失策を悟った──彼女の行動ではなくその言葉を聞いた瞬間に、である。
彼女が背に負ったケースから大型の弓を──先日までの競技用の複合弓より一回り大きい、本格的な狩猟用の強化弓だ──取り出し、矢をつがえる瞬間は見えなかった。だが矢を放つ瞬間はもっと見えなかった。
苦鳴が二つ、立て続けに上がる。痛みよりは驚愕の苦鳴だ。放たれた二発の矢が、男たちの持つクロスボウの弦のみを寸分の狂いもなく切断したのである。しかも持ち主の手には毛ほどの傷も負わせてはいない。まるで西部劇のガンマンが敵の拳銃のみを撃ち落とすような正確無比の早業だった。
しかしこれはまずいぞ、と思う。周囲の男たちが青ざめているのは怯えよりも怒りのためであったし、案内役の若者はとんでもない奴らを連れて来ちまったとばかりに壁へ張りついてがたがた震えている。どう考えても一触即発の状態だ。
ようやく自分のしでかしたことに気づいたように、ブリギッテが目を見開く。「龍一、これは……」
「頬は張らないし尻も叩かないよ。ただ君の今の行動については後で一つ残らず説明してもらう」
ブリギッテは蒼白になった。龍一の静かな口調に本気の怒りを感じ取ったからだろう。
しかしこれは本当にまずい。この包囲を突破するだけなら不可能ではないだろうが、マギー・ギャングを完全に敵に回してしまう。それでは何のためにここへ来たのかわからなくなる。
アレクセイはひたすら沈黙していたが、彼の両手の指は目を凝らさなければわからないほど小刻みに振動している。〈糸〉を張り巡らせている最中なのだろう。ブリギッテを叱責する余裕さえなさそうだ。
荒事しかないか──龍一が半ばそう覚悟した時、天井近くのスピーカーが鳴り出した。『もういいわ、ベルガー。この状況で凄める度胸、大したものじゃないの。話だけは聞きましょう。私の部屋まで』
しわがれた中年女の声でそれだけ言うと、スピーカーは切れた。ベルガーは龍一たちから目を離さないまま、手を振って戸惑う男たちに得物を下ろさせた。「運のいい奴らだ」
その時になってようやく、龍一の全身からどっと汗が噴き出した。
ベルガーの先導で皆がエレベーターホールへ移動する。ちなみに、ブリギッテはケースごとあの弓矢を押収されていた──帰る時返してやる、がベルガーの言い分だった。さすがに今度は、彼女も反対せず大人しく従った。
一同の一番後ろを、あの案内役の若者が着いてきている。彼は早くも後悔したような顔になっていたが、ベルガーの「お前も来い」の一言で逃げるに逃げられなかったのだ。
途中、かつての百貨店の有様を否応なしに目にすることになったが、凄まじいものだった──ショーウィンドウは叩き割られて中の宝石や腕時計は残らず奪われ、天井からは極彩色に塗りたくられたマネキンがいくつも吊るされて電飾で飾られている。
エレベーターの前にも見張りがいた。マギーの部屋へ直通できるだけあって警備は厳重で、大型のアサルトライフルを構えた見張りが何人も立っている。ベルガーが頷くと彼らはエレベーターを呼び、ドアの前で左右に分かれた。
ボックスが動き出す。ボックス自体が半透明のため、上昇するにつれて店内の多目的ホールが大勢の人で埋め尽くされているのが見えた。ライブさえ開ける広さのホールとは言え、場所を考えれば大した人の入りだ。ギャングに占拠された百貨店のホールで、一体どんな催し物が行われているのか? 龍一もあまり知りたくはない。
「お前らがどんなイメージを持っていようが、マダムは寛容な人だ」唐突にベルガーが口を開く。「たとえ食事中だろうが、寝入りばなを叩き起こされようが、それだけで機嫌を損ねはしない。『ビジネス』に関する話なら、聞くだけは聞いてくれるだろう」
「ええと、話が見えないんだが……?」
「マダムを謀ろうとするのはやめておけ、というだけの話だ」静かな男の声が、より怖くなった。「それこそ、生まれてきたことを後悔するような目に遭う」
マギー直轄の部下としては、そう言わざるを得ない立場なのだろう。かと言って龍一もこんな脅し文句だけで這いつくばりたくはない。
「心配は無用だ。目上の人の前ではおいたは控えろって躾けられて育ったからな。どういうわけか、その割には目上の人を怒らせてばっかりだが。どうも俺はおいたを控える才能がないらしい」
「てめえ、ベルガーさんにその口の……」
「減らず口もやめろ」ベルガーは苛立つどころか、激昂した若者を制してさえみせた。「士気に関わる」
「ギャングのボスを怒らせないよう気を遣う才能に、減らず口を控える才能か。どっちも自信がないなあ」
「減らず口はやめろと言ったばかりだろう」
「諦めた方がいいですよ、ミスター・ベルガー」如才なくアレクセイが肩をすくめてみせる。「こういう男ですから」
ブリギッテとあの若者が笑うに笑えない様子なのがおかしい。ベルガーも咎め立てはしなかった。単に諦めたのかも知れないが。
「それにしてもお前ら、一体何なんだ」ベルガーはうっそりと胡乱な目を向けてきた。「指名手配中のごろつきに、世界最高の殺し屋に、女学生だと? 何しに来やがったんだ」
それについては何一つ言い返せない。ブリギッテなど、今度は龍一の顔を見て笑いを噛み殺している。
「ここだ」
やがてベルガーは一際豪奢なドアの前に一同を導いた。ノックする。
「どうぞ」
思ったよりも静かな声が返る。
元はどうやら支配人の部屋だったらしい。ここに来るまで見てきたけばけばしい内装に比べれば真人間の部屋と思わせる、落ち着いた色彩の壁紙と調度。煌びやかではあるが下品ではないシックなデザインのシャンデリアが、室内を柔らかな光で照らしている。部屋の主がどうなったのかは、あまり考えたくもなかったが。
デスクについた中年の女が食事を取っていた。どちらかと言えば地味な顔立ちの女だった。服装も、体型も、食べるペースも取り立てておかしなところはない。だがそのような地味な女が、デスクの上一面に並べられた豪華な食事を黙々と胃袋に詰め込んでいる様は、それはそれで妙な凄みがあった。
こいつがマギー・ギャングのボス、〈
「食事中で申し訳ないわね、何しろ昼休みを取る時間さえないのよ」いっそ朗らかでさえある口調で女は言った。それが余計に怖い。「ここへ引っ越してから一度も食事で失望したことがないのは唯一の救いね。この蝶鮫のグリルなど素晴らしいものよ。見事に泥臭さを消してある」
そりゃそうだろう、と龍一は内心で思った。ギャングの女ボスを失望させたコックの末路など想像したくもない。
「信じてもらえるかどうかはわからないけど、私は最初、裏稼業で食べていくつもりはなかった」マギーは唐突に口を開いた。話しながらも、ナイフとフォークで肉や魚を切り刻む手つきに澱みはない。「人を世話し、人と人を出会わせ、必要な人や物資を手配する──確かに少しばかり御法に触れることはあったけどね。でも自分がギャングの女ボスとしてロンドンに君臨するなんて夢にも思わなかった。〈日没〉が起きてしばらくしてもね」
ベルガーも、案内役の若者も、黙って聞いている。彼らとしては口を挟むことさえ狂気の沙汰なのだろう。
「ところが──ある日、私はおかしなことに気づいた。私が今為していることは、もっと幼い頃に熱中していたある遊びに酷似している、とね。何だと思う? 相良龍一君」
「わかりませんね」ギャングの女ボスのなぞなぞ遊びになど付き合いたくはない。「何です?」
一瞬、彼女は真顔になった──まずいことを言ったか、と不安になるほどの真顔だった。だがそれが一瞬後、何の前触れもなく崩れた。
「にらめっこよ!」彼女はくすくす笑い出した。まるで童女のような笑い方だった。「先に仏頂面を保てなくなった方が勝ち。これはそういう遊戯なの」
室内で笑っているのは彼女一人だった。ベルガーは慣れっこになっているのか驚きもしていないが、あの案内役の若者は笑っていいのかいけないのか判断できず、何ともおかしな顔になっている。
改めて認めるしかない──こいつもまた怪物だ。
「遊戯は遊戯。犯罪とは違います」
「想像以上に骨っぽいわね。そういうところがヨハネスの癪に触るんでしょうけど」彼女はかくもあっさりとヨハネスの名を口にした。「〈月の裏側〉残党にして国際指名手配中のごろつき、相良龍一。暗殺者集団〈ヒュプノス〉の最後の生き残り、アレクセイ。そして英国アーチェリー期待の新人にしてオリンピック候補、ブリギッテ・キャラダイン」
堪え切れないようにマギーは笑い続ける。「ベルガーがいたく興味を示すのも無理はないわ。何かをしでかしそうな、しでかしてくれるんじゃないか、と期待させてくれる組み合わせではあるもの」
ベルガーは無表情だが、壁際に立ち尽くしている若者はただ黙って目を瞬いている。「こいつらがそんなご大層な奴らとは知らなかった」と言わんばかりの顔だ。
さて、どうするかね──龍一は息を呑んで成り行きを見守っているブリギッテの方へちらりと視線を走らせる。自分一人なら突破は不可能ではないが、彼女も連れて無事に、となるとかなり頭の痛い問題だ。
マギーはまるで宥めるような笑みを浮かべる。「そう気色ばまないで。確かに私たちはヨハネスの〈王国〉と、いわば業務提携の間柄にある。だからといって私は別段、彼に這いつくばってはいないし、あなたたちの訪問を愚直にご注進する必要もないのよ」
嘘を言っている口調ではないが、額面通り受け取るわけには行かない。思えばあの〈黒王子〉エドワード・コスティガンもヨハネスの〈王国〉から独立しているようで、実は裏でがっちり結託していたのだから。
龍一はアレクセイの方に目だけ動かす。わかっている、と彼の目が返す。ギャングが下手に出てくる時は要警戒だ──それがギャングのボスならなおさら。
「〈秘密の部屋〉について聞きたいと言ったわね」口元を拭って彼女は言う。「では〈コービン〉は死んだのね?」
口調がさりげなさすぎて反応が遅れた。ブリギッテに至っては、びくんと肩を跳ね上がらせてしまっている。冷静さを保っているのはアレクセイぐらいのもので、どうやら俺たちには対尋問テクニックも必要らしいなと思った。
「なるほど、彼とあらかじめ打ち合わせていたわけですね。誰かが〈秘密の部屋〉の件で尋ねてきたら、それは自分が死んだ証拠だ、と」
「それも死体すら上がらないような死に方でね」マギーは容易く認めた。「彼は有能だった。専属契約こそ交わしていなかったけど、有益な情報を私たちの組織に幾度ももたらしてくれた。残念だわ」
「ではあなたが殺害を命じたわけではないのですね?」
「これは尋問?」おどけたようにマギーは掌を見せたが、すぐ表情を改めた。「少なくとも私は命じてないわね。そうだと言えば、あなたたちは喜ぶかも知れないけど」
その口調に嘘は感じ取れなかった。しかし、〈コービン〉ことジェレミーの殺害犯がマギー・ギャングではないとなると、彼がマギー・ギャングについて調べていた理由は余計にわからなくなる。結局、彼の調査対象は何だったのか?
「ところで共通の知人が──元知人がいる以上、私とあなたたちには取引を交わせる余地すらあると思わない? それが私たちの『ビジネス』に反しない限りはね」
「たとえば?」
「〈ヨハネス
自分が喉を鳴らす音が漏れなかったか、龍一には自信がなかった。まさにそれこそ龍一たちの目的、文字通りロンドンの下水に塗れてまで探し求めていたものだ。
「〈ヨハネス報告書〉……聞いたことだけはあります。都市伝説の類かと思っていましたが」
「実在するわ。なぜそう断言できるのかは説明できないけど」
「それが空手形でない保証は?」
「保証はできないし、したところであなたたちはそれを信じるかしら?」
「難しいところですね。興味深くはありますが、それが取引の材料になるかまでは微妙なところだ。僕たちの命だって、絵空事に費やせるほど安くもない」
またあの宥めるような笑み。「諦めるのはまだ早いわ。私たちにはまだ別の取引材料がある」
「別、と言いますと」
「そうねえ、あなたの相棒とそちらのお嬢さんが私たちの大事な取引を台無しにしてくれた件を不問にする、というのはどう?」
一瞬にして室内の空気が不穏になった。ブリギッテは真っ青になり、案内役の若者は「こいつら何てことを」と言わんばかりに目を丸くし、あのベルガーはさりげなくドアの前へ──退路を塞ぐためにさりげなく移動し始めた。アレクセイは目に見えた動揺こそなかったものの、内心までどうかはわからない。たぶん腹の中は煮えくり返っているのではないか。
あのごろつきども、マギー・ギャングのメンバーだったのか。
やむを得ない面もあるとは言え、こんな形でツケが回ってくるとは思わなかった。強いて言えばあの一件でブリギッテの信用を得られたのだが──もちろんそんなものはこの場に必要な説明では全然ない。
「駄目よ、ベルガー。まだ早いわ」マギーが軽やかな声でベルガーを制する。「取引失敗で生じた損失は? ああ、この際だから怪我人の治療費は差し引いて構わないわ。仕事が仕事ですもの。そのくらいはこちらが泣きましょう」
苦さを隠せない口調でベルガーが応じる。「銃器とメタンフェタミン、合わせて700万ポンドです、マダム。埋め合わせは確かに可能ですが……喪失分のドラッグを生産するには、二日ほどを要します」
「取引は確かに大事。でも失敗した取引を別の取引で埋め合わせるのも大事。そうでしょう?」そこでマギーは初めて気づいたかのように、あの案内役の若者に視線を向ける。「あなた、名前は?」
「ディロンです。ディロン・マクドーマンド」若者は見るも哀れになるほど緊張していた。無理もない。何しろマギーを前に、一挙手一投足をベルガーに注視されながら話しているのだ。龍一は彼に同情せずにいられなかった。
「あなたは今からベルガーの下で、彼らとの
ディロンが目を丸くして自分を指差す。「お、俺がっすか?」
「この話を持ち込んできたのはお前なんだから、責任を持てというだけの話だ」低く凄みのある声でベルガーが呟く。「もちろん、責任に見合うものはやる」
若者は何も言わずがくがくと頷いた。
「話を進めていただくのはありがたいのですが」皮肉を20%オフ、と自分に言い聞かせながら龍一は言った。「お役に立てる自信はありません」
「あら、謙遜ね。私だって不可能な取引を進めるほどわからず屋じゃないわ。これでも人を見る目はあるつもりなの。……それに、取引材料は他にもある」
マギーは控えていたベルガーに目配せする。彼は頷き返し、タブレットを取り出して画面を龍一たちに向けた。
ひゅっ、とブリギッテが息を呑む。
「……!」
画面に映っているのは、十歳前後の少年が下着一枚に剥かれて全身血塗れで四肢を洋服用のハンガーラックに戒められている映像だった。素顔を見るのは初めてだったが……間違いない。タンだ。
「数日前から私たちの倉庫周辺をうろうろしていたので捕らえた。泥を吐かせようとはしているけど、強情にしても大したものね。まるで口を割らない。このまま強情を通されると、私たちとしては始末するしかない。さぞかし大した男になるでしょうに、残念だわ」
「あんな子供のことは知らないと言ったら?」
「知らないという顔じゃないわねえ」マギーは何もかもお見通しだと言わんばかりの、恐ろしく意地の悪い憫笑を浮かべてみせた。「あの子を羽虫のように潰したところで、私たちは痛くも痒くもない。翻ってあなたたちはどう? その良心は耐えきれるのかしら? これは予想だけど、ガラスのように砕け散ってしまうんじゃないのかしら?」
その通りだ、龍一は唇を噛み締める。完全に後手に回っている。
「……何がお望みなんです?」
またあの宥めるような笑み。「気色ばまないでって言ったでしょう? 単に全力で身を守ればいいのよ。あなたたちの得意分野じゃなくって?」
マギーは右掌を一振りする。指輪にモーションセンサーでも仕込んであるのだろう、それだけで壁面が大型のモニターに早変わりする。観客席を埋め尽くす人、人、人。とっくに酒なりドラッグなりを入れて相当に出来上がっているらしく、あらんかぎりの音声で喚き立て、床を踏み締めている。あれでは近くにいたらうるさくてたまらないだろう。
『ドタマかち割れ! ドタマかち割れ!』
「あれは……」
闘技場の中央に進み出てきた男たちの面相に、龍一は目を凝らさざるを得なかった。ブリギッテと出会ったあの日、彼女と共に結果的に取引を台無しにしてしまったあのギャングたちだ。
『ドタマかち割れ! ドタマかち割れ!』
観客が声を枯らして野次を飛ばす中、反対側から対戦相手が現れた。
「……何だ、ありゃ?」
龍一が素っ頓狂な声を上げてしまったのも無理はない。対戦相手は、頭部全体をすっぽりと包む奇妙なヘルメットを被っていたのだ。それも鉄の箱に鋲を打ち、覗き穴らしいスリットを強引に空けただけの鉄の箱のような不細工なヘルメットだ。全身これ筋肉の塊と呼びたくなる素晴らしい裸体には、革らしきズボンしかまとっていない。いくらここがロンドンだからってそんな格好はないだろう、と龍一は呆れた。これじゃゴシックファンタジー小説もいいところだ。
マギーがどこか誇らしげに説明する。「少なくとも印象的ではあるでしょう? 信じられないだろうけど、あれが当闘技場のチャンピオンよ。もっとも本人も名乗りたがらないから、鉄仮面、としか呼び用がないんだけど」
「そのまんまじゃないですか……」
鉄仮面に対し、男たちは十人近く。しかも彼らは斧、
「な……何をしているの! こんなの戦いでさえないじゃない! やめさせて!」
「そう見えるのも、まあ無理はないわね」ブリギッテの懇願を諌めるように、マギーは苦笑しながら首を振る。「でもこれくらいのハンデをあげないと、もう興行そのものが成り立たないのよ」
耳障りなブザー音。試合開始の合図だろう。
『ドタマかち割れ! ドタマかち割れ!』
恥も遠慮もなしに、男たちは鉄仮面に殺到する。当然だろう、何しろ勝てば無罪放免なのだから。
まず唸りを上げるチェーンソーの刃が上半身を切り裂こうとする。が鉄仮面は怯まず、避けもせず──ただ右腕を一閃させた。
異様な音が響いた。チェーンソーが肉体に食い込む音ではない。
鉄仮面の腕の一閃、それだけで、チェーンソーを持つ男の両腕がおかしな方向にねじ曲がっていた。悲鳴を上げるのも忘れてだらりと垂れ下がる腕を呆然と見つめている男の頭部を、鉄仮面の蹴りが見舞う。
屈強な男の体躯が人形のように宙を舞う。ホールの天井近くまで舞い上がった男の肉体は頭を下にして落下、首の骨が折れる音が響いた。もちろん、生きてはいない。
雄叫びとも悲鳴ともつかない声を上げ、別の男が斧で背後から切りかかる。鉄仮面はとっさに左腕を上げた。斧の刃が腕に食い込む──が、浅く食い込んだだけで、切断されない。お返しとばかりに鉄仮面は右拳を突き出し、男の顔面を陥没させた。アッパー気味に男は吹き飛ぶ。間髪入れずに鉄仮面は倒れた男の顔面に足を踏み下ろし、今度こそ男の頭部を破裂させる。
圧倒的な力の差だった。文字通り、腕の一振りで荒事に慣れきった男どもが肉塊に変えられていくのだ。大人と子供どころか、人間と蟻ほどの違いがある。まるで勝負になっていない。
「何なんだあいつは? 強化人間……なのか?」
「いいえ、生身よ」マギーが肩をすくめる。「それが彼の最も恐ろしいところね」
男たちの恐怖と絶望が、生々しい汗の臭いとともにここまで伝わってくるようだった。
男たちは皆自分が流す血の海に倒れ伏し、今や鉄仮面と対峙しているのはリーダー格の男だけだった。さすがと言うべきだろう、顔中に汗の粒を浮かべながらも彼だけは冷静さを失っていなかった。大型の杭打ち用ハンマーを構える姿にも隙はない。
龍一でさえ瞠目せざるを得ないスピードでリーダーはハンマーを振るった。しかも鉄仮面の上半身ではなく、あえて脚部を狙っている。まず体勢を崩しにかかったか。
が、鉄仮面は慌てた様子もなく、無造作に蹴りを繰り出した。
それだけでハンマーが弾き返された。しかも弾き返されたハンマーは持ち主であるリーダーの顔面を襲い、粉々に叩き潰した。飛び出た目玉と、鼻血と、折れた歯が宙を舞い、糸が切れたように彼は尻餅をつく。痙攣のように手足をばたつかせてはいるが、もはや戦える様子ではない。
観客がここぞとばかりに声を張り上げ、床を踏み締める。
『ドタマかち割れ! ドタマかち割れ!』
別にそれに応えたわけでもないのだろうが、鉄仮面は掌を突き出し、男の頭蓋を卵のように握り潰した。
ブリギッテがうがいでもするような異様な音を口から漏らし、その場にうずくまった。かろうじて堪えはしたが、とても声が出せそうな様子ではない。ディロンがおろおろとその背をさすり、介抱している。下心もあるのだろうが本気で心配しているのも確かなようなので、そう悪い奴ではないのかも知れない。
「彼らは取引の失敗で空けた『穴』を、自らの命で贖った」マギーは楽しげに言う。童女のような口調であり、それがかえっておぞましかった。「さて、あなたたちは何を持って贖いを?」
「……最初から全部知っていて、俺たちをここに招いたんですね」
心外だわ、とマギーは宙を仰いでみせる。「あなたたちが自分から掘った穴に、自分で飛び込んだのよ。私が卑劣な罠を仕掛けたような言い方はやめてほしいわね」
反論のしようがない。
「それに、必ずしも咎め立てしようというわけではない。あなたたち次第でね」
「どういう意味です?」
「チャンピオンと戦って勝てれば一人分の命。闘技場の全員と戦って勝てば、あの子供も含めて全員の命が助かるわ」
「上等だ」
結構、と龍一はしごく寛大に考えた。俺の実力なんていくらでも見せてやろう──嫌だと言うまで。だがアレクセイとブリギッテは駄目だ。
だから反射的に口にしていた。「その二人の対戦相手を俺に換えろ。勝ち抜き戦だろうがバトルロイヤルだろうが、全部俺が相手してやる」
「龍一……」
「難しく考えるな。元は俺の撒いた種なんだ」顔を上げるアレクセイと、顔を上げたもののまだ声が出ない様子のブリギッテに、龍一は無理に笑ってみせた──そうするしかないから、そうするしかなかった。「それにマダムの言う通り、身を守るのは俺の得意分野だからな」
何か言おうとしてまたうずくまってしまったブリギッテと、その背をさすっているディロンを横目にアレクセイは考える。自分が先ほどから感じている「嫌な予感」について。
何が対象かはわかっている。あの鉄仮面だ。あの巨躯、あの耐久力、そしてあの人間離れ、いや、化け物離れした膂力──あれでは、まるで龍一だ。
あいつからはひどく危険なものを感じる。しかし、今はマギーの策に乗るしかない──アレクセイはちらりとマギーを伺う。
マギーは何も言わず、ただ黙ってデスクの向こう側から龍一を、龍一だけを見据えていた。馬鹿にした様子ではない、むしろ探るような静かな眼差しが、かえって気に入らなかった。
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