南海の蠱毒(6)殲滅艦隊

【〈奔流〉当日夜──〈緑の目の令嬢〉亭厨房】

「三番テーブルの配膳終わった。注文はこれで全部だよ】

「お疲れさん。皿洗ったら休憩に入っとくれ。今日はもう新しく客は来なさそうだし。……寂しくなったもんだね、この前のあれで、一度に十何人も……」

「……ねえ、母さん。こんなこと、本当に続くと思う?」

「続くわけないだろう? 前から思ってたよ、『こんなの長く続くわけがない』って。〈黒王子〉にゃ恩はあるし、感謝はしているけど、それとこれとは話が別だよ」

「やっぱり島を出て働けばよかったのかな……」

「わからないねえ。漁で採れる上がりだってたかが知れてるし、それでどうにか食えたのだって『カリブのファシストども』がでかい顔をし始めるずっと前の話だからね。お前の父さんもそれで死んじまったんだよ。密猟を熱心にやりすぎてさ」

「……」

「でもこうなると、お前が言っていた話……お前だけでもキューバだかメキシコだかへ行って働いてくるって話、もうちょっと真剣に考えてみるかもねえ」

「……いいの?」

「なあに、婆さん一人なら近所の人が昼を食いに来るだけでどうにかやってけるさ。人間、何も食わなきゃ生きてられないからね。さ、今のうち休んじまいな」

「うん。……そう言えばあの二人も、いつもビール飲みに来る女の人たちも、今日は来ないね」

「浮かない顔なのはそのせいかい?」

「まさか。客は客よ」


【同時刻 洋上 ドイツ船籍〈トリアイナ〉後部甲板】

 ワイヤーガンで射出したフックは狙い通り船尾の突起に絡みついた。数度引いて手応えを確かめ、ウィンチで一気に甲板まで昇る。さすがに二度目となると慣れてきたな、と龍一は思う。腰のホルスターからグロック17を引き抜く。

 ザジやペック、ダニーらを含む他の〈奔流〉の参加者たちも次々と甲板に降り立った。今回は海に落ちる間抜けはいなかったようだ。

「全員無事だな? ……それにしても、寂しくなったもんだな」

 ダニーがそう言うのもあながち愚痴ばかりではない。前回では十数隻の漁船・改造船で押し寄せた海賊たちも、今や総勢でも漁船数隻で足りる程度の数に減っていた。

「こんな有様で〈黒王子〉は本当に〈奔流〉を開催するつもりなのかな?」〈奔流〉どころかがいいとこだろう、と龍一は口に出さず思う。

「何十人もまとめてやられた上に、びびって不参加を決め込んだ奴ばかりだからな……ハッキング班でさえ数が足りなくて、急遽外部から雇い入れたくらいだ」場を取り仕切るダニーも渋い顔だ。「ま、〈黒王子〉がやるってんなら、俺に依存はないさ」

 ダニーの立場ではそうなのだろうが、龍一は素直に頷けなかった。〈白狼〉から〈奔流〉の舞台裏を聞かされた今となってはなおさらだ。

「それにしてもダニー、あなたが残ってるとは予想外だったよ。いや、ありがたくはあるけど」

「そう言ってもらえるとは光栄だ。何、俺の仕事はまだ終わっちゃいないからな」破顔するダニーが龍一の構えたグロックに目を留める。「宗旨替えか?」

「まあそんなところだ」

「珍しい形のレーザー照準器だな。新製品か?」

「まあ……そんなところだ」まさか照準器に見えるのは〈白狼〉の設計した端末にして複合センサーだとは言えないではないか、龍一は適当に言葉を濁す。

「そうだ、リュウ、今日はアレクは休みか?」甲板に這い上がってきたザジはAKを構えて周囲をうかがっている。

「ああ……どうも他の用事があるらしくってな」

「まあ仕方ねえな。今回だってお前さえいればどうにかなるんじゃないかと思ってるよ。なあペック!」

 ペックは(例によって)何も言わなかったが、反対も口にしないようだった。龍一はわずかに疚しくなる。

「それにしても……ここは貨物船……なのか? 何だか、想像してたのとずいぶん違うが」

「完全無人制御のロボット貨物船だから、人が乗ることを前提としてないんだろう。それにしても確かに見慣れないな。SF映画の宇宙船みたいだ」

「よく考えたら手摺もないじゃないかよ。徹底してやがんなあ……道理で、アンカーフックを引っかけるのに苦労すると思ったぜ」

「ザジ、それは単にお前が下手糞だからじゃないのか?」

 まず龍一たちが立っている甲板からして、薄青がかった金属ともプラスチックともつかない触感の素材で構成されている。甲板も船体構造物も全て滑らかな曲線で構成されていて、遠目には船というより鯨か海豚のようだった。実際、荒天の際には半潜水によって嵐を避けることもできるらしい。これに比べれば以前襲ったノヴァク号など、錆の浮いたいかにもな貨物船だろう。

 それにしても、と龍一は思う。先ほどから何だろう、この胸騒ぎは。


【数日前 〈和平ホテル〉地下】

「……それじゃ〈奔流〉の胴元は、ハイチ=ドミニカ連邦がやってるってのか?」

『君も薄々は察していたのではないか?』目を白黒させている龍一と違い〈白狼〉の電子合成音に澱みはない。『国家軍の力を持ってすれば、この島にある火器など物の数ではない。砲撃と爆撃で半日と保たないだろう。それがないこと自体、ハイチにとってこの島に何らかの旨味がある動かぬ証拠ではないか』

 政変で国を追われて海賊に身を落とした人々の略奪行為をブロードキャストで、それもダークウェブを通して権力者たちが娯楽として消費する。龍一には何とも救えない話として聞こえてしまう。

「御国がバックのギャンブル稼業か。確かに、関係者にとっては笑いが止まらないだろうね」アレクセイもまた淡々としている。〈白狼〉とはまた違った形で、おおまかな真実を探り当てていたのだろう。「万が一他国の司法が嗅ぎつけたところで問題はない。内政干渉と言い張れば幾らでも突っぱねられる」

 ひどい話だとは思ったが、龍一もこれよりいい時代を知っているわけではない。

『そして〈海賊の楽園〉とハイチ=ドミニカ連邦の蜜月も終わりに近づきつつある。ハイチがエドワードを廃して自分たちで〈奔流〉を取り仕切ろうとし始めたからだ。当然、エドワードが頷くはずもない。自分の命綱が何なのかを彼は承知している。〈海賊の楽園〉トップから引きずり下ろされたら、彼の命は即座に尽きる』

「それで夜逃げか。しかし夜逃げが成功して無一文で奴が逃げ出そうが、失敗して島民たちに八つ裂きにされようが、直接は俺たちに関わりはないな」

『残念ながら、それがあるのだ。彼の手元には〈固定点フィックスポイント〉がある』

「何だそりゃ?」

『それこそまさに私がこの〈海賊の楽園〉から一歩も出られない理由だ。先ほども言ったように私はとうに生身の肉体を捨てたが、同時にまだ捨てられていない部分がある。それを奪取するか、最悪でも破壊しない限り、私は電海に泳ぎ出られない』

「逆に言えば、それさえどうにかできれば僕らがこの島を訪れた目的は達成できる。困難ではあるけど目は見えてきたんじゃないか、龍一?」

「しかし、俺が囮になって〈奔流〉に参加し、アレクセイが〈固定点〉を奪取する、そこまではいいとして……まだ人手は欲しいところだな」

 電子合成音が含み笑いに似た奇妙な音を立てた。『龍一、いるではないか。君の言う「おあつらえ向き」の人手が』

「あん?」


【同時刻 住宅地と商店街を見下ろす丘 〈海賊の楽園〉レーダーサイト 通称〈首縊りの丘ハンギングヒル〉】

「……それで、本当にやるのー?」

「やるさ。私たちに選択の余地はない。そうだろう?」


【数日前 商店街の一画 APコンサルティングサービス事務所】

「いいオフィスだな……何というか、俺じゃ思いつかないセンスだ」ソファに腰を下ろしながら龍一はそう言った。世辞ではなく、実際にそう思って言っている。卓上に飾られた涼しげな色のガラス細工や、水槽の中で泳ぐ極彩色の熱帯魚などは、自分たちの住居がいかに寝起きする場所以上のものでしかないかを再確認させてくれる。

「そう言ってくれるのは君くらいのものだ、リュウ」デスクに腰かけたパオラが苦笑しながら首を振る。「私たちの商売相手はどうも血の気が多すぎ、自分のに熱心すぎるようでね。調度を褒める文化自体がないんだ」

「それにしてもリュウ、まさか私たちのオフィスに直接来るなんて正直驚いたわー」アイシャはどうぞ、と氷入りオレンジジュースを満たしたコップを龍一の前に置き、自分もストローを咥えてみせる。中身はジンジャーエールらしい。「別に秘密にしてるわけでもないんだけど、そんなに急を要する頼み事なのー? そう言えばもう一人のカレは?」

「アレクセイなら別件だよ。そう、急を要する話なんだ。このオフィス、盗聴対策はされてるのかい?」

「聞かれたくない話があるのか?」

「聞かれたくない話があるんだ」

「なら大丈夫よー。妨害装置ジャマーはとっくに作動済みだから」

 なるほどね、と内心で呟く。俺が盗聴器を持ち込む可能性もとっくに計算済みか。

「安心したよ。話は他でもない、〈黒王子〉のことだ」

 龍一は説明した。〈白狼〉についてぼかしはしたが。「……エドワードは〈海賊の楽園〉を裏切り、さらにハイチ海軍討伐艦隊の情報も隠している。俺は彼に恨みがあるわけじゃない。だが彼がこの島の人々を裏切って逃亡し、何もかもを破壊するに任せるのを黙って見ているほど、地獄の鬼でもないつもりだ。彼の企みを暴き、頓挫させたい」

 二人の女は龍一を馬鹿にはしなかったが、殊更に感銘を受けた様子もなかった。

「すまないが、リュウ。そこまでの働きは、〈代理人〉としての本分を完全に越えているぞ」

「〈黒王子〉を天使とまでは言わないけど、少なくとも今のところは彼の害になる行動を取るつもりはないのよねー。どう考えてもこの島の半数を敵に回しそうだし、偽善者ぶって失業者にもなりたくないしー。あなたに私たちの失業を補えるだけのものがあれば別なんだけどー」

「へえ、そうかい? 〈白狼〉と直に会わせると言っても?」

 欧米なら天使が通った、と形容されるだろう沈黙が訪れた。二人の表情を見て龍一はここからが本番だぞ、と自分に言い聞かせながら密かに唇を舐める。

「どうした、君たちはそれが目的だったんだろう? さすがに『ホテルから一歩も出なかったのにどうして?』なんてボロは出さないか」

「……接触できたのか。〈白狼〉と」パオラが低い声で言う。

「俺たちの部屋に幾つか仕掛けられていた盗聴器のうち、一つか二つぐらいは君たちのなんだろう? 盗聴器自体は潰したけど、監視はまた別の手段でしているんだろうと思ってな。そうだ、ちょうどそこの窓から〈和平ホテル〉が一望できるじゃないか」

「悪い話じゃないわねー。でもその言葉だけじゃわたしたちがリスクを冒すのには足りないかなー」アイシャの声は相変わらず呑気だが、内心まで呑気かどうかは伺い知れない。

「それじゃ〈ダビデの盾〉渉外調査部2課所属、海外投射要員のアイリーナ・ランツマンとフィリパ・ゲルプフィッシュとしてはどうだ?」

 龍一とて素人ではない。自分と似たり寄ったりの荒事屋どもに凄まれたのも、命を狙われたのも一度や二度では足りない。だが彼女たちがほぼ同時に黙って向けてきた眼差しは、さしもの龍一も全身が凍りつきそうになった。血と肉を持った人間に向けていい眼差しではない。

「……リュウ、その情報をどこから得た? 他人が隠したがっている素性を知る者は二種類しかない。よほど親しい相手か、さもなくば敵かだ」

「慎重に答えた方がいいわよぉ。返答次第では、リュウ、あなたをここから生かして出すわけには行かなくなっちゃうからぁ」

 デスクの下で何かを──おそらくは拳銃を握り締めているパオラ改めフィリパと、さりげなくコップを置いて逃げ道を塞ぐ位置に回り込もうとしているアイシャ改めアイリーナ。そのさりげない動きだけで肝が冷えた。

 だから躊躇わず、。「?」

 窓を閉め切ったはずの室内に、微風とすら言えない空気の流れが生じた。

 ぱた、と微かな音が鳴った。アイリーナの咥えていたコップのストローが見事な切り口を見せて落ちた。

「……つくづくおっかない武器だな。銃や爆弾と違って光も音も発さない上に、どんな隙間からも侵入できるんだから」

 まじまじと見つめてくる二人に、龍一は右手首に巻きついた〈糸〉をかざしてみせた。「糸電話だよ。アナログが一番強いってわけさ。ところで俺のすぐに用意できるものが一つだけある──だ」

 二人の女が緊張を解いた。すぐに顔を見合わせ、笑い出す。

「やれやれ、参ったな。確かに見事な相互確証破壊だ!」フィリパは笑いながら机の下から手を出して掌を広げてみせる。

「どっちかって言えば、三すくみメキシカンスタンドオフって呼んだ方が好みだけどなー」アイリーナは笑いながらコップを鷲掴みにし、がらがらと氷を口に放り込んだ。「相棒がいなかったのもそういう理由かー」

 今になって龍一の全身からどっと汗が噴き出てきた。「漏らすかと思った……」

「そのソファ結構値切るのに苦労したから、できればおトイレでしてほしいんだけどなー。ともあれ、これでお互いの喉元に刃物を突きつけ合ったわけねー」

「喉を掻っ切る前に話ぐらいは聞いてくれるか?」

「喉を掻っ切る前に話ぐらいは聞こう」

「ならよかった。……しかし、申し訳ないんだがさっき言った〈白狼〉との会見以外、こちらとしてもあまり提示できる条件はないんだ。何しろ逃亡中の身でね」

「それでいい。それが私たちのそもそもの目的だからな。そしてできれば、リュウ、君の話も聞きたい」

「俺の?」

「そんなに不思議なことかなー? こっちの方が主な目的なんだけどね、リュウ。私たちの目的は他でもないあなたなのよー」

「……まあ〈のらくらの国〉以来、俺もすっかり有名人だからな」それもあまりありがたくない形でのだが。「一番の大迷惑を被ったはずの〈ダビデの盾〉が何もしてこないのが不思議なくらいだった。実際、君たちのことも刺客かどうか見当がつかなかったんだ」

「それは安心してくれていい。私たちの目的は君だが、君の命ではない。

「そりゃよかった」安堵のあまり涙が出そうだ。「しかし君たちの属する『渉外調査部2課』というセクションは、実際には内務監査……身内のを調べ上げるところらしいな。〈ダビデの盾〉の内務監査員が、どうして俺に会いに来るんだ?」

 二人の女の間に、龍一でさえ見逃しそうになる何かが行き交った。

「……実を言うとね、それもあなたが原因なのよー、リュウ」

「俺が?」

「直接的とまでは行かずとも、間接的にはな。……近年〈ダビデの盾〉内部にある噂が流れている。イスラエル政府の一部と、社の上層部の間に、極めて危険な終末思想にかぶれたグループが存在しているらしい」

「名前がまだないから、私たちは『終末戦争ハルマゲドンクラブ』って適当に呼んでるんだけどねー」アイリーナが肩をすくめる。「それが実在する証拠はないけど、否定できない以上『存在しない』という確証もないのよー」

「そしてその『終末戦争クラブ』に対し、ある人物が影響力を振るっている、という噂もまた絶えない。君がよく知っている人物、〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスだ」

「……だんだん読めてきたぞ。〈ダビデの盾〉は、ヨハネスとその『金持ち爺さんたちの火遊びクラブ』を、両方とも闇に葬りたいんだな?」

「話が早くて助かる。終末戦争など、真っ当な企業組織には忌むべき存在だからな」

「そして、そのヨハネスが『なぜか』執心している、そう見なされているのが相良龍一、あなたなのよー。私たちとしてはあなたと〈白狼〉を追っていれば、芋蔓式にヨハネスも引っ張り出せるんじゃないかって期待してるわけー」

「なるほど、そう言うことなら、俺たちの利害は一致しているとも言えるな。いずれヨハネスには『挨拶』に行く予定だった」これは嘘ではない。「〈白狼〉との会見もこちらがセッティングする。ただし……ここでさっきのが効いてくるわけだ」

 二人の女がほぼ同時に思案顔になる。

 龍一は身を乗り出す。「……どうだろう?」


【現在 〈首縊りの丘〉】

「……まんまとしてやられたわねー。甘く見てたのはフィリパ、あなただけじゃなくて私もだったわー」

「全くだ。苦笑いしている場合ではないが、してやられた」

「してやられた、にしては楽しそうじゃない?」

「まあな。私は少し、倦んでいたのかも知れない」

「何に?」

「殺すこと。殺されること。騙すこと。騙されることに」

 アイリーナは大きな目をぐるりと回した。「あの二人は違うってー? 国際指名手配中のごろつきと世界最高品質の元殺し屋がー?」

「確かに、おかしな話だ。でも私には……あの二人なら、今までとは違う世界を見せてくれそうな気がしてならないんだ」

「ミス・ゲルプフィッシュ、それは死神の誘惑よー」アイリーナの声がややトーンを落とす。「この仕事やってる奴がいつかは必ずかかる、病気よー。そしてそれに、いつか誰もが敗れるのよー」

「……かも知れん」

「ええ、もう、今日はやけにしおらしいじゃないー?」アイリーナは苛立たしげに髪をかき上げる。「『死神なんて君が追っ払ってくれるんだろ』くらい言いなさいよー?」

「死神なんて君が追っ払ってくれるんだろ」

「一字一句違えず繰り返さないでよー。もー」

「行こうか」フィリパは音立てて車のトランクを占めた。二人とも全身戦闘装具に身を固め、アイリーナはモスバーグ散弾銃を、フィリパはカービン仕様のガリル・アサルトライフルを構えている。

〈海賊の楽園〉の海への監視を行っているレーダーサイトは、屋根のパラポラアンテナを除けば何の面白味もデザインセンスもない四角いコンクリート製の建物だった。ずかずかと近づいてくる物々しい様子の二人に、見張りたちがぎょっとして目を見張る。

「〈代理人〉の女たちか? 〈黒王子〉からは何も聞いてないが……」

 アイリーナは物も言わず、散弾銃の台尻を思い切り見張りの腹に叩き込んだ。さらに銃身を振るい、立ちすくむもう一人の頬下駄を張り飛ばす。

 血まみれになって室内に転がり込む見張りたちの惨状を見て、トランプで暇潰ししていた監視員たちが凍りついた。

「全員、壁際に寄って両手を頭の後ろで組め」ガリルの銃口を室内の男たちに突きつけ、フィリパが冷ややかに言う。「顔面を挽肉にされたくなければな」


【同時刻 〈トリアイナ〉後部甲板・作業員用出入口ハッチ】

 わずかな操作で、分厚いハッチは見かけに反して音もなく開いた。何らかのトラップや警備システムが作動した様子もない。

 あまりにスムーズすぎて、龍一だけでなくダニーやザジたちまで首を捻っている。「なんか順調すぎねえか? いつもだったらドンパチが始まってる頃だぞ」

「積荷は欧米製の軍用ハードウェアって話だが……そのセキュリティがこんなに緩くていいのか? 何かの罠じゃないのか?」

「一度乗り込まれたらどんな防護策を施しても意味はないって理屈かな」ダニーはそう言ったが、自分の言葉を自分でも信じていないような口調だ。

 とは言え、ここでこうしていてもどうにもならないのも事実だった。囮役の龍一にしても、このまま帰るという選択肢だけはない。

 順にハッチをくぐり、船内へ侵入する。〈トリアイナ〉の外観同様、船内通路も滑らかな曲線で構成されていて、まるで生物の体内のようだ。

「どうも薄気味悪い船だな。こんなことじゃ、こっちの調子も上がんねえってもんだ。本当にこれがブロードキャストされてんのかな? なあペック?」

 ザジの問いに、ペックが同意らしき唸り声を上げる。それぞれに不穏さを感じてはいるようだ。

「船の構造からして、こちらが船倉のはずだが……」

「しかし、本当に人が乗っていないのか……警備員どころか整備士すらいないなんて、完全無人化は伊達じゃなさそうだな」

「どうも妙だな。この船の構造、どこかで見覚えがある……」ダニーが大真面目な顔で呟く。

「見覚えって?」

「……いや。そんなはずはない」ダニーは首を振る。「そのドアの向こうが船倉のはずだ。まずはお宝を拝もうじゃないか」

 果たして──積荷はあった。龍一たちの想像とはまるで違うものが。

 龍一たちが立つ通路の遥か眼下に、幾つもの水槽が並べられていた。水槽と言っても水族館にあるような、鮫や海豚を何匹も入れて飼えそうな巨大な水槽だ。しかし中に満たされている液体は薄紫色を帯びており、明らかに真水でも海水でもない。

 その中に、何体もの、何十体もの生白い死体が浮かんでいた。

 いや、違う──龍一には一目でわかった。あれは死体ではない。HWだ。完全励起に至る寸前の状態、仮死状態にあるHWだ。

「ど……どういうことだよ? あれがこの船の積荷……『軍用ハードウェア』だってのか?」ザジはあからさまに狼狽えていたが、誰もそれを笑わなかった。目を見張る者もいれば、驚きに声すら出せない者もいる。おそらくTVのニュース映像で目にすることはあっても、本物のHWを見るのは初めてなのだろう。

「リュウ……思い出したぜ。そんな馬鹿なと思って言わなかったんだが、俺は軍にいた頃、この船によく似たものを見たことがある」ダニーの黒い肌は傍目にもわかるほど血の気が引いていた。「強襲揚陸艦だ」

『……海賊ってのはもっと自由なもんだ、かつての俺はそう信じていた』

 突然イヤホンにエドワードの声が響き、龍一はぎょっとした。〈奔流〉の最中にエドワードが話しかけてくることはなかったはずだ。同じ声は全員に聞こえているらしく、戸惑ったように互いの顔を見合わせている。

『〈海賊の楽園〉がちょっとずつ大きくなっていくのは、そりゃあ楽しかった。電気もガスも水道も、自分たちでどうにかしなきゃ永遠に使えないようなところで暮らすのは生まれて初めてだったし、島の奴らに感謝されるのだって悪い気分じゃなかった。ダークウェブと取引して海賊業のブロードキャストが金になるとわかった時は、これで一生食ってける、とさえ思ったもんだ』

「エドワード? どうなってるんだ、聞いていたのとずいぶん話が……」言いかけて龍一はその無意味さに気づいた。これはただの録音だ。無線の向こうに生身のエドワードはいない。

。〈奔流〉で金が回るようになったら、ハイチ=ドミニカ連邦までもが揉み手ですり寄ってくるようになった。あいつらにとって、俺たちは象にたかる蚤や虱の類だ。蚤や虱を相手に、海を越えて軍隊を送り込んで制圧しようとする馬鹿はいない。ましてやその蚤や虱が、金塊の山に案内してくれるとわかればなおさらだ』

 今や、その場の全員がエドワードの録音に聞き入っていた。ザジをちらりと横目で見て、龍一は驚いた──彼はかっと限界まで目を見開いて、小刻みに震えていた。言葉さえなくしている様子だ。

『お前らにわかるか? そう気づいた時の俺の失望が? どこ行ったって金とコネが物を言うんだったら、わざわざ海賊なんかやる必要なんてあるのか? だったら勤め人の方が御法に触れない分、まだましじゃねえか。俺は何もかもぶっ壊し尽くしたくて、何もかも他人から奪い尽くしたくて海賊になったんだ。何かを作りたくって海賊になったんじゃねえ。俺はいつの間にか退屈で死にそうになっていた。海賊が海賊業に飽きたら、他に何をすればいい?』

 そこでエドワードは一息つく気になったらしい。声が元のトーンに戻る。『俺はこの島を出ることにした。〈白狼〉さえいれば、また別の適当な、誰も俺を知らない島で、最初からやり直せる。ああ、そうそう……相良龍一、お前のこともよく聞いてるぞ。お前、自分の女を〈犯罪者たちの王〉に取られたんだってな? だからこの島に手がかりを求めてやってきたんだろう? どうしても〈白狼〉に会う必要があったんだろう? 諦めろ。世の中にはどうにもならんことなんて幾らでもある。俺が何をしてようが退屈からは逃れられなかったようにな』

 心ならずも、龍一はその場の全員に注目されてしまった。

『しかし、泣かせる話ではあるよな? 俺はそういうヒロイックな話にはどうも弱くてよ……だからお前らを〈犯罪者たちの王〉に売るのだけはやめておいた。どのみち討伐艦隊の包囲を抜けるのは無理だ。そう思えば諦めもつくだろ? だから安心して死ね』

「……エドワード!」

 録音メッセージが切れた。龍一が無意味と知りつつ大声を上げた瞬間、〈トリアイナ〉の船体が轟音とともに揺れた。


【同時刻 〈和平ホテル〉地下】

 シャッターが軋み音を立てて上がり切ると、人間の手など何一つ入れられていない、天然の鍾乳洞が口を開けた。洞窟の奥からは、爽やかとは言いがたい生温い空気が吹きつけてくる。

「アレクセイ様、これを」

 支配人が銀の盆に乗せて差し出したのは、一対のワイヤレスイヤホンだった。「〈白狼〉様のお手製です。この島のどこにいようと通信できますし、直通回線なので盗聴も不可能です」

「ありがとう」受け取りながら、ふと思いついてアレクセイは聞いてみた。「支配人、あなたは〈白狼〉とは長いの?」

「長い、どころの騒ぎではありません。あの方がいなければ、今日の私もなかった」支配人はわずかに遠い目をした。「私は何もかも、本当に何もかもを失ってこの島に流れ着いた。流れ着いた当時は、何もかもがどうでもよかった……いえ、ですが、本当はどうでもよくなどなかった。どうでもよくなどない……あの方の側にお仕えしていると、そのように信じられるのです」

 アレクセイは黙って頷いた。誰にでも歴史がある。「龍一が先に戻ったら伝えてほしい。僕を待つ必要はない、と」

「承りました。ですが、アレクセイ様もお気をつけて。お帰りをお待ちしております」

 アレクセイは頷き、暗闇の奥へと踏み出す。


「……そろそろ龍一たちが〈奔流〉を始めている頃かな?」

 イヤホンから〈白狼〉の声。『ああ。私たちも時間を無駄にはできない。始めよう』

「異論はない。……ところで、君の言う〈固定点〉についてもう少し詳しく教えてくれないかい? ぱっと見てもどんなものかわからないんじゃ、見逃すかも知れない」

『その心配はない。一目でわかる』

「そうか」どうも僕は微妙に信用されてないみたいだな、とアレクセイは内心思う。実力は評価されているみたいだけど。

 天然の鍾乳洞を削ったらしき坑道に足を踏み出す。舗装などされていない剥き出しの岩盤が足元で鳴った。

 今のアレクセイが身に帯びているのは、ウェットスーツと手首の〈糸〉射出機、それに閃光弾やフラッシュライトを含むわずかな装備品のみだ。防弾装備の類は動きが鈍るため装着していない。

「かなり深いし、広いね」

『港の逆方向、島の反対側へ抜けられるようになっている』

 半日あれば一周できる小さな島であることを差し引いても、かなりの距離だ。アレクセイの目が、足元に転がる白い塊を捉えた。骨だ。動物のものではない。

「……人骨か」

『口封じに殺された坑夫たちだ。私は見ているだけで、何もできなかった』

 見回すと、白い塊は幾つも転がっていた。龍一でなく僕がこちらへ来た理由がわかった、とアレクセイは内心で思う。

『アレクセイ。君には話しておかなければならないことがある。他でもない、〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスのことだ』

 確かに重要な話には違いないが。「それは、今からしなければならない話かい?」

『今でこそしなければならない話だ。ああ、なぜさっき龍一の前で話さなかったか不審なのだな? そう、この会話は君と私だけのものだ。龍一にはが対応している。内容が彼に漏れることはないから安心したまえ』

「それはどうも。で、僕と彼の間に情報格差を生じさせる理由は?」

『君に馴染み深いことだからだ。アレクセイ、君は〈ヒュプノス〉である頃にヨハネスの暗殺を命じられたことはあるか?』

「ない。〈総体〉とヨハネスの間には不可侵条約があった。〈ヒュプノス〉がヨハネスから直接暗殺を受けない代わりに、〈ヒュプノス〉もまたヨハネスを狙わない、と。もっともそれがあってなきがごとしものになったからこそ、僕は今ここにいるんだけど」

 アレクセイにとってはまだまだ生々しい話である。ただかろうじて我が事として話せるようになった、というだけで。

『では各国政府、あるいは企業、あるいは他犯罪組織がヨハネスの暗殺を試みたことは?』

「知らないし、興味も持たなかった。ただ過去に幾度か試みられただろうことは察している。〈犯罪者たちの王〉に対して一度も暗殺の企みがなかったら、その方が驚きだよ」

『本題はここからだ。──

 さすがに聞き流せない話だった。「何だって? だが……」

『そう、ヨハネスの〈王国〉は健在だし、おそらくはヨハネス本人もぴんぴんしている。暗殺の実行犯やそれを依頼した者たちにどんな凄惨な報復があったかは想像がつくだろう? 実際〈連合〉もヨハネスの隠れ家を突き止め、そして一度はヨハネスを殺したのだ。だが結局は逆に追い詰められて一人一人殺されていき、生き残ったのは私だけだ。私だけが……生き残ってしまった。私だけが』

「殺したのは偽者だったのか? 日本語なら『影武者』というあれか」

『いや……それがそうでもないのだ。〈王国〉を統治し、君臨していたのは間違いなく私たちが殺した男だった。にも関わらず、何事もなかったかのようにが素知らぬ顔で玉座に腰を下ろし、そして〈連合〉のメンバーを皆殺しにしたのだ』

「殺したのは別人でもクローンでもなく、ヨハネス本人を殺したのにヨハネスは健在……か」

『そう。浅はかな人間なら軽率に彼を不死身扱いしかねないところだ』

〈白狼〉の話が何を意味しているのか理解できず、無意識のうちに眉根が寄った。「君のその話をどう解釈すればいい?」

『私にもわからない。確実に言えるのは、単にヨハネスを殺しても〈王国〉は滅びず、また彼を負かせない、ということだ』

 アレクセイの目が前方に微かな明かりを捉える。「……その話は後にしよう。目的地だ」

 青黒い水をたたえた天然のプールに、鮫のような、あるいは海豚のような二人乗りの特殊潜航艇が浮かんでいた。龍一がここにいたら「夜逃げの準備はできてるらしいな」と言ったに違いない。

『遥か昔に、入口が崩れて天然の空洞が生じたのだろう。出口は海中にあるから、潜水艇の隠し場所にはもってこいだ』

「ずいぶんと小さいな……?」

『他に誰かを乗せる必要もないからな。私の〈固定点〉もさほどかさばるサイズではない』

「しかし、肝心のエドワードがいないな」

 潜航艇と周囲の器材の他に見えるものは、坑夫たちが寝泊まりしていたらしき粗末なプレハブ住居のみだ。エドワードがいるとしたらあそこだろうが、隠れ潜むにはあまりにもささやかすぎはしないか?

『……やっぱり来たな。何か仕掛けてくるとは思ったが』

 耳障りな雑音の後、スピーカーがエドワードの声を発した。『思ったより大人しく引き下がったから、警戒しておいて正解だった』

『返事はするなよ』〈白狼〉の声にわかっている、の意図を込めて指先でイヤホンを叩く。龍一なら馬鹿正直に返事するだろうけど。

『お前らのことは嫌いじゃなかったよ……実際、大した奴らだしな。ダークウェブに叩き売った〈奔流〉の映像は好評だったし、わざわざヨハネスにお前らを売るほど切羽詰まっているわけでもねえ。だから俺もお前らを放っとくつもりだった。〈白狼〉さえなけりゃな』

 このまま黙っていれば勝手にぺらぺら喋ってくれそうだ、そう思ったからアレクセイは返事をしなかった。潜水艇の浮かんだプールにもプレハブにも、動きはない。

『だから一つ提案だ。俺を見逃してくれりゃ、俺もお前らに手出しはしねえ』

 アレクセイは沈黙で返した。

『駄目か。だろうな。まあ大体想像はついてたよ……手駒になるにはお前らは糞真面目すぎるし、我が強すぎる。俺が〈白狼〉にこだわるのと同じぐらい、お前らも折れやしねえだろう。だがな、一つだけ言わせてもらうぜ。この俺が、〈黒王子〉エドワード様が! 一度手に入れた自分の宝を、みすみす人にくれてやるとでも思ったか! !』

 何か冷たいものを感じてアレクセイは視線を上げ、そして慄然とした。天井から垂れ下がる鍾乳石の間に、人間大の塊が数体、黒々とぶら下がっていた。

 気づかなかったのではない。今まで気配を消していたのだ。かつて〈ヒュプノス〉だったアレクセイを相手に!

『こいつらはだ。元〈ヒュプノス〉だったお前へのな!』

 耳障りな声でスピーカーが喚き、同時に黒い塊がアレクセイに殺到してきた。


【同時刻 〈首縊りの丘〉レーダーサイト】

「こんなことをして、ただで済むと思ってやがるのか?」銃の台尻で殴られて頬を腫らした男が、口の端から血を垂らしながらも凄む。

「ただで済むなどとは思っていないさ」ガリルを突きつけるフィリパに感じ入った様子はない。「これはお前たちのためでもあるんだからな」

「ふざけやがって……いきなり押しかけてぶん殴るのが俺たちのためか?」

「じゃ聞くけど、わたしたちがお茶とクッキーを持って『ここのレーダーを弄らせてちょうだい』って頼んだら、あなたたち言うこと聞いてくれたのー?」

 コンソールに指を走らせるアイリーナにフィリパが訪ねる。「どうだ?」

「レーダーへの欺瞞としては初歩の初歩、ちょっと疑って調べればわかる程度ねー。お尻で椅子を磨く以上の職業意識しかないんじゃ、疑いもしないんだろうけどー。……っと!」

 アイリーナの指が止まる。「古のハッカーなら『ビンゴ!』って叫ぶ場面ねー」

 この施設で使用されているレーダーは最新鋭とは程遠い──おそらく軍からの横流しだろう──数世代前の代物なのだろうが、それでも役割は充分に果たしていた。

 薄汚れた液晶場面に、光の点がびっしりと幾十も輝いていた。しかも島へ向かって接近してきているのが手に取るようにわかる。

「ハイチ連邦海軍の討伐艦隊。これは本気だわー」

「本当にこの島を焼き尽くすつもりか……」

 フィリパが拘束した男たちを睨みつける。「お前たち、本当に尻で椅子を磨いていたらしいな」

「そ、そんな馬鹿な……〈黒王子〉からは何も聞いてないぞ!」

「まだわかってないのー? あんたたち、その〈黒王子〉から騙されたのよー」

 その時、外で数台の車のブレーキ音が響いた。続いて幾つもの軍靴が地に降りる音。

「ここだ、助けてくれ!」拘束されていた一人が縛られたままドアから飛び出し──次の瞬間、横殴りの銃弾の雨を浴びて引き裂かれた。仲間の無残な死を見た監視員たちが悲鳴を上げる。

「伏せろ!」

 フィリパが叫び、身を投げ出した拍子に銃撃が始まった。小銃だけでなく重機関銃までが銃撃に加わり、そのうちの幾つかは建物の塀を貫通し、縛られたままの監視員たちを次々と貫いた。

「……生きているか?」

「……何とかねー。対応が早すぎるわ……エドワードの奴、読んでやがったんだわー。私たちが仕掛けるとしたら、この施設から始めることを」

 大穴を開けられた壁の隙間から外を覗くと、重機関銃を荷台に据えたピックアップが数台停まっている。巧みに間隔を開け、死角はない。しかも、麓からは何やら重々しい金属の足音が近づいてくる。奇形の蜘蛛じみた独特のシルエットを見間違うはずもない。多脚砲台〈ザッハーク〉だ。

「数といい火力といい、突破はちょっと難しいかなー。モーセの奇跡でも起きない限り」

「出てこいよ、女ども! 今投降すれば何もしないからよ!」

「『何もしない』って言われて、何もされなかったためしがないわねー」

 苦痛を堪えるようにフィリパが固く目を閉じる。「すまない」

「どうしたのよ急にー? なんでフィリパが謝るのー?」

「私のせいだ。私の下らない義侠心のせいで、君まで巻き込んだ」

 アイリーナはおかしそうに笑う。「それで謝るのー? 首尾よく本社の査問をくぐり抜けたとして、それでどうするのー? あなたのパパやママや弟さん妹さんに何て言えばいいのよー? 『彼女は自らの信念に従って残り、私はそれを見捨てておめおめと逃げました』ってー?」

「しかし……」

「それに、この世に信ずるべき何かがあると信じるのは悪いことじゃないわー。私には最後までわからなそうだけどー」

 今度はフィリパが苦笑する番だった。「信ずべきものなら、君にもあるじゃないか。だから私にここまでついてきたんだろう?」

「……何言ってるのよ。もー」アイリーナが照れてそっぽを向く。「くたばるまでにまだ余裕はありそうだしー、もうちょっと悪あがきしましょ。息が止まるまで殺しまくってやる」

「そうだな。私にも手榴弾をくれ。『人は企み、そして神はお笑いになる』だ。まだ神の意図がその全てを露わにしたわけではない」

 フィリパがガリルの銃身を壁の隙間から突き出し、アイリーナが手榴弾のピンに指をかけた時。

 二人の瞳が、ほぼ同時に天の光を捉えた。

「何だ?」

 次の瞬間、天から垂直に落ちた光が〈ザッハーク〉を串刺しにし、次いで起きた爆風が周囲のもの全てを粉々に消し飛ばした。


【同時刻 〈トリアイナ〉船倉】

 ハイドロウォータージェット形式のエンジンが轟音を上げる。同時に船体そのものがぐいと方向を変え、強烈な遠心力が生じた。

「うわ……!?」

 投げ出されそうになった龍一の手を誰かが力強く掴んだ。大男のペックは呼吸すら乱さず、自分とさほど変わらない体格の龍一を苦もなく引っ張り上げる。

「あ……ありがとう」

 龍一の礼にペックは首を振り、そして自分の相棒──ザジの方を気遣わしげに見る。エドワードの録音メッセージは終わっているのに、回線の向こう側へ必死で呼びかけているザジを。

「なあ……エドワード? 今のは嘘だよな……? どうも俺たちが本調子じゃないからって、〈奔流〉を盛り上げようとするあんたなりのジョークなんだよな? お前が〈海賊の楽園〉を見捨てるなんて、何かの間違いなんだよな!? そうだろう〈黒王子〉、頼むから何か言ってくれよ!」

 ペックはまるで(何とかしてくれ)と言いたげにこちらを見るが、龍一にも諌めようがない。

「まずいぞ、リュウ……」ダニーは他の者よりはまだ冷静さを保っていた。「この船の方向と速度からすると、向かっているのは〈海賊の楽園〉だ。このままなら港に突っ込む」

「これが強襲揚陸艦ならそうだろうな。無人制御なら、乗組員に気を遣う必要もない」

「この質量が港に突入したら大惨事だ……港には防衛のための火器も多数据えられているが、それで阻止できるかどうかは望み薄だな」

 やってくれるな〈黒王子〉、龍一は唇を噛む。〈トリアイナ〉の目的は港に突入し、抱えているHWを解き放つことだろう。港の防衛火器が〈トリアイナ〉を阻止したところで、龍一たちは全員助からない。どちらにしてもエドワードは悠々と逃げおおせる。

 そうはさせるかよ。

「ここは頼む」

「頼むって、おい、リュウ!」

 返答している暇はない。龍一は頭上へワイヤーアンカーを射ち、上階へ駆け上がる。

 壁と天井に視線を走らせる──あった。光ファイバー回線の点検用ハッチにグロックの銃弾を叩き込む。数発で蓋が外れた。

「〈白狼〉、ここから〈トリアイナ〉をオーバーライドできるか?」

『可能だ。ただし、だいぶ荒っぽくはなるぞ』

「やってくれ。このままじゃ全員助からない」

 龍一はグロックの銃身下に装着したレーザー照準器──に見せかけた複合センサーをハッチに向ける。何の音も、光も発しなかった。しかし効果は充分すぎた。

 エンジンの轟音を押し退ける勢いで船体に衝撃が走る。ロケット弾の炸裂音。港の防衛部隊が〈トリアイナ〉を攻撃しているのだ。内部の安全などお構いなしに。

 責める気にはなれなかった。〈トリアイナ〉が港へ突っ込めば大惨事だ。

(このツケは払ってもらうからな、エドワード……)

『掌握に成功した』〈白狼〉の声。『だが勢いがつきすぎている。回頭して勢いを少しでも殺すしかない。何かに掴まれ、放り出されるぞ』

 これ以上は無理と思い込んでいた〈トリアイナ〉のエンジン音が爆発的に高まった。一瞬の浮遊感……そして衝突音。港への直撃をどうにか避けた〈トリアイナ〉が横転したのだ。

 今度こそ龍一は宙に投げ出された。視界が暗転し──そして周囲の音が途絶える。


【同時刻 〈海賊の楽園〉地下、〈黒王子〉専用潜水ドッグ】

 そいつらが何者であろうと、暗闇と足場の悪さをものともしていないことは確かだった。

 耳障りな音を立てて唸るチェーンソーが振り回され、鍾乳石をまとめて数本へし折るというよりは粉々に打ち砕いた。転がりながら避ける。〈糸〉を繰り出そうとして──前方ではなく、とっさに後方へ振るう。

 金属音。何かが〈糸〉を弾き返した。チェーンソーの轟音に紛れて、何かが背後から忍び寄ってきたのだ。かつて〈ヒュプノス〉だったアレクセイの感覚を欺いて。

 わずかな裸電球が照らす光の下、そいつが引きずるような奇妙な足取りで姿を露わにする。姿形は……人間だった。しかし、そいつを「人間」と呼んでいいのか。

 目があった部分は周囲の肉ごと完全に抉り取られ、ゴーグル状のセンサーに置換されていた。耳の部分にかぶさっているものは、どうやら集音マイクらしい。裸の上半身は黒光りする金属プレートで覆われ、切断された手首には金属製の爪が強引に取り付け──いや、溶接されて外せなくなっている。

 何よりおぞましいのはその口元だった。歯は残らずむしり取られ、ただ二本の、金属の牙らしきものが下唇近くまで突き出ている。

 人間蝙蝠──そうとしか呼びようのない姿だった。頭髪は剃り落とされ、見ただけでは性別すら定かではない。

 姿形の恐ろしさ以上に、アレクセイはあることに気づいて慄然とした。こいつら──僕の〈糸〉を

『やりにくいだろう? 〈ヒュプノス〉だったお前の披露する手品なんて、ブラックマーケットじゃとっくに解析済みだからな』またもスピーカーからエドワードの声。『HWの流出技術ってのは便利なもんだな──こんなものが欲しい、こんな奴を殺すのにうってつけの兵器が欲しい、そう注文すればその通りのもんをオーダーメイドで請け負ってくれる。そいつらは最初っから目に頼らないからな、お前の〈見えない刃〉にだって惑わされないし、空気のわずかな唸りで察知して躱せる』

 またも耳障りなチェーンソーの音。二刀流よろしく、両腕にチェーンソーを取りつけられた人間蝙蝠が飛びかかってくる。あの速さでは距離を取っても即座に詰められる、アレクセイはむしろ前方に踏み込む。

 チェーンソーの回転半径に飛び込むアレクセイの目に、赤い口腔と金属の牙が飛び込んできた。フェイントか。

 だがアレクセイの動きもまたフェイントだった。身体を捻らず、踵を回さず、ほぼゼロ距離から人間蝙蝠の胸部に掌打を叩き込む。寸勁──外部からではなく、むしろ内部に衝撃を与える打撃法。〈ヒュプノス〉の戦い方は、〈糸〉による切断だけではない。

 さしもの人間蝙蝠も動きが止まった。瞬時にアレクセイは手首を返す。その動きだけで、チェーンソーを装着した両腕が根元から落ちる。

 これで戦闘能力は奪った──そう思うアレクセイを嘲笑うように、甲高い電子音が人間蝙蝠の体内から鳴り出した。

(!)

 反射的に身を翻す。駆け出すより早く、血と肉片混じりの爆風がアレクセイを数メートルほど吹き飛ばした。一瞬、息を詰まらせてしまう。

『最初の一発目はサービスだ……次は即座にと行くからな。たとえ二目と見られない化け物だろうと殺したくはない、なんて考えてる甘ちゃんには相応のお仕置きだ』

 今度は左右から人間蝙蝠が二体、鉤爪を振りかざして襲いかかってくる。肘打ちで鉤爪を逸らし、もう一体に体当たり、頭上を乗り越えるようにして背後へ転がる。

 今度は二体同時に爆発した。またも血と臓物がアレクセイの全身に降りかかってくる。

『お前、人間に戻りかけてるんだって? 〈ヒュプノス〉ってのは、そんな簡単にやめられるものなのか? 餓鬼のお遊戯同然の代物なのか?』

 洞窟の奥から。水中から。天井から。さらに十数体の人間蝙蝠が姿を現す。

『だったら死ね。他人の命どころか、自分の命すらどうにもできない間抜けとしてな!』


【同時刻 〈首縊りの丘〉】

「つっ……あいたあ……生きてる、フィリパ?」

 どうやら一瞬気を失っていたらしい。目の前にアイリーナの、自分と同様、粉塵だらけになった顔があった。

「今のところはな……何があった?」

「空から降ってきた砲弾だかミサイルだかが〈ザッハーク〉を直撃して、満載していた弾薬が誘爆して周りのものが何もかも粉々になったのよー。でなきゃ、私たちの方が粉々になってたこと請け合いねー」

「そんなものは請け負ってくれなくていい……」アイリーナの肩を借り、フィリパは瓦礫の山と化したレーダーサイトから這い出した。アイリーナの説明通り、外では〈ザッハーク〉の巨体が炎を上げて燃え盛り、周囲に横転した車輌が転がり、それより多くの人と金属の破片が飛び散っていた。当然、生きている者はいない。

「助かったのは、建物の影にいた私たちだけか……」

「この状況で助かったんなら、感謝は神様にした方がよさそうねー」

 街の方へ視線を転じたアイリーナが息を呑む。「嘘でしょ……」

 今や住宅地・商店街の区別なく〈海賊の楽園〉そのものが炎に包まれていた。沖合で鈍い轟音が響くたび街の一画が吹き飛び、炎がさらに広がっていく。艦砲射撃だ。

「何てことだ……」フィリパの声もまた震えていた。「最悪だ。私はこんなものを見るために戦場から戻ってきたのか……」

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