アルビオン大火(4)地下疾る凶犬
「そっちのそびえ立つチンカス二人は、まあ、見たまんまのごろつきだからどうでもいいとして」
龍一とアレクセイをひとまとめに評しておいてから、小柄なガスマスクはブリギッテの方に胡乱そうな視線を送る。「何なんだよ、この……そこらへんの路地をちょっと歩いただけですぐ何かの餌食になりそうなパツキンのチャンネーはよ?」
「ええと……それがあなたの私への評価?」
「だいぶ辛辣だね」
「辛辣っていうか、当たってるけどな」
ブリギッテがそれこそ辛辣な視線を龍一たちへ向ける間に、ガスマスクはくぐもったようなおかしな呼吸音を立てた。どうやら笑ったらしい。「まさか女ポリってこたあねえよな。アーチェリー使うポリ公なんて聞いたこともねえ。第一、女ポリにしちゃ別嬪すぎるし、間抜けすぎらあ」
別嬪で間抜けと評されたブリギッテが青くなったり赤くなったりしているのを見かね、龍一は助け舟を出す。「説明すると長くなるんだが、俺たちは人探しをしていてな。ブリギッテ、あれを」
「え? ああ、ええ」弾かれたようにブリギッテがスマートフォンを取り出す。「この人に見覚えはない?」
アプリで作成したあの男の似顔絵に、ガスマスクが一瞬、確実に動揺したのを龍一は見逃さなかった。「……参ったな。そっちの客かよ」
「見覚えがあるんだね?」
「こんな可哀想な目のおっさん、そうそう簡単に忘れるかよ……まあいいや。もうちっとは空気のマシなところで話してやるよ。あんたらもそっちの方がありがたいだろ」
「それは助かる……」臭いはもう鼻の方で慣れてしまったくらいだが、息苦しさはどうにもならない。
こっちだ、と言ってガスマスクは先頭に立ち歩き始めた。やはり今までの下水道に比べて明らかに違うな、と龍一は気づく。足元がぬるぬるせず、空気もましになっている。
「それで、君のことを何て呼べばいいんだ?」
「タンでいい。ここらへんじゃそれで通ってる」
ブリギッテが訝しげに聞く。「……それがあなたの名前? 苗字は?」
「あるわけねえだろ。その名前を付けたお袋はとっくにくたばったし、親父は俺が目を開ける前に出て行ったよ。今頃何してんだか。まあ、名前があるだけでもありがたいかな……この界隈じゃ、名付けられる前にくたばる奴なんてそれこそ腐るほどいるんだぜ」
ブリギッテは傍で見て気の毒になるほど真っ青になった。「児童福祉施設は? ソーシャルワーカーは何をしているの?」
「あいつらがこんなくっせえところまで来るかよ。一度そーいう施設に入れられたことはあるけどよ……3日と経たずに鼻息荒くした職員の豚野郎がのしかかってきたから、金玉をぶっ刺してその勢いで逃げてきたんだ。昼間のうちにキッチンから鉄串をくすねておいて正解だったぜ」
もはやブリギッテは言葉もないようだったが、龍一はさもありなん、と思うだけだった。さもありそうな救いのない話であるのが問題なのだが。
また鼻で笑う音が聞こえた。「そんなに驚くことか? 黒人と中国人の間に生まれた何の係累もないガキがどんな目に遭うかなんて、そっちのチャンネーはともかく、アジア人のあんたらならすぐわかるだろ?」
『タン』は中国語からの当て字で『丹』か。「それで、ここにずっと暮らしているのかい?」
だがタンは立ち止まると龍一を頭のてっぺんから足の爪先まで無遠慮にじろじろ眺め回した。こんな血の巡りの悪いでかぶつが今までよく生きてこられたな、と言わんばかりだった。「舐めてんのか? こんな日当たりの悪い水も空気も腐った場所で人間が暮らせるわけねえだろ? 頭ん中にチンカスが詰まってんのかと思ったらお前自身がチンカスだったみてえだな。それとも、お前、チンカス星からやってきたチンカス王子か?」
「わかったからいちいち悪態を吐くのは勘弁してくれよ……俺、ごろつきだのけだものだの散々言われたけど、こんな立て続けにチンカス呼ばわりされたのは生まれて初めてだよ」
「形無しだね……」タンの口の悪さにアレクセイは呆れるのを通り越して感心している。
ブリギッテがたまりかねて口を挟んだ。「あなたね、その……四文字言葉を交えないと会話ができないの?」
「へっ。四文字言葉を交えず会話ができるなんてお幸せな人生だな」
「つまり君はここで暮らしているんじゃなくて、必要な時にだけここへ降りてきているんだね?」またもや絶句してしまったブリギッテに代わりアレクセイが尋ねる。
「お前は他の奴らよりちっとは頭が回るみてえだな。そうだよ、何しろここにはメンテナンス要員だって半年に一度くらいしか来ねえんだ。大切なブツを隠すにゃうってつけってわけさ。ま……最近はそれも怪しくなってきたけどな」
「というと?」
「それも含めて話してやるよ。さ、着いたぜ」
タンが立ち止まり、龍一たちは改めて周囲を見回し、一変した景色に驚いた。非常灯は明るく、天井も壁も床も乾いたコンクリート造りであり、何より下水が流れていない。どこかに換気口でもあるのか、微かな空気の流れさえ感じ取れる。
「信じられない! ここが下水道なの……?」
「ロンドンの地下には秘密の地下道があるなんて、都市伝説かと思っていたけどまさか実在したとはね」アレクセイでさえ驚嘆を隠せていない。
が、タンは鼻先で笑っただけだった。「そんなご大層なもんかよ。単に作ってる途中に予算の都合で打ち切られただけかも知れないぜ。ま、俺も全部知ってるわけじゃないがな」
「君もそろそろガスマスクを脱がないか? 余計なお世話かも知れないが、話しづらいだろう」
だがタンは頑として首を振った。「嫌だね。家族でもダチでもないお前らに俺様の素顔は晒せねえ。少なくとも俺はお前らのツラを覚えておいて、こじれ次第お前らのヤサに生ゴミだの鼠の死骸だの手榴弾だのを放り込むつもりだからな」
「勘弁してくれよ……」
「この国に来てから僕ら、言われっぱなしだね」
「まあ、大抵は罵倒するよりまず殺そうとしてくる奴らばっかだしなあ……」
「あなたたちはあなたたちでどういう人生なの?」
「……さて、話の前に払うもん払ってもらおうか」
「お金取るの?」信じられない様子のブリギッテを制して龍一は10ポンド紙幣を取り出す。「手持ちがあまりない。これでいいか」
龍一の指先から紙幣がかき消えた。まさに瞬きする間、だった。「へっ、わかってるじゃねえか。小洒落た電子マニーなんかで払おうとしたら、唾引っかけてやったところだ……お前はチンカスだが、チンカスにしちゃ上等な方ってのは認めてやるよ」
「チンカス呼ばわりは変わらないのか……?」
「細かいこと気にすんなよチンカス。で? 何から聞きたい?」
「その『可哀想な目のおっさん』についてだ」
「いいぜ。ただし、俺も大したこたあ知らねえ。初めに言っとかないと、後から『金返せ』って言われても困るしな」タンは腕組みして壁にもたれた。「ちょうど去年の今頃だったかな……貯めておいたブツを取りに来て、鉢合わせになったんだ。驚いたよ、この俺が人の気配を読み損ねるなんて生まれて初めてだったからな。おっさんはおっさんで驚いてたけどな……こんな地下道で子供に出くわすなんて思ってもいなかったんだろうが。で、そん時は逃げた。いい奴だろうと悪い奴だろうと、大人と関わったってろくなことはないからな」
「ふむ。それで?」
「俺は前より注意深く歩くようになった。姿は直接見かけなくとも、おっさんが俺を探していることはわかった。小声でだけど、呼びかけられることもあった。危害を加えるつもりはないとか、何もしないとか……真には受けなかったけどな。『何もしない』って言われて、何もされなかったためしがないしよ」
龍一は何ともやりきれない気分になったが、黙って頷いた。
「何週間か経っておっさんは俺を探すのを諦めたけど、代わりに何かしらを置いていくようになった。スパムの缶詰とか、ミネラルウォーターとか、そんなもんをだ。動物愛護感覚だったのかも知れないが、俺にゃありがたかった」
「彼は何をしていたと思う?」とアレクセイ。
「さあな。実は一度こっそり後をつけてみたことがあったんだが、すぐ撒かれちまった。ただ、あんなくっせえ下水道を、ただの散歩でもねえだろう。何か目当てがあるようには見えたぜ、何かはわからねえけどな」
「あなたはいつ頃から、どうしてその人に気を許したの?」
タンは肩をすくめた。「それこそさあな、だ。ただあんまり長いことうろちょろしてたもんで、いちいち用心するのが面倒臭くなっちまったってのもある。そのうち、たまにだがおっさんは俺のいるところでメシを食ったり休んだりするようになった。思い切って、こんなひでえところで何してんだって聞いてみたら、おっさんは少し笑って言った。『ダウニング十番街からの頼まれ仕事だ』って」
ダウニング十番街。
傍らにいたブリギッテが小さく息を吸った。龍一の頭の中でも何かが音を立てて嵌まる音が響いた──英国事情に疎い龍一ですら聞いたことがある、世界一有名なスパイの職場がある場所だ。
もちろんあの男、〈コービン〉がタンに真実のみを告げたとは限らない。単なるふかしの可能性は充分にある。だが──
アレクセイが後を引き継ぐ。「それで、その人は他に何か?」
「俺にこの下水道には詳しいのかって聞いてきた。俺が目をつぶっても歩けらあ、と言ったら、じゃあマギー・ギャングがたむろしている場所を教えてくれって」
「マギー・ギャング?」
「ロンドンに暮らしていてマギー・ギャングを知らなかったら、新聞にもテレビにもネットにも無縁な人ね」ブリギッテが断言する。「おおよそ『
「なるほど。しかし、そのマギー・ギャングが地下で何を?」
「わかんね。確かに奴ら、以前からしょっちゅう下水道を使って何かブツを運んでる気配はあったけどな。俺が、奴らかなり用心深くて取引の場所もそのたんびに代えやがるって言ったら、じゃあ可能性の高そうな場所を教えてくれって言われた。それっきりだ。……なあ、おっさんは今どうしてんだ? くたばったのか?」
何かしら察するところはあったのだろうか。
ブリギッテが唇を噛んで黙り込む。アレクセイまで、一瞬言葉をなくした。それだけで、少年には察するものがあったようだった。「そうか。まあ……見るからに長生きしそうにない可哀想な目の可哀想なおっさんに見えたからな」
鼻声を隠し切れていなかった。彼がガスマスクを脱がない理由が新たに加わったが、龍一はあえて気づかないふりをした。「他には?」
「ねえな。俺が知ってるのはそれだけだ」
咆哮が轟いた。
全員が凍りついた。あの〈ブラックドッグ〉が全身から汚水とともに滴らんばかりの悪意と怒気を撒き散らし、牙を剥き出しにしていた。
「つけられたな……!」
あの臭気の中で、龍一たちの臭いを嗅ぎつけるとは驚くべきことだ。
意外にもまずタンが反応した。腰のスプレー缶を構え、両手に構えて噴射する。赤と青のスモークがもうもうと地下道を覆い尽くした。
「俺は先にフケるぜ。そっちの道をまっすぐ行けば地上に出られる。間違っても寄り道とかすんなよ、一発で迷うからな」
「待ってくれ! まだ聞きたいことが……」
「ここで別れようぜ」煙幕の向こうから笑い声。「その方がいいだろ。俺も地獄の悪魔じゃないからよ、誰かに裏切られるとつれえんだわ。お互いを気に入る前にさよならしようや。じゃあな、チンカス」
タンの気配がかき消えた。迷っている暇はない、
「走れ!」
龍一が呼びかけるまでもなく、アレクセイもブリギッテも全力疾走に移っていた。
行く手に腰をかがめなければ通れないような非常用のドアがある。「どいてろ!」
薄いドアを、龍一は一蹴りで蹴破った。申し訳程度の蝶番が根元から外れ、ドアはあっさりと向こう側へ倒れ込む。
だが次の瞬間、龍一はのけぞった。耳をつんざく轟音とともに、その鼻先を大音量の何かが通り過ぎる。
「信じられない……!」ブリギッテは怒りのあまり言葉さえ出ない様子だった。「あの子、私たちを囮に使って逃げたのね!」
「考えるのは後だ、行くぞ!」次の地下鉄が来ようものなら、世にも悲惨な死に方を遂げかねない。「ブリギッテ、この時間帯は何分間隔で来る!?」
「今は帰宅ラッシュだから……十分と経たず次が来るわ!」
「聞くんじゃなかった……」
「線路には絶対触れるな。高圧電流が流れているから、一瞬で感電死するよ」
「おい、もっと何かこう明るいニュースはないのか!?」
三人とも必死の形相で線路の上を走る。足元の線路がびりびりと震え始め、鋭い警笛に〈ブラックドッグ〉の怒りに満ちた咆哮が重なった。
最悪だ。
ついに行く手に、駅のホームの照明が見えてきた──文字通り希望の光だ。
「顔に巻くんだ!」龍一とブリギッテに向け、アレクセイが顔認証を妨害する特殊布を投げる。走りながら顔に巻く──ますます犯罪者の見かけになってしまったが。
ホームの端に立っていた駅員がまず目を剥き──必死で走る覆面姿の龍一たちと、それを背後から追いかける〈ブラックドッグ〉を見たのだから当然だ──警報ボタンを押すと、帰宅ラッシュ中の駅はパニックに陥った。親は子をかばって泡を食いながら逃げ、恰幅のいい紳士が尻餅を突き、空調をメンテナンス中の電気技師は道具箱を放り出して逃げる大混乱ぶりだ。
この大混乱に乗じれば、確かに逃げることはできそうだが──ちらりと振り返って、龍一は振り返ったことを後悔した。腰を抜かした老夫婦に、〈ブラックドッグ〉がにじり寄っている。
ああそうかよ。
蛇のようにのたうち回る〈ブラックドッグ〉の尻尾を素手で掴んだ。渾身の力で仔牛ほどもある戦闘犬を分胴のように振り回し、電光掲示板に叩きつける。プラスチックと火花が色とりどりに舞い散り、感電した〈ブラックドッグ〉が痙攣する。
(もういっちょ……!)さらに振り回そうとした龍一の全身を凄まじい衝撃が襲う。早くも立ち直った〈ブラックドッグ〉の体当たりだ。今度は龍一がバウンドし、柱に叩きつけられてしまう。
「が……!?」
どうにか身を起こしたが、口から勝手に吐瀉物が噴き出た。跳躍した〈ブラックドッグ〉が、全体重をかけてのしかかってくる。どうにか顎を捉え、押しのけようとするが、がちがちと噛み合わされる牙が喉元へじりじりと迫ってくる。まさにギロチンの刃だ。
逆さまになった視界に、あの老夫婦が互いにかばい合いながらよろよろと逃げていくのが見える。後は俺が逃げられれば万々歳なんだが──
「龍一……龍一!」
霞む視界に、複合弓を力一杯引き絞るブリギッテが映る。彼女は冷静ではなかったが、完全に取り乱してもいなかった。「そいつの頭を上げて!」
考えている暇はない。〈ブラックドッグ〉の顎を肘でかち上げる。のけぞった犬の口腔の奥深く──唸りを上げて放たれたブリギッテの矢が深々と突き刺さった。先刻の傷を抉るような二射目だ。
悲痛な咆哮が駅構内に轟く。龍一の顔面に血と涎がぼたぼたと降りかかってきた。今度こそ最後の力を振り絞り、巴投げの要領で戦闘犬の巨体を後方へ放り投げた。
しかし〈ブラックドッグ〉の戦意はなおも衰えていない。空中でどうにか体勢を整えようとし──その全身が硬直する。
アレクセイの〈糸〉がその身をがんじがらめに戒め、拘束していた。
奇妙に硬直した姿勢のまま、ホームに緊急停止しようとしていた車両の先頭へ吸い込まれていく。驚愕混じりの悲しげな悲鳴と、それを押し潰す破砕音。完全防弾装備など、車両自体の質量の前にはひとたまりもない。爪と牙と装甲で龍一たちを三人がかりで手こずらせた戦闘犬の、哀れを誘う最後だった。
「龍一!」
二人が駆け寄ってくる。大丈夫だと言おうとしたが声が出ず、龍一は代わりに手だけ上げた。
「ここから出ましょう。鉄道警備が殺到してくる!」
「……既にしているみたいだね」
ぽん、と奇妙に軽やかな音を立てて前方のエレベーターが到着した。左右に開いたドアから覗いたシルエットは、人間のものにしては大きすぎ、歪すぎた。
拠点警備ロボット〈スパルトイ〉だ。治安警備を意識してだろう、白黒二色に塗装されたボディの全面には、女神の横顔を象ったエンブレムが刻まれている。
『直ちに武装解除し、床に伏せてください。従わない場合、非殺傷武器による鎮圧行動を行います』白い骸骨そっくりのボディを持つ〈スパルトイ〉から、柔らかな女性の声を模した電子合成音が流れた。腕に装着したマルチランチャーがこちらに黒々とした砲口を向けている。前方の非常口、後方の階段からも別の〈スパルトイ〉が一歩一歩降りてくる。
逃げるにも出入口は塞がれている、複数方向から向けられる飛び道具に対する攻撃手段もない──
「走って!」
意外にもブリギッテが真っ先に行動へ出た。既に弦を力一杯引き絞っている。無茶だ、と言おうとして龍一は息を呑んだ。元と同じくらいに引き締まった横顔は、逡巡とも怯懦とも無縁だった。
狙い澄ました一射が放たれる。
気の抜けた発砲音とともに射出された煙幕弾が、矢に弾かれてあらぬ方向へ弾け飛ぶ音が連続して響く。まるで見当違いの方向へ転がって煙を噴き出す。信じられなかった。ブリギッテは一矢で二発の煙幕弾を弾いたのだ。
「行って、早く!」なおも矢をつがえながら叫ぶ彼女に、龍一は黙って頷く。
信頼を寄せられたのならそれに応えるまでだ。
地を這うように低い姿勢から距離を詰め〈スパルトイ〉の脚部を抱え込む。曲がりなりにもロボットだ、そう易々とひっくり返せる代物ではない。
だが龍一なら重心さえ捉えれば象でも転倒させられる。
気合一閃──バランスを崩した〈スパルトイ〉を頭部から床に叩きつける。まさに鉄塊を地べたに叩きつけたような轟音、ロボットの頭部が半ばほども床にめり込む。さすがの警備用ロボットも『逆さにされて床へめり込んだ際の脱出方法』などプログラミングされてはいまい。
僚機が破壊されても動揺など見せない他の〈スパルトイ〉たちが砲口を巡らせる。が、その全身が雷に打たれたように、不自然に痙攣して停止する。
「走れ! こちらで対処する!」アレクセイの声。
考えている暇はない。残りの最後の力を振り絞り、龍一は地上へ走った。
〈ブラックドッグ〉からの共有視覚が断ち切られ、男はそれこそ犬のような唸り声を上げてHUDを顔面から引き剥がした。「
「しくじったか。興奮すると御国の言葉が出る癖は変わらないな、〈
〈猟兵〉と呼ばれた男は黙ってペットボトルの封を切り、中身を半分ほど飲み干した。スコールを浴びたように濡れたタンクトップの下で、盛り上がった筋肉の束が蛇のように蠢く。ようやく人心地ついたように荒い息を一つ吐くと、コートの男を睨みつける。「あいつら……俺の犬を、あんな滅茶苦茶な方法で殺しやがった。どうかしてる」
「大したものだ。身体能力だけではない、命取りになりかねない警備システムを逆に利用して危機から脱するとは。地の利を活かしているな」
「敵を褒めてる場合なのか、〈
「有能な敵の方が無能な味方より好ましいじゃないか。
〈猟兵〉は鼻を鳴らし、もう一度ペットボトルを傾ける。今度こそ中身を飲み干した後の一声は、かなり落ち着いていた。「犬は潰れたが、奴らの臭気サンプルは収集できた。これと顔認証を組み合わせ、新しく精製した〈ブラックドッグ〉たちに流し込む」
二人の目が室内に幾つも立ち並ぶ、半透明の円筒に注がれる──正確にはその中に眠る、呼吸器とコードに戒められた〈ブラックドッグ〉たちを。
「HWの人格共有ネットワークを一部応用した、同一記憶と同一狩猟技能を持つ戦闘犬の大量生産か。素晴らしい……HWのシステムは複雑すぎて人間には応用が効かないが、動物なら充分というわけだ」
「一匹ずつ投入してじわじわと削られたのでは割に合わん。今度は群れだ。完成と同時に新たな攻勢をかける」
だがそこで〈猟兵〉の口調は苦く転ずる。「必要なのはわかるが気に入らんな。犬も人間と同じで、いろんな奴がいる。やたらと甘ったれた奴、やたらと我慢強い奴、馬鹿正直な奴、臆病な奴……それを一匹一匹見極めて矯めたり伸ばしたりしていくのが
「そう言わんでくれたまえ。我々には時間がないのだ」
「そうだな。何しろお前の部下たちと来たら、大の男を穴だらけにして死なせるのは得意でも、小娘一人さらうとなるとそこらのチンピラ以下だ。〈アンドロメダ〉だったか? ご大層なコードネームまで用意して、しくじりやがって」〈猟兵〉の口調に毒気が篭もる。「その穴だらけにした男にしたって、とどめを差し損ねて結局は相良龍一との接触を許したんだろう。挙句、こんなことになっている。違うか? もう少しましなことをやらせたらどうだ。差し当たっては、お前の家の庭掃除とかな」
「〈アンドロメダ〉確保の際の不手際は認める。彼らのミスは指揮官たる私のミスだ。だから、私の部下を侮辱するのはやめてくれ」うんざりしたように〈将軍〉は長々と息を吐き出す。「どうも何かがおかしい。あの〈コービン〉を……ジェレミー・ブラウンを始末し損ねてから、何かが狂ってしまった。我々は貴重な戦力を割いて自分たちの失敗を穴埋めしなければならず、その穴埋めすら上手く行っていない」
〈猟兵〉は鼻を鳴らしたが、どちらかとすれば同意的な仕草だった。「意に沿わない手段に頼るんだ、きっちり殺すさ」
「そう願いたいものだ。期待しているぞ。これで失敗すれば、今度こそ〈ペルセウス〉に頼らざるを得なくなる。首都の半分が焦土と化すぞ」
「よく言うぜ。あんたが心配しているのは俺の犬でも首都でもなく、〈ペルセウス〉そのものだろう?」
「だったらどうする? 切り札は最後まで取っておくものだ。大英帝国に栄光あれ」
「大英帝国に栄光あれ」幾分か投げ遣り気味に〈猟兵〉は返す。馬鹿げたしきたりだとは思うが許容範囲ではあるし、わざわざ口に出して『ビジネスパートナー』との関係を悪化させても意味はない。それがプロであり、大人の分別というものだ。
「龍一……私たち、あの子に何かしてあげられることはないのかしら?」
ブリギッテの目を見れば、あの子ってどの子だ、と聞き返す必要はなかった。「難しいな。行政に任せるのが一番なんだろうが、彼が行政そのものに不信感しか抱いていないからな。それに、俺たちだってお尋ね者なんだ。偉そうに説教はできないよ」
「そうね」ブリギッテは力なく呟いた。反論はしたいが言葉が見つからない、という顔だ。「……そうね」
テムズ川の対岸から龍一たちは駅を眺めていた。街の光と、殺到する警察車両のパトライト。けたたましいサイレンさえ気にかけなければ美しいと言えなくもない光景だ。が、
「大変な騒ぎになっちゃったわね」
「完全にならず者だったな俺たち」
「やむを得ない犠牲とは言わないんだね」
龍一とブリギッテから同時に睨まれて、アレクセイは両手を上げてみせる。「悪かったよ」
全員がその場で深々と溜め息を吐く。皆、一休みしないと逃げも隠れもできないような有り様だった。
「本当にひどい一日だったわね。屋根から屋根へ飛んだり地下に潜ったり、ギャングや犬や地下鉄や警備ロボットに追いかけ回されたり、おかげで埃まみれ汗まみれ汚水まみれよ」
「ついでに言えば、俺は犬の涎まみれだ」
ブリギッテはなおも怒ろうとしたが──途中で噴き出してしまった。つられて龍一も笑い、アレクセイまで苦笑い気味に笑い始める。
ひとしきり笑って、ブリギッテがすっくと立ち上がる。「そろそろ帰るわ。今日はね」
「また絡んでくるつもりなのかい?」
「できればどさくさに紛れて忘れてほしかったんだけどなあ……」
何てこと言うのよ、と彼女は口調だけで怒ってみせる。「いいこと? 私だってお遊びじゃないのよ。通報しない代わりに私を手伝ってもらう。これは公明正大な取引よ」
「ごろつきと殺し屋を捕まえといて、公明正大も取引もないものだよ……」
天を仰いでいる龍一の隣、アレクセイがポケットから何かを取り出す。「専用の直通回線だ。何かあったら使ってくれ。ただし、他の誰にも渡さないように」
「いいのか」
驚いて顔を見る龍一に、アレクセイは頷いてみせる。「ああ。僕も君に倣って、腹を括ってみようと思ってね。彼女の探し求めているものは、僕たちのそれと大差ないのかも知れない……まだ根拠は薄いけど、そんな気がするんだ」
「アレクセイ……ありがとう!」
目を輝かせるブリギッテからなぜかアレクセイは目を逸らし、「それに……何となくだけど彼女からは、夏姫とはまた別のベクトルの厄介さを感じるんだよ。悪い意味でのバイタリティの塊というか……」
「……それすげーわかるな。ここで適当に煙に巻いても、俺たちの跡を勝手につけてきて、別の厄介事を呼び込みそうな気がすごくする」
「何だか二人とも、ものすごく腹の立つ理由で私を値踏みしてない!? 大体『ナツキ』って誰!?」彼女は憤然と龍一たちを睨みつける。が、その顔がすぐに緩む。「でもね、本当のこと言うと、ちょっと楽しかったわ」
「マジかよ」
ブリギッテは満面の笑顔でアレクセイから渡されたスマートフォンをしまい込む。それから、急に真顔になった。龍一がどきりとするほどの。
「でもね、楽しかったのはあなたのおかげ。あなたが命懸けで守ってくれたおかげ。……ありがとう」
また頬が痒くなってきた。「……せめて寄り道せずまっすぐ帰ってくれよ」
「そうするわ。あなたたちも夜道には気をつけるのよ。
ブリギッテは弾むような足取りで踵を返した。背に負ったケースの重さも、あのアクションの疲労も感じさせない足取りだった。
「心配するつもりが、されてちゃ世話はないな……」
見送って、どちらからともなく脱力して座り込んだ。
「疲れた」
「全くだよ」
顔を見合わせ、互いに笑ってしまう。「そう簡単に探し物は見つからないとは思っていたが、こうもおかしな方向に飛び跳ねるとは思っていなかったな……」
「予想外どころか、命があるだけでも儲け物かも知れないね……」
龍一は苦笑いを引っ込めた。「確かに幾つかの疑問は解けたけど、謎はもっと増えたな」
「そうだね。わからないことだらけだ」アレクセイも考え込む。「間違いなくあの〈コービン〉は軍か、情報機関のエージェントだ。国際指名手配中の龍一を知っていてもおかしくはないけど……それがなぜ、ブリギッテの写真をその龍一に託したんだろう? 彼が追っていた案件は何なんだ?」
「ブリギッテにメールを送っていた奴の正体もわからずじまいだな。大体、メール使えるんならわざわざ俺に写真を渡す必要もないし」
龍一も唸りながら考えてみたが、頭がろくに働かないどころか、胃袋が盛大に鳴り始めただけだった。昼以降ろくに食わずに飛んだり跳ねたりアクションに励んでいたのだから当然ではある。
「僕らもそろそろ腹ごしらえと行こうか。せっかくロンドンに来たんだから、フィッシュ&チップスなんてどうだい?」
こういう時のアレクセイは意外に物見高いなと思う。「フィッシュなんたらって……あれか? ネットじゃあんまり評判が良くない奴……」
「ネットの評判だけが世界じゃないさ。それにちゃんとした店で出るものはおいしいそうだよ」
「だといいんだけどなあ……」
揚げ物はうまいまずいがはっきりするからな、腹減ってる時には結構バクチになるぞと呟いている龍一と並んで歩きながら、アレクセイはポケットのスマートフォンにそっと触れてみる。かなり熱くなっている。
(やはり違う。さっきのは僕のハッキングじゃない……)
ちらりと画面を見、彼は自分の目を疑った。極度に抽象化された、牙を剥いて吠える狼のアイコンが明滅している。
(僕の操作を待たず、勝手に起動したのか……?)
〈白狼〉、君が僕に託したこれは一体何なんだ? やはり君は、何らかの形で生きているんじゃないのか?
それを龍一に伝えなかったのは、単に彼自身がどう説明していいのかわからなかったからだが──結果的には正しかったのかも知れない、と思い始めた。
余談だが、この夜彼らが食べたフィッシュ&チップスは「大外れ」だった──が、空腹の限界に達していた彼らはうまいのひどいのと文句を言いつつ、完食してしまった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
深夜近くになっても、駅では現場検証が進められていた。
「通してくれ。
「オーウェン、こっちだ!」
現場封鎖用のテープを潜った刑事に、大兵肥満の刑事が手を振る。オーウェンと呼ばれた頭髪の薄い痩身の刑事はうっそりと頷いてみせた。「ランディか。遅れた」
「いいさ。ここへ来るまで大変だったんだろ?」ランディはしきりにハンカチで汗を拭いている。「どこもごった返しているもんな」
「何かわかったか」
「訳がわからんことだらけさ」ランディは分厚い腹肉を震わせて溜め息を吐いてみせた。「物証は山ほどあるのに、何が起こったかわからないんだ」
オーウェンは鋭い目で駅構内を見回した。通勤客が泡を食って逃げ出したのだろう、投げ捨てられた傘や新聞紙が散らばり、さらに〈スパルトイ〉の残骸までもが転がっている。鑑識課員たちのカメラがしきりにフラッシュを瞬かせる。
「聞きしに勝る凄まじさだな」
「だろ? これじゃまるで市街戦だ。奇跡的にも死傷者はゼロだってんだから、神様には感謝しかないな」大きな溜め息を吐くランディ。「しかし、じゃあ何が起きたかって聞かれたら『わからん』としか言いようがないんだ。爆弾や毒ガスでなく、戦闘犬を使ったテロなんてなあ」
「テロじゃなくて偶発的な事件じゃないのか。起こすにしても
「滅多なことを言うなよ……まあ、確かにそうだが。
オーウェンの目が女性警官に事情聴取を受けている老夫婦を捉える。「あの人たちは?」
「ああ。それがな……妙な話なんだが、あの三人に助けられたっていうんだ。おかしなご時世だな、犯罪者が人助けとは」
「敬老精神あふれる犯罪者なんて珍しくもないだろう。母親思いの結婚詐欺師、子供には優しい麻薬密売人、社会の不正に怒りを燃やす連続殺人犯。……監視カメラの映像は?」
「ここにある」ランディはタブレットへ意外に繊細な手つきで指を滑らせる。「あの三人が〈ブラックドッグ〉に追われてやってきたのはわかるんだ。で、奴らは犬相手に散々手こずった挙句、ホームに滑り込んできた車両の先頭へ放り投げてケリをつけ、駆けつけてきた〈スパルトイ〉相手に大立ち回りを繰り広げて逃げた。さて、どう解釈したらいい?」
またも大きな溜め息を吐くランディとは対照的に、オーウェンの鋭い目は瞬きもしていない。「顔認証を阻害する特殊布か。闇市場じゃありふれた品だ」
「例の〈のらくらの国〉残党にして、国際指名手配中のごろつき。世界最高の暗殺組織の一員。こちらは……見覚えがないな。現地協力者か?」
オーウェンはそれに応えず、車両へ──より正確には車両に激突した〈ブラックドッグ〉だったものに歩み寄る。「車両にのしかかられては、軍用犬もひとたまりもなかったか」
「人間の都合で切り刻まれて身体の大半を機械に換えられた末、こんな死に方をするなんてなあ。犬の天国があるんなら、せめてそこへ行ってほしいもんだよ」
「その前に気にするものがあるぞ」オーウェンは潰れかけた〈ブラックドッグ〉の傍らに膝を突き、開けられたままの口腔に深々と突き刺さったアーチェリーの矢を見て目を細めた。「見事な腕だ」
冗談だろう、とランディがタブレット画面と矢を見比べながら呻く。「押さえつけられてとはいえ、暴れ回るこいつの口目掛けてだと?」
「オリンピック級のアーチェリー選手ならできなくはないだろう。そう言えばあの三人目が着ていたジャージ、『彼女』と同じスクールの指定品だったな」
「もしかしてブリギッテ・キャラダインを疑っているのか?」ランディはおいおいと言わんばかりに首を振る。「近々女王へ謁見も叶うって彼女が、国際指名手配中の犯罪者と行動を共に? うちの下の息子だって彼女にぞっこんなんだぞ?」
「予断と疑念だけで捜査するかしないかを決められるんなら、俺たちにふさわしい職業は異端審問官だ」
立ち上がる。「鑑識へ回せば、部品の組み方で持ち主の癖が見えてくるはずだ。銃の旋条痕と同じようにな。こうまで軍用品をカスタマイズできる腕の持ち主は、マギー・ギャングの中でもそうはいない」
「まさかマギー・ギャングを疑っているのか?」
「まさかマギー・ギャングを疑ってないのか? ロンドンの闇市場は事実上奴らの独占状態だろう」
「しかし、なあ、オーウェン……上は〈月の裏側〉残党によるテロの線で片付けたがっているようだぞ」
「だからそれ以外の可能性は検討も追及もしないって? ご立派な遵法精神だな。第一、テロの線は薄いと言ったのはお前じゃないか」吐き捨てるように言ってオーウェンは歩き出す。その後を巨体を揺するようにしてランディが追う。「ああ、わかってるさ。
「だからそういう口の聞き方をやめてくれよ……」またもランディは額の汗を拭っている。「オーウェン……あれは事故だったんだ。少なくとも俺はそう思うことにしているよ」
「じゃあスージーと俺の子にも同じことを言ってやれよ。お前は誰も失わなかったから言うのも容易いだろうな」
ランディのハンカチを握る手が、力なく下がった。「すまん」
「お前に謝ってほしいわけじゃない」
「そうじゃない。……なあ、オーウェン、お前まさかとは思うが、マギーと刺し違える気じゃないよな?」
「安心しろよ、あいつにそんな価値はないさ」オーウェンは低く言う。「会ったらその場で殺してやる」
後半の呟きをランディは聞かなかったふりをする。「そう言えば、あの情報屋は?」
「連絡がない。珍しいな、今まで連絡を欠かしたことはなかったはずだが……」
長い間、少年は河面を見つめていた。自分の顔すら映らない、暗い河面を。
スモッグに曇る夜空も、煌びやかな街の光も、その目には入らない。
ガスマスクを外したその顔から、ぽたり、ぽたりと滴が落ちていく。
「……」
やがて空が白み始める頃、少年はガスマスクを被り直し、自分が這い出てきた暗い地下道へと戻っていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
全身ずぶ濡れ、しかも悪臭まみれで帰ってきた娘を出迎えて、ブリギッテの母親は一般的な母親の反応として、怒るより先に心配した。
「一体どうしたっていうの? バグリー先生が大慌てで電話してくるから何事かと思ったわ。あなたが練習をすっぽかすなんて初めてだって。まっ、それにこのひどい臭い……」
「ええっと……」
ブリギッテの目が左右に泳いだのも無理はない。何しろ彼女は両親の言いつけをよく聞く良い子で通ってきた以上、言い訳などというスキルは不要だったからだ。
頬に手を当てて困り果てている母アビゲイルとは別に、父クライヴはブリギッテの反応を誤解したらしい。それも好意的な誤解として。
「アビー、今日はそのあたりにしておきなさい。話しにくいこともあるのだろう。ブリギッテ、まずはシャワーを浴びておいで」
「あなた」余計なことをと言わんばかりにアビゲイルは夫を睨みつけたが、ブリギッテのしおたれた(ように見える)態度と悪臭にこれ以上の追及は諦めたらしい。「そうね……今日はもう休みなさい。それと、バグリー先生が怒っていないから後で反省文を提出するようにと」
うっ……と呻いてしまったが、何しろ言い訳のしようがない校則違反である。反省文一つで済むならまだましな方には違いない。
「ありがとう、父さん、母さん!」救われた気分でブリギッテは浴室に走る。実際、彼女も自身から漂う悪臭が耐え難かったのだ。
「本当にいいのですか? あの子、最近は毎晩警報装置を解除して抜け出しているの……」
「気づいているさ、『父親』だからな」アビゲイルの困惑した声に、クライヴもまた苦く応える。「そして『父親』だから、何も言えんのさ」
悲しげな溜め息が重なり、夫婦の会話は途絶える。
全身を洗い終え(いつもより時間をかけて念入りに洗ったのは言うまでもない)髪をタオルで巻き終えたブリギッテは、自室のベッドに腰かけて愛用の複合弓をケースから取り出した。手入れは毎日欠かさず、バランス調整も申し分ない。彼女にとっては身体の一部のような愛用品だ。だが、
「何か違うわね……」思わず呟いてしまう。さんざん世話になりながら心ない言い草だが、今日に限っては何かが物足りない、と感じたのだ。
考えて、はたと思いついた。これはあくまで競技用であって、狩猟用ではないからだ。アーチェリーの大会でトップスコアを叩き出すのなら充分かも知れない。だが実戦で──たとえばあの恐ろしげな戦闘犬を、これで屠れるだろうか?
玩具の銃を持って狩りに行く猟師はいない。本物の狩りなら、それにふさわしい得物が必要になる。
(そういうことね……)
デスクの端末を起動させ、ネットショップで商品を検索する。目当ての品はすぐに見つかった。思わず渋面になってしまう値段ではあったが、彼女の小遣いなら手が届かないほどではない。
「……私だって、やればできるんだから」
そう、あの人たちみたいに。
息を吸い込み、クリックする。決済の完了を示す軽快な電子音が響いた。
──ブリギッテはまだ知らない。彼女の苦難は、まだ始まってすらいないことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます