相良龍一の章 アルビオン大火

アルビオン大火(1)女神のごとき娘

 ──同年代の少女たちの中でも、彼女は一際目を惹く存在だった。


 引き絞られた複合弓コンパウンドボウから一直線に放たれた矢が、突き刺さると言うより吸い込まれるように標的へ命中した瞬間、息を詰めていたギャラリーから一斉に歓声と拍手が沸き起こった。命中を確認し、少女は手を高々と上げてそれに応える。後頭部でシニヨンにまとめた蜂蜜色の髪が、陽光を跳ね返して一際眩しく輝く。身につけているのは華美とは程遠い燕脂色のジャージだが、それを物ともしない威風堂々ぶりだ。

「ブリギッテ・キャラダイン。セントウルスラ・レディース・カレッジの16歳。女子アーチェリー選手としての腕前は君が今見た通り、学生競技どころか充分にオリンピック級。成績は学年トップ、テニスに新体操、チェスに乗馬、どれをとってもプロを打ち負かせるだけの技量がある。父親は地元の名士で、英国王室にも目通りを許された名門医師のキャラダイン家。……肩書きを説明するだけで一苦労だね」

 アレクセイが持つタブレット端末には、龍一が双眼鏡の中で注視していたのと同じ笑顔が映し出されている。

「しかし……公表されているプロフィールを考えると、彼女の名前にはいささか違和感があるな」

「というと?」

「『ブリギッテ』の由来は、アイルランドの豊穣の女神だ。英語圏ではポピュラーな名前だけど、英国女性の名前としては少し珍しいね」

「女神か……」

 見れば見るほど、それが大袈裟ではないと思えてくる輝かしい娘だ。

「生粋の英国人であるご両親がそういう名前をつけるあたり、何か事情ありげではあるね。もっとも、そんなことを気にする人はほとんどいないけれど……近い将来、英国女王に謁見が叶うらしいよ」

「そりゃそうだろうな……」女王様でなくてもどんな娘か一目見たくなるよ、と龍一は思った。

(何とまあ、世の中には綺麗な娘がいるもんだ……あれは本物のお姫様だな)

 夏姫だって黙っていれば結構なお嬢様のはずだが、いや黙らないからこそ夏姫なのか──そこまで考えて龍一はなぜか疚しくなり、疚しくなっている自分がますますわからなくなった。いずれにせよ、世の中にはまだ自分の知らない才女・妖女・猛女など幾らでもいて、それを知らずに夏姫だけで世の女性を知った気になるのはあまりにも僭越だったかな、とは思わないでもない。

「龍一、また夏姫のことを考えているね?」

「……わかるか?」

「わかるさ。他の女の子に見惚れているうちに夏姫を思い出して、思い出した自分に疚しくなったんだろう?」

 図星である。「あのな、俺を観察している場合じゃないだろう」

「世の中にいるのは夏姫だけじゃないんだから、他の女の子に見惚れても後ろめたくなる必要もないと思うけどね。それに、忘れないでくれよ。彼女に接触する必要があると言い出したのは君だろう」

「そりゃそうだが」

 どうもアレクセイは、少なくとも龍一ほどには乗り気ではないようだった。まあ、ここに至るまでの経緯を考えれば無理もないのだが。

「改めて聞かせてもらいたい。龍一、ただでさえお尋ね者の僕たちが危険を冒してまで、ハイセキュリティ・ハイリスクの対象に接触する価値はあると思うかい?」

「俺もそれはさんざん考えたよ……」アレクセイの言うことは痛いほどわかる。わかるが、

「……何せ、死人からの頼みなんだ。断れないだろう」

 龍一は傍らの封筒に目を落とす。ビニールで幾重にも包まれたそれには、点々と乾いたばかりの血が生々しくこびりついていた。

 龍一の血ではない。


【数日前、テムズ川沿岸 再開発区域】

 雨のロンドン。聞く分にはロマンチックだが、実際にはそうでもないな、と龍一は強くなる一方の雨勢を見て渋い顔をした。英国には珍しい(が皆無ではない)叩きつける豪雨、しかも場所が川面全体から嫌な臭いのするどぶ川のほとりとあってはなおさらだ。

「なあ……本当にここでいいのか?」雨音が強すぎて、ただの会話でも声を張り上げないとお互いの声すら聞き取れない。

 アレクセイは自信ありげに頷く。「先方が指定したのは間違いなくここだよ。時間さえ合っていれば、向こうから僕らを見つけるはずだ。何しろギャング子飼いの情報屋だからね、あまり人目を惹くのは困るらしい」

「この雨じゃ、堅気どころかギャングだって家に帰ってそうだがな……」心浮き立たせるものなど何一つない光景を見やりながら龍一はぼやく。とはいえ、このネタを拾ってきたのも、現地とコンタクトを取ったのもアレクセイの尽力だ。あまり文句ばかりも言えない。

 ──あの人類最後の海賊島〈海賊の楽園〉を脱出して数週間。〈白狼〉が命と引き換えに遺した機密データは今後の戦いの趨勢を一変させかねないほど貴重なものではあったが、もちろんそれだけで〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスに勝てると思うほど龍一もアレクセイも呑気ではない。解決しなければならない課題は、山積みだった。

「僕らには彼の者に対抗するための資金も、人員もない。ヨハネスの〈王国〉重要拠点がわかっても、攻撃さえ覚束ない。まずはそれを認めるところから始めるしかないんだ」

「できることからやる、ってことだな。わかったよ」

 それに、さしもの〈白狼〉も、肝心の〈犯罪者たちの王〉の居場所までは突き止められなかったようだった。となれば、打つ手は限られてくる。

「ロンドンへ行こう。あの地は世界金融と組織犯罪の集積点だ。あのエドワード・〈黒王子ブラックプリンス〉・コスティガンも、英国の資金洗浄組織を利用していた。ヨハネスの〈王国〉にとっても、欠かせない拠点であることは間違いない」

「そしてもしかすると、ヨハネスに直接つながる手がかりがあるかも知れない……」

「そう。今さらだけど、僕たちは彼について何も知らないんだよ。顔も、声も、出身地も、年齢も。どこで生まれてどのような人生を辿り、そしてこれから何をしようとしているのかも。なのに彼は、僕らのことを知り尽くしている。そのギャップを埋めなければ、戦う以前にお話にさえならない」

 そう、そして何よりも──口には出さなかったが龍一は胸中で呟いた。俺自身がとんでもない「爆弾」だとわかったからな。

 かくして龍一は、観光どころか夢ですら思わなかった英国本土へと足を踏み入れることになったのだが──

「この豪雨で人目につかないのは確かにありがたいが、それくらいしかいいことが思いつかないな……」

 何しろ彼らからしてお尋ね者である。現地組織との接触は確かに必要不可欠だが、それも相手が信用できればの話だ。すっぽかされるならまだしも、ヨハネスの組織に龍一たちを売ろうと目論んでいてもおかしくないのだ。アレクセイの前で口には出さなかったが、正直、さっさと宿屋に帰って熱いシャワーを浴びたかった。

「気になっていることがあるんだけどね、龍一」アレクセイに改まってそう言われては、龍一も耳を傾けざるを得ない。「今回はずいぶんすんなり入国できたと思わないかい?」

「ああ、そう言えば……襲撃されるかとびくびくものだったが、結局何もなかったな」

「あくまで噂に過ぎないけど……僕と君に懸けられた賞金を、〈犯罪者たちの王〉は取り下げたらしい」

「何だって?」反応せずにはいられなかった。「賞金って、そんなに出したり引っ込めたりできるもんなのか?」

「法的な効力があるわけじゃないからね。それにプロの賞金稼ぎは、賞金のかかっていない標的を追い回せるほど暇じゃない──しかし相手はあの〈犯罪者たちの王〉だ。木っ端役人が思いつきで出した施策を、世間の反対に遭って取り下げるのとは訳が違う」

「何かあったんだな」それもヨハネスが前言を翻すだけの何かが。

「……夏姫?」

「やはり、君もそう思ったか」アレクセイは溜め息を吐く。「もしかすると僕らは……返し切れないほど大きな借りを、彼女に作ってしまったのかも知れない」

「……俺たちのことだけ、考えているわけにはいかなくなったな」

 頼むから早まってくれるなよ、龍一は呻く。彼女はまさに龍一の人生でもそうそう見ない才女であり猛女だが、人としての限界はある。ヨハネスの元に囚われてのフラストレーションが全くないとも思えない。そうだ、自分たちの身の安全のみを考えているわけにもいかないのだ。

 しかしそれにしても、当の情報屋が現れないことには話にならない……。

「……龍一!」

 アレクセイが鋭く叫ぶより早く、龍一の目は異変を捉えていた。豪雨で増水した、昼でもなお黒く重く見える川面に激しく波紋が立つ。濁って異臭を放つ汚水を吐き出し続ける排水溝から、ぼろぼろのコートを身体に巻きつけた人影がよろよろと這い出てきて、水飛沫を上げて倒れた。

「おい!」躊躇わず、飛び降りた。既に雨水をたっぷり吸っていた靴の中に、さらにぬるりとした気色悪い感触を覚えて後悔したが、それどころではない。汚水を蹴立てて駆け寄り、男の身体を抱き起こす。「しっかりしろ!」

 男は返事しようとして、大量の血を吐き出した。龍一の手が生暖かい感触で濡れる。

 雨の中でもわかるほど大量の鮮血が、胸の穴から溢れ出ていた。徹甲弾のような貫通力の高い弾丸で撃たれたのか、穴は小さいのに血が止まらない。

 彼はもう駄目かも知れない──胸中に沸き起こる黒い諦念を、龍一は無理に捻じ伏せる。「待ってろ! 今、助けを呼んでやる……!」

 だが、男は龍一が驚くほどの力でその手を押さえた。「君は……もしかして、相良龍一か……?」

 彼がなぜその名を知っていたのかはわからない。だが、なぜか嘘を吐く気にはなれなかった。「……そうだ」

 はは、と男は掠れた笑声を上げる。「参ったな……僕にもまだツキは残っていたらしい……」

「何を言ってるんだ!? もういい、喋るな!」

 男は首を振り、震える手で懐から何かを取り出した。ビニール袋で厳重に包んだ封筒らしきもの。「これを……ブリギッテ・キャラダインに…… セントウルスラ・レディース・カレッジ、今年で16歳になる……」

「……わかったよ」

 龍一の言葉を、男が聞けたかはわからない。次の瞬間、彼の全身から力が抜けた。

「龍一……」

「……死んだよ」

 傍らに立つアレクセイに、龍一は呟く。血と雨と汚水に塗れたままで。

 だが、

「……龍一!」

 二人はほぼ同時にその場から飛び退いていた。一瞬後、川面に突っ伏す男の全身を無数の銃弾が貫く。

 まるで地の底から這い出す地獄の使者のように、黒づくめの影が排水溝から殺到してきた。防弾ヘルメットにフルフェイスマスク、昆虫じみた四連暗視スコープ、戦闘装具をフルに装着したボディアーマー。互いの隙を補い合い油断なく銃口を巡らせるその姿は、完全武装の兵士よりは人間性を貶めるために作られた薄気味悪い機械のようだった。

 短機関銃の軽快な連射音に、龍一は必死で川から這い上がる。何しろ今の彼らは寸鉄も身に帯びていない。

 かと言ってやられっ放しでは気が済まない──振り向く龍一の目を、濁った川面すら白く照らす眩い光が貫いた。

(しまった……!)

 破壊よりも燃焼を重視した白燐手榴弾。兵士たちの目的は龍一たちではなく、最初から男の始末と焼却にあったのだ。炎の中で男の死体が見る見る形を崩していく。

 それだけ見て、全力で走った。もうここでできることは何もない。


【現在】

「今さら念を押すのも間抜けだけど、本当にあの娘で間違いないのかい?」

「そのはずだけどな……セントウルスラ・レディース・カレッジに通う16歳のブリギッテ・キャラダインさんが他に何人もいるとも思えないし」

「しかし、実際問題としてどうやって接触する?」

「俺もさっきからない知恵絞って考えているんだが、さっぱりだよ。俺たちみたいなお尋ね者、場所が場所だけに近づいただけで『お縄』だからな……」

 何しろ良家の子女ばかりが通う名門女学校である。生徒たちが営利誘拐の対象になりかねない以上、警戒はかなり厳しい。

 敷地を見下ろせるような見晴らしの良い丘陵はいずれも重点巡回区域となっており、ここに至るまでも龍一たちは数度、警官のパトロールに出くわした。噂ではドローン対策用の電子妨害装置まで据えられているという(実際にドローンを飛ばして盗撮を試みた痴れ者がいたらしく、あながちパラノイアとも言えない)。

「僕が侵入して拐ってこようか? 難しいけど、不可能ではないよ」

「できてもやるな」つい真顔になる。「頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ。俺たちはお尋ね者だって言ったのは君だろ?」

 悪くない考えだと思うけどな、と口を尖らせていたアレクセイが表情を改める。「でも龍一、あまり猶予はないよ。英国入りして最初にコンタクトを取るつもりだった情報屋が殺されたんだ。出鼻を挫かれたどころの騒ぎじゃないよ」

「そうだな……」アレクセイの懸念もわからないではない。情報収集どころか、最悪の場合、一目散に英国を脱出しなければならないのかも知れない局面なのだ。

「アレクセイが連絡を取り合っていたのは、殺されたあの男なのか?」

「直接会ったことはないけど、まず間違いない。彼はどこの組織にも属さず、フリーとして様々な情報を扱っていた。それは強みであると同時に弱みでもあった。いざという時、組織のバックアップは受けられないからだ。だからああなった……」

「そして、俺たちがその最後を見届けることになったのか……やりきれないな」

 あの逃亡劇の後、這う這うの体で安宿に戻ってきた龍一たちは(受付の女は龍一たちを一目見るなり、タオルを放っただけで奥へ引っ込み、出てこなくなった)新聞やネットのニュースをチェックしたが、ギャングの小競り合いで数名の死者が出た云々以上のものはなかった。事情を知る龍一にしてみれば噴飯物ではある。が、実際に死人が出たとあっては笑ってばかりもいられない。

「あいつらの装備、まるで軍の特殊部隊だったな……」

「闇市場でもそうは出回っていない軍用規格だったね。軍の特殊部隊か、政府の秘密機関か、いずれにしても厄介だ」

「厄介には違いない……が、あれがヨハネスの刺客なのかと考えると微妙なんだよな」

「確かに、僕たちには目もくれなかったからね。ただあの男の始末のみが目的だったわけか……」

「だから尚更、どうにかして彼女に話を聞いてはみたいんだが……」

 それも難しそうだな、と龍一は双眼鏡を覗き直す。このままだと今日は「正攻法じゃどうにもならない」とわかっただけが収穫になりそうだ。

「丸一日をで棒に振ったにしては、締まらない成果だね」

「言うなよ。性犯罪で御用になりたくはないからな」

 双眼鏡の中では、練習場から引き上げるブリギッテが突きつけられるカメラとマイクの「砲列」の間を通り抜けていた。当の彼女はにこやかに応じてはいるが、

「ああものはたまったもんじゃないだろうな……」

「既に各分野からスカウトが殺到しているらしいからね。英国の義務教育は16歳までだから、そろそろ彼女も今後の進路を決める必要があるはずだ」

 ようやくギャラリーから離れられた彼女はベンチに腰を下ろして自分のスマートフォンをチェックしている。が、さすがに疲労は隠せない──彼女が一日で安らげる時間はどのくらいあるのだろう。龍一は少しだけ、彼女に同情した。

 ふと──その表情が強張った。遠方から密かに観ている龍一まで緊張するほどの緊張の仕方だった。

「どうした?」

「何か……メールが届いたらしい。くそ、さすがにここからじゃ読めないか」

 メールの文面は読めなくとも、それが彼女に与えた効果は抜群だった。立ち上がって鋭く周囲を見回し、隙のない挙措で人目のない一画へと滑り込んだのだ。

 どうするのか、と見ているうちに──彼女は塀側の大型ダストボックスを利用してホップ・ステップ・ジャンプで跳躍し、軽々と学園の塀を乗り越えてしまった。生垣の隙間をくぐり抜ける猫のような、手慣れた技だった。

 呆気に取られている龍一の傍らで、アレクセイはひたすら苦笑していた。「なるほど、入るには難いが出るには易いか……彼女はどうやら見た目ほど『いい子ちゃん』でもないようだね?」

「いや、そりゃ好都合だけどさ……こんなことってあるか?」


「おやおや……彼女、ますます人気のない区域へ移動しているよ。いよいよ君の望み通りになってきたね、龍一」

「人聞きの悪いことを言うなよ! ……いくら好都合だからって、こんなことってあるか?」

 大の男が二人がかり、十代の娘を真剣な顔で尾行するのは情けなくもあるが、そうも言っていられない。実際、アーチェリーの収納ケースを背負ったブリギッテの足はかなり早く、見失わないようにするだけで一苦労だ。

「明らかに目的を持って移動しているな……それにしても、どこへ?」

「わからないね。あの距離の僕たちに気づいた様子はないけど」

「勘弁してくれよ。あの距離から俺たちに気づいた上、俺たちの尾行にまで気取られていたら犯罪者なんて辞めちまえって話だろ……」

 アレクセイが表情を引き締める。「待った。……信じられないけど、僕たち以外にも彼女を追っている者たちがいる」

「そんなことってあるか?」つい周りの通行人が振り返るような声を上げてしまう。コントじゃないか。

 前方の情景に龍一は息を呑む。たった今ブリギッテが駆け込んだ路地を、一台のワゴン車が塞いだのだ。明らかに拉致の手段、それもプロのやり口だ。

「あの子が警戒していたのは俺たちじゃなく、あいつらだったのか。気取られているのを逆に利用して、連携プレイで誘い込みやがった……」

「よかったね龍一、彼女のピンチに颯爽と現れる機会が出来るかも知れないよ」

「だから何でそうなるんだよ!?」

 躊躇している暇はない。ただちにワゴン車へ近寄り、窓をノックする。胡散臭げな顔でウィンドウを開けた運転手が何か言う前に顎へ「擦るようなパンチ」を見舞う。

「さすが、こうと決めた時の君の決断は早いね」

「ほっといてくれ」

 路地を伺う。果たして──薄暗い路地裏では、ブリギッテと屈強な男たちが対峙していた。ボーイスカウト風の髪型にサングラス、特徴のないダークスーツという「いかにも」な格好の屈強な男たちだ。正直、制服の方がよほどお似合いだと思った。

「そこを退いていただけますか? 知らない人と迂闊に口を聞いてはいけないと、両親からも躾けられていますので」

 内心がどうあろうと、屈強な男たちを前にブリギッテの声には微塵の怯えもなかった。大したものだ、と龍一は感心した。俺よりよほど勇気がある。

「こちらの質問に答えていただければ、すぐにでも。ブリギッテさん、あなたはこの数日間で誰かに接触を受けませんでしたか? あるいは、何らかの荷物が届きませんでしたか?」

「何を言っているのかわからないわ」

「では、もう少し落ち着いた場所に移動していただく」

 ドラマの中で見る分には茶菓子でもつまみながら鑑賞したい場面だが、現実ではそうも言っていられない。

 車中から飛び出した龍一がまず目にしたのは、不用意に手を伸ばして近づこうとした男の顎をブリギッテの振るった収納ケースが思い切り張り飛ばす瞬間だった。十代の娘にしては大した度胸ではある。だが多勢に無勢だ。

 だから遠慮はしなかった。反射的に懐へ手を入れた男二人に体当たりし、背後から全力で壁に叩きつける。顎に一発見舞い、肘打ちをもう一人の喉に食らわせる。銃を向けようとした別の男の手首を掴み、一回転させた。男は悲鳴を上げて銃を取り落とす。

 背後の呻き声に振り向くと、アレクセイに眉間と鳩尾を突かれた男たちが崩れ落ちるところだった。相手がプロなら、龍一も彼も容赦しない。息の根を止めないだけでも感謝してほしいくらいだ。

「……退け!」

 龍一に手首を外された男が号令をかけると、男たちはよろめきながらも迅速に撤退した。引き際まで見事とはね、と感心せざるを得ない。

「麻酔銃だ」アレクセイが男たちの取り落とした銃を調べる。「プロが、それも民間人を拉致するために……ね」

「ますます気に入らないな……うん?」

 背後に何か冷やりとする気配を感じて振り向く。

 ──そこには複合弓を力一杯引き絞ったブリギッテが立っていた。つがえられた矢は龍一の眉間にぴたりと向けられ、小揺るぎもしない。

「説明して」彼女の声は雪山で食べるシャーベットより冷たかった。「あなたたちは何?」

 龍一とアレクセイは顔を見合わせる。「……当然の問いだな」

「よかったね、龍一。これで彼女とますますお近づきになれるよ」

「だから嫌味を言うなって」天を仰ぎたくなる。「まったく……こんなことってあるか?」

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