瀬川夏姫の章 地獄のように黒い氷

地獄のように黒い氷(1)雨の日の惨劇

『──次のニュースです。〈四騎士〉を名乗る正体不明のテロリストグループにより破壊された各国軍事基地・軍用空港の数は、先日襲撃を受けたベルリン陸軍基地で百件を越えました。

 米国防総省はこの脅威に対し、全力で拠点を特定し無力化すると宣言、各国合同のタスクフォースを設立すると宣言。また失われた戦力の補充として、HWの大量生産を目的とした大幅な追加予算を議会に提出すると……』

『しかし既に航空・海上戦力の大半を喪失した米軍がその軍事プレゼンスをどれだけ発揮できるかについては各国から不安の声が上がっており、ロシア・中国はこれを〈四騎士〉対策には単なる米国覇権主義拡大の口実に過ぎないと批難……」


「……明花ミンファ。明花?」

 呼ばれているのが自分の名前だと気づいて、明花──瀬川夏姫は顔を上げた。「え。あ……アスミタか。何?」

「『アスミタか』もないもんだよ。大丈夫? 微動だにせず宙を見据えたりして」

「……私、また?」

「なってた」アスミタ──夏姫のルームメイトであり、南アジア方面のダランという小国からの留学生は肩をすくめる。大柄な部類に入る夏姫に比べると頭一つぶんは小柄で華奢な少女だ。「やっぱり明花って物凄いお嬢様なんじゃないかなーって思うよ。この前は食堂が混んでただけで気分を悪くするし」

「それはちょっと買いかぶりすぎかな……」まさか少し前まで〈犯罪者たちの王〉と従者のみが住まう邸宅に軟禁されていたから人混みは久しぶりなの、とはとても言えない。

 彼女が今いるのはフィリピンの全寮制女子校、アセンプション・バギオだ。何しろフィリピンが旧大日本帝国から解放されたその年に開校したというから、相当に年季が入っている。残念ながら年季が入っているのは校舎も同様であり、教室や職員室を除けば冷暖房の効きはあまり良くない。

 夏姫やアスミタが着ているのは白と水色を基調とした──夏姫の目から見ればやや古風な──セーラーカラーの涼しげな制服だが、それでも暑いものは暑い。いっそのこと窓を開けた方がまだ涼しくなりそうな気もするが、あいにくとここは雨季のフィリピンだ。日本のそれと比べても明らかに多い雨が、間断なく窓ガラスを叩いている。

 今の瀬川夏姫は、アジア圏でIT事業により財を成した華僑の娘「リー明花ミンファ」になっている。いずれもプレスビュテル・ヨハネスが用意した偽装身分であり、かなり入念な調査でもまず見破れないとのことだった。〈犯罪者たちの王〉のお墨付きだ、信用していいだろう。

 逆に言えば、ヨハネスの要求を果たさない限り、この学園からは出られないことも意味する。仮に学園から脱走して市街地へ逃げ込んだところで、学園の生徒「李明花」として連れ戻されるだけだ。当然、夏姫としてはそこで詰みである。ヨハネスが他に何の脅迫手段も──爆弾首輪も殺人ナノマシンも用意しなかった理由を、夏姫は理解せざるを得なかった。初めから必要ないのだ。

 ──潜入し、そこで起こっている一切を記録し、なおかつ。それができたら、相良龍一にかけた『生死問わずデッド・オア・アライヴ』を取り消す。

 不可解なのはだ。この地にどんな危険があるというのだろう。紛争地帯や極限環境ならまだしも、この少女たちの揺籃に?

「明花、また

「ごめん」

「謝られてもな……私もよくお父様やお母様から『仏様に呼ばれている』って言われるけど、私より危なっかしい人は初めてだよ」

「それは光栄と思っていいのかしら?」

「全然褒めてないんだけど……」

 夏姫やアスミタを後方から追い越していく女生徒たちが、馬鹿にしたように鼻先で笑う。何か問題でも? とばかりに夏姫が睨みつけると、彼女たちはたちまち怯えて足早に遠ざかっていった。喧嘩を売るつもりなら高く買ってやったのに。

「……明花のそういうところ、やっぱり只者じゃないと思うんだけどなー」

「只者って何が?」

「何でもない。ほら、そろそろ行こう。次は移動教室だよ?」

「そうね」

 転入してからすぐ、夏姫は自分が他の女生徒から見れば異分子であるのを認めざるを得なかった。それを言うならアスミタもそうだ。何しろ周囲は軍のトップやフィリピンを代表する一大企業重役、政府高官の娘ばかりであり、傍らから見ていてもその足の引っ張り合いは巻き込まれたらたまったものじゃないと思うばかりだ。マイペースなアスミタと同室になっていなかったら、もっと窮屈な生活だったのは間違いない。案外、その辺りに学園側の思惑を感じなくもなかったが……。

 不意に、前方でざわめきが生じた。少女たちの賑やかな話し声ではない。何かあったのかと勘繰りたくなる不穏なざわめきだ。

 前方に目をやった夏姫は、息を呑んだ。お互いに手を繋ぎ、おぼつかない足取りでふらふらと歩いてくる一組の少女たちには、表情がなかった。

「Aクラスの、アビーとイザベラだ……」

「校内で手繋ぎ歩きなんて、ずいぶんと仲が良いのね。結構なことだけど……」

 アスミタは夏姫と別の理由で衝撃を受けているらしい。「そんなはずないよ……アビーの実家もイザベラの実家も大手の製薬会社で、どっちもテレビCMや宣伝動画で事あるごとに相手の商品をこき下ろしまくってるんだ。いわば絶対に離れられない不倶戴天の敵、お互いの寝首を掻こうとしているロミオとジュリエットみたいなもんだよ」

 親同士の仲の悪さが子女たちに悪影響を与える。似たような話はどこにでもあるのね、と夏姫は内心溜め息を吐く。「実家は実家、私たちは私たち、と割り切って和解したのかしら?」

「それこそまさか、だよ。実家がどうの以前にあの二人が相性最悪だもの。アビーはイザベラを面と向かって『成り上がりの小娘』呼ばわり、イザベラはイザベラでアビーを『ふんぞり返った威張り屋のちびすけ』って言い返して、後はもうお互いを見るたびにいがみあってばっかり。取っ組み合いの引っかき合いになってないのが不思議なくらいさ」

「すると私たちは、今のをどう解釈すればいいのかしら?」

「こっちが聞きたいよ」

 夏姫とアスミタの困惑は周囲の女生徒にまで伝染していた。信じられないものを見ているような目で、ふらふらと立ち去ろうとしているアビーとイザベラを見送っている。

 何か……ひどく、嫌な予感がした。

「ごめん、先に行っていて!」

「ちょっと明花?」

 説明している時間も惜しかった。周囲の女生徒たちが目を剥くような勢いで、夏姫はスカートの裾を翻す。

 理由は、ない。だがなぜだろう──彼女たちから絶対に目を離してはならない。もう一人の自分が、そう囁きかけたように思えたのだ。

 龍一やテシクなら、この手の直感には確実に従うだろう。思えば直感のもたらす導きという奴を、彼らは一度も馬鹿にした試しはなかった。

 それに、と夏姫は思う。私の直感だって、そう馬鹿にしたものでもない。

 校舎から一歩出て後悔した。シャワーどころか、東南アジア特有の横殴りの豪雨が全身に叩きつけてきた。顔面どころか口の中にまで雨水が入ってきて咽せる。傘どころか、雨合羽さえ役に立つかどうか怪しいものだ。せめて先生を呼んでくれば……。

 いや、と思い直す。たぶんそれでは間に合わない。

 顔に手をかざしながら周囲を見回す。見覚えのある後ろ姿が二つ、校舎脇の非常階段へ消えるところだった。

「待って!」

 叫びはしたが、豪雨の中でどこまで有効かは自信がない。考えている暇がない。走る。タッセルの中は既に大量の水が溜まり、ぐちゃぐちゃとした感触が気持ち悪い。

 濡れた足跡が非常階段の上階へ続いている。建物の陰に入ったため雨は和らいだが、そのせいでかえって身体の冷えを感じる。つんのめるような勢いで階段を駆け上がろうとし、危うく足を滑らせるところだった。手摺を掴んで呼吸を鎮める。自分が転げ落ちては元も子もない。

 視線を上へ向け、夏姫は凍りついた。踊り場に二人の少女が立ちすくみ、こちらを見下ろしている。少女たちの表情は強張った無表情で、ぞっとするほどデスマスクを連想させた。

「あの……大丈夫?」

 夏姫はおずおずと声をかけた。彼女の人生の中でも「何を言えばいいのか」わからなくなったのは初めてだった。「私の目から見るとさ……あなたたち、その……何かで困っているように見えるんだけど。私でよかったら、相談に乗るから……」

 自分でも何を言っているのかと思う。ただ、一瞬でも彼女たちを捉えているものを引き離したかっただけだ。何かが起きようとしている──それも最悪なことが。

 何を言っているのよと笑われるか、あるいは一昨日おいでと馬鹿にされるか。

 だが──そこで彼女たちの中で、何かが動いたように見えた。

「たす……けて……」

「え?」

 少女たちの目から涙がこぼれ落ちる──ぞっとするほど無表情のままで。

「しにたく……ない」

「止めて……止めて……頭の中の声を……」

「……待って!」

 遅かった。夏姫が叫んだ瞬間、彼女たちの姿が手摺の向こうへ消えた。

「……!」

 反射的に目をつぶってしまった。遥か下で聞き違えるはずもない、重い砂袋を落としたような音が二つ、立て続けに響いた。

 その時になってようやく、女生徒たちの悲鳴と教師たちの怒鳴り声が夏姫の耳まで聞こえてきた。


「……二人とも一命は取りとめた、とのことです。当然、しばらくは面会謝絶ですが」

 開口一番、生活指導のラウラ先生の言葉に夏姫は少なからず胸を撫で下ろした。

「そうですか……」とまでは言ったが、言葉が続かない。助ける暇がなければ飛び降りる暇もないはずだ、との思いがある。

 ラウラは気遣わしげに眉根を寄せる。両親ともに教育関係者(大戦中、祖父母は反日ゲリラに参加していたらしい)で教育一筋十数年になるベテラン女教師という経歴だけで大抵の生徒は身構えてしまうのも無理はない、常に厳しい表情の女性だった。夏姫でさえ彼女の前では軽々しい口を叩く気にはなれなかった──が、その彼女も今は憔悴を隠し切れていない。

「明花さん。あなたが気に病むことはありません。事故に遭った生徒たちは気の毒ですが、あなたまで巻き込まれなかったのは不幸中の幸いでした」

「ええ。そう思えればいいんですけど」夏姫は力なく言った。頭から爪先までずぶ濡れになったのだから、当然制服も見るに耐えない有様となっていた。今の彼女は学園指定のジャージ姿である。

「必要であれば、カウンセリングを手配しますが」

「結構です」シャワーを使わせてもらい、着替えて人心地がつくと同時に、じわじわと頭が働き始めていた。「先生は、今日のことを何だとお考えですか?」

「……恥を偲んで話します。近年、もちろんあなたが転入してくる前ですが、本校生徒の所持品から麻薬が発見されて大変な騒ぎになったことがあります。当該生徒は退学、当時の校長は責任を取って辞任しました。おそらく飛び降りた生徒たちも、何らかの薬物を使用していたものと……」

 違う、と反射的に答えそうになった。あれは麻薬の症状などではない。もっとたちの悪い何かだ。

「いずれにせよ、今日はもう部屋に帰って結構です。いずれまた話を聞くかも知れませんが……少しでも眠れなくなったり、息苦しくなったらすぐに相談してください」

 わかりました、とだけ夏姫は答えた。言いたいことは山ほどあるのに、どれから口にしていいのかまるで思いつかない。今考えていることは一つだけだった──。何を意味するのだろう?


「表沙汰にはしない……ですって? どういうこと?」

「表沙汰にはしないって意味でしょ」アスミタは肩をすくめる。「ここの生徒の親には警察のお偉いさんがごろごろいるからね。彼らが『いや』って言えば、それまでだよ」

「あの子たちは? 死にこそしなかったけど、実際怪我人が出たのよ?」

「それがね」アスミタは一転、声をひそめた。「アビーたちがかつぎ込まれたのも、アセンプション・バギオ系列の私立病院らしいよ。学園理事長が『カラス』と言ったら、院長は『カー』と鳴かなきゃいけない、なんて言われるくらいの関係らしい。つまり、都合の悪い話なんか一切漏れようがないってこと」

「全力でこの件を闇に葬るつもりね……」

 夏姫は唸った。民主主義社会の態をとった縁故社会、情痴社会なんて日本でもありふれた話ではある。しかし、まさかここまで露骨にやるとは。

 それに──夏姫は思うのだ。これこそがまさに、ヨハネスが私を送り込んだ理由そのものではないか、と。

「これで終わり、だと思う?」

 アスミタが少し真剣な顔になる。「『終わり』の定義にもよるけど……今回は一際派手だったってだけで、実はこの学園、何だかおかしな理由で中途退学していく生徒が年に何人かいるんだ」

「つまり全然終わってなんかいない、まだ始まったばかりだ……そういうことね?」

「……この件に『犯人』がいると仮定して……そいつはまた仲の悪い女の子たちを標的ターゲットにするってことだね」

「でしょうね……ねえアスミタ、他にもああいう出来事があるって言ったわね? もう少し詳しく教えてくれる?」

 アスミタが引き受けるかどうかはかなり賭けの領域だ──ただし夏姫にはかなり勝算のある賭けだった。彼女なら二つ返事で引き受ける、という確信があった。

 案の定、アスミタは聞く前から不敵に笑っていた。「いいよ。正直、ここのおためごかしにはだいぶうんざりしていたんだ。少しぐらい風通しを良くしてやった方がいいんじゃないの?」

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