エピローグ 暁に背を向けて
一夜明けると、島の惨状が目に入ってきた。
半壊していない建物、割れていないガラスはなく、身体のどこかに傷や火傷を負っていない者もいなかった。海賊の生き残りもいたが、前をアイリーナとフィリパが素通りしても、死んだ魚のような目で見送るのみだった。
「この島の人たち、これからどうなると思うー……?」呟くアイリーナの視線の先に、装備を剥ぎ取られた裸に近い兵士の死体がある。島民に追い詰められてリンチされたのだろう。気の滅入る光景だった。
「あくまでも非公式情報だが、首都の方でも政変が起こっているらしい。数日以内に国連平和維持軍が首都入りするという噂もある」フィリパの声にも力がなかった。「いずれにせよ、政府に第二次討伐艦隊を派遣する余裕がないのは確かなようだ。島を脱出するなり、国連に保護を求めるなり、この島の人々が身の振り方を考える時間はある。……それにおそらくこれ以上、私たちがこの島でできることは何もない」
アイリーナはすぐに返事せず、その言葉をしばらく噛み締めた後で口を開いた。「これからどうするー?」
「……本社に戻って、事の顛末を報告するか」フィリパ自身、少しも名案だとは思っていない口調だった。
「何て報告するのよー? 監視対象が全身にトゲトゲを生やしたイカすコスプレマンに変身して、ハイチ連邦海軍を壊滅させましたーって?」
「さぞかし長い休暇をくれるだろうな……」
「もしかしたら永遠に出社しなくていいって言われるかもねー」
しばらく黙った後で、先に口を開いたのはフィリパだった。「ただ一つ、確実にわかったことがある」
「なーに?」
「上層部はリュウ……相良龍一について私たちに伝えた以上のことを知っている。おそらく彼のあの姿のこともな。知っていて、私たちに黙っていた」
「確かに、あの狐親父ならそれくらいの策は弄しそうねー」フィリパの静かだが抑え切れない憤怒を込めた言葉を聞きながら、アイリーナは考えを巡らす。「何で黙ってた、って問い詰めても『聞かれなかったからだよ』とか言いそう」
「彼は
「そうなると、ますます本社に今戻る意味はなくなるわねー……」
少しの間だけ考え込んで顔を上げたフィリパの表情は、わずかだが生気を取り戻していた。「なら、やることは決まった。あの二人を追おう」
「……いいのー?」
「ああ。あの二人は〈白狼〉との接触という目的を果たした。パーフェクトとまでは行かなくともな。ならば次にやることは予想がつく。彼らはもはや逃げ隠れではなく反撃か、反撃に繋がる一手を考えるはずだ。ある程度、行動の先読みはできる」
「そうじゃなくてさー……フィリパ、あなた政治とか社内抗争とか、そういうの苦手なタチだったでしょー? あの二人に関わったら、さらに深入りすることになるわよー? それはいいのー?」
「よくはないが……いや、むしろ私たちは自ら渦中に飛び込むべきなのだ。いま積極的に動いておくことが、きっとこれから先に効いてくる」一つ深呼吸してフィリパは続ける。「それに、この件は……おそらくは〈ダビデの盾〉内部に留まらない、より大きな災厄の先触れに過ぎない予感があるのだ。私たちが動いているのは〈ダビデの盾〉のためにだが、それ以外がどうでもいいわけではない」
「真っ面目ねー」肩をすくめた後で、アイリーナは珍しく遊びのない口調で呟く。「でも、そうねー。あんなのが地獄の鎖にすら戒められず、野放しで地上を歩いているなんて考えただけで眠れなくなりそうだものー。あれはまるで……」
まるで終末そのものだった、続けようとしてアイリーナは口を閉じ、身を震わせる。
「……ところで、フィリパの言ったことは一つだけ間違ってるわねー。私たちにもまだできることはあるんじゃないー?」
「?」
怪訝な顔のフィリパにアイリーナは浜辺のある一点を指し示す。母娘らしい二人の女性が、焼け出された人々相手に炊き出しを行なっている。「あれの手伝いぐらいはできるでしょー」
フィリパの顔が少しだけ和らいだ。「私から見れば、君も充分真面目なんだがな……」
「ケジメよケジメー。事務所に残ってるもの、後で皆に無料放出しましょー。どのみちこの島での稼ぎは本国には持って帰れないしー」
まだ充分に使える高速艇を見つけ、海岸を離れるのは難しくなかった。兵員も含めて乗組員は殺し尽くされていたからだ。
まだおびただしい破片と重油、そして人の一部分が浮かぶ海を、龍一は黙って見つめている。
「連絡はついたよ」船の運転を自動操縦にセットしたアレクセイが船室から出てくる。「沖合で拾ってくれるそうだ」
龍一は頷いたが、正直なところ、話の半分も頭に入っていなかった。
「……アレクセイ。俺たちがあの島に来た意味はあると思うか?」
「なくはない、と思うよ。少なくとも次の一手は打てる。〈犯罪者たちの王〉に迫るための一手が」
「そのために人が死にすぎた」自分でも嫌になるほど陰気な声が出た。「俺がしたことで何人が死んだ? しなかったことで、何人が死んだんだ?」
二人はただ黙って、海を見つめた。多くの鉄と人を飲み込んだ夜明けの海を。
「……僕たちが来なくとも〈黒王子〉は島を見捨てるつもりだったろうし、ハイチ=ドミニカ連邦との蜜月は終わっていたし、〈白狼〉も命懸けで叛旗を翻していた。僕らがやってきたことで、それが一挙に動き出した、とは言えるかも知れない。でもそれが僕らのせいなのか、は微妙なところだね」
「……そうか。俺もそう思えればいいんだが」
「〈白狼〉は、君に死ぬ前、恨み言を言っていたかい?」
「……いや」
彼女の言葉が蘇る──心臓が動いているだけでは、生きているとは限らない。
「龍一。君は確かに甘っちょろい男かも知れない。まあ、あの崇やテシクに比べれば大抵の人間は甘っちょろいけどね」アレクセイは少しだけ笑う。「でも君は、その甘っちょろい部分を捨てずにここまで来た。捨てた方がよほど楽なことを。それを〈白狼〉はわかっていたからこそ応えた──それだけは、誇っていいんじゃないかな?」
アレクセイの言葉が胸に沁みる。だが今の龍一には、それを素直に受け取るには重すぎた。「……アレクセイ」
「うん?」
「……ありがとう。でも、今は少しだけ……一人にしてくれ」
アレクセイは頷き、軽く龍一の肩に触れる。「何かあったら呼んでくれ」
「……ああ」
船室に降り、アレクセイは額の汗を拭う。
(やはり、だいぶ参っているらしいな……)
平生の龍一なら、今の自分の言葉に絆されるはずもない。
「全く、重たい宿題を残してくれたものだよ〈白狼〉……」
アレクセイはスマートフォンを取り出し、中に収められているデータを展開する。一見するとただの支離滅裂な文字の羅列にしか見えない見出しの、動画やテキストファイルを。おそらくは〈白狼〉が死の直前、アレクセイに送信したのだろう。妙に残り容量が少ないなと思いながら調べたアレクセイは、そのデータの膨大さと内容に自分の目を疑ったほどだった。
「……〈白狼〉は死んでも〈白狼〉、か」
大したものだ、とアレクセイは舌を巻く。〈白狼〉が死の直前まで集め続けた、ヨハネスの一大犯罪〈王国〉の詳細な調査だ。政府に流れ込む黒い資金の流れ、その資金洗浄システム、政府から依頼される反体制家やジャーナリストの暗殺指令、違法薬物・技術・兵器の流通ルート……高塔百合子もかなりいい線行ってはいたが、量といい質といい比べ物にならない。
もちろんこのデータのみで〈王国〉の息の根は止められない。それなりの人員や資金、作戦は必要になるだろう。しかし今までとは格段に有利に、これからの戦いを進められるのは事実だ……。
これを自分に託したということは──アレクセイは一人考え込む。
(〈白狼〉……君は龍一ではなく、僕がヨハネスを殺すべきだと思っていたのか……?)
〈白狼〉の言葉を思い出す──君のその名は、本当に君自身の名なのか? 君が〈ヒュプノス〉となる前の、君にとってかけがえのない誰かの名なのではないか?
「……そんなはずはない」
自分で発した言葉に、自分で愕然となる。
しかし、だとしたら〈白狼〉はどちらの僕がヨハネスを殺すべきだと思っていたのか。地上でたった一人となってしまった〈最後のヒュプノス〉の僕? それともずっと昔、〈ヒュプノス〉となる前の僕?
答えはない。あるはずもない。
わからないよ〈白狼〉──君は、僕に何を託していったんだ?
龍一はまだ海と、水平線の彼方に消えゆく〈海賊の楽園〉を見つめていた。龍一の視力でも、もう波の間に、微かにしか見えない。
日が昇る。ただでさえ色鮮やかなエメラルドの海が、目も眩む黄金色に染まり、龍一は目を細める。
〈白狼〉の最後の言葉を思い出す。
──彼女は生きて、〈犯罪者たちの王〉の下で生き永らえている。だが、君の助けが必要なことに変わりはない。
(……まだ、やるべきことがある)
少なくとも、そう信じることはできる。龍一は少しだけ、拳を握ってみる。
目を離した一瞬の間に、島は見えなくなっていた。龍一は踵を返し、船室に降りる階段に足をかける。今の彼に、南国の海と陽の光は眩しすぎた。
(相良龍一の章・南海の蠱毒 完)
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