アルビオン大火(5)影のない男

「最近調子が良いじゃないか、ブリギッテ」

 放課後、練習前に弓のチェックをしていた彼女にバグリー先生が話しかけてきた。「成績が向上しているだけじゃない。今の君は何というか……表情にも張りがあるよ」

「そうでしょうか? 特に意識はしていないのですが」

「うむ、では、先日の反省文がそんなに効いたかな?」

「……それはおっしゃらないでください」苦笑いしながらブリギッテは弓を持ち上げる。「でも、そうですね。私、目指すものが見つかったのかも知れません」

「ほう?」興味深そうな顔のバグリー先生に微笑んでみせてから、彼女は改めて標的に向き直る。

(そうね、もしかしたら私、なりたいものを見つけたのかも知れない……)

 目視よし、風による射線への影響はなし。

(そうだ、きっと私は……)

 矢を放つ。狙い違わず、標的の中央に突き立つ。

!)


【同時刻──ロンドン警視庁スコットランドヤード・科学捜査研究所ラボ】

「何だ、お前ら……おい、何をやってやがるんだ!」

 スタッフから進捗を聞くべくラボに足を運んだオーウェンは、あまりのことに怒声を上げてしまった。先日の地下鉄で発生した〈ブラックドッグ〉に関する押収物の一切を、ロボットのように無表情な男たちが次々と運び出しているのを見てしまったからだ。「やめろ! それは捜査資料だぞ!」

 彼は男たちに掴みかかったが、邪魔をするなと言わんばかりに振り払われただけだった。

「オーウェン、来たのか!」巨体を揺らしながらランディが走り寄ってきた。彼もたった今泡を食って駆けつけた風情だ。

「ランディ、この様は何だ!?」

「訳がわからないよ。軍からの接収命令が来たんだ……これは横流しされた軍用兵器を利用したテロで、軍警察が捜査すべき案件だってな」

「ふざけているのか! テロならなおさら警察の管轄だろうが。一歩間違えば大惨事になるところだったんだぞ!」

「そう、大惨事になるところであり、国家の信頼を揺るがしかねない一大事だからこそ我々の管轄になったのですよ、オーウェン・リッジウッド巡査部長刑事」

 フルネームを呼ばれ、オーウェンは凶悪な表情で振り向いた。視線の先で色褪せた金髪の青年が微笑んでいる。まだ三十手前の若さで、早くも官僚臭さを漂わせている。一瞥しただけで気の合わないタイプだ、と直感した。

「あんたは?」

「イギリス陸軍憲兵大尉相当官、ネイサン・ボイドです。巡査部長刑事殿、これを軍の専横と解するのは私どもとしてもいささか心外ではありますよ。既にロンドン警視庁ヤードには我々の『上』から通達が行っておりますし、そちらの警視総監殿からも合意を得てはいますからね」

 オーウェンは噛みつきそうな目つきで周囲を見回した──が、味方は誰もいなかった。気まずそうに目を逸らすか、急に手元の仕事が忙しくなったふりをする者ばかりだ。

 視線でこいつの眉間に穴が開けられるもんならそうしてやりたい、と言わんばかりにオーウェンは若い憲兵大尉を睨みつける。「何の権限があって軍が!」

 なだめるような首の振り方が余計に気に入らなかった。「それはもう、国からの通達ですよ。お互いにそれが理解できないほど初心じゃないでしょう?」

 口論している間にも、傍をキャスター付きの架台に乗せた『押収物』ががらがらと通過していく。四肢を固定された〈ブラックドッグ〉の検体だ。

 オーウェンは奥歯を力の限り噛み締めたが、こんなロボットみたいな奴に腹を立ててもそれでどうなるものでもないことは自分でもわかっていた。警官になってもう二十年近くになるのだ。

「こんな横着がそうそうまかり通ると思うなよ、坊やボーイ……!」言い捨てて踵を返す。背後からランディが追ってくる気配。

「オーウェン! これはもう事実上の捜査中止命令だぜ、どうするつもりだ?」

「別ルートから攻める。肝心の〈ブラックドッグ〉が持ってかれたんなら、に話を聞けばいい」

「まさか……ブリギッテ・キャラダインを尋問するってのか! 本気で言っているならあんたにつける薬はないからな、オーウェン。相手は未成年で、しかも女王陛下に近々お目通りが叶おうっていう良家の子女なんだぞ!」

「だから容疑者リストから外せって本気で言っているのなら、お前にこそつける薬がないな。それに彼女が良家の子女なら、俺のご先祖様だって由緒正しい高地人ハイランダーだぞ」


「お待たせ、龍一、アレクセイ。……あら、結構素敵なオフィスじゃない!」

 ソーホー近くのオフィスビルの一室にブリギッテが姿を見せたのは、その日の午後だった。学校帰りなので服装も、モスグリーンを基調としたブレザーに臙脂色のネクタイ、チェックのスカートという制服姿である。

 タブレットを操作していたアレクセイが顔を上げる。「しばらく腰を据えると決めた以上、そろそろ僕らもそれなりの拠点が必要だと思ってね。手頃な物件があったから買ったんだ」

 龍一もデスクを動かすのをやめて片手を上げた。「夜逃げしたIT会社の持ち物件だったらしくてな、残ってたホワイトボードやデスクも込みで、アホみたいな値段で譲ってもらった。まあ、いざって時すぐに引き払えるよう、あんまり大したもんが置けないのは痛いけど」

「なるほどね。それで、その身分はどうしたの?」

「あー、それは何というか、無から発生させたというか……」

「偽造したのね」彼女は半目になったが、すぐにっこり笑った。「でもまあ、いいわ。私もこうして通報もせずにあなたたちといる以上、立派な『一味』ですものね。さあ、何から始めましょうか?」

 龍一とアレクセイは顔を見合わせる。「……どうも調子が狂うなあ」

「いかに僕たちが犯罪者としか付き合ってこなかったかという、いい証拠だね」

「仕方ないだろ。善意の市民からすれば、俺たちは立派な通報対象なんだぞ」

 ブリギッテが眉根を寄せて二人を見比べる。「二人とも何をぶつぶつ言ってるの? 日が暮れてしまうから早く始めましょうよ。ああ、もう暮れているんだけど」

「わかったよ、わかったって。……いや、だから何で君の方が乗り気なんだよ?」


「これまでにわかっていることを整理してみよう」アレクセイはホワイトボード(例の、夜逃げした会社の置き土産だ)にマジックを走らせる。デスクに並べられているティーカップとクッキーはブリギッテが持ち込んだものだ。彼女のお手製らしい。

 ①タンの証言では〈コービン〉は軍、あるいは警察の情報部員だったらしい

 ②同じくタンによれば〈コービン〉はマギー・ギャングについて調べていたらしい

 ③マギー・ギャングは地下で何かしているらしい

「加えて、以下のような疑問が発生してくる」アレクセイはさらに書き加える。

 ④その〈コービン〉がなぜブリギッテの写真を持っていたのか? そしてなぜ初対面のはずの龍一にそれを託したのか?

 ⑤〈コービン〉とブリギッテに執拗に送られてくる匿名メールの主は別人なのか?


「なるほど、つまり」龍一はつい腕組みしてしまう。「……どういうことだよ?」

「まあ、そうなるよね」アレクセイは苦笑している。

「何か関連はありそうだけど、どういう関連があるのかはまるでわからないわね」

 その通りだ、と頷きながら、龍一はクッキーを一口齧ってみた。ジンジャーが効いているのか、甘さ控えめで龍一の好みだ。

「黄昏るのはまだ早いさ。〈コービン〉の素性は明らかになりつつある」

か」

「あの場であの少年が嘘を言うと考えるのも、その必然性も薄い。実のところ……考えなかったわけじゃない。フリーの情報屋にしては彼の売買する情報は確度が高すぎたんだ。それこそ、国がバックについているんじゃないかと勘繰りたくなるほどに」

 聞きながら龍一は紅茶を一口啜る。これがまた信じられないほどおいしい。こんなものを毎日飲めるんなら英国人になるのも悪くないなと馬鹿なことを考えるほどだ。ブリギッテは「近所で買える、ありふれたものよ」と笑うが、だったら俺が今まで飲んでいた紅茶は何だったんだ?

「それで、アレクセイ。〈コービン〉の本名が割れたんだって?」

「ああ。複数の同業者から証言を集めた結果、判明した。かなり注意深く秘匿されていたけどね。やはり情報を流すのが商売である以上、完全に隠すのは無理だったようだ。不透明な部分はまだまだあるけどね」

「ある意味じゃ堅気より信用にうるさい世界だからなあ……」

「〈コービン〉の本名はジェレミー・ブラウン。ウェールズ出身、ハーバート大経営学科卒。そして興味深いことに……あの〈黒王子〉エドワード・コスティガンの同期生だ」

 次のクッキーに伸ばしかけていた手が止まってしまった。龍一にとっては、生々しい名前どころではない。

 ブリギッテが目を丸くした。「〈黒王子〉? ここでその名前が出てくるの?」

「君まで〈黒王子〉を知ってるのか?」

「今どき〈黒王子〉エドワード・コスティガンを知らない英国人なんていないわ」ブリギッテはやけにきっぱりと断言した。「昼下がりのニュースに出てくる使い回しのお茶っ葉より味気ないことしか言わないコメンテーターに比べたらよっぽど有名人よ。もしかして龍一、会ったことがあるの?」

「……それどころの騒ぎじゃないよ」何とも複雑な顔になったのが自分でもわかった。〈黒王子〉の死に、龍一たちは直接関わったわけではない──が、全く責任がないとも言い切れない。

 龍一の思いをよそに、彼女は俄然興味を掻き立てられたらしい。「ね、どんな人だったの? 手作りの潜水艇でカリブ海軍の駆逐艦を撃沈したというのは本当? ロボット駝鳥の群れを引き連れロケット砲を振りかざし、警察署に囚われた仲間を奪還したという噂は真実なの?」

「それを真に受けるのは君くらいじゃないかな……」何だか当初の印象の百倍くらいはミーハーな娘だ。ヒーローワナビーならぬ犯罪者ワナビーか。

「しかしそうなると、〈コービン〉が俺のことを知っていた可能性もなくはないな」まだ何か聞きたそうで欲求不満気味のブリギッテの方を見ないようにして龍一は呟く。

「そうだね。本当に彼らは疎遠だったのか、実はごく最近まで何らかの接触があったのか、疑ってみる必要がある」

「そして、手がかりは他にもある。龍一が彼から渡された、あの写真だ」

 アレクセイは机の上に写真を並べた。彼なりに調べてみたい、というのでしばらく預けてあったのだ。


 写真①白い生成りのワンピースを着た5、6歳らしき少女。一人は(ややすきっ歯気味の)歯を見せてカメラに向かって微笑み、もう一人はその後ろに隠れるようにして強張った顔を見せている。なお、二人の顔立ちはブリギッテに極めてよく似ている

 写真②鈍い金属の輝きを放つ分厚いドア。金庫か、あるいは防護シェルターへの入口のように頑丈そうな造りをしている。部屋番号や標識の類は一切ない

 写真③青々とした草原。風が強いのか、強風が草むらに風紋を描いている。地平には霧が立ち込め、その中に黒々とした影が見えるが、何かの建物か山脈なのかも定かではない

 写真④プレートに刻まれた、女神の横顔と盾がセットになった紋章。ただし、中央から走る亀裂で二つに割れている

 写真⑤何かの数字でびっしりと埋め尽くされた帳簿


「……これはこれで解読の難易度高いな。どういう判じ物だ?」

「一枚一枚検証していくしかないね」

「これ、私だわ……」ブリギッテが写真の一枚を手に取る。「どこで撮ったのかはわからないけど、確かに片方の女の子は私よ」

「確かかい?」

「確かよ。何となくだけど、わかるの。それ以外は、さっぱり思い出せないけど……」もどかしげに彼女はこめかみを押さえる。「子供の頃の記憶が……ないわけではないけど、ひどく薄いのよ。お祖父ちゃんやお婆ちゃんは、私が物心つくずいぶん前に亡くなったらしいし」

「子供の記憶なんて、そんなものだろう」本人としてもあまり楽しい記憶ではなさそうだ。龍一はわずかに話題をずらす。

「ブリギッテ、例のメールはまだ届いているのかい?」

「止んだわ。気は済んだ、と言わんばかりにね」

 それも不思議な話だ、龍一は首を傾げる。嫌がらせやストーキングにしても、意味不明すぎて恐怖や嫌悪を感じるどころではないだろう。

「こちらの草原は……どこかの草原、くらいしかわからないな。グーグルアースで調べようにも、手がかりがないとな。この国のものとも限らないし」

「後で分析してみよう。こちらの紋章は、どこかで見覚えがあるような……」

 ブリギッテが二つに割れた紋章の写真を手に取り眺める。「アテナテクニカのものに似ているわね。デザインの細部は違うけど」

「軍用ドローンを作っている会社だっけ?」龍一は地下鉄で出くわしたあの〈スパルトイ〉を思い出す。あまり愉快な思い出ではなかったが、言われればあれの胸部にも似たエンブレムがあったと思う。

「軍用ドローンに限らず、多角経営で女性用下着からデジタルカメラ、イージス艦まで何でも作っているわ。急成長を遂げたのは〈ソーホー戦闘区域〉の重点警備を国防省から依頼されて以降だけど」

「公表されている資料だけでも取り寄せておきたいな。ところで二人とも。この写真で重要な点があるのだけど、気づいたかい?」

 龍一はさっぱりだったが、ブリギッテははっと目を見張る。「私に送られてくるメールには、これと……これが足りないわね」

「そう。つまり、写真の中でも④と⑤はメールに添付されていない。もしこのメールの送り主が〈コービン〉と同一人物だったら不思議な話ではあるだろう? なぜこの写真だけ故意に送りつけなかったのか? 僕の予想ではこれは『送れなかった』のではないかと思っている。写真が手元になくてね」

「ということは写真の方がオリジナルで、メールはそのコピーに過ぎない……?」

「おそらく」

「結局のところ、全ては一点に収束するのね。〈コービン〉……ジェレミー・ブラウンとは何者だったのかしら?」

「まさかダウニング十番街のどこぞの部署に電話して『おたくの人員が関わってた濡れ仕事ウェットジョブについて教えてくんない?』と聞いてもまともには答えてくれないだろうな」

「それに、彼の属していたセクション自体も不明だからね」アレクセイは音もなくすっと立ち上がる。「だが手がないわけじゃない。実は、彼の使用していたアパートが一軒だけ割れたんだ。行ってみるかい?」

 アレクセイの言葉に龍一とブリギッテは顔を見合わせ、次の瞬間、大急ぎで紅茶とクッキーを片付け始めた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ちゃんとした方に見えたんですけどねえ、と女主人は肉のたるんだ顎を震わせて大袈裟に溜め息を吐いてみせた。「家賃は毎月遅れることなく払ってくださいましたし、奇声を上げて他の人に迷惑をかけることもありませんでしたし、ゴミも丁寧に分別して出してくださいましたし、そう悪い人とは思えなかったんですけど」

 ソーホーに近い安アパートが〈コービン〉ことジェレミー・ブラウンの当面の寝ぐらであったらしい、アレクセイにその情報をもたらしたのは同じ情報屋であった。基本、情報屋同士のコミュニティは狭い。同業者について軽々しく話す輩は同業者からも敬遠される。ジェレミーの住居が判明したのはほんの偶然からだった。

「何しろただでさえ私どもも経営が左前でございますから、お使いになる方の素性もそう詳しくは聞かないことにしていますのでね? ですから本当に困ってしまって。あの方が3ヶ月も家賃を滞らせるなんて初めてですのよ。当のミスター・ブラウンと連絡が取れない以上、部屋の処分も勝手にはできませんし……」

 はあなるほど、と龍一は女主人の説明(あるいは怒涛のお喋り)に生返事をした。不動産会社から依頼を受けた調査員という態なので龍一もアレクセイもスーツ姿である。二人とも押し出しはかなりのものなので、成人用のスーツでも何ら問題はない。が、肝心のブリギッテは、

「それにしてもそちらのお嬢さん、どちらかで見かけたことがあるような……」

「マダム、マダム、ありがとうございました、少し時間がかかるので下の階でお待ちいただけますか?」

 なおも喋り足りないといった風情の女主人が退室すると、三人は一斉に安堵の溜め息を吐いた。

「あの女性、ほっとくと俺たちの結婚相手まで世話してくれそうだな……」

「偽造身分も取り急ぎのものだったし、どこまで信用してもらえるかと思っていたけど、杞憂だったね」

「私、あの女の人にすごくじろじろ見られていたわ……」分厚い眼鏡と女性用スーツでキャリアウーマンに変装したブリギッテは落ち着かなげに眼鏡の位置を直している。「ねえ龍一、私の変装、そんなにおかしかった?」

「……君の場合、問題は変装の上手下手以前にある気がするな」正直、かえって目立っていると思う。

「それにしても、ここが本当に〈コービン〉のヤサなのか……?」

「何もないわね」

 なるほど一通りの家具はある。型落ちの液晶テレビ、うっすらと埃が積もったIHコンロ、作業机と食卓を兼ねているらしい小さなテーブル。が、生活感がない。ゴミ箱の中は綺麗なものだし、冷蔵庫の中を見てみても申し訳程度の調味料がある程度で、生鮮食品はない。少なくともこの部屋からは、持ち主の愛着なりこだわりなりは微塵も感じ取れなかった。

「本当にただ寝起きするだけの場所だったようだね」

「彼が本物のスパイだったら、手がかりを残すようなヘマはしないんじゃないかしら?」

「実際、俺たちの前にも先客がいたようだしな」龍一の視線の先、積もった埃の層に家具を動かした跡がある。

「本当にこんなところで暮らせるのかしら?」

「暮らせはするだろう。俺もアレクセイも、この類の住居にゃ何度も世話になった」最低の生活水準に耐えられればだが。

 想像したくもないわね、とブリギッテが身震いしながら歩く。「いやだ、このあたりの床、何だかべこべこしているわ。腐った木の床なんてディケンズの小説でもないのに……わあ!」

 彼女が素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、ヒールの先端が床の裂け目に入り込んでバランスを崩したからである。埃とべたべたの積もった床に彼女がキスするのを防ぐため、龍一は反射的に彼女を支えなければならなかった。

「あ、ありがとう……どうもあなたの前だと調子が狂うわね」

「それは俺のせいじゃないような……うん?」

 龍一の目が、床の割れ目の間にある何かを捉えた。くすんだ室内にそぐわない鮮やかな色彩。

 腕を突っ込もうとするが、龍一の腕では太くて入らない。

「どいて。私がやるわ」レディススーツの袖をまくり上げ、ブリギッテは容易く割れ目の奥から何かを掴み出す。どうやら何かの広告のようだ。

「これは……」


「このあたりのはずだけど……合ってるよな?」

「住所は間違いないと思うわ。標識も看板も掲げてないけれど」

「本当にここ、店なのかな……ただの民家じゃないのか?」

 陽が傾き始めた下街は大通りなのに人影が少なかった。近所の人に聞こうにも、住民の姿がない。どころか、通行人や通りに面する民家の窓から龍一たちに注がれる視線は、あまり好意的なものではなかった。

 しかし途方に暮れていても仕方がない。「……入ってみよう」

 年代物のドアを開けると、軽やかなドアベルの音色が響いた。店には違いないようだが。

 暗がりに目が慣れてくると、店の内装が見えてきた。

「へえ……」

 龍一はつい感嘆の声を上げてしまった。意外に掃除の行き届いた棚に、精巧に塗装を施された大小様々の模型とフィギュアが並んでいる。突撃寸前のコサック騎兵、いささか古めかしいデザインの宇宙船、転げ落ちた自分の目玉を追いかけるコミカルな風貌のエイリアン、翼をつけたら空でも飛びそうなスーパーカー。いずれも今にも動き出しそうだ。

「よく来たな。あの広告はあまり数を刷らなかったはずなんだが」

 しわがれた声が響き、店の奥のカーテンをかき分けてしなびた老人が顔を覗かせた。白髪は肩に届くほど伸ばしているのに、頭頂部には申し訳程度にすら髪が生えていない。この寒空に色褪せたシャツと薄手のカーディガンしか着ておらず、見ているこちらが寒そうだが本人は気にしてもいない。人を見かけで判断するのはよくないけど偏屈な模型店の店主、と言われればそんな気がするなと思った。

「ええと……あなたがここのご主人、ですか?」

「ああ。民家にしか見えない模型店のな」

「……すいません。聞こえてましたか」

 店主は肩をすくめる。気を悪くした様子はない。「まあいいさ。こんなあばら屋じゃ防音も何もあったもんじゃない。それで? お前さんたちも、ジェレミーについて聞きに来たんだろう?」

 まさか先手を打たれるとは思わなかった。

「『お前さんたちも』ということは、既に先客があったんですね?」

「ああ、いけすかん連中だったよ。アメリカ人が言うところの『黒服のお兄さん方メン・イン・ブラック』だ。全身からいかにも人に好かれなさそうな役人臭をぷんぷんとさせておったな」

 やはりジェレミーは軍ないし警察の調査をしていたのだろうか。

「お前さんたちは、また毛色が違うな。そっちのでかい兄ちゃんたちは安物のスーツが身体に合ってなくてつんつるてんだし、あっちのお嬢さんに至っては成人ですらないだろう。どう見ても女学生だ」

 図星だった。ブリギッテはまたもや赤くなったり青くなったりしているが、どうやら変装技術を学び直す必要があるのは彼女だけではなさそうだ。

 心なしか、老人の皺深い顔に影が差した。「なあ、正直に言ってくれんかね。お前さんたちみたいのが訪ねてくるってことは、ジェレミーはもう、生きてはおらんのだろう?」

 龍一は何も言わなかった──言えなかった、の方が近いかも知れない。それだけで店主は全て察したようだった。「あいつが真っ当な仕事をしていたなんて信じてさえおらんかったよ。どうせ墓にも埋められんような死に方だったんだろう?」

 これもまた頷くしかない。

「〈コービン〉は……ブラウン氏はあなたに具体的な仕事の内容を話していましたか?」悄然としてしまった龍一とブリギッテに代わりアレクセイが尋ねる。

「いや。だが何となく察せるもんはあったな。警官やマフィアよりおっかない連中と付き合ってるということはな。これでも俺は、あの二人が鼻たれだった頃からの知り合いなんだぞ」

 龍一は模型やフィギュアの並ぶ棚を見、幼いジェレミーと幼いエドワードが目を輝かせてそれに見入る様を想像しようとした。ずっと昔、彼らが〈コービン〉でも〈黒王子〉でもなかった頃の光景を。

「こう言うとつくづく老いぼれた気分になるが、あの頃はよかった。あの坊主たちも毎日のように訪ねてきて退屈せんかったし、息子夫婦が金ばっかりかかって何の儲けにもならない商売なんて商売じゃないとぬかして出ていくなんてこともなかった」

 老人の口元にほろ苦い笑みが浮かんだ。ほろ苦い、としか表現できない笑みだ。

「やたらと要領の良かったエドワードに比べると、ジェレミーは内気な子でな。風の噂じゃどこぞの貿易会社に就職したらしいんだが、働き詰めで身体を壊してやめてしまったとかで、ずいぶん長く便りを寄越さんかった。エドワードの方は株やら何やらで経済誌の表紙を飾るくらいに成功したんだが、成功したのがかえってよくなかったんだろうなあ。大損して、その大損を埋めるためにさらに無茶をして会社を潰し、結局は何もかも無くして、妻子にも愛想を尽かされてしまった。それから後のことは、お前さんたちの方がよく知っとるんじゃないかね」

 知っているどころの騒ぎではない。人に歴史あり、か。

「実は何週間か前に、ジェレミーがひょっこり訪ねてきたんだよ。こいつを預けにな……」

 店主は一度引っ込み、手に何かを抱えて引き返してきた。

「綺麗ね……!」ブリギッテが感嘆したのも無理はない。それはワインボトルに入ったボトルシップだった。風を孕んだ帆は膨らみ、水に浮かべずとも動き出しそうな躍動感がある。素人の龍一が見ても素晴らしい、精緻な出来だ。

「久しぶりに会ったジェレミーは、羽振りは良さそうだったよ。安物でない、オーダーメイドのコートなんぞ着おってな。だが痩せて、やつれて、あまり人生楽しそうには見えんかったな。そして俺に言ったんだ。こいつを預かってほしい、そして爺さんが信頼できる相手に渡してほしい、とな」

 店主は事もなげにブリギッテへボトルを手渡した。彼女は反射的に受け取ってしまい、慌てて返そうとした。「そんな……受け取れませんよ」

「お前さんたちでなければ誰に渡すんだ? あのいけ好かん黒服どもか? そしてジェレミーはこうも言ったんだ、渡す相手は慎重に選べ、、と」

「どういう意味かしら……?」

「さあな。それがわかるようなら、俺の人生ももう少し面白おかしいもんになっていたよ。そうでない以上、お前さんたちに渡すのも悪くない」

 それだけ言うと、店主は踵を返した。小柄な体躯が、さらに縮んだように見えた。


「〈コービン〉の生い立ちは多少わかったように思えるけど、それ以外はさっぱりだったな」

「収穫がないともあるとも言える微妙な結果だね……」

 収穫と言えばこのボトルシップくらいね、とブリギッテは瓶をしげしげと見つめている。よほど気に入ったらしい。「あのオフィス、少し殺風景すぎるからインテリアにちょうどいいわ。やっぱりデスクの上? ああ、でも入り口から入ってすぐ見えるようにするのも悪くないわね……」

「……ブリギッテ。俺にもそれを見せてくれ」

「え? ええ、どうぞ」

 受け取った瓶を龍一は凝視する。

 まず全ての先入観を一度捨てて考えてみよう──〈コービン〉ことジェレミー・ブラウンは俺のことを知っていた。〈黒王子〉エドワード・コスティガンから聞いたのか、それとも彼の追っていた案件に関わりがあるのか、そこまではわからないが。

 そして彼は俺とブリギッテを遭わせようとした。彼にしかわからない理由で。

 では、これは彼から俺へのメッセージではないのか。〈コービン〉は俺の人となりを予測していたからこそ、あの店主にこれを託したのではないのか。

 だとすれば、俺が次に取るべき行動は何だ?

「下がってろ」言うが早いが、龍一はボトルシップを振り上げ、

「龍一?」

「……すまん」

 力一杯床に叩きつけた。

「何てことするの!?」驚愕するブリギッテをアレクセイが制する。だが龍一はそちらに目もくれず、床に散らばったガラスと木の破片をひたすら掻き分け続けた。

 やがて、その指先が異質な金属片を摘み取る。

 メモリーチップだ。

「あった」

 まるで恐ろしいものでも見るように、ブリギッテが身をすくませたのがわかった。

「これを渡したかったのか、〈コービン〉は……」アレクセイでさえ、興奮を隠し切れていなかった。「過程はどうあれ、大金星だよ、龍一」

 だが、龍一の疑問は膨れ上がる一方だった。一度も会ったことのない〈コービン〉、本名ジェレミー・ブラウンが龍一を熟知していた理由は判明しつつある。しかし、では、彼が龍一に期待していたものとは何なのだ?

 もしかしてジェレミー、

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