地獄のように黒い氷(2)地の底で蠢くもの

「一体どういうことなの……」

 図書館でコピーした資料はテーブルのスペースではとても足りず、寮室の床一面に敷き詰める必要があった。それを見下ろし、夏姫は呻く。

 敷き詰められているのは年ごとの学生名簿だ。ハッキングは早々に断念していた──パギオのネットセキュリティがどれほどのものかは不明だが、生徒一同のデータベース化は遅々として進んでいないのも理由ではある。だからこうしてアナログ的に大量のコピーをする必要があったのだが──それだけの価値はあった。

「年ごとの退学者の数が……それもトラブルを起こして退学処分になる生徒の数が、こんなに多いなんて……」

「これなんか凄いよ」興味津々といった顔のアスミタが、床の一枚を手に取る。

「去年のCクラス。美術の授業中に、いきなりパレットナイフでお互いを刺しまくったんだって。こっちはプールへ二人同時に入水。一人は助かったけど、もう一人は間に合わなかったって」

 夏姫は身震いした。ラウラ先生が麻薬の蔓延を疑う気持ちもわからなくはないが、ここで進行しているのは麻薬よりももっと深刻でおぞましい何かだ。「ほとんど半年ごとに刃傷沙汰が起きてるじゃない……これだけの不祥事、よく入学希望者が絶えないわね」

「前にも言ったけど、この学園で起こったことの大半は醜聞を恐れて揉み消しされるからね。それにここは腐っても名門校アセンプション・パギオなんだ。生徒にも、生徒たちの親にも選択肢はないんだよ。ここを避けて『低ランク』の他校に入るくらいなら死んだ方がまし、そう考えるような人たちだもの」アスミタは溜め息を吐く。「私たちは勘違いしていたみたいだね……ここでは仲の悪い生徒同士が心中するんじゃない。

「それも数年前、生徒の麻薬所持が発覚して、当時の理事長が代替わりして以来か……」夏姫は考え込む。わざわざ犯罪者の視点で考えなくても、何らかの相関関係を見出さない方が難しいくらいだ。「アスミタ、次にやることは決まったと思わない?」

「一芝居打つんでしょ。わかってるって。私と明花がどれくらいの付き合いだと思ってるのさ?」

「半月と経ってないじゃない」


 夏姫とアスミタはごくごく簡単な芝居の脚本を書いた──些細なことで夏姫の方がいちゃもんを付け、アスミタがそれをのらりくらりと躱す。その様子に夏姫がさらに激昂する、といった感じである(『逆だと私たちのキャラ的に無理があるんじゃない?』と言われ、夏姫は反論のしようがなかった)。

「あなたたち、一体どうしてしまったの……昨日まではルームメイトとして仲良くやっていたじゃありませんか?」

 生まれて一度も暴力沙汰になど直面したことのないお嬢様方から狂犬病にかかったプードルでも見るような目をされるのは一種痛快であったが、何も知らないラウラ先生が少なからず動揺していたのはさすがに気が咎めないでもなかった。もちろん、気が咎めてもやめるつもりはない──夏姫だってお遊びではないのだ。

 果たして数日後、校則違反の名目で夏姫とアスミタはカウンセリングルームへ呼び出された。数年前に増設されたばかりの、古びた校舎には不似合いなほどぴかぴかのカウンセリングルームである。

 呼び出したラウラ先生はここで待っていなさい、と言い残して足早に退室してしまった。微かな違和感を覚える。ラウラ先生でなければ、誰が生徒指導に当たるのだろう?

「……もしかしてこの部屋も理事長が作ったの?」

 どこから監視されているかわからない、小声で尋ねる夏姫に片眉を上げてアスミタは答える。夏姫の意図を察してか、座ってきちんと前方を見たままである。「そうだよ。どこもかしこもピッカピカでしょ。ねえ明花、私早々に犯人がわかっちゃった気がする」

「奇遇ね。私もよ」

 ぐらりとアスミタの首が揺れたのはその時だった。どうしたの、と言おうとして夏姫は自分の視界もまた歪んでいるのを知った。

(しまった……)催眠ガス──通風口から流されている。ハンカチを取り出そうとした手が力なく垂れ、夏姫は自分の失敗を悟った。全く、忍者屋敷みたいな仕掛けを女子校に作らないでほしいわね……。


 薬で強制的に眠らされた後の不快な目覚めがあった。

 気がつくと夏姫は手術着のような上っ張りを着せられ、産婦人科のような椅子に全身を固定されていた。頭上には白々と光る手術灯。さらにカウンセリングルームはまるで手術室か、半導体工場のような白く殺風景なホールに変わっていて、椅子の周囲には意図のよくわからない──わかりたくもないような形状の機械や器具が並び、手術帽とマスクで顔を覆った白ずくめの研究員たちが蟻を思わせる正確さで黙々と手を動かしている。

 気の弱い女性だったらまだ悪夢の中にいると勘違いしかねない光景だ。

「『一番怪しい人が実は犯人だった』なんて、ミステリだったら失格ね」

「ミステリは嫌いだ。ミステリに限らず、小説は全部嫌いだが」夏姫の軽口に、ジャスティン・ロイド理事長は妙に籠った声で返す。「公正ジャスティン」という颯爽たる名前に比べてずいぶん燻んだ人ね、と思った。入学前見せられたパンフレットの作成者は画像補正に相当な労力を費やしたに違いない。実物は目つきが暗すぎるし、第一太りすぎている。

「おはよ。あっ、私たち捕まっちゃったんだね」ぱちりと目を開けたアスミタが朗らかに言う。「ほら見なよ。一番怪しい人が犯人だったじゃない」

「それはもう私が言った。繰り返しギャグはやめてよ」

「……何を言っているのかはわからないが、私を馬鹿にしているのはわかるぞ」不愉快な小娘どもめ、と言いたげに理事長は口元を引きつらせた。

「で、私たちこれからどうなるの? あなたに頭からばりばり食べられちゃうわけ?」

「私は耳から脳味噌をちゅるちゅる吸われるのに1ペソ賭けるかな」とアスミタ。

「人を変質者のように言うな」理事長はさらに機嫌を悪くする。難しい人ね、と思う。どうすれば喜んでくれるのかしら。ホラー映画のヒロインみたく口をOの字に開けて絶叫すればいいのかな?

「変質者じゃない。年頃の女の子を眠らせて、意識がないうちに怪しげな手術をしようとしてるんだから」

「……君たちは誤解している」理事長は襟元をくつろげ、努めて冷静さを保とうとしていた。「君たちに危害を加えるつもりはない。これは君たちを俗な諍いから解放し、より高次の知性へと生まれ変わらせるための実験だ」

 おやおや一気に胡散臭くなったわね、と内心思った。横目で見ると、アスミタまで拘束されたままでこっそり舌を出している。ただまあ、この分では自分から事の次第をぺらぺら喋ってくれそうではある。それこそ、フィクションの悪役みたいに。「何が実験よ? 飛び降りた子たちはまともに生活できないくらいの後遺症を負ったし、死んだ人だっているのよ」

「あれは不幸な事故だった」理事長は口元をまた歪める。嫌な口の歪め方ね、と夏姫は考える。「人の脳に親和性があるとは言え、どうしても不適合者は発生するからな。うまく適合できたとしてもその後の〈同調〉で失敗するのがほとんどだった……だが、絞り込みはうまく行っている。今度こそ成功するはずだ」

 夏姫の中で何かが閃いた。急に聞き覚えのある単語が立て続けに出てきたのだ。「? 〈調〉ですって?」

「さすがに知っていたか、瀬川夏姫」理事長はここぞとばかりに勝ち誇った顔になった。「〈のらくらの国〉で死に損なったはずのお前がなぜ我が校に現れたのか、ゆっくりと聞かせてもらう必要がありそうだな」

 傍らでアスミタが眉根を寄せる。「この人さっきから何言ってるの? なんで明花のことそんな名前で呼んでるの?」

「おやおや、まだ話していなかったのか。『李明花』などただの偽名。その娘の本名は瀬川夏姫、国際テロ組織〈月の裏側〉の一員だよ」

 国際テロ組織ね、夏姫は苦笑するしかなかった。「まあ、世間からそう見えるのも無理ないわね。お前は犯罪者だろう、と言われたらぐうの音もでないし。黙っててごめんね、アスミタ」

「……まあ、何か事情ありげだとは思っていたけどね。何となく」

「二人の間に隠し事がなくなったところで」理事長は近くの研究員に合図する。研究員の操作で、壁面の一部がシャッター状に上がり始めた。拘束されている二人の目の前に、この手術室よりさらに広大な空間が展開される。「これが何に見えるね?」

 台座に固定された、数メートル大の岩塊。研磨どころか一才の加工も施されていない岩の表面には、しかし色鮮やかな暗い紫色の紋様が施されていた。奇妙なことに、その紋様はわずかだが蠢いていた──まるで呼吸するように、あるいは自ら意志を持つように。

「あれは、まさか……〈ヒュプノス〉?」

「ご明察の通り。これは宇宙から飛来した〈ヒュプノス〉のオリジナル、世界中でここにしか現存しない粘菌の、その原株だ」

 思わぬ再会、どころの騒ぎではなかった。「どうして? 〈ヒュプノス〉を作り出した研究所は既に壊滅していて、その時に原株は失われたはずよ?」

「ほう、では『あれ』は何なのだろうね?」夏姫の動転を見て理事長はすっかりご満悦のようだ。「研究所はただの建物だし、働いていた研究員たちまで一緒に消し飛んだわけではない。現にここにいるスタッフたちはほとんどが当時の生き残りだからな……ついでに言えば、アセンプション・パギオ創設時のスポンサーは高塔孝厳──高塔百合子の祖父だ」

 何てこと──夏姫は今度こそ呆然とした。こんな異国の地の底で、かつての恩人の血縁とかつて命を狙ってきた相手、両方の名と繋がりを耳にするとは。

 同時に、事の次第をようやく飲み込めてきた。「あなたは……〈ヒュプノス〉をリバース・エンジニアリングするつもりなのね」

「君が相手だと察しが早くて助かるな」理事長の目が輝き始める。今までの燻んだイメージが嘘のような溌剌ぶりだ。「私に言わせれば〈ヒュプノス〉を暗殺にのみ使うなど蛮人の極みだ。〈ヒュプノス〉に適合した人間は他の〈ヒュプノス〉を攻撃できない──しようとさえ思わなくなる。血縁を、民族を、人種を、国家を越えた偉大なる存在にアクセスした者たちは、互いに争うことさえできなくなるのだ。これこそ恒久平和への第一歩ではないか。君たちにもぜひ知ってほしい──偉大なる存在と一体化するその恍惚と歓喜を」

 夏姫は飛び降りる直前の女生徒たちの顔を思い浮かべる──デスマスクのように凍りついたまま涙を流していたあの顔を。「恍惚と歓喜が聞いて呆れるわね。私には苦痛と恐怖しか見えなかったわ」

「適合できなかった者は不幸だが、データは着々と蓄積されつつある。彼女たちの犠牲は、新たなる時代への礎だ」

「その前段階として、前理事長を陥れたわけ? 例の麻薬騒動を利用して」

「それは深読みのしすぎだな。女生徒の所持品から麻薬が発見されたのは偶然なら、責任を取って前理事長が辞任したのも偶然だよ。それらが私に教育なるものの無力さを痛感させたのは確かだがね。利権と血族でどこもかしこもがんじがらめになったこの国で『理想の教育』など戯言でしかない。もっと強力で、効果的な手段が必要なのだ」

「戯言を言っているのはあなたの方よ。身勝手な妄想で女の子たちをいじくり回して壊した上、始末に困って殺しただけじゃない」

「私の理想の正しさは、時代が定めてくれる。そう遠くない将来に」理事長がまたも合図すると、夏姫とアスミタの両脇にそれぞれ研究員が立った。彼らの一人は大型の注射器を手にしていて、中はあまり健康的でない色彩の粘液で満たされている。見間違えるはずもない、あの〈ヒュプノス〉原株から抽出されたエキスだろう。

「君が〈犯罪者たちの王〉から送り込まれたことはとうにお見通しだよ。大丈夫、殺しはしない。君はこのまま彼の元へ帰り、何一つ異常ありませんでしたと報告するのだ。いずれヨハネス本人にも同じような措置を施すし、適応できなかったところで──まあ、私が後釜に座るだけだ」

「いかにもとってつけたような陰謀ね……」とは言えこれはまずいな、と思った。いくらもがいても、夏姫の両手両足を戒めるバンドはびくともしない。龍一だったら何とかなったかも知れないのに。

「えっと……その中身を私にぶすっと注射するわけ?」黙っていたアスミタも状況を悟ってじたばたし始めるが、当然拘束は外れない。「なんかやだなー、手と足が十本ずつあるの怪物になりそう」

「原株が影響を及ぼすのは脳のみだ。肉体に直接の影響はない」無知な小娘め、とばかりに理事長は鼻を鳴らす。「脳に近い耳か鼻腔から注射するのが効果的なのは確かだが。しかし、万が一にでも暴れられるとまずいな……麻酔を」

 先ほど夏姫たちを眠らせたものと同じだろう、無色透明のガスを送る吸入器が口元にかぶせられる。たちまち意識が遠のく。ごめんね龍一。こんなぽっと出の悪役の、とってつけたような陰謀にしてやられるなんて……。


 夢を見ていた。私がずっと小さかった頃の夢だ。

『手術は成功だね。おめでとう、何もかも君の思惑通りだ』

『最高の設備と最高のスタッフを揃えた。して当然の努力に、必然の結果だ』

 ──手術台の上の私を見下ろしながら、誰かが会話している。一方の声に聞き覚えがあった。〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスの声だ。『彼女の父親はあくまでこれが狂言誘拐だと信じているがな……この手術が真の目的などとは夢にも思うまい』

『実際、文句もないだろうしね。これで彼の会社は君の融資によって救われるのだから』もう一方の声は初めて聞く、若々しい青年の声だ。『代わりに君との関係を二度と断てなくはなるけど。飴と鞭、とはよく言ったものだ』

『言い得て妙ではあるが、より正確には鞭など必要ない。飴を舐めるのをやめると死ぬ、そう仕向けただけだ』

『瞼が動いているね。目覚めかけているようだ』

『意識はないだろうが……もし聞こえていたらそのまま聞きたまえ。これは一時の別れに過ぎない。私と君の因縁は今日、ここから始まるのだ──いずれ、また会おう』


「……一体どうなっている? 〈ヒュプノス〉原株自体が、彼女を拒絶しているだと?」

「わ、わかりません……! 事前のシミュレーションで問題はなかったはずなのに、この数値は……としか……」


「……え?」

 目を見開いた夏姫は困惑した。麻酔による不愉快な酩酊はない。むしろ頭がすっきりと冴えていて、かえって居心地悪いくらいだ。だが彼女を驚かせたのはそれだけではない。

 清潔で整然としていた手術室の中が、一変していた。夏姫たちのバイタルサインを表示していた計器類も、拷問器具を連想させないこともない抽出(または切開)のための器具一式も、それを操作する端末も。全て黒く鈍く輝く、刃物のように鋭く尖った結晶体にびっしりと覆い尽くされていた。夜の闇よりも、女の黒髪よりもなお黒い。見ていると吸い込まれそうな黒い輝きの結晶体だ。奇妙なことにそれらは外部から突き立てられたものではなく、発芽した植物と同様、機械の内側から生えているようにも見えた。

 頭上の手術灯が明滅しているのは黒い結晶体に覆われているからだろうか。そして床も、まるで絨毯のように結晶体が展開していた。理事長も、他のスタッフたちも、押し寄せる波から逃れるように少しでも結晶体から遠ざかろうと壁際で身をよじっている。

「えっと……何?」

「近づくな! そこを動くな、化け物め!」先ほどまでの嫌味な自信に満ちた態度が嘘のように理事長が喚く。セットされた髪は乱れ、スーツの襟元は引きむしられたように乱れている。「やっとわかったぞ……ヨハネスめ、こうなることを見越してお前を送り込んだんだな! 私のプロジェクトを叩き潰すために!」

「ちょっと待ってよ。動くなって、あなたたちが縛ったんじゃない……」言いかけて夏姫は自分の腕が自由に動くのに気づいた。手足を拘束していたベルトは、とっくに断ち切られていた。

「セキュリティ、こいつを再拘束しろ!」理事長の叫びに応じ、警備員たちが手術室に駆け込んできた。手には暴徒鎮圧用の電撃銃テーザーが握られている。しまった、この距離では避けようがない……。

 夏姫は思わず、反射的に手を打ち振った。

 ざあっ、と大量の砂鉄が流れるような音が響く。

 一瞬で床の結晶体が盛り上がり、夏姫の前に壁となった。射出された電撃銃の端子は結晶の壁に突き刺さり青白い火花を上げたが、もちろん夏姫には何の効果もない。それどころか結晶体の一部は警備員たちの足元に忍び寄り、彼らが気づかないうちに足を絡め取っていた──つまり電撃銃の発した電流を、自分たちの身体に流す形となった。

 まるで蛙が潰れるような悲鳴を上げて、警備員たちがその場にぐにゃぐにゃと崩れ落ちた。もちろん、完全に気絶している。

 理事長とスタッフたちはそれを見た瞬間、一目散に逃げ出した。罵声どころか悲鳴も上げないような有様は、かえって彼らの恐怖を表していた。夏姫が感心するほどの見事な逃げっぷりだった。

 いや、感心するのはそこではない。夏姫は困惑し、改めて室内を見回した。夏姫の素足の周りにはあの黒い結晶の絨毯が渦巻き、呼吸するようにざわめいている。見ようによっては子犬がじゃれているように見えなくもない。

「私を……守ったの?」

 これはどういう冗談なんだろう、夏姫は考え込む。悪夢にしても突拍子がなさすぎる。これが何かの幻覚だとして──それにしても、ちょっと便利すぎじゃない?


 女性秘書アンジェリカの報告に耳を傾けていたヨハネスが、突然、かっと見開いた目を虚空に向けた。アンジェリカがたじろぐほどの急変だった。

「陛下……?」

 うわごとのようにヨハネスは呟く──彼以外の誰にも理解できない激情に身を震わせながら。「ついに発現した。──勝てる。今度こそ、私はあの〈黙示録の竜〉を打ち倒せる」


「やあ。〈黒い氷〉が発現したようだね。おめでとう、まずは『水の中で目が開けられました』といったところかな?」

 夏姫がぎょっとして顔を上げると、今まで誰もいなかったところに一人の青年が立っていた。少しわざとらしいくらいの朗らかな笑顔でにこにこと笑っている。腹に一物どころか、一物足りないような笑顔だ。

 青年どころか、少年と呼べるほどの若々しさだった。ジャケットも、シャツも、ズボンも白。革靴も白。ただ緩く波打つ髪と、人懐っこそうな瞳だけが茶色い。夏姫は目を瞬く。どういうことなんだろう──こんな風態の人物がいたら目立ってしょうがないはずなのに。

「発現に際してある程度、宿主の身を危険に晒す必要があるのは間違いない。とは言え『頭に銃弾がめり込んだ、手や足が取れた』なんて事態もそれはそれで困る。まずは僕としても一安心といったところかな──十数年近くをかけた『彼』の悲願が水泡に帰すのも、傍らで見ていた僕としては心苦しいしね」

 だが、それ以上に気にすべきことがある。彼の声だ。

「あなた……あの時、ヨハネスと一緒にいた……わね?」

 青年はぐるりと目を回した。まるで飼い犬が予想外の見事な芸を見せたような顔だ。何となく頭に来る表情だった。「これはこれは……やっぱり意識を保っていたわけだ。これは侮れないね」

「あなたは誰? ヨハネスの手の者……というわけでもなさそうね?」

「手の者なんてずいぶん古風な言い回しだなあ。いちおう違うよ、と言っておく。君が信じるかどうかはともかく」青年はおどけて手を天井に向ける。「僕はモーリッツ。親しみを込めて『モーリィ』と呼んでくれてもいいんだよ?」

「嫌」

 夏姫の冷たい返事に、モーリッツなる青年は「んんんん」と奇妙な声を上げて悲しげにかぶりを振ってみせる。「つれないなあ。そこが魅力的ではあるんだけど」

 悪意や害意は感じないが、いちいち癇に障る奴だ。

「いいから答えて。ヨハネスの手下じゃなかったら、あなたは何? 場違いなコスプレ野郎?」

「どんなゲームにだってチュートリアル機能はあるだろう? 僕のことはそれだと思ってくれればいいさ。何しろ君が〈黒い氷〉を見るのは初めてだろうから」

 どうも信用ならない奴ね、と思う。詐欺師とまではいかなくとも、こいつの望む方に議論をねじ曲げられている気配はある。「一度、横っ面を叩かないと真面目に話せないの?」

「真面目に話してるって。僕のことを天使や悪魔と呼ぶ者もいれば、妖精や精霊と呼ぶ者もいる。ただそう自己紹介したって信じてもらえそうにないから、現代風にアレンジしたんだけどなあ」

「余計胡散臭いわよ。私にはそれら全部引っくるめたよりも、もっとたちの悪い何かに見えるけど」

 青年の目が細まった。「用心深いし、なにより賢いね。その呼吸を忘れないのを勧めるよ──古い諺にあるじゃないか。『悪魔と取引するには、長いスプーンを使え』ってね」

 やはり油断のならない気配を感じる。「さっき〈黒い氷〉って言ったわね。それは何? これが何だか知っているの?」

「よく覚えていたね。〈黒い氷〉は便宜上の名前さ。ただ単に名前がないと困る、ってだけでね。でもぴったりだろう? 

 夏姫は改めて自分の周囲で渦巻くそれを見た。異様なのに、目が離せない美しさがある。女の黒髪より黒く、夜より暗い。。「……仮の名前としては、悪くないわね」

「だろ? でも一番重要なのは、それが君の意のままにできるってことだ。それは君の目にして耳、露出した脳にして皮膚であり感覚器官なんだ。場合によっては武器になるかも知れない──盾、矛、あるいはもっと強力な。君ならすぐに使いこなせるだろう」

「肝心なことに答えてもらってないわね……?」

 モーリッツは(やはり幾分かわざとらしく)申し訳なさそうに眉根を寄せた。「ごめん、そこまでは話せないんだ。彼との約束でね」

「チュートリアルのくせに、それは説明してくれないのね?」

「チュートリアルが語るのは機能であって、真相じゃないからね……それに話しても、君はたぶん信じないよ。ま、後はここから出て考えればいいんじゃないかな。さよならは言わないよ。また会おう、

 夏姫がまさに目を瞬く間に、青年の姿はかき消えていた。人が夢に落ちる瞬間を知覚できないように。

 帰ったらヨハネスを問い詰める必要があるわね、と夏姫は決意した。あのモーリッツとかいう青年との関係も、〈黒い氷〉のことも。大人しく話すかどうかはともかく。

 しかし、今はあいつの言う通りここから出ることが先決には違いない。癪だが。

 アスミタを見ると拘束されたままですやすやと寝息を立てていた。麻酔を嗅がされたのだから無理もないが、その周囲の騒ぎにも無縁といった風情には呆れてしまう。

「アスミタ、起きて、起きてよ!」

 彼女の拘束ベルトを外して身体を揺さぶったが、起きない。安らかな寝顔を見ていると起こすにも気が咎めた。が、そうも言っていられない。

 夏姫は手近な薬品棚からアルコールを取り出し、手術着の裾にたっぷりとかけてアスミタの鼻元に近づけた。とっさの思いつきだったが効果は覿面で、たちまち彼女の寝顔が歪む。

 うーん、と唸りながらアスミタはもぞもぞと寝返りを打った。「なあに……どうして寝かせてくれないの? せめてこの大盛り海鮮チャーハンを完食させてから起こして……」

「呑気なこと言ってないで起きて! 手と足が十本ずつあるの怪物になりたいの?」

「それは嫌!」アスミタの目がぱちりと開く。「あれ、明花? ……じゃなくって、夏姫か。ん? どうして自由になってるの?」

「実を言うと私にもよくわからないのよね……ま、好都合だわ。こんな悪のアジトからはさっさと出ましょ」

「同感」アスミタは床に降り立ったが、まだ自分の足では立てない様子だ。「ごめん、まだ足に力が入らないや」

「しょうがないわね……ほら、つかまって」

「ありがと。へへ、夏姫って何だかんだ言って、優しいよね」

「私のことを話している場合じゃないでしょ……私からの頼みで危険に巻き込んでおいて、見捨てて逃げられないだけよ。そこ、段差あるから気をつけるのよ」

「やっぱり優しいなあ」

「私のことを話している場合じゃないって言ってるでしょ、もう!」

 おっかなびっくり施設の中を見て回ったが、結局誰にも出くわさなかった。やがて二人は無数のモニターが並ぶ、警備員詰所のような部屋にたどり着いた。床に落ちたクリップボードや飲みさしのコーヒーカップなど、先ほどまで誰かがいたような雰囲気だ。

「何か地上で起こって、私たちに構ってられなくなったのかな?」

「たぶんね……」警備員たちが慌てて残らず出ていくような何かが。夏姫の目がモニターの一つを捉える。「あれを見て!」

 学園の重厚な正門、それが大型トラックの衝突で飴のようにねじ曲がっていた。トラックの荷台からは戦闘服に覆面、カラシニコフ自動小銃を構えた男たちが次々と飛び降りている。訳もわからず男たちの前に立ちはだかった男性教師が、銃の台尻で殴り倒された。

 男たちは校舎の中にも次々と雪崩れ込んでいく。音声はなくとも、悲鳴と混乱が広がっていく様子が手に取るようにわかった。

(あれは何? ヨハネスの手下?)

 そのはずがない。夏姫の危機にすかさず救出部隊を送り込むほど〈犯罪者たちの王〉も甘い男ではないだろう。それに〈四騎士〉やHWに比べれば、男たちの装備はあまりにも旧態依然としている。ごろつき同然の武装民兵といった風情だ。

「……ごめん、夏姫。実は私も、君に黙っていたことがあるんだ」

「アスミタ?」

 普段の彼女にない、思い詰めた表情が気になった。「私がダラン王国の留学生というのは本当だけど、それで全部じゃない。私はダランの第一王位継承者……つまり王女で、学園を襲っているのは私を狙った本国からの暗殺部隊なんだ」

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