エピローグ 次なる取引
「あの〈白い男〉か。彼は私の知人だよ。長年のね」
ヨハネスの答えはそっけなかった。
「……ええっと」夏姫の方がリアクションに困ってしまう。「そういうはぐらかし方は予想していなかったというか、してほしくなかったというか……」
「本当にそうとしか言いようがないのだ。君が期待するほど、私は彼について知らない」彼は淡々と言う。「気がつけば彼は私の傍らにいた。気の向いた時に私に会いに来て、何の前触れもなしに去る。彼が私を訪問する理由は不明だが、私が彼を訪ねようとして上手くいった試しはない。私は彼の素性を探ることを、ずいぶんと昔に諦めている。彼は天使なのかも知れないし、天使を気取った悪魔なのかも知れない」
「……私としては、もっとたちの悪い奴に見えたけど」
そこで初めて、ヨハネスの口元が緩んだ。「なるほど、君は彼に相当気に入られたようだな」
「よしてよ」思わず虫でも払うような手の振り方をしてしまった。「できれば二度と関わり合いたくないわ」
「奇特なことだ。彼が関心を示す存在など、この世には数えるほどしかないというのに」
──あれから数日。どうにか起きられるようになった夏姫は、ヨハネスの執務室を訪れていた。残念なことにあの〈黒い氷〉は跡形もなく消えていた。夏姫自身が実在を疑うものを説明できるとは思えず、ヨハネスもまた訪ねなかった。
いや、ヨハネスは何もかも知っているのかも知れない。知っていて黙っているのかも知れない。それを忘れずにおこう、と夏姫は密かに決意した。私はまだ、彼の掌から一歩も外へ出ていないのだ……。
「ダラン第一王女は護衛を伴い、何の妨害も受けることなく本国入りしたそうだ。あの学園襲撃が、反王女派の最後っ屁だったようだな」
よかった、と夏姫は呟く。どう贔屓目に見てもしっちゃかめっちゃかな任務だったが、少なくとも誰か一人分の命は救ったわけだ。だが「いい話」では済まされないものがいくつかあることもまた確かだった。
「あの暗殺部隊はあなたが手引きしたの?」
「それこそ、まさか、だ。カエサルを殺して、ブルータスはローマを救えたかね? 暗殺などで何かが変わると思うのは素人だ」
ヨハネスの口調に嘘は感じられなかった──少なくとも夏姫が聞く限りでは。だが素直に頷くこともできなかった。直接の指示を出していないだけで、例えばヨハネスならば反王女派にアスミタの情報を流すのは容易だろう。
それにもう一つ、あの〈擲弾兵〉の挙動についてである。暗殺部隊はともかく、〈擲弾兵〉を遠隔操作することは可能だったのではないか?
もっともそれもまた夏姫の想像ではある。ヨハネスが話さない以上それはわからないことだ。拷問にかけても聞き出せるか怪しい。
「理事長が行っていた〈ヒュプノス〉のリバース・エンジニアリングについて、あなたはどこまで知っていたの?」
「かなりのところまでは掴んでいた。元々、高塔孝厳の資金投与先であった上に、理事長がかつて孝厳の下で研究を行っていたスタッフを密かに集めていたのは知っていたからな。だが確信は持てなかった。破壊するだけなら、ミサイルの一発も撃ち込めば済む話だ」
「あなたにも節度があったのね」
「君はHWに盲腸の手術を頼みたいのかね?」夏姫の嫌味をヨハネスは平然といなす。「〈ヒュプノス〉の素体は──まだ生きた人間だった頃のオリジナルの〈ヒュプノス〉はかつて私に頼んだんだ。自分が残したいのは命ではない、自分の生きた証を残したいのだと。それが淘汰されることがあっても、その記憶は確実に残る。それで充分だ、と」
「……その人とあなたは、どういう関係だったの?」
ヨハネスはわずかに遠い目になった。「ある意味ではあの〈白い男〉以上に不可解な関係ではあったな。彼は生まれながらに全てを持っていた。頭脳も、肉体も、容貌も、地位も、名誉も。暗殺以外で歴史に名を残すなど、その気になれば彼は容易だっただろう。実のところ、私は彼が興味を示す理由が何一つわからなかった。彼を惹きつける何ものをも、私は持ち合わせていなかったのに。あるいはそれが理由なのかも知れない。何もかも持っていたからこそ、何も持っていない私に惹かれたのかも知れない」
──私はこの人について何を知っているのだろう、と夏姫は考える。知れば知るほどわからなくなる。熱いのか、冷たいのか、それとも両方なのか。
やはり彼は相良龍一に似ているのだ。外見や年齢以上に。
「私たちは、〈ヒュプノス〉現株の自殺に付き合わされたのかしら?」
「……さあね。あれに人間で言うところの『意志』があるのかどうかさえ怪しいものだ……だが、否定する根拠もない」
夏姫とヨハネスはそれぞれの理由で沈黙した。ほんのわずかな間。
「……それで? 私はこれで用済み?」
ヨハネスはそこで眉をひそめる。「用済みとは?」
「あなたに言われた役割は果たしたからよ」
「どうも自棄を起こしてはいないかね」ヨハネスはかぶりを振った。急に我が儘を言い出した孫を窘めるように。「確かに、失敗すれば見捨てるとは言った。だが用済みになれば始末するなどと、夢にも思ったことはないな──実際、君には他にも行ってもらいたいところが幾つもある」
「そうでしょうね」夏姫はわざとらしく溜め息を吐いてみせた。「龍一だけを助命嘆願しても意味はないもの。行方不明の〈月の裏側〉メンバーを盾にすれば、あなたは幾らでも私に無理難題を飲ませられる。次は誰のため? 百合子さん? それとも望月さんやテシクさん?」
だが、奇妙にもそこでヨハネスは考え込んだようだった。「それも悪くないが……命を賭けた君へのご褒美が、たかだか暗殺取り消し程度ではマンネリズムの謗りを免れ得ないな。第一、君のモチベーションの問題もある」
夏姫は呆れてヨハネスの顔を見たが、彼の顔はあくまで大真面目だった。
「私のモチベーションがそんなに大切?」
「君のモチベーションは実際大切だよ」ふむ、としばし熟考した彼の口元が、やがてわずかに吊り上がった。「そうだな……私が生まれて誰にも話したことのない秘密を君にだけは話す、というのはどうかね?」
笑い飛ばそうとはした──だが夏姫は失敗して、盛大に咳き込んだ。「意味があるの? それがどれほど価値のある秘密か、聞くまでは私にわからないのに?」
「意味ならあるさ。実際そうだろう。今の君にとっては最も価値のある情報ではないのか? だからこうして虜囚の辱めを受けてまで私の指令に従っている。そうではないのかね?」
夏姫は口を開きかけ、閉じた。その通りだった。
「いいわ。それで……次はどこに行けばいいの?」
(瀬川夏姫の章・地獄のように黒い氷 完)
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