南海の蠱毒(7)〈白狼〉最後の咆哮

〈海賊の楽園〉討伐作戦はほぼ龍一の読み通り推移した。沖合からの艦砲射撃で島内の無線通信・電力インフラを破壊、抵抗勢力を叩き潰しつつ地上部隊を揚陸させる。正規軍に対して行うような第一波の攻撃は、せいぜいが武装民兵程度の海賊相手にはいささか過剰殺戮オーバーキル気味ですらあり、ものの数分で〈海賊の楽園〉の軍備はその指揮系統を修復不可能なまでに引き裂かれていた。

 だが、龍一が読み切れていなかった要素がある。

 HWだ。


【夜半過ぎ 〈海賊の楽園〉港湾部】

「リュウ……おい、リュウってば!」

「聞こえてるからあまりでかい声を出さないでくれ……頭に響く」

 ザジの耳元で響く声に、龍一は顔をしかめながら起き上がる。少しの間気を失っていたらしい。〈奔流〉の参加者たちは姿を消しており、ザジとペックしかこの場にはいない。どうやら、二人がかりで龍一の身体を甲板まで引っ張り上げたらしい。

「リュウ、どうしよう……ダニーがいないんだ」ザジの表情はまるで迷子の子供のようだった。

「いないって、どういうことだ?」

「わかんねえ。海に投げ出されたのか、一人で逃げたのか……他の奴らもみんな死にたくねえだとか、家族が心配だとかで帰っちまった。もう〈奔流〉どころじゃねえよ」

「……確かに、それどころじゃなさそうだな」

 ザジの背後の港──そしてその背後の市街地は、燃え盛っていた。港への突入こそ〈白狼〉のオーバーライドで回避したものの、完全に陸地へ乗り上げた〈トリアイナ〉の甲板上からはその惨状がよく見て取れた。

 港に停泊していた改造漁船や戦闘艇で、見たところ被害を免れたものはなかった。炎上するか、転覆するか、または炎上しながら転覆していた。建物の中から掃射音が鳴り響き、転がり出てきた海賊たちが背後からの銃火に引き裂かれた。夜空を切り裂いて沖合から飛来する砲弾が一発ごとに一区画を吹き飛ばし、破壊はとどまるところを知らなかった。炎に包まれた市街地の上空には、戦闘ヘリが死神を連想させる不吉なシルエットを見せつけながら飛び交っている。

「なあ、リュウ……俺の家まで一緒に来てくれないか」

「あんたの?」

「あそこなら車も、バイクもある。逃げるにしろ足回りは必要だろ……どっちみち、餓鬼どもをほっといて逃げらんねえよ」

 龍一は迷った。エドワードの裏切りが発覚した以上、この島にこれといった義理はない。むしろ一刻も早くアレクセイたちと合流した方が得策だ──だが。

「子供の命がかかってるんじゃ、否応はないな」


【同時刻 〈海賊の楽園〉地下、〈黒王子〉専用潜水ドッグ】

 黒光りする装甲の隙間から覗く死人色の肌。ぎらつく金属の牙と、死神を思わせる巨大な鎌が左右から襲いかかってくる。人間蝙蝠たちのコンビネーションは見事としか言いようがなかった。並の兵士や格闘家では、太刀打ちすらできずに全身を切り裂かれるだけだろう。おそらく本物の蝙蝠同様、超音波で互いに交信しているのではないか。

 牙を突き立ててくる人間蝙蝠の顎を掌打で跳ね上げる。反対側の人間蝙蝠に肘打ちを見舞い、突き放して距離を保つ。なおも首を目がけて薙いでくる巨大な鎌を飛んで躱し、頭上を飛び越えて背後へ──

 その瞬間に爆発した。バランスを崩し、岩盤の上へ転がり落ちる。

 またも血と肉片が全身に降りかかってくる。口の中にまで少し侵入してくるが、吐き出す隙も嫌悪感を覚える暇もない。

『爆発は任意だ、間抜けめ。何なら一体一体、〈糸〉で縛り上げて動かなくしてからのんびり解体したらどうだ? そんな暇があればの話だがな!』

 まるで一角獣のように額から長大な金属のスパイクを突き出した人間蝙蝠が突進してくる。身を開いて避け、拳で打つ──と見せかけて〈糸〉を前方に放つ。形状記憶合金製の〈糸〉は切るのではなく突き刺すこともできる。視覚ではもちろん、空気をほとんど震わせない。

 だが、人間蝙蝠は身を沈めてそれまで躱した。振り回されたスパイクが胸部を強く打ち、息が詰まってしまう。

『〈糸〉ってのは確かにとんでもない武器だな。切ってよし、刺してよし──だが相手に触れられないんじゃ意味はないだろう』

 エドワードがご丁寧にも解説してくれる。そう、先ほどからアレクセイの〈糸〉は一度たりとも獲物を捕らえていない。こんな霞を切っているような手応えのなさは、相良龍一との戦いでさえ感じたことはなかった。

『アレクセイ、打つ手がないのか? 私が手を貸そうか?』

「……いや」

 口の中に血の味を感じながら、アレクセイは〈白狼〉の申し出を拒んだ。なぜかは、自分でもはっきりとはわからない。

 緩慢な足取りで、だが人間蝙蝠の群れは四方からじりじりと距離を詰めてくる。〈糸〉が通じない以上、突破は不可能だ。

『こいつらがどうして、こんな親でも見分けがつかねえ姿になっちまったかは俺も知らねえ。まあ、知りたくもねえがな』ふとエドワードの口調が変わった。『騙されたのかも知れねえし、末期癌で世を儚んだのかも知れねえ。それしか家族を食わせる方法がなかったのかも知れねえ。だがどんな経緯でなろうと、今は無関係だ。殺しのスーパーエリート様である〈ヒュプノス〉がこいつらを見下したって無理はねえ。糞とダイヤモンドぐらいの違いがあるからな』

 ふと、アレクセイは顔を上げた。そんなはずはないのだが──性別すら定かではない彼ら彼女らの皮膚の下を、遥か昔、生身の人間だった頃の素顔を、一瞬だが幻視したように思えたのだ。

『こいつらにはチューブで与える栄養剤以外、食事も睡眠も必要ねえ。陽の光に目を細めもしなきゃ、花壇の手入れをしながら土の感触を楽しみも、若い頃に聴いた音楽を聴いて思い出に涙することもねえ。人間を人間たらしめる今までの人生の記憶も、一欠片の知性も教養も全て残らず「噛み砕いて捨てられ」ちまったからな。そんな人間サイズの鰐どもに、自分がただの人間なのか、それとも地上でただ一人の〈ヒュプノス〉の死に損ないなのかわからずふらふらしてる若造が寄ってたかって細切れにされるのは、なかなかシャレが効いてると思わねえか?』

『アレクセイ、君に彼らを殺す気がなくとも、彼らの方で君を殺すぞ。どうするつもりだ?』

「〈白狼〉」

『何だ?』

「黙っていてくれないか」

〈白狼〉が沈黙した。

『……どうした、諦めちまったのか?』わずかにエドワードの声が訝しげになる。『勝負を投げやがって……俺様が慈悲の心に目覚めるとでも思うのか? くだらねえ野郎だ。興味も失せた。死ね』

 彫像のように立ち尽くすアレクセイを取り囲む人間蝙蝠たち。それぞれの得物を構えて一歩踏み出し、


「──


 音も、光も、空気の震えすらなく。

 

 アレクセイがそう呟き終えた時、全ては終わっていた。血飛沫も、爆発もない。だが人間蝙蝠たちは間違いなく、倒れもせずに絶命していた。

『馬鹿な……』質の悪い回線越しでさえ、エドワードの声はわななきを隠し切れていなかった。『この数を一瞬で、しかも爆弾の信管を作動させずに……』

「……〈ヒュプノス〉の武器が〈糸〉と徒手格闘だけだと思っている君には、一生理解できないだろうね。それとも、単なるリサーチ不足かな?」全身血と肉片まみれの凄惨な姿と不似合いなほど、アレクセイの声は穏やかで、優しかった。

『〈同調〉が復活したのか。だが、なぜ?』

「僕にもはっきりとはわからない……だが彼ら彼女らに黙って八つ裂きにされることが、償いにも供養にもなるとは思えなかったのは確かだ」

 それにしても、本当になぜだろう? 他の〈ヒュプノス〉が全て絶えていても〈同調〉は使えるのか? アレクセイは考える。実は僕こそ〈ヒュプノス〉についてわかっているつもりで、何もわかっていないのかも知れない……。

「さて〈黒王子〉。これで君と僕の会話を邪魔するものは何一つなくなったと思うけど、どう思う?」

『どうもこうもあるか!』飛んでいる唾まで見えそうな怒声。『俺はこの島を出ていくんだ。指を咥えて見てろ!』

 アレクセイは大袈裟に溜め息を吐いた。「そんな恥ずかしがり屋さんだとは予想もしてなかったな。大丈夫、そちらから来てもらうから」

『何を』

 不審そうなエドワードの声は、彼自身の悲鳴にかき消された。

「ありがとう〈白狼〉。大まかな見当はついていたけど、確証があるわけじゃなかったからね」

『礼には及ばない。君のサポート役なのに、ただ君が自分で自分を救うのを黙って見ているだけでは申し訳ないからな』

 そんな会話をしている間にも、ろくに舗装もされていない坑道を見えない何かに両足を縛られて引っ張られるエドワードが凄まじい勢いで引きずられてきた。服はほとんどぼろ切れと化し、顔と言わず胸と言わず腹と言わず全身傷だらけで、生きたままミキサーに放り込まれたような悲惨な有様となっている。アレクセイが〈糸〉をほどいても、身を起こすこともできない様子だった。

「僕を始末した後、潜水艇で悠々と脱出するつもりだったみたいだね。悪くはない。僕以外の相手なら」

「ふざけんな……」眼帯で守られていた右目は無事だったが、左目は腫れてほとんどふさがっている。息をするのもやっとのようだ。「〈白狼〉は俺のものだ……俺は〈白狼〉の下僕であり、〈白狼〉もまた俺の下僕なんだ。だから……誰にも渡さねえぞ……」

「君は彼のものなんだそうだ。何か言ってやりなよ、〈白狼〉」

『責任を感じないわけにはいかないな……確かに彼がいなければ今の私もなかったのだが、それとこれとは別だ。私は出て行きたい時にここを出ていく。それを彼が最後まで理解し得なかったのは残念だ』

 腫れた瞼の下からエドワードがこちらを見る。「さっきから何をぶつくさ呟いてやがる? 〈白狼〉の声は俺にしか聞こえないんだぞ?」

「ああ、ね。は、呆れて言葉もないそうだよ」

 エドワードの目が見開かれる。「〈白狼〉がお前らにも話しかけてるってのか……? そんなの嘘だ……!」

「なるほど、確かに君は責任を感じるべきだろうね。人間だろうと、電子生命だろうと」

『返す言葉もない』

「……嫌だ! 〈白狼〉はお前らに渡さねえ! これだけが俺に残ったものなんだ!」エドワードは必死の形相で、引きずられながらも離さなかった何かを抱きかかえる。

「よく言うよ……それ以外のものは自分から捨てた癖に。〈白狼〉、あれが君の言う〈固定点〉なんだね? 本当にいいのかい? あれだって君の一部なんだろう?」

『一部だ。構わない、やってくれ。これをもって私は過去と訣別する』

 アレクセイがわずかに指を動かした──それで終わった。

〈糸〉がエドワードの腕をすり抜け、彼の抱きかかえていた水槽を両断して中身を彼の全身にぶちまけた。

 エドワードが一度も聞いたことのないような金切り声を上げた。彼の全身は〈白狼〉の大脳とその保存液まみれになっていた。

「……僕がこちらに回された理由がわかったよ。龍一では必要と理解していても、できないだろうからね」

『適材適所だ』

 住処に火をつけられた野鼠を思わせる速度でエドワードが逃げる。アレクセイは腕を振り上げかけたが、すぐに思い直してやめた。

 全身傷だらけのエドワードが感心するほどの速さで潜水艇のハッチをくぐる。数秒後、潜水艇が静かに潜航を開始した。

『……見逃すとは意外だな』

「是が非でも殺したい相手でもないからね。それにその必要もない」

『ほう?』


〈白狼〉の大脳と保存液で世にも惨めな外観になったエドワードの頭は、逃げることしか考えられなかった。だから気づいた時にはとうに手遅れだった。

 潜水艇の速度を上げようとした瞬間、嫌な音を立ててスクリューが停止した。

 後部モニターで確認したエドワードは絶句した。スクリューも、それを支えるシャフトも、そして自らの力に耐えかねたように捻れている。〈糸〉はそれらだけでなく、方向舵にまでびっしりと絡みついていた。

 動力を失った潜水艇は、浮上もできず沈降していくしかない。

 エドワードは悲鳴を上げたが、分厚い耐圧ガラスと膨大な海水に阻まれてそれを聞く者は誰もいなかった。


 エドワードの断末魔代わりに無数の水泡が浮き上がるプールを見て、アレクセイはようやく息を吐いた。百点満点とは言い難いが、目的は達せた。

「支配人? こちらは目的を果たした。今から……」

『いけません、こちら……戻っ……』いつになく緊迫した声が返ってきた。雑音もひどい。『討伐……攻撃……』

「どうしたんです!?」

『言う暇もなかったが、討伐艦隊による艦砲射撃だ。ホテルも砲弾を浴びている』

 アレクセイは絶句した。人間蝙蝠との死闘の間に、事態は急速に悪化したらしい。

『今ホールに戻るのは危険だ。島の反対側へ抜けるしかない』

「しかし、ここからどうやって」言いかけたアレクセイの目が満々と水をたたえた天然のプールを捉える。「……なるほど」

 激闘を経た後の素潜りはなかなかきつそうだ、意を決して彼は準備体操を始める。


【同時刻 〈海賊の楽園〉商店街】

 街は見る影もなく変わり果てていた。屋台や露天売りはとっくに姿を消しており、見える範囲で屋根や壁が吹き飛んでいない商店、窓ガラスが割れていない店舗は一軒もなかった。何しろ燃える自分の店にバケツで水をかけている店主の頭上から砲弾が降ってくるのだ。他人のことを思いやる余裕など誰も持ち合わせていなかった。

 どうにもならなかった。被害を抑えるための消火活動も避難活動も、個人や商店レベルでしか行えていない。

〈緑の目の令嬢〉亭の前まで、正確にはそれがあった場所まで来た。砲弾は店のあった区画を丸ごと吹き飛ばしていた。看板の破片と、店の土台、そしてもしかしたら龍一たちが座って飲み食いしたのかも知れないテーブルや椅子の残骸だけが店の名残だった。女店主や給仕の娘がどうなったのかはわからない。無事であってくれと願うしかなかった。

 この島はもう終わりだな、龍一は胸の奥が急速に冷えていくのを感じた。たとえ生き残りがいたとしても、島の各インフラは修復不可能なほど引き裂かれている。〈白狼〉が生体インフラとなってかろうじて成り立っていた島だ。そしてその〈白狼〉もまた……。

 微かな疑問が生じた。本当に、このまま去るのが正しいのだろうか。

 自警団も抵抗を続けていたが、火力の差は如何ともし難かった。防衛線を突破されれば、後はピックアップなどの非装甲車両と手持ち火器程度の軍備しかないのだ。沖合の討伐艦隊を攻撃する手段もない。自棄になって空へ機銃を乱射していた軽車両がヘリからの機銃掃射で穴だらけになり、全身に銃火を浴びながら移動トーチカとして死に物狂いで戦っていた〈ザッハーク〉が天からの砲弾で粉々に消し飛んだ。

 龍一は気づいた。HWによる弾着観測だ。市街地に侵入している無数のHWから送られてくるデータを元に砲撃を修正しているのだろう。おそらくはHWを全て排除しない限り、〈海賊の楽園〉の重要拠点を襲う艦砲射撃は続くことになる。

 いや、もしかしたらそんな必要もないのかも知れない。島の事実上のカリスマである〈黒王子〉エドワードがこの島を見捨てた時点で、島の凋落は始まっていたのだろう。

 突然ザジが、あああああ、と奇妙な叫びを発して凄まじい勢いで走り出した。「やめろ! やめてくれ!」

 龍一は息を呑んだ。

 死神を思わせるシルエットの戦闘ヘリが、行く手にある粗末なバラックに向けてロケット弾を斉射した瞬間だった。

 大音響が沸き起こった。建物と、その中のガラクタと、そして人の破片が焼けながらばらばらと落ちてきた。もがれた人形の手足のように見えるそれの何本かは、確実に年端も行かない子供たちのそれだった。

 龍一とペックと二人がかりでザジを路地裏に引きずり込まなければならなかった。なおもザジは両腕を振り回し続けていて、龍一の顔にまで何本もの引っ掻き傷が走った。

 のろのろとザジは顔を上げた。汗とも涙とも鼻水ともつかないものが顔を汚していた。「……最後の頼みだ、援護してくれ」

「最後って……ザジ?」

「頼む」龍一ですら黙らざるをえない不気味な静けさでザジは呟くと、懐から一本の無針注射器を取り出した。表面には〈NECTOR〉と書いてある。「リュウ、ペック……今までありがとうな」

 一瞬の躊躇いもなく、ザジは首筋に注射を打ち込む。

「ザジ!?」

 止める間もなく、ザジは路地を飛び出した。龍一は目を見張らずにいられなかった。ヘリからの機銃掃射が始まるが、一発も当たらない。

 地を蹴り、屋根に飛び上がり、焼け崩れた建物の壁を駆け上がってさらに高く高く跳躍する。

 機銃弾がついにその動きを捉える──ザジのシルエットが、血飛沫とともに銃弾の雨を受けてその輪郭を崩す。

 だがザジは既に目的を達していた。射出されたワイヤーアンカーは、確実にヘリのローターを捉えていた。

 ローターが回転する勢いそのままにザジの死体を巻き取り、そしてその懐にはC4爆薬がある。

 戦闘ヘリのパイロットの悲鳴が龍一の耳に届いたような気がした。

 ローターとザジが一体となり、そして巨大な火球となってヘリを飲み込んだ。夜の底が赤々と照らされるほどの大爆発だった。

 龍一も、ペックも、声一つない。

 一瞬遅れ、ヘリの残骸とザジだったものがばらばらと降ってきた。

 ペックはやがてのろのろと動き出し、ポケットから何かを掴み出して龍一に手渡した。釣られて受け取ると、それはバイクのキーだった。彼は黙って路地の奥、ビニールシートが被された何かを指差す。

 視線を戻すと、ペックが黙って踵を返すところだった。行く手にはまだ燃え続けるバラックがある。

「ペック」

 龍一は呼びかけたが、何を言うつもりなのか自分でもわからなかった。引き止めるかどうかさえわからなかった。ペックの髪も服も、既に小さな炎が取り憑いて燃え始めていた。

 彼は黙って、炎の中に消えていった。


 ビニールシートを引き剥がすと、そこには中古だがよく手入れされた大型バイクがあった。ペックの私物だろうか。

 キーを回すと、エンジンが低く頼もしい音を立てて始動する。燃料も充分だ。

(……行かなきゃ)

 まだ、やるべきことがある。

 不意に目の奥が熱くなり、龍一はそれを堪えなければならなかった。


【同時刻 洋上 ハイチ=ドミニカ連邦海軍討伐艦隊旗艦 〈海神アグエ〉艦橋】

「……以上が、現時点での戦況となります」

「素晴らしい……」差し出されたタブレットの画面を見て、討伐艦隊総司令官でもある〈アグエ〉艦長は十代の少年よろしく目を輝かせる。「前線のHWから受け取った弾着データを基に、こうも海賊どもの拠点を正確無比に狙い撃てるとは」

「戦術データリンクシステムと、当方の主商品たるHWの結合による賜物ですわ」横幅だけなら自分の三倍ほどありそうな堂々たる押し出しの艦長を前に、小柄な金髪の若い女はにこやかに答える。イタリア製らしきオーダーメイドのレディススーツもオレンジ色の救命胴衣(これは階級に関係なく艦橋の全員が着なければならない)を上から着ていては台無しだが、本人は気にした様子もない。

「情けない話だが、我が軍の誘導兵器システムは二世代から三世代前が幅を利かせている有様だからな……偉大なる我が祖国、南海の覇者たるハイチ=ドミニカ連邦を破綻国家呼ばわりする欧米の経済封鎖によって、技術革新もままならない。自律制御ドローンや量子通信システムなど、夢のまた夢だ」

「ええ。そこでHWの出番となるわけです。前線の兵士と重戦闘兵器、そして総司令官を繋ぐ歯車ギア。たとえ歩兵たちに容赦なく出血を強いる危険極まりない市街戦であろうと、前線の兵士たちのさらに一歩先を『露払い』するHWが、偵察機やドローンの代替まで果たす。数さえ揃えれば、HWのデータリンクは即座に開始される。しかもHW特有の思念共有ネットワークにより、一切の傍受も妨害も不可能です」

 説明を聞く艦長は感極まったように唸る。さすがに本職だけあって、今の説明の重要さを即座に理解したらしい。

「肝心の火力もローコストで補えます。旧来の無誘導砲弾や投下爆弾に少量の追加パーツを取り付けるだけで、欧米列強と比べても遜色のない誘導性能を得られるのです。古色蒼然とした旧世代の兵器であろうと、HWと組み合わせれば戦力は倍増できる。ご満足いただけると思いますわ」

「しかし……」だがそこで艦長は何らかの不安を覚えたらしい。年齢は二倍、横幅は三倍ほど離れた若い女に、まるで内緒話でもするように小声で話しかけるのは滑稽極まりない(そもそも、ここは他の士官たちも行き交う艦橋である)のだが、本人は大真面目だ。「一個大隊相当のHWと何万発分もの砲弾近代化改修キットを提供して、その見返りが海賊の掃討とは……本当にそれだけでよろしいのですか? ええと……お使いの方」

「『アンジェリカ』で結構ですわ、艦長……いえ、総司令殿」合点したように若い女は頷く。「あの方のお望みは〈海賊の楽園〉一掃。付随条件はございません。御国の大統領閣下にも、その件はお伝え済みです」

「それなら、ええ、異存はありません。ええありませんとも、ミス・アンジェリカ」たちまち艦長は顔を輝かせる。「それが当方の使命ですからな」

「そうですとも。そしてこのカリブの海に平和をもたらした南海の覇者として、総司令、あなたが不朽の名声をものとしてくださいませ」

「南海の覇者、か」艦長は感激のあまり目を潤ませている。もしかしたら本当に南海の覇者となった己を幻視しているのかも知れない。

 アンジェリカは慈母のように頷いてやりながら、脳裏に彼女の主──〈犯罪者たちの王〉がかつて言った「肥えていく豚は幸せではない」という言葉を思い出している。


【同時刻 〈和平ホテル〉正面玄関】

 ホテルの前でバイクを停め、龍一は目を見張った。小銃を持った男たちが数人、血を流して事切れている。正規軍の制服ではない。

(……エドワードの手勢か)

 玄関から入ってすぐ、腹と太腿からおびただしい鮮血を流してカウンターにもたれているウェイ支配人の姿が目に入った。傍らには弾丸を撃ち尽くしたAKが投げ出されている。

「おかえりなさいませ……と言いたいところですが、見苦しいものを見せてしまいましたね」

「何を言ってるんだ! すぐに手当を……」

 駆け寄った龍一を、支配人は首を振って制した。「大陸で、こんな傷を負ったものを何人も見てきました。致命傷ではなくとも、この島の設備では絶対に助かりません」

「そんなヤケにならんでくれ……血だけでも止めないと」

「いいえ」支配人は首を振る。「もう私は動けませんし、動くつもりもありません。ただ最後に、あなたに一つ頼みたいことがあります。あの子を連れていってくださいませんか」

「あの子?」

 軽い足音に龍一は振り向いた。その影の小ささに驚いたのか、そんな近くに接近されるまで気づけなかったのに驚いたのかは自分でも判然としない。

 白いワンピース姿の、十歳前後の少女だった。目鼻立ちが似ているのを見ると支配人の娘だろうか。いや──龍一はすぐに気づいた。よくできてはいるが、近くから見れば頭髪や皮膚の質感でわかる。これは人間そっくりに造られた人形だ。

『おかえり、龍一。アレクセイは目的を果たしたよ。事情があってすぐに合流はできないが』人形の口元から〈白狼〉の電子合成音が流れ出た。唇が全く動かないので奇妙な印象を受ける。『〈固定点〉が破壊された今、この人形が私の身体だ。真っ直ぐに歩いて喋るくらいしかできないが、新たな〈固定点〉として不足はないだろう』

「〈白狼〉……か?」

『おかしな顔だな。私のを見ておいて、今さら驚くこともないだろう』

「私の娘を模して作りました」支配人が笑おうとして、苦痛に顔を歪めた。「生きていれば龍一様、あなたと同じぐらいでしょう。未練もたまには役に立つ時がありますな」

『龍一、私を〈首縊りの丘〉まで連れていってくれ。設備は破壊されたが、回線自体は生きている。そこから私が電海に潜れれば、君たちがこの島に来た目的は充分に果たしたと言える』

 それ自体は喜ぶべきことのはずだった。だが、この割り切れなさは何だろう。

「行ってください、龍一様」龍一の逡巡を見透かしたように、支配人が口を開いた。「あなた方が生きていれば、それが私の勝ちなのです」

『支配人。今まで世話になった』

「……もったいないお言葉です。〈白狼〉様」

 時間がないのはわかっていても、それを言うまでに努力を要した。「チェックアウトだ、支配人。今までありがとう」

「当ホテルを利用いただき誠にありがとうございました。道中のご無事をお祈りしております」

 建物が揺れた。砲撃が近づいている。龍一は踵を返し、玄関へと向かった。ぺたぺたという裸足の足音が後ろからついてくる。最後に振り返ると、もはや支配人は微動だにしていなかった。


【同時刻 洋上 〈アグエ〉艦橋】

(〈黒王子〉はアレクセイに返り討ち、相良龍一と〈白狼〉は今だに確保できず、か……)

「あの、お使いの方……?」

 考えが無意識に言葉になっていたらしい。艦長が気遣わしげにこちらを見ている。

「何でもありませんわ。『アンジェリカ』で結構ですわ、総司令殿」気遣いのできる男も良し悪しね、と思いながらアンジェリカはにこやかに笑ってみせる。「前言を訂正させていただきます。先ほどの条件に、もう一つ付け加えさせていただいてよろしいでしょうか?」

「はい……?」


【〈海賊の楽園〉商店街大通り】

 市街地は燃えに燃え続けていた。港や海岸線に配置されていた重戦闘兵器はその大半が艦砲射撃で叩き潰されており、散兵スカーミッシャーとして自警団の防衛線をいとも容易く突破してきたHWたちは、弱々しい抵抗を嫌になるほどてきぱきと片付けている最中だった。

 後部座席に〈白狼〉を乗せ、龍一はひたすらバイクを走らせる。この街はもう駄目だな、と思いながら。

『……龍一!』

〈白狼〉の警告よりも先に身体が反応していた。燃え盛る街の中で何もせず立ち尽くしていたはずの数体のHWが、一斉に銃口を向けてきたのだ。まるで人形が急に生命を吹き込まれたような唐突さで。

 タイヤを軋らせ、銃撃をかろうじて躱した。手近な路地へ走り込む。おかげでそこにあったゴミ箱やガラクタを蹴散らすはめになったが、命には換えられない。

「どういうことだ? 急に動きが変わった……」

『あの数体だけではない。付近の隊列も動きを変えている』

 皮膚で感じ取れた……まるで龍一と〈白狼〉を四方からじりじりと包囲するように。いや、実際そうなのだろう。

「やっぱりな。結局は強行突破になるのか」

 まあいい、と呟く。自分が強がっているのは承知しているが。「いつものことだ」

 スロットルを全開に。一気に路地裏から反対側の通りへ抜ける。

 上手い具合にHWの小隊の背後へ飛び出した。こちらに銃を向けるHWへバイクごと体当たりして弾き飛ばす。バイクを倒れるぎりぎりまで倒して走りながら路上の鉄パイプを拾い、一振りで二体のバイザーを同時に叩き割った。

『鮮やかなものだな』

「基本に立ち返っただけだ。棒とヌンチャクとトンファーさえあれば、大抵は事足りる」

『それで事足りるのは君ぐらいではないのか?』

 上空から聞こえてきた爆音に、龍一は身をすくませた。先ほどザジが命と引き換えに撃墜したのと同タイプの戦闘ヘリが急速接近してくる──だが、その飛行に狂いが生じた。まるで龍一たちのバイクを見失ったかのように、ふらふらとあらぬ方向へ飛び去っていく。

「そっちも絶好調みたいじゃないか」

『ネットに接続されているものなら、大抵はどうにかなる』


【同時刻 洋上 〈アグエ〉艦橋】

『目標、なおも高速移動中』

『どうなっているんだ? 周辺地域が隠蔽マスキングされている。目視だけでなく各センサーにも反応がない』

『こちら砲撃班、HWからのデータリンクはどうした? 目標を指示してくれないことにはこちらも撃てないぞ』

 送られてくる報告に艦長はひたすら困惑していた。「一体どうしたというんだ? 相手はバイク一台だろう? 何をそんなに手こずっている?」

 役立たずどもめ、とアンジェリカは口中で呟く。「寄せ集めの雑兵とHW程度では動きも止まらないか」

「……ミス・アンジェリカ?」考えが無意識に言葉になっていたらしい。

「総司令殿。前線の部隊では不足です。〈農業神アザカ〉の投入を。あれも改修済みですから、HWと同一のシステムで運用できます」

「は……いや、しかし……」艦長は目上の者の面白くないジョークでも聞いたようにどうにか作り笑いを浮かべてみせる。「あれは実戦テストもまだの機体で、あくまで予備の……」

 気まずい沈黙が艦橋に立ち込めた。自分たちの総司令が、高圧的な口調で叱責されて機嫌を損ねない軍人などいない。責めているのが見るからにアッパークラスの白人の小娘とあってはなおさらだ。

 やりすぎたとは思ったが、撤回するつもりもなかった。「私の言葉は〈犯罪者たちの王〉の御言葉とご理解ください」

「ただちに」怒りと屈辱を堪えるためだろう、艦長はうわべの丁寧さをかなぐり捨てて極力事務的な口調で命じた。「〈アザカ〉投入準備!」


【〈海賊の楽園〉商店街大通り】

「くそっ、いい加減しつこいな……」

 バイクを駆る龍一の口から思わず罵声が漏れる。後方から追いすがってくるHWの一隊は、まるでサーフボードのような半飛行機器を脚部に装着しているのだ。ろくに舗装などされていないのに加え、倒壊しかけた建物や散乱した瓦礫、それにぴくりとも動かない死体を避けるために龍一はあらゆるテクニックを発揮しなければならなかった。ペックの遺品となったバイクは見事にそれに応えてはくれている。だが、振り切れない。直線の速さでは劣るが、障害物などなきもののように移動できるHWとの差だ。ひゅんひゅんと音を立てて銃弾が耳のそばをかすめる。

『HW以外の追跡がなくなったな』少女の姿で後部にまたがっている〈白狼〉が解説する。『私への対策だろう、ハッキングを警戒したか。なるほど、確かに生体的なHWに私は侵入できない』

「理屈はわかったが、何か手はあるのか?」

『ない。君が頼りだ』

「気安く言ってくれる……」

 龍一はスロットルを絞った。たちまちバイクの速度が落ち、追ってくるHWたちとの相対距離が縮まる。龍一は一瞬ハンドルから手を離し、鉄パイプを一閃させた。バイザーを叩き割られたHWが二体、バランスを崩して横転する。

「……もう一丁!」

 龍一はバイクのシートを蹴って宙へ飛び、傍らの建物の壁を蹴ってさらに跳躍。槍投げの戦士よろしく鉄パイプを力一杯投げた。HWが操るサーフボードの前方に命中、つんのめったHWが前方へ投げ出される。反動を利用して宙を泳ぎ、再びバイクシートへまたがる。

「見ろ。言うほど気安くないだろう?」

『……今の一連のアクションをこなしておいて感想がそれなら、君の常識はだいぶどうかしているぞ』

 生き残りのHWがなおも銃撃を加えようとする──が、それは不意に出現した爆発と火球に阻まれた。まるで人形のようにHWの一隊が吹き飛ぶ。

「リュウ、無事か!」

 後方から接近してきたのはランドローバーのハンドルを握るフィリパと、身を乗り出してロケット砲を構えるアイリーナだった。二人とも顔が煤けてはいるが元気そうではある。

「そっちも無事だったのか。よく位置がわかったな?」

「死にかけたがな。第一、今の街中をバイクでぶっ飛ばすのは君たちくらいのものだ」

「その子が〈白狼〉なんでしょー? 後でインタビューできるー?」

「本人が『うん』と言えばな」

『〈犯罪者たちの王〉が共通の敵なら異論はない。イスラエル系軍事請負企業のエージェントよ』

 愛想のない子ねー、とアイリーナが口を尖らせる。

『……ただし、その前にまた厄介者を相手取る必要があるが』

 遥か後方で轟音が届いた。上空を通過した大型輸送ヘリが、去り際に何かを投下したらしい。

 バックミラーで確認した龍一は目を疑う。「何だありゃ?」

 ガシャガシャとやかましい金属音を上げて何かが後方から走ってくる。車輪でもキャタピラでもなく、二本脚なのに異様に早い。全部で三体。

 それの外観は奇形の鵞鳥、あるいは直立した蟷螂を思わせる。センサーの集中する頭部には機銃を、ボディには連装式のロケットランチャーを備えているからには兵器なのだろうが、

『市街戦用二足歩行ドローン〈アザカ〉だ。しかしデータベースにもないタイプだな……ずいぶんと改修されているようだが……?』

「ドローンなら君の専門じゃないのか?」

『いや、待て……龍一、あれの背部を見ろ!』

 龍一は眉をひそめる。金属の駝鳥の背に、確かに人型の何かがへばりついている。いや、より正確に表現すれば埋め込まれている。

「……何だありゃ? まさか、あれもHWなのか?」

『ハッキング対策にドローンとHWを合一化したのか。確かに私向けだな』

 ランドローバーのハンドルを握るフィリパが、合点したように唸る。「HWの人格共有ネットワークへ既存の兵器を強引に組み込む、か。それなら確かに通常の電子妨害E C Mは通用しない」

 走る〈アザカ〉のランチャーが持ち上がり、弾体を射出。通りの真ん中で大爆発を起こして大量の炎を撒き散らした。火薬とも違う粘性の高い炎は、紛れもなくナパーム弾によるものだ。行く手を炎で塞がれたフィリパが必死の形相でハンドルを操って避け、アイリーナが慌てて車内に頭を引っ込める。

「髪! 髪が焦げるー!」

「ナパームの炎相手に髪で済めば僥倖だ! 頭を引っ込めろ!」

 ランドローバーが一台の〈アザカ〉に車体ごと体当たりする。互いにもつれ込むようにして燃える民家へ突っ込む。

 龍一も安穏とはしていられなかった。残る二体の〈アザカ〉が機銃を連射しながら走り寄ってくるのだ。

『龍一、どんな形でもいい。あいつに侵入口を作れ。HWには無理でも、メカニックな機構には通じるかも知れない』

「それで何とかなるんだったら、何でもしてやるよ……!」

 機銃を避けながら走るバイクに〈アザカ〉がのしかかってくる。重量差で強引に押し潰すつもりか。避ける暇がない──ないなら作るまでだ。

 足で〈アザカ〉の機体を蹴り、強引に距離を取る。もう一体にグロックを向ける。狙いは機体後部、点検用ハッチだ。

 闇夜に霜の降るごとくだ──テシクの言葉が蘇る。危急の時こそ、慎重にトリガーを引き絞れる。

 あんたの教えは役に立ちすぎるほどだよ、テシクさん。

 ほぼ一瞬で全弾を撃ち尽くした。意外に軽い音を立ててハッチが外れる。

「〈白狼〉!」

『さすがだ、龍一』

 髪が逆立つほどの勢いで、背後の〈白狼〉から何かが迸る。

 まるで雷に打たれたように〈アザカ〉が全身を痙攣させ、まるで棒切れのように倒れる。内部の電子機器部分を一瞬で焼き切られたのだろう。

 ほっとしている暇もなかった。

『龍一……!』

 はっとした時には遅かった。最後に残った〈アザカ〉が蟷螂そっくりの近接戦用ブレードを展開し、容赦なく振り下ろす──そしてそれは龍一ではなく、身を乗り出した〈白狼〉の背をざっくりと切り裂いていた。

「〈白狼〉……!」

 必死でバイクを操り、ブレードの旋回半径からは逃れた。だが距離を取れば、今度は機銃の餌食になる。

『心配は無用だ。生身なら致命傷だが、人工皮膚を切り裂かれただけだからな。何が幸いするかわからないものだ』

「冗談言ってる場合か!?」

 もう武器がない。鉄パイプどころか、銃弾まで撃ち尽くした。

 違う、まだある!

 右手をハンドルから離し、躊躇わず思い切り噛んだ。鮮血の滴る右手を振り、死の鎌を振りかざす〈アザカ〉に鮮血を飛ばす。

 数滴付着しただけだ、これでは……。

「……溶け崩れろ!」

 龍一が想像した以上の効果が発揮された。

 声帯もスピーカーもないはずの機体から、恐ろしい唸り声が発せられた。〈アザカ〉の背に埋め込まれたHW部分から、大量の酸でも浴びせられたようにもうもうと大量の煙がほとばしっている。その中心部は、赤熱したように不気味に光っていた。

 本物の鵞鳥が事切れるように、〈アザカ〉はふらふらと数歩歩き、そしてどうと横倒しになった。ぴくりとも動かない。本当に勝ったのか、実感が湧かず龍一は目を瞬かせる。

『龍一。血が出ている』

〈白狼〉の声に目を転じると、少女はワンピースの裾を引き裂いていた。龍一の手に見よう見真似という風情で巻きつける。

「自分を心配した方がいいんじゃないのか……」龍一は〈白狼〉の背を見る。年頃の娘らしいワンピースは背の部分が無惨に切り裂かれ、内部の金属構造が露出している。潤滑油らしき粘液まで滲み出ており、機械とわかっていても痛々しく見えた。

『私と違って君は生身だから、黴菌に感染すれば事だろう』

「時々だが君は俺以上にブラックユーモアのセンスがあるんじゃないかと思うよ……」

 咳き込むようなエンジン音に顔を上げると、フィリパたちの乗るランドローバーが牛のような速度で近づいてきていた。

「よく戦闘用ドローンと、しかも二体同時に戦って勝てたな……もう君のやることにはいちいち驚かなくなってきたよ」

「何、こちらも二人がかりだったからな」

 ランドローバーのボンネットを開けたアイリーナが、お手上げのように掌を見せる。「リュウ、ごめーん。一緒に乗せていったげるつもりだったけど、どうもさっきの一戦がこのお爺ちゃんの最後の晴れ舞台だったみたいー」

「元々ガタが来ていたからな……途中で拝借してきたものだから文句は言えないが」

「気にしなさんな。こっちこそ謝らないとな。どうもインタビューはだいぶ先になりそうだ」

 フィリパが愕然となる。「まさか……まだ先へ進むつもりなのか?」

「そのまさかさ。やることが残ってる」龍一はバイクの後部に〈白狼〉を乗せ、自分もシートにまたがる。「付き合ってくれとは言わない。アレクセイに会ったら伝えてくれ、俺を待つ必要はないって」

 返事を待たずエンジンに点火する。


【同時刻 洋上 〈アグエ〉艦橋】

「一体どういう連中なんだ……? 重火器も使わずに〈アザカ〉を無力化しただと……?」

 報告に呆然としている艦長の背後から、滴るほどの侮蔑に満ちた声が浴びせられる。「役立たずが」

「は?」

「あなた方には失望しました。もう何も頼むことはありません」

 屈辱のあまり絶句している艦長に構わず、アンジェリカは懐からスマートフォンを取り出して通話を始める。周囲の白い目もどこ吹く風だ。「私です。やはりあなたに頼むことになりました。ええ、すぐに動いてください」


【〈首縊りの丘〉麓へ繋がる道】

『待つ必要はない、か。君たちは本当に同じことを言うんだな』

「ん?」

『アレクセイも言った。待つ必要はない、と』

 背後から聞こえる〈白狼〉の声は、心なしか楽しげに聞こえた。『お互いがお互いを想う、か。私にはついぞ現れなかった』

「……まあ、何度も命を助けたし、助けられたからな」その前は何度も殺しそうになったし殺されそうになったのだが。深く考えなくても、おかしな関係ではある。「それについぞ現れなかった、は結論が早すぎるぜ」

『?』

 龍一は右手に巻きつけられた即席の包帯──ほぼ解けかかっている──を見た。「自分に心がないんじゃないかと悩むのも、心がないと言われて悩むのも、心がないことの証明にはならないだろう」

『どうなんだろうな……だったら嬉しいが。龍一、瀬川夏姫は生きている』

 龍一は一瞬、息を止めたがすぐに吐き出した。「生きているとは思っているよ。ありがとう」

『気休めで言っているのではない。彼女は生きて、〈犯罪者たちの王〉の下で生き永らえている。だが、君の助けが必要なことに変わりはない』

 納得していたつもりでも、他人から実際にそう言われるのはひどく堪える。

『だから龍一。君は生きてこの島を脱出しなければならない。君の戦うべき敵は、もっと強大で、奸智に長け、邪悪だ』

 ざっざっざっ、と殺到する戦闘用ブーツの靴音。前方の道を、数十体……あるいはそれ以上のHWが封鎖している。

『こんなところで、こんな雑兵相手に、死なれては困るのだ』

 龍一は一旦バイクを止めた。前方のHW隊列を睨みつけながら。「ああ。死ぬかも知れない。でも死にたくはない。まだな」

『それを聞いて安心した。……行くか』

「行こう」龍一はグリップを握り締める。「俺たちの邪魔はさせない」


【〈首縊りの丘〉頂上付近】

 バイクはエンジンを数度空吹かしし、そして止まった。龍一はキーを捻って抜く。今度こそ本当に、あのペックという男の息が絶えたような気がした。

「……ありがとう。ここまでで充分だよ」銃弾で穴だらけになったバイクを撫でる龍一もまた、全身傷まみれ、血まみれだった。「〈白狼〉……着いたよ。もうちょっとだ」

『……』

「〈白狼〉?」

『……すまない。少しだけ……機能を停止していた』〈白狼〉のワンピースも、龍一の血とも吹き出した潤滑油ともつかないものでどす黒く汚れていた。

「いいさ……『疲れた』んだろう? 市街地からここまでノンストップだったからな……気にするなよ」龍一は〈白狼〉を背負う。意に反して、悲しいほど軽かった。「休めよ。てっぺんまで……あとちょっとなんだからさ」

 歩き出す。オフロード車のタイヤ跡以外は獣道同然の細い道は、奇妙なほど静かだった。炎を上げて燃える市街とも、死んでいく人々の悲鳴とも無縁のように。

『先ほどの話だが』

「うん?」

『ついぞ現れなかった、は結論が早すぎる、と君は言った。それは……私はもう君たちの「一味」ということか?』

「一味ってのはまた古い言い回しだな」龍一は少し笑う。「俺はとっくにそのつもりだったけどな」

『……そうか』

「しかし、綺麗だな……」こぼれ落ちてきそうな、という表現が少しも大げさではない南国の星空を見上げて龍一は呟く。「ここに来た時も驚いたけど、幾ら見ても飽きない。いろいろなことがありすぎて、見る暇もなかったけどな……」

『そうだな……私がこの島を訪れた時は集中医療用ポッドの中だった。後はネットに落ちている画像でしか、見たことがない』

 龍一が草と土を踏む音のみが響く。『龍一。私は君に……謝らなくてはならない』

「急にどうしたんだ?」

『電海に潜るためにこの丘へ登る必要があると言ったな。私自身……できると信じてさえいなかった。どのみちこの島のインフラは破壊し尽くされ、私の処理能力も大幅に低下している。仮にアクセスが成功したとしても、〈私〉の意識が保てるとは思えなかった』

「……〈白狼〉?」

『やっとわかった。私の欲しかったものが。それがわかるまで……君に出血を強いた。……許してくれ』

「別に怒っちゃいない。……いいさ。許すよ。そう言って君の気が楽になるんなら」


『心臓が動いているだけでは……生きているとは言えないのだな……』

『……』


「〈白狼〉?」

 呼びかけながら、どうして俺は泣いているんだろう、と思った。


「〈白狼〉?」


 もうちょっとだったじゃないか、と龍一は呟く。自分でも塵か埃のような、つまらない呟きだと思った。

 目を閉じた〈白狼〉──その精神が入った人形は、全身の無惨な傷を除けば眠っているようにも見えた。苦痛を表す機能など付いていないから当然なのだが、それがせめてもの慰めだった。

 笑いたくも、泣きたくもなかった。何もしたくなかった。俺がするべきことなどこの世にあるのかとさえ思えた。

 だが、彼はのろのろと身を起こした。

 するべきことはまだあると信じて。


【〈首縊りの丘〉頂上】

 指先は剥け、爪まで剥がれかけてきたが、ごく浅い穴は掘れた。〈白狼〉を埋め終わった後で、ばらばらと無数の足音が聞こえてきた。軍靴の音だ。

(……来たか)

 龍一は身を起こした。時間切れだ。

 悔いはなかった。ただできれば百合子に、そして夏姫に直接会って謝りたかった。助けられなくてごめん、約束を守れなくてごめん、と。

 銃を構えて接近してくるのはHWではなく、この戦いで初めて見る人間の歩兵たちだった。市街の掃討はほぼ終了したのだろうか。突きつけてくる銃口以上に、覆面の隙間から見える鋭い目の数々を見て、これは駄目だなと思う。打つ手が思いつかない。

「墓を作るために逃げ遅れたのか。生きた人間ならともかく、ただの機械人形に」兵士たちの間から、聞き覚えのある声がした。銃口の間から、年嵩の男が一歩進み出る。

「まあ……お前らしいとも言えるがな。そういうお前の甘っちょろいところ、俺は嫌いじゃなかったぜ」

 ダニーが進み出る。ハイチ正規軍のものらしき、黒ずくめの軍服を着たダニーが。「ハイチ=ドミニカ連邦海軍強行偵察連隊〈鉄神オグン〉大隊長、ダニエル=ジャン・バティストだ。以後よろしくな」

 気さくな口調の割には、ダニエルの目は笑っていなかった。いつもの開けっぴろげな態度の代わりに、プロの軍人特有の冷え冷えとした空気をまとっている。

「大隊長自らが潜入任務か? 人手不足ってわけでもなさそうだが」

「俺が自ら志願したようなもんだからな。〈犯罪者たちの王〉からは悪くない報酬も提示された」いともあっさりとダニエルはヨハネスの名を口にした。「お前もおかしいとは思っていたんじゃないのか? いくらビジネス間の競合がないからって、あの〈犯罪者たちの王〉が自分の支配下にない地域を放置しておくと思うか?」

 何とも言えない徒労感と敗北感のみがあった。あの言葉を思い出す──彼の手はとても長く遠くへ伸びる。

 数人の兵士がスコップを手に一歩進み出る。龍一はその前に立ちはだかる。「何をする。用があるのは俺一人だろう」

 たちまち周囲の兵士が小銃を構えるが、ダニエルは首を振ってそれを制した。「リュウ……頼まなくったってお前は連れていくさ。連れて行った先でお前がどうなるかは知らないけどな。だが俺が引き受けたのは、お前と〈白狼〉に関する全てを回収しろって話なんだ」

「〈白狼〉は死んだ。最後まで他人に利用され続けて、自分の望みは何一つ叶えられずにな。そっとしといてやれよ」

「たかがお人形に自分の命までかけるのか?」

「たかがお人形に自分の命までかけたこともないのか」

 ダニエルは悲しげにかぶりを振る。「何度も言うが、お前のそういう甘っちょろいところは嫌いじゃなかったよ。だが今じゃ、そんな甘っちょろい奴から先に死んでいくんだ。自分の命さえどうにもできない間抜けとしてな」

 ダニエルは拳銃をホルスターから引き抜いた。龍一の額に突きつける。この至近距離ではさすがに避けられない。「最後の機会だ、リュウ。大人しく死ぬか、苦しんで死ぬかだ」

「死にたくはない」右手に巻きつけられたぼろぼろの布を見る。「どくつもりもない」

 一瞬の躊躇もなくダニエルは撃つ。

 膝が爆発したかと思った。銃弾に穿たれた足が勝手に折れ、龍一は受け身さえ取れずに倒れる。

「意地を張るなよ、リュウ。お前のやっていることは全部無駄なんだぜ」

「……でもやめない」

 今度は肩を撃たれた。今度こそ龍一は倒れ、地に伏してしまう。湿った草と生乾きの土の匂い。

「リュウ、俺だってやめないぜ。〈犯罪者たちの王〉が提示したのは俺一人への報酬だけじゃないんだ。彼はハイチ=ドミニカ連邦への半恒久的な援助も約束してくれた。汚い金だろうと、金は金だ」

 顔面を土まみれにしたまま、龍一は身を起こそうとする。だが銃弾の貫通した腕では力が入らない。「その金はあんたたちを縛る鎖だ。一生……ヨハネスに屈服し続けることになるぞ」

「そして援助は援助だ。俺たちに見向きもしない欧米に比べればよっぽど真っ当な」ダニエルの口調からうわべだけの何かが剥がれ落ちた。「なぜ奴らが俺たちに見向きもしないかわかるか? 奴らから見れば俺たちは年がら年中殺し合いをしている不潔で野蛮な貧乏人で、抱き締めたくなるような可愛らしいウサギちゃんじゃないからさ! お前らから見れば最悪のファシスト国家かも知れないが、俺は全然無政府主義者アナーキストじゃないんでな。どんな国家体制だろうと、ないよりはましなのさ」

 一瞬の激昂を、努めてダニエルは鎮めようとしていた。「今度は俺たちが踏み躙る番だ。あの前政権の打倒とそれに伴う無政府状態の時、手を差し伸べてもくれなかったお前らをな」


「……お前たちは」


 龍一は顔を上げた。ふと、目を合わせたダニエルが呆気に取られ、初めて後じさる。「何だ、その目は……?」

「自分より、強大な者に、頭を垂れるのか?」

 動揺は、ダニエルの周囲の兵士たちにまで伝染していた。覆面の下で驚きや呻き声を上げ、後退しながらも銃を構え直す。

「だったら、もっと、頭を垂れろ……」

 まるで口が数倍に膨れ上がったように。顎の構造自体が組み変わったように。

 龍一は、自分の声が奇妙に歪むのを聞く。

 ぐっぐっぐっ、と奇妙な音が鳴った。それが笑い声だと気づき、ダニエルがさらに身を強張らせる。

 今や星空は跡形もなくかき消え、静けさや優しさの欠片すらなかった。晴れていたはずの夜空には黒雲が立ち込め、不気味な雷光まで明滅させている。

!」

「構えろ!」

 ダニエルの声は恐怖を押し殺そうとして、無惨にもひび割れていた。だが兵士たちが発砲するより早く。

 夜よりも黒い雷と、それが起こす衝撃波が、彼らを残らず地に叩き伏せた。


 椅子に深々と座り、目を閉じていた老人の瞼がわずかに動く。

「……〈悪竜〉」


 傷だらけの身体で、夜間の海中洞窟を息継ぎなしで脱出するのは、さしものアレクセイにとってもなかなかハードな試練だった。浮上した後もしばらくの間は息を整えなければならなかった。

 呼吸がほぼ元通りに戻った時──何かが視界の端で動いた。

(……?)

 不気味な黒雲が〈首縊りの丘〉の頂上付近をほぼ飲み込み、周囲や内部で黒い雷光を明滅させている。

(あれは……)

 何だろう……あれと同じものを自分は〈のらくらの国〉で見たのではなかったか。

 ひどく胸騒ぎがした。


「白木主任! 反応出ました! 位置は……えっ、カリブ海? なんでそんな場所に?」

「報告と感想は別々にね、みっちゃん」赤みがかったぼさぼさの髪をかき回し、年嵩の女は不敵に笑う。「それにしても……!」


「あれは何……?」望遠鏡で〈首縊りの丘〉を注視するアイリーナの声は震えていた。「どういう冗談ー?」

 フィリパの声も震えていた。「地を這う者……」

「え?」

「……呪われし蛇ロメス・アル・ハアレツ


 何もないはずの空間から、次から次へと液体とも粘性のある金属ともつかないものが溢れ出し、その中心部へ絡みついていく。先ほどまで龍一が倒れていた地点へ。

 ざり、と何かが地を踏み締める。

 雷と衝撃波の中心に、何かが立っていた。

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