アルビオン大火(2)第一種接近遭遇

「避けたり、飛びかかったりしようなんて考えない方がいいわよ。この距離なら絶対に外さない。それとも……試してみる?」

 彼女の腕なら容易いだろうな、と両手を上げたままで龍一は考える。考えながら、彼女の瞳が綺麗なラベンダー色であることに初めて気づく。何だか久しぶりだった──自分とそう歳の変わらない少女から真っ直ぐに見つめられること自体が。

 見つめ返されたブリギッテの方が居心地悪そうになった。「何をじろじろ見ているの?」

「あー……ごめん」

「そろそろスポットライトを当てた方がいいのかな?」やはり両手を上げたままでアレクセイが興味深そうに言う。

「頼むから黙っててくれ」

 きっとなってブリギッテはアレクセイにも鋭く矢尻を向ける。「そっちの人も動かないで。少しでもおかしな真似をしたら、その瞬間に相棒さんの頭がウィリアム・テルの林檎になるわよ」

 ご丁寧にどうも、とアレクセイが嘆息する。「林檎だってさ。龍一、何か返す言葉はないのかい? いっそ君の『矢返し』を見せてみたら?」

「他人事だと思って。こんな近くで突きつけられてちゃ無理だよ……」

「あなたたち、国際指名手配中の二人組でしょう? その顔、ネットで見たわ」

「僕たちもすっかり有名人だね」

「嬉しくないなあ……」

 ブリギッテは再び龍一に矢を向ける。「だったらわかるわね? この状況で私が矢を放っても正当防衛よ。警察も世間も、私と指名手配中のあなたたちとどちらの言い分を信じるかしら?」

「いちいち肺腑をえぐる言葉だね」

「お尋ね者は辛いなあ……」龍一はできるだけ真面目な顔を作ろうとした。「俺たちは君に渡すものがあって来たんだ。より正確に言うと、渡すよう頼まれたんだが……」

「私に?」ブリギッテは一瞬だけ弦を緩めそうになったが、すぐに構え直した。「どうしてその人が直接私に会いに来ないの? それに犯罪者のあなたたちが、どうしてそんな頼まれごとを?」

「あー……ちょっと事情があってな、その人は来られないんだ」堅気の彼女にもうこの世にいないからだ、と説明するのはいかがなものかと思ったからだが、かえってそれが不信感を強めたらしい。

「何を言っているのよ。どこの誰かもわからない人の物なんか受け取れるわけがないでしょう? 一度も会ったことさえないのに自作ポエムだの女物の下着だのを勝手に送りつけてくる変質者に私がどれだけうんざりさせられたか、ちょっとは想像力を働かせてほしいものね」

 正論ではある。が、はいそうですかとも返せる話でもない。ここで引き下がったら、何のために危険を冒して彼女に接触したのかわからなくなる。「これを君に渡したらすぐにでもこの国を発ってもいい。とにかく警察だけは勘弁してくれ。いろいろあって、俺たちはまだまだ捕まるわけにはいかないんだ」

「残念でした。お父様に言われているの、『悪党どもとはどんな些細な取引もするな』って」

「立派なお父様だな」

「ぐうの音も出ないね」

「何なのよあなたたち?」ブリギッテはわずかに龍一たちを見比べたが、明らかに仏頂面を保つのが難しい様子だった。「……見せて」

 蜘蛛の糸を目の前に垂らされたカンダタの心境だ。「取り出すから射たないでくれよ……手渡しでいいか?」

「駄目。その場に置いて、下がって」

 あの包みを足下に置き、言われた通り龍一たちは下がった。複合弓を小脇に抱えて彼女は素早く包みを拾い上げる。龍一が目を見張るほどの早業だった。

 包みを覆うビニールを見て彼女が眉をひそめる。「血が付いているわね……」

 確かに堅気の若い娘に渡すには色気がなさすぎる品物ではある。こんな馬鹿げたイベントはさっさと終わらせたいという顔で彼女はビニールを乱暴に破る。

「とりあえずミッションコンプリート、かな。これで君の気も済んだだろう?」

「成果は何もなしだがな……」

 何も手にせずこの国を後にすることになりそうだが、警察に突き出されないだけでもましかも知れない──そんな彼らの甘い予想を、ブリギッテの鋭い叫びが粉々にした。

「これは何!?」

 彼女は再び矢をつがえてこちらに向け直した。その足下に、数枚の写真がばらばらとこぼれ落ちる。「説明して。?」


【数時間前】

「ブリギッテは、将来何になりたいの?」

 モリィにそう問われてブリギッテはなぜか──本当になぜか、言葉を詰まらせてしまった。

 珍しく天気のいい昼下がりである。学園の中庭でも、女生徒たちが思い思いの場所でバスケットを広げてランチを楽しんでいる。よほど気難しい人物でも、口が軽くなるような陽気ではあった。年頃の娘たちともなれば尚のこと。

 アーチェリーは好きだ。これは疑いようがない──弓を引き絞る際の、神経を張り詰める感覚が好きだ。そしてそれを解き放ち、矢が一直線に標的へ吸い込まれる瞬間が好きだ。そのためなら身体を鍛えるのも(弦を引くのに非力では話にならない……何しろペットボトルを数本まとめたものを持ち上げるのと同等の筋力が必要になるのだ)、矢とその飛び方、そして風向きがそれに与える影響を知るため数学に取り組むのも、それを実際の射的にフィードバックするための修練も、まるで苦にはならなかった。

 言葉を詰まらせる必要など何一つないはずだった。なのに、なぜだろう──自分でもわからない。

 さっぱりした気性のケイトが、サンドイッチをぱくつくのをやめて呆れたように言う。「何言ってんだよモリィ。我らがブリギッテ姫の将来なんてオリンピック以外に何があるんだ?」

「わからないよ。最初からそう決めつけるのはどうかな。もっとささやかなものかも知れない」いつも柔和な表情を崩さないのんびりした娘ではあるが、モリィもなかなか持論は譲らない性格である。それとも彼女は、案外ブリギッテの言葉にできない懊悩を彼女なりに感じ取っていたのかも知れない。

「ささやかって、例えば?」

「ええと……例えば、国連事務総長とか」

「それのどこがささやかなんだよ?」

「二人とも、私のことを何だと思っているの?」ブリギッテはつい笑ってしまう。

「でもそうね。ブリギッテの将来なんて、真面目に考えてみるとそう簡単には思いつかないわ……」今まで黙っていたアンナが野菜ジュースを飲むのをやめて口を挟んだ。同年代のブリギッテから見ても大人びて見える少女で、モリィやケイトなど彼女に比べれば小さな妹のようなものだ。「何と言えばいいのか……そう簡単には成し得ない、それでいて誰もが『さすがはブリギッテ・キャラダインだ!』と納得するようなものでないと相応しくないように思うの」

「……アンナもちょっと私への期待が重すぎない?」

「誰もそう簡単に真似できない、ってのは納得だな」サンドイッチを早くも食べ尽くしたケイトが大真面目に考え込んでいる。「軍……はありえないよな。戦場で手柄を立てて出世できるなんて呑気な時代でもないし」

 そうよ、と重々しくアンナが頷く。「第一、軍なんて時代錯誤な男尊女卑のファシスト集団じゃない。そんなところでブリギッテの利発で愛らしい気質がめちゃくちゃにされるなんて、考えるだけでおぞましくて耐えられないわ」

「やっぱりアンナは私への期待が重すぎるよ……」

「同じ理由で情報機関も駄目ね。あそこは軍よりももっとひどいはずよ。表沙汰にできない分」

「いや、案外いい線行ってるかも知れないぞ……それだ!」ケイトが膝を叩く。「世界を守る正義のスーパーヒロインだな! 確かに我らがブリギッテ姫にはもってこいだぜ!」

「どこがもってこいなのよ?」

 モリィが感心したように深々と頷く。「じゃ、キャプテン・アメリカならぬキャプテン・ブリタニアだね」

「モリィまで何を言っているの……」付き合い切れないようにアンナがかぶりを振っている。

「でなきゃ登山家、探検家……宇宙飛行士とか?」

「ああ、確かにあらゆる分野に秀でていなければなれないわね。いい線行ってると思わない?」

「そうね……」宇宙飛行士──悪くはない。それくらい困難でなければ自分が目指す意味はないとも思う。でも、何か違う。

「私より、皆んなは何になりたいの? モリィは?」自分の話ばかりされるのはどうも照れ臭い。

「私は……パティシェールかな。お菓子を作るのも食べるのも好きだし、だからフランスに留学しようと思っているのだけど」

「やっぱりそういう方向に進むのね。モリィらしい」感心してブリギッテは頷く。何しろモリィの手がける焼き菓子ときたら玄人裸足なのだ。本人はブリギッテの方がずっとおいしい、と言ってくれるのだけど。

「ケイトは?」

「私は……森林管理官かな。ちっちゃい頃から父さんに森へしょっちゅう連れて行かれたから、そういうとこで仕事したくてさ。その分、うんざりするくらい勉強する必要もありそうなのが頭痛いんだけど」

「意外だけど、ケイトらしくはあるわね……アンナは?」

「弁護士ね」

 一言だけだったが、ブリギッテもモリィもケイトも三人で顔を見合わせ、黙って頷いてしまった。

 アンナが眉をひそめる。「どうして皆そこで納得するの?」

「いや、何となく……」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


(……将来、か)

 トレーニングを終え、ブリギッテはベンチに腰かけて休んでいた。際限なく報道陣をコーチとともに追い払った後での、彼女の一日の中でも数少ない休憩時間である。

(政治家、インテリアデザイナー、画家……)

 思いつく限りの職業を、頭の中で並べてみる──どれもぴんと来ない。

(騎手、映像作家、小説家……)

 定まらない。

 

 ああそうか、と思う。私は私だけの夢が欲しいんだ。他の誰かの夢をかなえる前に。

 こんな自問を始めたのも、コーチのバグリー先生に言われたのが頭にこびりついているせいかも知れない。

 ──認めるよ。ブリギッテ、君は確かに天才、神童の類だ。私の人生でも片手の指に入るかどうかの、稀に見るセンスの持ち主だ。だがそれではまだ足りない。それは君自身が一番よくわかっているのではないかね?

 アーチェリーが好きなのは構わない。だが『好き』だけではいつか必ず行き詰まる。君を見ているとその点が不安になるんだ──ブリギッテ、君はこの先どうしたい?

 私は、とブリギッテは誰にも聞かれない、聞かれたくない自問を発する。私は何になりたいのだろう、と。


 ふと、ポケットのスマートフォンが震えた。手に取り、彼女は眉をひそめる。

(……まただわ)

 だった。件名も差出人の名前もなし。飛ばしの携帯でも使っているのか、アドレスも一見無意味な文字列でしかない。だが彼女は、それがであるのを確信していた。

 指先が勝手にメールの添付画像をタップする。心臓の鼓動が一瞬、早くなる。

 画像の中で、二人の少女がこちらを向いていた。年は五歳前後、もっと幼いかも知れない。どちらも生成りの白いワンピースを着せられている。カメラレンズを睨むように強張った表情は、顔立ちは似ていないのに姉妹のようによく似ていた。

 間違いない、息を詰めてブリギッテはその画像に見入る。


【再び現在】

「改めて聞くわね。どうしてその人は来ないの? 私に用事があるのなら、どうして直接これを渡しに来ないの? そして、その人が渡せと言ったのが……どうして、なの?」

「本人を連れてきたいのはやまやまなんだが……」ここまで詰められたら正直に言うしかない。それにしても、何だって俺たちは女学生に尋問を食らっているのだろう?「その人は来られない。亡くなった。俺の目の前で」

 猜疑に燃えていたブリギッテの瞳が、微かだが確実に揺れた。「その人は私にこれを届けろと言って、亡くなったの……?」

「そう、そうなんだよ。だから……」

 ここぞと一歩踏み出そうとした龍一の顔面から30センチと離れていない雨樋に、深々と矢が突き立った。

 バイオリンの弦のように細かく震える矢羽根を見て、龍一とアレクセイは顔を見合わせる。

「おう……」

「外れたんじゃないわ。わざと外したのよ」ブリギッテは早くも次の矢をつがえている。「今度は当てるわね」

「待ってくれよ! そんなに俺たちは信用できないか?」

「あなたたちに信用するべきどんな理由があるの? 家族でも友達でもないのに! ましてや国際指名手配中の犯罪者でしょう!」

 いちいちぐうの音も出ないが、だからと言って矢を射かけられたらたまったものではない。

 二の矢が放たれ、とっさに首をすくめた龍一の頭上を勢いよく掠めた。しかも彼女は早くも三の矢をつがえようとしている。恐るべき速さだ。

 三の矢。今度はアレクセイの肩口を掠め、風で舞い上がったいかがわしい宣伝文句のチラシを壁面に縫いつける。

「おい、さっきから何の騒ぎだ?」

「……ごろつきだ! ごろつきが娘さんを襲ってやがるぞ!」

「ふてえ野郎だ……俺たちのシマで狼藉を働きやがって。サツに突き出す前に袋叩きにすんぞ!」

 運悪く近くの建物からどやどやと住民たちが姿を現した。龍一よりもよほど凶暴な顔と大して変わらない体格の男たちがてんでに棒っきれや包丁やフライパンを構えたのを見て龍一は「あ、これ本格的にまずいな」と悟った。

「指名手配中の凶悪犯です。皆さん、気をつけて!」

「おう、任せなお嬢ちゃん!」

 たまったものではない。

 龍一は走った。投げつけられる空瓶を躱して壁を駆け上がり、。雨樋を掴み、そのままするすると建物の屋上までよじ登った。下方からは驚きの声が聞こえてくるが、知ったことではない。

 当然のような顔で屋上にもう到着していたアレクセイは度し難い、とばかりにかぶりを振る。「龍一、ますます話が違ってきているね? 彼女にあれを渡したらそれで全部おしまいじゃなかったのかい?」

「だから嫌味を言うなって!」

「……待ちなさいよ!」

 室外機と貯水タンクが林立する殺風景な屋上に、凛とした声が響き渡る。振り向いた龍一は愕然とした。複合弓を手にしたブリギッテがもう追いついてきたのだ。さすがに頬を紅潮させてはいるが、龍一たちから数秒と遅れていない。

 何か言う前に矢が飛んできた。それも龍一とアレクセイ、それぞれの顔面に狙い違わずだ。雀蜂の羽音のような風切り音が頬を掠めた。しかも皮膚がちょっと切れた。

「止まらないと射つわよ!」

「止まっても射ってるじゃないか!」

 大体、龍一からして人相の悪い猪首の大男で、アレクセイにしてもにこやかで腹の底の読めない大男である。それをジャージ姿の女学生が弓矢で追い回している絵面自体、どうも尋常ではない。

「なあ、俺ら一緒に逃げる必要なくないか?」

「それもそうだね。後で合流しよう」

「わかった!」

 二人は二手に分かれて走り出した。が、

「……おい! なんで俺の方だけ追っかけてくるんだよ!?」

「安心して! あなたもあの相棒さんも、両方逃さないから!」

 彼女なら本当にやりかねない。

 屋上の縁から躊躇わず、跳んだ。どうにかアパートのベランダに着地したものの、とんでもない大音響が響き渡る。手入れ中の鉢植えを踏み潰されそうになって怒鳴る太った女に頭を下げながら、龍一はベランダの手摺の上を走った。

「待ちなさい!」

 背後からの叫びにちらと振り向いた龍一は目を剥いた。なんとブリギッテは、龍一と同様に手摺の上を走っているのだ。しかも精密機械のごとく弓を保持したままで。恐るべきバランス能力だ。

「ふざけるなよ! アーチェリーの選手が何で曲芸射ちトリックショットをできるんだ!?」

「甘く見ないで! 曲芸射ちできるだけよ!」

 勘弁してくれ、と龍一は悲鳴を上げたくなる。まったく、何でこんなことになったんだ?


「一体どうなっているんだ……」

 数百メートル近く離れていても、足場とも言えない足場を縦横に走り追いつ追われつする少年少女の姿は見てとれた。窓やベランダから顔を覗かせた住人たちが呆気に取られているのも無理はない。

 アレクセイですら信じられない光景だった。あの龍一が本気で逃げて振り切れないでいる。つまり彼女の運動能力は龍一か、彼と互角以上に戦ったアレクセイと同程度ということになる。もちろんそういう人間は皆無ではないだろうが──滅多にお目にかかれないのも確かだ。

(それにしても、あの娘……)

 アレクセイはふと思いつき、スマートフォンのアプリを起動させる。吠える狼を抽象化したアイコンをタップすると、明らかに正規のものではないOSが立ち上がる。〈白狼〉が遺した宝物庫の鍵、膨大な裏世界へのデータベースだ。

 アレクセイが求めた答えはすぐに出た。

(……そんな馬鹿な)


 なんて人なの──龍一を追いながらブリギッテは驚嘆していた。全力で追いかけているのに追いつけない。矢を射かけても当たらない。あれだけの巨体で、鈍さも傲りも、欠片ほども見当たらない。壁を蹴り、宙を走り、まるで水の中の魚のようだ。

(どうして当たらないの!?)

 彼女が追いつこうと思って追いつけない相手など初めてだった。彼女が当てようと思って当たらない標的など初めてだった。

 落ち着いて……呼吸を止めてはいけない。頭は熱いまま、手は冷たく。一瞬だけ息を吸い──放つ。矢の先端から鳩を放つようなイメージで。

 まさにベストショット。龍一の背に吸い込まれるような一射は──しかし蚊でも叩くように振り向きざまの掌で打ち落とされた。

「……嘘でしょ!」

 自分の目で見てなお信じられなかった。あの男、背中に目でもついているのだろうか。いや、たとえそうだとしてもこの距離とタイミングで反応などできるはずがない。

(こんな人初めて……!)追いつけない。当たらない。全力を尽くしてなお届かない。それなのに──口元に笑みが知らず浮かんでくるのを抑えられない。

(楽しい……!)


「どうなってるんだ畜生……!」

 龍一は走りながら本気で歯噛みしていた。手摺を乗り越え、階段の半ばから跳び、壁を走り、ベランダからベランダへ、屋上から屋上へ。地上を走るのと変わらない早さで、一瞬たりともとどまっていない……はずなのに、背後のブリギッテがどうしても振り切れない。

「どうして止まらないのよ!?」

「止まったら射たれるからだよ!」

 このままだと、本当に龍一の方が根負けしかねない。

(埒が開かない……!)

 思い切って龍一は屋上から飛んだ。が──タイミング悪く、ブリギッテの放つ矢が足首を掠めた。しまったと思う間もなくバランスを崩し、

「うおおおお!」

 数階分を一気に落ちた。埃まみれの天窓を突き破り、穴だらけの床で数度バウンドする。受け身こそ取れたが、背中をしこたま打って肺の空気を全部吐き出す羽目になった。恐る恐る両手足がまだあるかどうか確かめてみる──幸い、もげてはいないようだ。

「……ここまでよ!」

 安堵する間もなく、傍らにブリギッテのすらりとした両足が着地した。まるで体重を感じさせない、新体操の選手を思わせる見事な着地だ。仰向けの龍一はとんでもない角度から彼女を見上げているわけだが、それを指摘すると本当ににされそうなのでやめた。

「ようやく観念したみたいね……」龍一の気遣いなどつゆ知らず、ブリギッテは両頬を紅潮させながら弓を構え直す。あの追跡劇の後で、少し息を切らした程度なのだから大したものだ。「ただのごろつきだと思っていたけど、見直したわ。鬼ごっこで私相手にここまで粘った人は皆無だったもの」

「そりゃそうだろうよ……」うんざりして龍一は返す。俺やアレクセイに匹敵する身体能力の持ち主がそのへんにごろごろいたら、この世は百鬼夜行だ。

「でも、もう気は済んだでしょう? 全部話してもらいますからね」

「話す分には構わないんだが……」

「何? 命乞いをしても無駄よ。安心して、あなたがどんな極悪人でもそれだけで殺しはしない。警察に突き出すだけだから」

「……クライムファイターを気取る前に、少し周囲の状況に気を配るべきじゃないのか?」

「え」

 ──そこで彼女は初めて自分の周囲を見回し、自分と龍一を見つめる無数の視線に気づいた。

 とうの昔に廃墟となった大衆酒場パブだった。カウンターには分厚い埃が積もり、床はへこむか腐って大穴が空いている。そしてそのような打ち捨てられた建物の中で、先ほどの住人と比べても遥かに人相の悪い男たちがコンテナに詰められた銃器と、袋詰めの白い粉末とを交換している最中だった。どう見てもギャングたちの取引現場だ。

 その中の一人が怪訝そうに呟く。「何だ、てめえらは?」

 低くて酒焼けで掠れた声だが、それだけに物凄い迫力のある声だった。ブリギッテは中途半端に弦を引いたままで硬直して動かない。

 そして男たちの手元には、ナイフだのバールだの3Dプリンタ製の簡易拳銃だの、物騒な得物が山ほどある。実際に手を伸ばしかけている者までいる。

 だから真っ先に龍一が動いた。

「────!」

 ばね仕掛けのように跳ね起き、腹の底から咆哮を発する。大音量に埃が舞い散り、割れた天窓のガラスやカウンターまでもがびりびりと振動する。男たちばかりか、傍らのブリギッテまでもが雷に打たれたように身をすくませる。

 龍一以外の全員がショック状態から復帰するまでわずか数秒。だがその数秒こそが龍一には必要だった。

 ブリギッテの腰を抱え込み、床を蹴り、カウンターに飛び乗る。カウンターの上に転がる刃物や拳銃を蹴り飛ばし、掴みかかってくる手を蹴飛ばしてなおも跳ぶ。

「な……なんてところを触っているのよ!」怒りよりも狼狽えたようなブリギッテの声を聞きながら、バランスを崩した男たちがドミノ倒しになるのを尻目に全力で走り出す。

 背後をちらりと振り返ると、龍一に負けず劣らずの体格の男たちが殺到してきている。それが押し合いへし合い、物騒な得物を手に手に声とも言えない咆哮を大音量で発しながら突進してくるのだからたまったものではない。彼らの怒声は下町訛りがきつすぎて半分も聞き取れなかったが──要約すると、大人しく捕まればてめえらのケツの穴を俺たち全員でさんざん可愛がってから後頭部に一発撃ち込んでテムズ川に浮かべてやるし、さもなければてめえらをケツから真っ二つに裂いて母ちゃんでも見分けがつかないくらい細かく刻んで豚の餌にしてやらあと言いたいらしいので聞こえないふりをして逃げた。

 ドアを蹴破って隣室に雪崩れ込んだ。ちょうどカード賭博をやっていた連中の真ん中を突っ切って走る。蹴倒されたテーブルからカードとくしゃくしゃの紙幣が雪のように舞う。罵声と椅子が散乱する派手な大音響。

「逃すな! ドタマかち割ってやれ!」象でも殺せそうな大型拳銃の撃鉄を上げた男の頭上わずか十数センチに矢が突き立った。男は撃つのも忘れて目を真ん丸くしている。

 矢を放ったブリギッテの方が呆然としていた。「当たらなかったの?」

 驚くのそこかよ、と危うく脱力しかけた。「当たったら困るんだよ! これ以上話を面倒にする気がないんなら、何もしないでくれ!」

「嫌よ! いい加減下ろさないとひどいわよ、この慮外者!」

 あっこれ罵倒に慣れてないやんごとなきお方の罵倒だ、と思いながらも龍一は突進する。

 龍一の回し蹴りが宙に舞う2ペニー硬貨を弾いた。跳ね返る硬貨は拳銃を抜こうとした男の手首を打ち、山刀を振りかざした男の鼻柱を砕き、椅子を振り回す男の頰肉にめりこんだ。「頭を下げろ!」

「な」ブリギッテが黙った隙に、龍一は窓を破って外に飛び出した。が、早くも裏口から男たちが喚きながら突っ込んでくる。なおも両側から掴みかかってくる毛むくじゃらの太い腕を蹴って捌きながら、

「矢を射て! どこでもいい!」

「な、何よ、さっきは射つなって言った癖に……」

「早く!」

 目を白黒させながらブリギッテが射つ。矢を頭上に射られてショックで固まっている男の革ジャンの肩を踏み、スキンヘッドを踏み、壁に突き立った矢を踏んでさらに跳躍した。ブリギッテを抱えたままで、わっと団子状に突進してくる男たちのさらに背後へ降り立つ。

 背後からはまだ怒声が聞こえてくる。「戻ってきやがれ! そんなに俺たちにケツを可愛がってほしいのか、この田吾作野郎!」

 もちろん龍一は聞こえないふりをして走り続けた。


「……撒いたかな?」屋上の縁から覗き込んでみたが、ギャングたちは見当違いの方向に走り去っていったようだ。

「えーと……大丈夫だったか?」

 龍一は抱え込んでいたブリギッテを美術品でも扱うようにそろそろと慎重に下ろした。硬直しきっていた彼女は下ろされたのも理解できないように、目を数回瞬いたが──やがてその頬に徐々に血の気が戻ってきた。

 まなじりを吊り上げたブリギッテが龍一に手を振りかぶる。まあ一発殴られるくらいなら林檎よりはましかな、と頭の片隅で思っている龍一の左頬で、

 ぺち、と情けない音が炸裂した。

「……あれ?」

 思ったより痛くない。

「嘘……どうして今のを避けなかったの?」平手打ちしたブリギッテの方が叩かれたような顔をしている。「あんな……あんなはできる癖に。! 今の私じゃ、蚊を殺す程度の力もないのよ?」

「何で叩いた君の方がダメージを受けてるんだよ?」

 すごく理不尽な理由で怒られている気がしてきた。

 頭が冷えてきて自分の振る舞いをあれこれ思い出したからだろうか、今度は彼女の両頬がそれこそ林檎のように染まり始めた。「まあ、その……まずはお礼を言わないといけないわね。あそこへ踏み込んだのは私のせいだし、あなたのおかげで逃げられたんだし……ああ、でも、恩には着ませんからね」

「別に恩に着せるつもりもないんだけどな」龍一は頬をさすりながら言った。全然痛くはなかったがそうしないと失礼に思えてきたのだ。

 立ち上がろうとした彼女の膝が急に折れた。「あら?」

「おい、どうした?」あわてて龍一の方が支えなければならなかった。彼女の全身が小刻みに震えている。愛用の複合弓を取り落とさないのがやっとのような有り様だ。

「触らないで……」別人のようにひどく弱々しい声だった。「……お願い」

(電池切れか)無理もない。あれだけ矢を射かけながら走りに走り、おまけに本物のギャングと切った張ったした後で平然としている龍一の方がおかしいのだ。

「飲み物買ってくるからな、逃げやしないからちょっとそこで待ってろ」手近な煙突に彼女を座らせたが、今度はすがるような目で見られてしまい龍一の方が困った。

「そんな様子じゃ降りる時に真っ逆さまだろうが。俺が抱えて下ろしてもいいが、それは嫌なんだろ?」

 何だか小さい女の子を相手にしているみたいだな、と思いながら語りかける。ブリギッテはほんのわずかだが、小さく頷いた。面倒なことになったとは思ったが、こんな状態の娘を放置して逃げる気にもならない。

 つくづくどうしてこんなことになったんだろうな、と思いながら地上を目指した。幸い、ギャングたちの姿はない。

 自販機から戻ってくると、ブリギッテは途方に暮れたような顔で、複合弓を抱えるようにして座り込んでいた。本当に龍一が戻るまでその姿勢だったらしい。

「……本当に戻ってきたのね」

「逃げないって言っただろ、信用ないな……まあ無理もないが」龍一は手にした缶コーヒーとミルクティーを差し出す。「知らなかったよ、ロンドンの自販機って日本製のもあるんだな。どっちにする?」

「……コーヒー」

「イギリスの人ならミルクティーの方にすると思ったんだが……」おかげで龍一がべたべたに甘いミルクティーを飲む羽目になった。当てが外れた。

 ブリギッテの隣に腰を下ろし、ミルクティーを啜っていると不思議な気持ちになった。俺の人生はどうしてこんなことになったんだろう? 確かに後先考えず、周りを省みず、ひたすら復讐しか考えていなかったのは確かだが……気がつけば生まれた国を遠く離れ、日夜問わずプロの殺し屋と一山いくらの馬鹿者に追い回され、今は今で競技用の弓矢を手に俺を追っかけ回していたイギリス人の女学生と並んでビルの屋上でミルクティーを飲んでいる。風邪をひいた時に見る悪夢よりも脈絡がない人生だ。どこまでが現で、どこからが夢なのだろう?

 ふと気がつくと、自分の横顔を見つめるブリギッテの視線があった。彼が思うより長く見つめていたらしい。

「龍一。あなたは……冤罪なの?」

「おいおい、犯罪者の言い分を信じるのか?」龍一は笑ったが、ブリギッテの眼差しにややばつが悪くなった。誤魔化すためにまたミルクティーを飲む。

「……完全に無実とは言わない」いつしか、口を開いていた。眼下に広がるお世辞にも美しいとは言えない燻んだ街並みと、その向こうに広がるお世辞にも綺麗とは言えないテムズ川の遠景が、龍一の中の何かを狂わせたのかも知れない。「俺が〈月の裏側〉の一員として、非合法な犯罪者狩りをしていたのは確かだ。それ以外のほとんどはでたらめだけどな」

 でたらめでこそあるが、完全な冤罪でもないのが痛いところだ。「日本国内の〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの拠点を一掃し、さらにその本拠地を突き止める……それが俺たちの目的だった。要するに俺たちは乾坤一擲の勝負に負けたんだ、それもこっぴどくな。〈月の裏側〉は壊滅、殺された者も捕まった者も大勢いる。俺だけが逃げおおせたんだ。おめおめと一人でな」

「……ごめんなさい。あなたを少し……誤解していたみたい」

「誤解、はしていないんじゃないか? 俺が指名手配中なのは事実だからな」

「そういうことじゃなくて……」

 大体、一歩国外へ出て痛感したのだが、ほとんどの欧米人に(事によると日本人にすら)日本人と中国人と朝鮮人の区別などつかない。そして世界のそこかしこには、アジア系というだけでどんな目に遭わされるかわからない地域さえある(その手のコミュニティに出くわして命からがら逃げ出す羽目になったのも一度や二度ではない)。それを考えれば、つっけんどんながらもまともに受け答えしてくれるブリギッテはまだ好意的な方、と言えるかも知れない。それはそれとして、どうして俺の周りにはこんな気の強い娘ばかり集まってくるんだろう。

 ブリギッテが怪訝な顔をした。「……まただわ」

「何が?」

「あなた、私をとても懐かしそうな顔で見るのね。どうして?」

 叩かれた頬が今度は痒くなってきた。「どうも君を見ていると、昔の知り合いを思い出してね」

 心底意外そうな顔をされた。「女の子の……知り合いがいるのね」

「あのなあ、俺にだって女の子の知り合いくらいいるよ。どんなのを想像したんだ? 画鋲のシャワーを浴びて、風呂上がりにガソリン1ガロン缶を飲み干して空にするような奴か?」

「……冗談も言えるのね」弱々しくだが、ブリギッテは初めて笑顔を見せた。「こうしてあなたと一緒にいるだけで、私も犯罪者の仲間入りですものね。事が片付くまで通報は勘弁してあげる」

「それはどうも」おいおい弓矢で人を追っかけ回すのは犯罪じゃないのかよ、と言いたくなったが思うだけにした。


「鬼ごっこは終わったかい? 僕がいない間にずいぶんと仲良くなったものじゃないか」


 いつの間にか。

 驚くほど近くに、アレクセイが立っていた。

「君もいい加減気が済んだだろう? そろそろ、僕らの本来の目的を思い出そうじゃないか」

 彼にしてみれば、文字通り矢を以て追われた上に心配して戻ってきてみれば龍一が当の本人とのんびり茶を飲んでいたのである。頭に来るのもわからなくはない。が、

 無意識のうちに、龍一は彼女をかばうような姿勢になってしまった──そうする必要があると思ったからだ。

「アレクセイ」強張った声が出た。「をこの子に向けるな!」

「さっき会ったばかりでもう保護者気取りかい? 彼女の言った通り、僕らは犯罪者でお尋ね者じゃないか」

 黙っていられなくなったようにブリギッテが立ち上がる。「あなた、龍一の仲間なんでしょう? せっかく話がまとまりかけていたのに、後から出てきてそれをぶち壊しにするなんてどういうつもり? 何を言いたいのかはわからないけど、おかしな言いがかりはやめてちょうだい」

「言いがかりか。だったらいいなと思うよ。僕のためにも、そして君のためにもね」

 アレクセイの穏やかな笑顔も、その声も、変化はない。だがその声を聞いただけで、背後のブリギッテは確実に怯えた。

「……!」

 龍一が止める間もなく、身を乗り出したブリギッテが矢を放つ。スピードとタイミングの揃った、避けようもない一矢だ。しかし。

 からん、と虚ろな音が響いた。放たれた矢がアレクセイの足元に転がる。まるで断面図のように、綺麗な断面を晒して二つに断ち切られていた。

〈糸〉だ。薄い鋼板なら真っ二つ、人の首なら言わずもがな。〈ヒュプノス〉が振るう死の刃。

 忘れていた。彼が腐っても〈ヒュプノス〉──死と眠りの神、と呼ばれた暗殺者であることを。いや、あえて忘れようと努めていた、と言う方が正しいか。

「そろそろこちらからも質問する頃合いだろう。正直に話してくれないか、ブリギッテ。なぜ君はあの場にいた? あの男たちから狙われる覚えは、本当にないのかい?」

「それは……堅気のこの子にを向けてでも優先したい質問なのか?」無意識のうちに舐めた唇は乾き切っていた。今のアレクセイはかつての〈ヒュプノス〉時代と同様──それ以上に危険に見えた。返答次第ではブリギッテをにしかねない。

「当然だ。既に彼女は僕と君の両方を危険に晒している。忘れたとは言わせないよ、まさかこの国へ下町のギャング退治に来たわけでもないんだろう?」

「いろいろと予想外だったのは認める。でもそれは彼女のせいじゃないだろう」

「本当にそう思うかい? 自覚はなくとも、彼女自身が罠の一部かも知れないのに?」

「それを明らかにするためなら殺すのか? それとも、かばった俺ごと真っ二つにするか? 〈ヒュプノス〉が健在だった頃みたいに?」

 ブリギッテが息を呑む気配があったが、そちらに目を向ける余裕さえなかった。恐るべき可能性に気づいて龍一は慄然とした。かつての〈ヒュプノス〉は標的と、己の命を狙う者以外は決して殺さなかった。いや、殺せなかったと言うべきだろう──高性能すぎる誘導兵器にも似て、融通が利かなかった。だがアレクセイ以外の〈ヒュプノス〉が死に絶えた今、彼にその制約はない。

「君は僕の命を何度も救い、僕は君の命を狙う者を幾度となく排除してきた。でも彼女だけは例外か? その危険を看過するだけなら、僕と君が行動を共にする必要がどこにある?」

 考えてみれば──アレクセイが俺といる理由は何なのだろう?

 それを正面から問いたださなかったことが、ある意味では上手く機能していたのかも知れない。だがそれが今になって、こんな形で牙を剥くとは予想外だった。

 本当に予想外か? 龍一は自問する。然るべき、とっくに明らかにしているべき答えから目を背けていただけではないのか……?

 アレクセイの眼差しが龍一に向けられる。どれほど些細な言い逃れさえ許さない何かを秘めて。「改めて聞きたい。龍一、?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る