南海の蠱毒(5)身動きできない地の底で君を
──夜の底で男は目を見開いた。
全身が嫌な臭いの汗で濡れている。何か……何も覚えてはいないが、ひどく魘されていたようだ。
枕元のスマートフォンに彼は囁く。「……〈白狼〉?」
下降していくエレベーターはまるで地の底まで続いているようだった。乗り込んでから数分経つのに、一向に目的の階へ着かない。
「地下部分は相当な広さみたいだけど、最初からこんなだったのか?」
龍一の問いに、支配人は首を振る。「いいえ。この空洞自体はこの島に人が移り住む前からありました。さすがに多少の拡張と補強工事ぐらいは行いましたが。岩盤自体は強固ですので、ご心配なく」
「初めから心配はしていないけどね」アレクセイがぽつりと呟く。彼はどうも龍一の見る限り、このエレベーターに乗り込む前から微妙に機嫌が悪い。まあ、必死こいて探し回っていた相手が自分の足元にいたなんて聞かされてせっかくの苦労を茶にされたように感じたのかもな、と龍一は想像した。気持ちはわからなくもない。
軽い電子音とともにエレベーターの扉が開く。龍一は目を瞬いた。足元すら朧げにしか見えないほどの暗闇が広がっている。
「ああ、少々お待ちを。何しろ私以外の方がここを訪れるのは久しぶりなものでして……メンテナンスは自動で行われるようになっておりますし、照明もほぼ必要ありませんので」
支配人の音声に反応したのか、広大な空間に光が灯っていく。まるで無菌室か半導体工場のような、天井も壁も床も白一色のホールだ。肌寒いほどに冷房が効いている。神殿を思わせる広大な空間に、それこそ神殿めいた柱が数十本も立ち並んでいた。溶液の立てる気泡音と機械の唸る微かな音が、余計に静寂を掻き立てる。
「これは何だ?」
自分の目にしたものが何か判断できず、龍一はもう一度繰り返してしまった。「これは……何なんだ?」
一抱え程度の太さを持つ半透明の柱に、薄青がかった溶液が満たされている。その中に……人体が浮かんでいる。しかしこれは「人体」と言っていいのか。
頭皮のこびりついた髪の束。視神経を溶液の中で揺らす、灰色がかった眼球。男とも女とも取れる、細い人差し指。舌らしきピンク色の肉片。切断面も生々しい踵。そしてたった今引きむしられたような、顔面の皮──確かに人間のものではあるが、ここまで細分化されてしまっては「人」に見えない。「
その部品の群れに向けて支配人が手を胸に当ててうやうやしく一礼する。「〈白狼〉様、ご指定のお二人を連れてまいりました」
『ご苦労だった、支配人』男とも女ともつかない、透き通った電子合成音が響いた。『申し訳ないが、後でまた幾つか頼みたい。しばらく隣室で待機していてくれ』
「は。では何かありましたらご遠慮なく」
支配人はまた一礼し、引き下がる。
『相良龍一と……最後の〈ヒュプノス〉だね。初めて会うはずなのに、初めて会う気がしないよ』
「……どこにいるんだ?」
『もうわかっているんじゃないか?』電子合成音による声色の調子が変わった。声の主は、笑いを堪えているようだった。『君たちが目にしているのが〈白狼〉だよ』
龍一は絶句した。意味はわかったが、わかりたくはなかった。「エドワードが……〈黒王子〉が、あなたは死んだと言っていた。真には受けなかったが」
『ある意味ではそうだ。実際今の〈私〉を「生きている」と言っていいのかどうか、私自身にも曖昧なままだからね』
よくは知らないが生前の〈白狼〉も、こんなふうに韜晦するタチだったのかな、と龍一は何となく想像する。
『そう、エドワードが君たちに行った説明は嘘ではない。私は生まれつき現代医学では治療不可能な難病を患っていた。当時の最先端治療ですら、病の進行を多少遅らせただけに過ぎなかった。〈連合〉が敗北し、逃亡生活を余儀される中で、病状はさらに悪化した』
3Dプロジェクションだろうか、無菌室の内装が不意に別のものへと切り替わった。白い砂と摩耗しきった黒い岩肌が地平線の彼方まで広がっている、荒涼極まりない平原だ。天の太陽すら舞い上がる砂埃に霞み、歪んだシルエットしか見えない。
「何だこれは?」
『私の心象風景だよ。君たちが退屈しないかと思ってね、見た目だけでも変えてみた』
ひねくれたユーモアは〈白狼〉生来のものなのだろうか。
『そこで発想を変えた。悪化してどうしようもなくなった部分を切除し、生体でまだ健康な部分のみを保存・培養して極力生かすようにした。結果はご覧の通り、生体の半分以上を切除する羽目になったが、少なくともこうして君たちと話すことはできる。こうなってみて痛感するが、どうも人間とは脳だけで思考しているわけではないようだ。脳はもちろん人間に必要不可欠な器官の一つだが、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を欠いた状態ではどうにもならない。別の何かで補う必要があった。君たちは既にそれを目にしているはずだ』
そんなはずは、と言いかけてふと思い当たる。確かアレクセイが似たようなことを言っていたはずだ。「まさか街の中にある発電機がそれだ、なんて言うつもりじゃないだろうな」
『そのまさかだ。発電機だけではない。今ではこの島の人々全員が手にするスマートフォン一つひとつ、露店で一山いくらで売られる電子部品や子供たちが遊ぶ遊戯用ドローンまでもが私の目であり耳であり触覚だ。背の痒みで電力量を調整し、目を擦って市井の人々の会話を聞く。こちらの通信量が増大しているから、少し手首を捻ってやる──元々私は自分の身体があまり好きではなかったから、それを捨てるのに抵抗はなかった』
「理屈はわかりますが、極端すぎます」とアレクセイ。「それでどうやって自意識を保てたのですか?」
『君の方がむしろ理解は容易ではないのか、最後の〈ヒュプノス〉? 全世界の何百万を越える同胞と脳を並列化しながら、自己を確立できるという自信はどこから来るのだ?』
今度はアレクセイが絶句する番だった。
『アレクセイ、と名乗る最後の〈ヒュプノス〉よ。君のその名は、本当に君自身の名なのか? 君が〈ヒュプノス〉となる前の、君にとってかけがえのない誰かの名なのではないか?』
「やめろ」
龍一ですら、彼の言葉に込められた怒気にたじろいだ。「僕の名はアレクセイだ。それ以外の何かを名乗りたいと思ったことはない」
『……すまない。私には人の心情を察する能力が欠けているようだ。この身体になる以前からな』数秒の沈黙に、〈白狼〉でさえ口を滑らすことがあるんだな、と龍一は妙な親近感を覚えた。
『もちろん、私が一からこの島のインフラを立ち上げたわけではない。エドワードとの取引あってだ。私は放っておかれれば〈犯罪者たちの王〉からの刺客に首を掻っ切られるまでもなく死ぬはずだったし、エドワードも含め島の住人たちにまともなインフラ展開のノウハウなど望むべくもなかった。だからこそ互いに求めあったのだ。エドワードが私の身体を構成し、私がその延長上で島のインフラを管理する。もちろん最初は戸惑ったが、次第に上手く行った。やや余裕が出てきたところで、エドワードが〈奔流〉を提案した』
龍一が引き継ぐ。「さっき俺たちが来ることはわかっていたと言ったな。島に来る前から、俺たちはあなたの監視下にあったのか」
『そうだが、その表現では充分ではない。私はさらにその前から君たちを見ていた。相良龍一、君が波多野仁の復讐を果たすため未真名市を訪れた時から。そしてアレクセイ、君が相良龍一抹殺のために〈ヒュプノス〉から送り込まれた時と、その顛末も。そして〈月の裏側〉が無惨に壊滅し、当てなく逃亡を続けていた時も』
そう聞かされてさすがに無関心ではいられなかった。「初耳だ」
『私も君たちにコンタクトを取るつもりはなかった。相手が〈犯罪者たちの王〉とあっては、とりわけ慎重になる必要があったからな。聡い者──例えば高塔百合子あたりは勘づいていたかも知れないが』
周囲の風景が切り替わる。名も知れぬ鳥と極彩色の花々が入り乱れる、南国の密林。
『龍一。アレクセイ。私は私の知る〈犯罪者たちの王〉の情報を全て君たちに提供する。最初からそのつもりで呼び寄せたのだからそれは構わない。ただし、一つ条件がある』
「何だ?」
沈黙があった。『ここを出たい』
龍一はとっさに周囲を見回して(相当かさばるな)と勘定し、そして仮にも人だったものをそう思ってしまってだいぶ疚しくなった。
『心配はない。ここに並んでいるかつての私の部品がどれだけ〈私〉を保つのに必要なのかは、真剣に疑問だからな……私が人間であった頃を偲ぶ縁以上ではなさそうだし、むきになってこだわるほど執着もない。実際、君たちが考えている以上に残された時間は少ないのだ。龍一、君は〈黒王子〉を……エドワードをどのような人物だと見た?』
「頭は悪くないとは思ったな。こうしてタネを明かされた後でも、それを実現するのは並大抵の努力ではないだろうし。島の皆に慕われているのもわかる」
『そう、頭は悪くない。人望もある。だがそれだけの男、とも言える』
龍一は顔を上げた。人肌の温度など望むべくもない電子合成音が、さらに冷たく感じられたのは気のせいだろうか。
『頭の回転は早い。自分の気に入ったものには人が驚嘆するほどの熱意を持って取り組む。そうして誰からも讃えられるようなものを作り上げ……次の瞬間、塵のように捨ててしまう。彼が前職を失い、家族からも見捨てられたのは、そういった生来の飽きっぽさも災いしたのだろう』
やや合点が行ったようにアレクセイが口を開く。「彼が島を捨てようとしている、ということですか」
『そう。跡形もなく破壊した後で。ローマを焼き払ったネロ帝のように』
龍一は軽く息を吸い込んだ。ダニーの懸念は当たっていたわけだ。
『今度の〈奔流〉はまた、月のない新月の晩だろう? それに乗じて、ハイチ=ドミニカ連邦海軍が島を急襲する。歩兵と戦車一個大隊を積んだ強襲揚陸艦を含む、海賊討伐艦隊だ。今も私の知覚と直結したレーダーの索敵範囲ぎりぎりを、偵察用ドローンで探っている。そしてエドワードは、それを知りながら配下にすら隠している』
「夜逃げの準備はとっくにできている、と考えた方がよさそうだな……」
龍一も元からエドワードを心底信頼していたわけではない。誰にでも秘密の一つや二つあるだろう。だが島の指導者として鷹揚に会見していながら、裏では島を見捨てて逃げる算段をしていたとは……徐々にだが、あの野郎、と腹の底が煮えくり返ってきた。
『それに残された時間が少ないのは君たちも同じかも知れないぞ。君たちは本当にこの〈海賊の楽園〉が〈犯罪者たちの王〉の勢力圏外にあると信じているのか?』
「どうしてだ? この島のビジネスはヨハネスのそれと競合してはいないんだろう?」
『競合してさえいなければ無縁と考えるのは、端的に言って甘い。ヨハネスは馬鹿と程遠い男だ。全世界を自分の犯罪王国で統一してカバーしきれない地域に反ヨハネス勢力を蔓延らせるよりは、あえて自分が手を出さない地域を設定した方が反逆者たちを監視しやすい、と考えたのだろう。現に、君たちは私が生きていると信じてこの島を訪れたのだからな』
僕らはまんまと引っかかったわけか、とアレクセイが苦笑している。
『彼の手はとても長く遠くまで伸びる。君たちが出くわした〈ゴルゴン〉もその一つだ。大型の戦闘用メックとHW一体、それを貨物船に乗せるだけで君たちを燻り出せれば充分ローコストだと判断されたのだろう。君たちが一直線に〈海賊の楽園〉を目指すと踏んだからこその読みだが』
「そう考えると割に合っているような気がするから不思議だ」
そこで〈白狼〉の声は途絶えた。人で言えば口ごもった、に当たるだろうか。
また周囲の情景が切り替わる。今度は蒼空と、それを映す鏡のような湖。空を湖が映しているのか、湖を空が映しているのか、どちらともつかない。
『龍一、アレクセイ。〈犯罪者たちの王〉は……プレスビュテル・ヨハネスと名乗る彼は、並々ならぬ執念で君たちを破滅させようとしている。自らの犯罪王国と引き換えにしてもだ。彼は犯罪者には違いないが、彼が犯罪を犯す動機は私利私欲のためではないのだ。おそらくそれは彼にとってただの手段に過ぎない……鋏や刃物のような。だから用済みになれば躊躇わず捨てる。どれほど人が羨むものであっても。私たち〈連合〉はそれを読み切れなかった。犯罪をビジネスと考え、合理的な手段で幾らでも折り合いがつくと考えていた。だから彼に勝てなかったのだ』
「それは……わかる」
何のことはない、俺を動かすのも合理性でないのと同様、それはヨハネスの側にも言えるわけだ──龍一は幾分か陰鬱に思った。ヨハネスが狂っているように見えるのは、それが鏡に映った俺の姿だからだと。
『君たちが生きることに必死だったのはわかる。だが生きること、ただそれのみを追求した先に待つものは、生きることに失敗した結果としての死だ』
「何が言いたい?」
『私たちに欠けていた未来のヴィジョンを、君たちが行く先に思い描くことを忘れないでほしい』
なぜだろう、その〈白狼〉の言葉は今までで一番人間臭く──そしてほろ苦く響いた。『そしてできれば、私のことも忘れないでくれ』
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