アルビオン大火(3)記憶の迷宮

「そもそも僕らは本当に、何の干渉も受けずに英国入りできたと思うかい?」

 目も眩む高さと傾斜のついた屋根に足をかけながら、アレクセイの足取りには何のふらつきもなかった。彼が本気なら、と龍一は計算する。その「本気」次第だが……元〈ヒュプノス〉相手に、背後のブリギッテをかばいながら不安定な足場でどこまで拮抗できるのだろう?

「妙だとは思ったけど……なかったんじゃないのか? 現にペルーや〈海賊の楽園〉ではあれだけ苦労したのに、今回は少なくとも狙撃や爆弾はなしだったからな」

「直接命を狙うだけが干渉じゃない。ならなぜ、あの男は君を知っていたんだい?」

「それは……」言葉に詰まる。あの男の最後を思い出す。これで悔いはない、とばかりに眼前で力尽きたあの男の死顔を。龍一は彼を知らない。だが彼は龍一を知っていた。数日前に英国入りしたばかりの龍一を。

「僕らはヨハネスの手から逃れたつもりで、まんまと構築された殲滅区域キルゾーンに飛び込んだんじゃないのか? それを明らかにするためにも聞く必要がある。ブリギッテ、君はなぜあそこにいたんだ? 学園きっての優等生である君が敷地を飛び出し、脇目も振らずここを一直線に目指した理由は?」

「……それを話さなかったらどうするの、殺し屋さん?」龍一でさえ空恐ろしくなる元〈ヒュプノス〉の眼差しを、ブリギッテは真っ向から睨み返した。「私も殺すの?」

「殺しはしない。君にはどうでもいいことだろうけど、暗殺業務受付は現在休止中なんだ」車のセールスでもしているようにアレクセイの声は不気味なほど朗らかだ。これもまたかつて〈ヒュプノス〉が健在だった頃の喋り方だった。「もっとも、僕がそのつもりになったら龍一は全力で阻止するだろうけどね。それこそ命に換えても」

「あなたより彼の方がまともなだけじゃない」

「なつかれたものだね、龍一」アレクセイの声が冷ややかさを増したように思えたのは、果たして気のせいなのだろうか。

「彼女の動きを見てどう思った? 薬物や機械的な補佐もなしで、君の動きに追随できる人間なんて今まで何人いた?」

「皆無じゃないだろう。君だってその一人なんだぜ、アレクセイ」

「僕だって下世話な好奇心で聞いているわけじゃない。これは僕らのの問題なんだ。今まで僕らは何度ヨハネスにしてやられた? 次が無事切り抜けられる保障なんてどこにある? 彼女に自覚がなくとも、何らかの罠の可能性を看過ごすのなら、龍一、僕らが共にいる必要はどこにある?」

 アレクセイと目が合う。静かで穏やかな死神の目と。


「改めて聞こう。龍一、?」


「……それは」無意識に舐めた唇は乾き切っていた。「それは、堅気の女の子の前ででも聞きたいことか、アレクセイ?」

「聞きたいね。今まで君と僕が逃げ続けた問いだ。逃げ続けたからこそ、僕らはそれなりに上手く回っていた。そして逃げ続けたからこそ、今こうなっている。違うかい?」

 皮肉だった。龍一もアレクセイも同じことを考えていたのだ。だったら、なぜこうなった?

 龍一は一歩進み出た。足元のブロックが目に見えない刃で切り裂かれる。

「龍一、そこで止まってくれ」

 一瞬だが龍一は確かに見た。アレクセイの顔に、漣のような動揺が走るのを。

「君にはできない。君はもう〈ヒュプノス〉じゃないからだ」

 喉に氷の刃を突きつけられたような緊張が去らない。一方で、これをうやむやにしたままで俺たちが共にいるのはもう不可能だ、との思いもある。

 うやむやにしてきたツケが今になって回ってきたんだ。だったら、それを払うまでだ。

「待って、二人とも。話すから……どうしてあそこにいたか説明するから。だからあなたたちが殺し合うのはやめて。もう充分よ」

 ブリギッテの声はまだ震えていたが、そこには明確な決意が込められていた。「全部私のせい。……ああ、でも、あなたたちも理由の一つかも知れない」

「……うん?」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ──ブリギッテが中等部に入った頃から、まるで習慣のように送られてくるようになったそのメールは少なからず彼女の心を掻き乱した。

 二人の少女。

 どことも知らぬ荒涼とした平原。

 そして錆びついた大型のドア。

 初めは確かに薄気味が悪かった。何しろメールアドレスを替えても何事もなかったように送られてくるのだ。両親なり警察なりに相談しようかと思ったのも一度や二度ではない。

 だがいつしか、それは自分に向けて送られてくる何らかのメッセージなのではないかと思うようになってきた。実際、薄気味悪いだけで特に実害はないのだ。

 これはお前の過去に関する重大な手がかりだ──メールの送り主が何者であれ、ブリギッテはそう言われているように思えてならなかった。


 いつしか彼女は眠れなくなった。自分のすることなすこと全てが、から目を背けているようにしか思えなくなった。学年トップの成績への賞賛も、オリンピック有力候補としての期待の眼差しも。友人たちがあれこれ考えてくれる自分の未来も、女王との謁見すら無意味に思えた。

 ある月のない夜、ブリギッテは自室の窓から抜け出した。思った以上に簡単だった(キャラダイン家のセキュリティは強固ではあったが、内から解除する分には造作もなかった)。

 するすると小高い建物の屋上に登り、夜気を吸い込み──そしてそこで彼女は、誰も自分を見ていないという当たり前の事実に気づいた。

 誰も。

 屋根から屋根へ。屋上から屋上へ。馬鹿げている、子供じみているという理性の声は思う存分跳躍し駆ける喜びの前に霧散した。子供に戻ったような使が素晴らしかった。何より、自分が陽の光のある間はじっとしている、猫や蝙蝠のような夜行性生物になったかのような錯覚が素晴らしかった。一度、着地を誤ってとんでもない轟音を響かせた時には心臓が止まりかけたが、耳を澄ませても階下からは寝ぼけた呻き声しか帰ってこなかった──たぶん家主は隕石から逃げる悪夢にうなされている最中だったのだろう。

 不思議なことに、明け方近くに戻ってからは熟睡できた。誰かに話すつもりは最初からなかった。

 誰にも話さない奇習(奇習としか呼びようがない自覚は彼女にもあった)は、しかし彼女が高等部へ登った直後に転機を迎えた。

 ──送られてきたメールには、住宅地の屋上に佇む彼女自身の姿があった。

 見られている。誰かに監視されている!

 彼女は駆け出した。でもどこへ行けばいい? どこへ?

 闇雲に走った末、さすがに息を切らせて立ち止まる。懐のスマートフォンが震えた。届いたメールには……路地裏で立ちすくむ、彼女の後ろ姿が写っていた。


『失礼。ブリギッテ・キャラダインさんですね?』


『俺たちは君に渡すものがあって来たんだ。より正確に言うと、渡すよう頼まれたんだが……』


 その時、彼女は思ったのだった。今まで目を背け続けてきた何かが来た、と。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「それで僕たちがメールの送り主だった、と思ったんだね」毒気が抜けた、と呼ぶのがふさわしいアレクセイの声だった。世界広しと言え彼に、世界最高品質プラチナムの暗殺者にこんな声を出させた者が何人いるだろう?

 もっともそれは龍一も同様である。虫も殺さない堅気の娘さんからこんな奇習聞かされてどんな顔をすればいいんだか。

「だからあなたたちが現れた時、少なくともこのメールの送り主はわかると思ったの。結局、そうではなかったみたいだけど……」

 見て、と言って彼女はスマートフォンの画面を見せる。龍一とアレクセイはともに顔を見合わせる。

「……これはひどい」

「……僕たちも引退の頃合いかも知れないね」

 街灯のカメラの「目」でも盗んだのか。そこには丘陵地へ腹這いになる龍一とアレクセイの姿があった。熟練のハッカーなら造作もない作業ではある。問題は、そこに潜む龍一たちをどうやって察知できたかだ。

「もういいだろう、アレクセイ」龍一は改めて彼を睨みつける。どさくさにまぎれて言うのも気が引けるが、こんなところで〈ヒュプノス〉に戻られても困る。「俺の命を理由にのはやめてくれ。もう気は済んだだろう?」

 アレクセイは答えない。代わりに微かな吐息を漏らし、やがて龍一たちに背を向けて手近な煙突に腰かけた。今までの彼からは想像もしなかった無防備な背中だ。無防備で、縮んで見える背中だった。

 思えば、アレクセイの懸念は理屈だけなら何一つ間違っていないのだ。英国への侵入を手配したのも彼なら、旅費や偽造パスポートなどの用意を取りはからったのも彼、現地情報屋とのコンタクトを取ったのも彼だ。結果としてそれは別の面倒を呼び寄せてしまったようだが……ならばなおのこと、彼なりに責任を感じていたのではないか。

 ──俺はアレクセイを責めるより先に、汚れ役を押しつけてすまなかった、と謝るべきだったんじゃないのか?

 龍一はアレクセイの隣に座った。なぜか、その必要のないはずのブリギッテまで隣に腰かけている。

「すまん」

「君が何に、どうして謝るんだい?」

「何もかもだ。全部俺が悪い」

 湿り気味の風に顔をさらし、アレクセイは苦笑した。「全部が悪いはずがないさ──それじゃ君は神様ってことになる」

「神様ならまだいい。もっとたちの悪い代物かも知れない」

「僕はそれを承知で着いてきたつもりなんだけどな。言わなかったっけ?」

「言ってない」

「そうか……言ったつもりだった」

「俺も言ったつもりで言っていなかったことがある」

「何だい?」

「君は俺の相棒だよ。何回も命を助けられた」

「それはお互いにだろう」

「ああ、お互いにだ。もっと早く言えばよかった」

「いいさ」幾分か吹っ切れた口調でアレクセイは言った。「僕も、答えを聞くのが怖かったんだ」

 龍一は自分の中から、何かが穴の空いた風船のように音もなく抜けていくのを感じた。「何だか疲れたな……」

「僕もだ」

「私も」妙に幼い、どこか拗ねたような口調でブリギッテが口を挟む。「私だけの密かな楽しみと思っていたのに、こんな大事になるなんて」

「密かな楽しみというか、まあ奇習がね……責められる謂れはないけど、まあ奇習の類だな……」

「奇習って言わないでよ!」アレクセイの言葉に彼女は本気で傷ついたような顔をした。「それは……そう言われても仕方ないけど、奇習って言わないで!」

「気にするなよ。誰にだって奇習の一つや二つあるさ……」

「だから奇習って言わないで! もう、龍一まで!」

 思わず龍一は吹き出し、それにブリギッテが怒ろうとして失敗した。アレクセイまで背中を震わせている。

 気づかなかったが、三人が一緒に笑ったのはこれが初めてだった。

 ──その時、何かの予感が龍一の身を震わせた。

「……二人とも、見ろ!」

 龍一の声にアレクセイが顔を上げ、息を呑む。が、ブリギッテの方は合点の行かない顔だ。「あっちに何があるの?」

「あの河口だよ。俺たちが彼を看取ったのは……!」

「屋上から見るとこんなに近かったのか。ここからだと数キロと離れていないね」

 誰が言い出すともなく全員が互いの顔を見合わせる。

「……行ってみるか?」


「……肌の色は白。髪は暗めの茶色、襟足に少しかかるくらいの長さ。目は灰色がかった茶色で……」

はしばみ色ヘイゼルね」寸詰りのミニカーを思わせるロボタクシーの乗り心地は良好で、車内でブリギッテがスマートフォンを操作するのに何の支障もなかった。「こんな感じでどう?」

 ブリギッテが見せたスマートフォンの画面に、龍一は唸った。幼児用のお絵描きアプリだったが、龍一が説明したあの男の容貌が見事に再現されていた。「すごい。お世辞抜きで上手いよ」

「特徴をよく捉えているね。大したものだ」アレクセイまでもがしきりに感心している。

「単に上手いだけよ」ブリギッテは恥ずかしそうに微笑する。「美術の先生からも言われたわ。精緻なだけで、魂はないって」

「その先生にだって魂があるとは限らないだろう」

「洒落たことを言うのね」ブリギッテは吹き出した。彼女の仏頂面は、ものの見事に崩れていた。「それにしても、ロボタクによく乗れたわね。この車内カメラだって犯罪予測システムに紐付けされているのに。大胆というか、意外というか……」

「あまりでかい声じゃ言えないが、対策はしているからな」龍一もアレクセイも、顔認証を阻害するためのクリームを顔に薄く塗っていた。もちろん非合法品だが、効き目は確かだった。欠点としては顔がやたら痒くなるくらいだ。

「アレクセイ、君がコンタクトを取ろうとしていた『彼』について、知っている限りのことを教えてくれ」

「情報屋は〈コービン〉と名乗っていた。〈正直者のコービン〉があの界隈での通り名だったそうだ」

「きっと偽名ね」

「やけにきっぱり言い切ったな。どうしてわかった?」

「『コービン』は数代前の労働党党首の名前なの。政治家として評価の難しい人ではあったみたいだけど、この国で『コービン』と言われて彼を連想しない人はいないわ」

「なるほどね」まあ、馬鹿正直に本名を名乗る情報屋もそうはいないだろうが、わざわざそのような偽名を名乗るあたり、だいぶひねくれたユーモアの持ち主だったのかも知れない。その辺の事情はやはり外国人の龍一には伺い難いものがある。

「あの写真を持っていたコービン某と、その匿名メールの送り主とは同一人物なのか?」

「いや、それはおかしい。現にメールは、彼の死後も彼女に届き続けていたんだから」

「それもそうだな……」やはり別々の人物と考えた方がよさそうだった。意図が不明なのは共通しているが。

 突然、耳柔らかなチャイムと同時に男とも女ともつかない電子合成音が車内に流れ始めた。『警告。ロンドン警視庁は市民並びに海外からの訪問客に対し、この地域への侵入による身の安全を保障できません。これ以上進む場合は自己責任か、軍事警備請負会社ミリセクないし個人用ボディガードとの契約を推奨致します』

「そろそろらしいな。じゃ、あれが……」

「聞いたことぐらいはあるでしょう? ロンドン再開発地域──悪名高き〈テムズ煉獄リンボ〉よ」

 凄まじいものだね、とアレクセイが呟く。「まるで爆撃を受けた紛争地域だ」

 見晴らしのいい土手から下の景色は、軍放出品らしきテントに埋め尽くされていた。傾きかけた陽光の下、くすんだ情景の中でくすんだ服の人々がNPOの炊き出しに並んでいる。そしてその何百何千もの人々が、瓦礫の下から使えそうなものを掘り出そうと悪戦苦闘したり、人なり物なりを買い落としたり値切ったり、決裂の果てに殴り合ったり、地べたに座り込んでネット配信動画を食い入るように眺めたり、宙へ虚ろな目を向けて音楽を聴いたり、あるいは何もしていなかったりしているのだ。

 だがそれらはまだ、人の営みの範疇と言えなくもなかった。防壁バリケードとレーザー警報による封鎖線の向こうに見える街並みは、まさに生きた人間の動く姿一つないゴーストタウンだった。映画のセットじみた建物の間を、悪夢の産物じみた大型の四重反転式ドローンが悠然と飛んでいく。と、その機体下に搭載された火器が数度、ちかちかと銃火を瞬かせた。何を撃ったのかはわからない。

「……聞きしに勝るひどさだな。これを『再開発地域』なんて呼ぶんだったら、エベレスト山脈は地面のでっぱりだろ」

「〈日没オフセット〉当日は、チェルシーにある私の家からでも火の手が見えたのよ。まるで空そのものが燃えるような光景だった……それも、それが一週間近くも続いたの」

「たまげたな……」あまりにも既視感のある──ありすぎる光景に龍一は半ば絶句していた。「ずっとこうなのか? こんな廃墟が……何キロも?」

「これでも、人が少ない分まだ〈ソーホー戦闘区域コンバットゾーン〉よりはましなのよ。観光立地としてのロンドンは、息の根を止められたも同然」ブリギッテは溜め息を吐いた。確かにロンドンっ子として、海外からの客に説明する話題としてはこれ以上不愉快な話もないだろう。「暴動の際に危険な化学物質が流出したとかで、何万人もの人が家を失ったの。確かにロンドンだってこの世の天国じゃないもの、事故も犯罪も数え切れないほど起こる。でもあの日以来、本当に何かが決定的に壊れてしまった──そう思っている人は少なくないわ」

 龍一の全身をある戦慄が震わせた。こんな話をどこかで聞いた──そうだ、今はなき〈のらくらの国〉の成立過程そっくりだ。

「警官隊が鎮圧を試みた際も、強力な重火器が持ち込まれていたらしくて、暴徒と警官の双方に大きな被害が出たの。タイミング悪く、海外からの銃器密輸ルートが活性化していたせいもあって……中には軍ですら使わないような、出所不明の技術まで使われていたそうよ」

 

「私、一度だけ父と母に連れられてここを通ったことはあるの。男の人も女の人も、どっちともわからない人も、車の窓から私が手を振ると笑って振り返してくれた……今では誰もいない。何も残っていない。地元の飲食店も、煤けた集合住宅も、あらゆる色彩を集めたようなブティックも……」ウィンドウに映るブリギッテの顔は憂いを含んで見えた。「でも一番の変化は、。〈日没〉でロンドン警視庁が多くの人員を喪失したせいもあって、省力化・無人化が必須だったせいもあるけれど」

「空飛ぶカブトガニみたいだな……」音もなく旋回する大型ドローンを見つめて龍一は呟く。機体からは機銃を含む複数の火器が棘のように突き出ている。あれと一戦交えようとする者は、それなりの装備と度胸を必要とするだろう。「あんなもんに頼らないといけないほど、今のロンドンは治安悪いのか?」

「……半年前なら考えられなかった。あの頃なら『一体どこと戦うんだ?』なんて笑い飛ばせる余裕が、誰にでもあった。でも今は違う。半年先どころか、明日に何が起こるのか、誰にも断言できなくなってしまった」

(〈のらくらの国〉が吹き飛び、その上空にあの〈割れ目〉が生じたあの日から……か)

 龍一の顔色を察してか、アレクセイは事務的に告げただけだった。「そろそろだ」


「ここがその場所?」

「ああ……そのはずだ」

 日中に改めて見るとつくづく荒んだ場所だな、と思った。ぎらついた油膜の浮いた河面は重く暗く、顔面のひび割れたミルク飲み人形が虚ろな目を天に向けながら静かに流れていく。

「その人は、どうして私を知っていたのかしら……?」

「わからない。だからこそ君に会って話を聞きたかったんだが」龍一は暗く黒い河面に目を凝らすが、あの男の痕跡は見つからない。死体ごと焼かれた上、わずかな遺留品さえ持ち去られたのだろう。

 そうね、と呟いてブリギッテは微かに俯き、何かを呟き始めた。彼女なりの弔いなのだろう。優しい子なんだな、と龍一は改めて彼女に好感を抱く。

「となると、残る手がかりはあれか。……気は進まないけど」アレクセイが指差す先では、あの地下水道への入り口が黒々と口を開けている。顔を向けた途端にものすごい悪臭が熱波のように顔面へ吹きつけてきて、龍一は後ずさってしまった。

「ブリギッテ、あの下水道だけど、その、何だ……人が住めるような場所なのか?」

「考えたくもないわね」彼女は心底おぞましげに鼻をつまんでいる。「だってそうでしょう、ロンドン中の下水がここに流れ込むのよ……」

「逆に言えば、何かを隠すにはもってこいってわけだ」

 真面目くさった顔ではあるが、アレクセイまで鼻をつまんでいる。「危険な薬品や違法火器、あるいは爆発物、そんなところかな?」

「ますます入りたくなくなってきた……」

 気は進まないが、だからと言って引き返しては何のために来たのかわからなくなる。とにかく君は待ってろ、と言おうとした時。

 不意に、ブリギッテがつまんでいた鼻から手を離した。

「どうした?」

 龍一の言葉に答えず彼女は首を巡らし、目を瞬く。見えない何かを感じ取ろうとするかのように。


「……何だ、そっちへ行けばよかったのね」


 そして踵を返し、呆気に取られている龍一を尻目に地下道へ駆け込んでいってしまった。それも先ほどまで鼻をつまんでいたとは思えない速さでだ。

「おいおい……!」

 龍一も即座に後を追う。が、追いつけない。先刻の追いかけっことは逆になったわけだが、暗さと足場の悪さ、そして龍一が本気で走っているのになお距離が縮まらない。とんでもない早さだ。息継ぎすらしていないんじゃないのか?

「龍一、どうなっているんだ?」

「こっちが聞きたいよ!」

 言い返した途端に下水道の悪臭をまともに吸い込んでしまい、龍一は危うくえづくところだった。「く、空気に味がある……!」

「あまり深く息を吸い込むな」アレクセイは早くもハンカチで口元を押さえている。「君もこうしろ」

「手を拭く以外にも役に立つんだな……」龍一も真似してハンカチを口元に結んだが(これじゃ押し込み強盗に入る前のごろつきだ、とおかしくはなった)それでも悪臭が少しは和らいだ程度だ。「病気持ちの犬と同じ臭いがする空気なんて初めてだぜ……」

「汚水と廃棄物が発酵しているんだ。まともな防毒装備もなしに踏み込めるところじゃない」

「しかし、あの子を放っておくわけにも……あ、いたぞ」

 複数の水路と作業用通路の交差点に立ち、ブリギッテは心ここにあらずという風情で首を巡らせていた。

「一体どうしたんだ?」

「あ、龍一……う!」我に返った彼女はたちまち目を白黒させ、盛大にむせてしまった。「な、何ここ! どうして私こんなところにいるの!?」

「これで口元を覆え。あんまり息を吸うなよ」

「あ、ありがと……」

 咳き込みながらもピンク色のタオルで口元を隠した彼女の目が、ようやく焦点を合わせ始めた。「私、どうなったの?」

「こっちが聞きたいよ。何もかも放り出していきなり駆け出したんだぜ」

「いきなり……ええ、そう、何か……とても懐かしい匂いを感じたの」

「え、まさかこの臭いが……」

「違うわよ!」一歩引いてしまった龍一の顔を見て彼女は慌ててかぶりを振る。「こんなひどい臭いじゃなくて……もっと繊細で優しい、ずっと昔に包まれていたような……」

「嗅覚は記憶との結びつきが強いとは聞く。それにしても、この悪臭の中でそれを感じ取ったのなら驚くべきことだね」アレクセイはしきりに感心している。

「でも、もう嗅ぎ取れない。微かなものだし、何よりもこのひどい臭いで塗り潰されてしまって……」

「とにかくここを出よう。さっきからマジで鼻が曲がりそうだ……」

 まだ思わしげなブリギッテをうながして踵を返そうとした時──首筋の毛が一斉に逆立った。

 悪い予感は絶対に外さない、龍一の第六感の賜物だ。

(犬……?)

 下水の暗闇から、足音一つなくそいつは現れた。悪夢の中から這い出てきたような姿だった。扁平な頭に盛り上がった筋肉、犬よりは仔牛に近い。だが何より得意なのはそいつの全身だった。口元を除き、至るところが艶のない鱗状の軽金属で覆われている。尻尾でさえ先端部まですっぽりと覆われ、別の生き物のようにゆらりゆらりと揺れているのだ。

 赤外線・暗視増強措置を受け、全身を鱗状装甲ドラゴンスキンで覆われた戦闘犬。

 立ちすくむ龍一たちに向け、そいつは骨のように白い牙と、血塗られたような真紅の口腔を剥き出しにした。

「龍一……!」

 汚水を跳ね上げ、高々と跳躍した戦闘犬が牙を煌めかせて自分の喉元へ一直線に飛びかかった時も、龍一は冷静だった。渾身の上段蹴りを見舞う。

 衝撃。

 犬より仔牛に近い巨体が吹き飛ぶ。だが龍一も軍用犬の重量を殺し切れず、ぬるぬるした下水の壁に背中から叩きつけられた。

 ボールのように数回バウンドした戦闘犬が唸り声一つ上げずむくりと起き上がる。まるで堪えた様子はない。衝撃を分散吸収する鱗状装甲がなくとも、あの巨体では内臓にまで打撃が届かないのだろう。

 その巨体のそこかしこに──下水内の作業灯の光を跳ね返し、きらきらと微かな光がまとわりついた。

 アレクセイの〈糸〉だ。髪より細く鉄塊を打ちつけても切れない〈糸〉が軍用犬の巨体を幾重にも戒める。が、

「……!」

 犬はうるさいとばかりに上体を振り回した。延長上にあるアレクセイの、決して小柄ではない身体が振り子のように旋回して汚水に叩き込まれる。

「大丈夫か!?」

「こいつ、僕の〈糸〉で切断できない……」全身汚水まみれになったアレクセイに、しかしそれを気に病む余裕はなさそうだった。「初めて見る新素材だ。闇市場に流出した〈ヒュプノス〉の技術から派生したのかも知れない」

 アレクセイに飛びかかろうと全身をたわめる戦闘犬の背後から殴りかかる。だが犬は読んでいたとばかりに身を躱した。逆に装甲で覆われた尻尾が鞭のようにしなり、龍一の目を狙う。危うく身をよじって避けはしたが、犬は素早く飛び退いて龍一の間合いから遠ざかっている。

「市街掃討戦仕様の〈ブラックドッグ〉だ……しかも相当カスタマイズされている」

「軍用犬ってだけで充分やばいけどな……」

 そもそも犬の運動能力は人間と比較にならない。並の兵士や格闘家ではそれこそ歯牙にも掛けられないだろう。

(いや、問題はそれだけじゃないか)

 ロンドンの治安がどうだろうと、軍用規格ミリタリーグレード戦闘犬ウォードッグなどという代物はその辺をうろちょろしていいものではない。誰かが配置したのだ──龍一たちが犯行現場に戻ってくるのを見越した誰かが。

 おそらく、視界を共有した調律者ハンドラーが近くにいるのだろうが──

(そいつをとっ捕まえるのが手っ取り早いんだろうが、それを見過ごすほど向こうも甘くはないだろうな)

「何を考えているかわかるよ、龍一」さすがにアレクセイは目聡かった。「でもそれは後だ」

「……言われるまでもないって」

「任せて!」微塵の恐れも躊躇もなく、ブリギッテが複合弓を手に進み出る。「私が相手よ、ワンちゃんパピー。人間相手に牙を剥いた以上、動物愛護精神には目をつぶってもらいますからね……!」

「よせ、ブリギッテ。君のかなう相手じゃない!」

「やってみないとわからないでしょ!」

 教本にしたいほど流麗なフォームで、立て続けに二射が放たれる。が当然、鱗状装甲はアルミの矢を容易く跳ね返す。

「修正、よし」ブリギッテの顔に、しかし狼狽はない。「が本番よ!」

 渾身の一矢が放たれ── 戦闘犬の顔面へ吸い込まれる。装甲にもセンサーにも覆われていない口腔へと。

 咆哮と呼ぶにはあまりに痛ましい悲鳴。龍一の打撃にもアレクセイの〈糸〉にも耐えた巨体がもんどりを打つ。

「やった……!?」

「どう、少しは見直した?」呆然とするしかない龍一に、ブリギッテは得意げな笑顔を向ける。だが次の瞬間、その笑顔が凍りついた。

 口腔からぼたぼたと鮮血を溢れさせ、アルミ合金の矢を砂糖菓子のように噛み砕きながら〈ブラックドッグ〉が身を起こす。龍一でさえたじろぐような怒気を全身にまとわりつかせて。

「これは……まずいね」

「ああ。素手喧嘩ステゴロの最中に腹が痛くなるくらいまずいな……」

「そんなに私……まずいことした?」

「すごくな……」

 あまりの状況に三人が三様に真顔となった時。

 妙に間の抜けた破裂音が響き、辺り一面をもうもうと白煙で包んだ。擲弾筒グレネードランチャーを用いた、煙幕弾の射出音だ。

 煙幕弾は二発目、三発目と炸裂し、視界一面を覆い尽くした。煙幕に電波妨害片チャフも混じっていたのか、戦闘犬が明らかに動揺を見せる。

「こっちだ、早くしろ!」

 煙の向こうから声が響く。ひどい下町訛りコックニーで半分ほども聞き取れなかったが、要するにそういう意味だ。

 考えている暇はない。咳き込むブリギッテの手を掴み、自分も咳き込みながら龍一は走った。

 ──たっぷり数分間走り続け、龍一はようやく息を吐いて背後を振り返った。あの軍用犬の気配は、とりあえずない。心なしか、悪臭がずいぶんと和らいだように思える。

「ここまで来れば、あいつぁ追ってこねえよ。てめえの縄張りから出るつもりはなさそうだからな。よかったな、あいつが辛抱の効かない早漏野郎で」

 擲弾筒を構えたまま、非常灯の下に何者かが進み出た。軍の放出品だろうか、ひどく継ぎ接ぎの目立つ旧式のガスマスクで頭部全体を覆っている。全身を覆っているのもガムテープや接着剤で強引に塞いだ補修の跡だらけの防護服で、おまけに骸骨のアクセサリーだの、ペンライトだの、携帯式の汚水濾過装置だの、放射線測定計ガイガーカウンターだの、その他用途も不明な何かの装置だのをこれでもかとぶら下げている。ポストアポカリプスを舞台にしたSF映画に登場する科学者か、もっと言えば遺跡荒らしスカベンジャーのような格好だ。

「あー……ありがとう。おかげで助かった……」

「寝ぼけた挨拶してんじゃねえぞ、このそびえ立つチンカス野郎」

「え」

「でかい男が揃いも揃って、情け深い俺の助けがなかったらどうするつもりだったんだ? そんな様でてめえのスケをどうやって守れるってんだ?」

 龍一は数回ほど目を瞬いた。ガスマスクの下から聞こえる声はずいぶんと若かった。どころか、よく見ると背も低い。龍一やアレクセイはもちろん、ブリギッテと比べても頭半分くらいは小さい。

 やたら口の悪い救いの主は、絶句している龍一たちをガスマスク越しにじろじろと観察した。「それにしてもまあ、お前らよくそんな格好でこのガスとヘドロの中に踏み込めたもんだな。舐めてんのか? ピクニックのつもりか? それとも、頭ん中に詰まってるのはチンカスか何かか?」

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