相良龍一の章 南海の蠱毒
南海の蠱毒(1)楽園を目指して
ああ──皆、死んだ。
私だけが生き残ってしまった。
私だけが。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
たなびく薄雲を貼り付けただけの目に染みるような青空、そしてエメラルドグリーンの海。波はほとんどなく、ただ肌を撫ぜる微風と同じくらい優しく龍一の乗ったボートをたぷん、たぷんと遠慮がちにゆすり上げるのみだ。ずっと遠くの方で水音が響き、名も知らぬ小魚が陽光に銀の鱗を光らせて跳ねた。
時が止まったような、むしろ止まってさえほしいと思いかねない素晴らしいロケーションだった。龍一の好みからは少々外れるが、こんな昼下がりもたまには悪くない、と思ってしまう。
……これでここがリゾート地ではなく、〈
「……なあ、アレクセイ」二人乗ればいっぱいになる小型救命ボートの上にパラソルで作った庇の下、弦側を洗う波を手でなぶりながら龍一は呟く。「待ち合わせに関しちゃ君に全部ぶん投げたから文句は言わないし、一時間二時間程度でガタガタ言いたくない。それに予定なんて、すんなり運ぶ方が珍しいくらいだ。が……さすがに遅くないか?」
そうだね、とちゃっかり用意していたサングラスの角度を直しながら向かいのアレクセイが笑う。「実は僕もそう思い始めていたところなんだ」
「冗談だろ……」龍一は絶望的な眼差しで周囲を見回した。島影どころか、通りかかる船一隻さえ見当たらない。「〈代理人〉に拾ってもらうのを前提でここに下ろしてもらったんだ。水や食料だって大して積んでないぞ」
「この暑さじゃ、飢え死により先に渇き死にしそうだね」
「他人事みたいに言うな」
「ごめん。でもあまり多くもらうわけにはいかなかったからね。あの船員さんたちの分を考えると」
「ああ。さんざん世話になったからな……俺たちの都合で待ってもらうわけにもいかない」
龍一は盛大に溜め息を吐いたが、もちろん救いになるようなイベントは何一つ起こらない。風はあくまで優しく、波は眠気を誘うタイミングでボートを揺するのみだ。
「……俺たちが位置を間違えたか、先方が
「なくはないけど、確かめるのは難しいね。こちらから向こうへの無線通信は厳禁とされているから」
「打つ手なしか……」龍一は弦側にもたれて天を仰ぐ。サングラスとパラソルを用意しておいてよかったと思う。何しろ日光を遮るものなど何一つない海のど真ん中である。素肌を一時間もさらしていようものなら、全身火膨れになっていたところだ。そのくらいしか喜べることが思いつかない。
「なあ、どうせ待つしかないんだったら説明してくれよ」
「何のだい?」
「これから俺たちが行くところだよ。何だったか……そう、〈
「それもそうだね。僕も君も船の仕事を手伝っているか、さもなければ疲れて寝ているかだった」長い航海中、忙しくなろうと思えばいくらでもなれるものではあった。「悪くないね。僕も自分の目的を整理したいところではある。何より、時間ももう少しありそうだ」
パラソルの先では、日が頂点に差し掛かりつつある。
──「彼」自身、自分が歴史に名を残すような人物になるとは夢にも思っていなかったに違いない。公表されている資料から、「彼」の生い立ちをたどるのは容易だ。46歳、イギリス・ヨークシャー生まれ。オクスフォード大経済学部を優秀な成績で卒業。趣味はボクシングとフィギュア収集(17世紀、カリブの海賊を模った物が特にお気に入りであった)。
それでも事業に失敗し、妻子に去られた彼がただ一つだけ差し押さえられなかった貴重な財産である自分のヨットに乗ってカリブ海の只中を目指した理由は、今日に至るまで不明である。死にたかったのかも知れない。
いずれにせよ、片道分の水と食料しか積まなかった「彼」はひたすらヨットで漂流を続け、ある夜、一隻のクルーザーを見出した。幸か不幸か、その日は月のない闇夜であった。
「彼」自身信じられないことに、クルーザーへの侵入はあっさりと成功してしまった。とある企業重役一家の保有する船であり、セキュリティなどいくらでも厳重にできたはずなのだが。何かの偶然で作動しなかったのか、単にたかをくくっていたのか……。
目を血走らせて水と野菜と肉の満載された冷蔵庫を物色していた「彼」は、ホームシアター鑑賞を終えて談笑しながら夜食にしようとしていた重役一家──両親と幼い兄妹とばったり鉢合わせてしまった。彼にとっては不幸だったが、重役一家にとってはもっと不幸であった。
雄叫びを上げて飛びかかった「彼」の右アッパーで、父親は一撃で鼻血を噴いてのされてしまった(趣味のボクシングのせいで、身体は無駄に鍛えてあった)。泣いて倒れた父親にすがる妻と幼い兄妹を見てちょっと頭は冷えたが、もちろん齧ったハムとソーセージを返すつもりはなかった。
失神した父親含む一家を救命ボートに蹴落とし、クルーザーの舵を握った「彼」の頭に──その時、天啓が降りてきた。
幼少期から思い描いていた夢を、今こそ実現するべきではないか? どん底で俺がたどり着いたこの姿こそ、俺がなりたかった真の姿ではないか?
「俺は……カリブの海賊だ!」伸び放題の顎髭からワインの雫を滴らせ、ハムの塊を食いちぎりながら「彼」は吠えた。「この俺様こそが、人類最後の海賊王だ!」
エドワード・〈
次の日から仲間探しが始まった。彼は狂っていたが、鉄拳一つで各国海軍や海上警備隊と戦えると自惚れるほど間が抜けてもいなかったのである。
予想外にも、人は続々と集まってきた。脱走兵、密売人、娼婦やそのポン引き、そしてカリブ海の政変で、職や住処や行きどころを失った難民たち。
やがて「彼」は水も食料も豊富で、手頃な入り江を備え、守るに堅い離れ島を見つけ、忠実な「子分ども」を引き連れてそこへ移り住んだ。今や「彼」は惨めな失業者ではなかった──政府の圧政に立ち向かう、海の悪党にして英雄だった。
「何とまあ……」龍一は半ば呆れ半ば感心していた。「幸運とどさくさの助けはあったとは言え、失業した男のやけっぱちの思いつきが、〈人類最後の海賊たち〉の楽園を産んじまったってわけか」
上手い要約だね、アレクセイは笑いながらペットボトルの水を口に含んだ。さすがに喋り通しで喉が渇いたらしい。「生半可な理屈よりも狂気に近い思い込みの方が、人々の心により強く訴えかけるケースもあるんだ。案外、歴史上のイベントはそんなふうにして起こるのかも知れないね」
何とも身につまされる話だと思った。「復讐」などという一文の得にもならない代物に取り憑かれたからこそ、今の龍一はここにいるのだから。
「でも、俺たちの目当てはその有名人じゃないんだろ?」
「そう、その通りだ」アレクセイの声色がやや真剣みを帯びる。「僕たちの目的は〈海賊の楽園〉のどこかに匿われるか、それとも捕えられるかしている……かつて〈犯罪者たちの王〉と戦った〈連合〉最後の生き残り、伝説のハッカー〈白狼〉との接触だ」
遥か彼方で航空機のものと思われるエンジン音が響いた。しかもこちらへ急速に接近してくる。
「……ちょうどいい暇つぶしになったみたいだね。それじゃ、続きは島へ着いてからにしようか」
「やれやれ、さんざん待たせたあげくいいところで終わったな……海のど真ん中で日干しになる心配だけはなくなったが」
最初は黒い点にしか見えなかったものはやがてプロペラからフロート部分まで全面真っ赤に塗られた複座式の水上艇となり、龍一たちの救命ボートから数メートルと離れていない水面に見事に着水、龍一とアレクセイへ盛大に水飛沫を浴びせて停まった。
水上艇の操縦席からパイロットが顔を覗かせ、ゴーグルを額に跳ね上げる。栗色の髪を無造作に束ねた白人の女だ。目は青みがかった灰色。「お待たせ。あんたたちが今回の荷物?」
「……そうらしいな。他に見当たらないし」全身ずぶ濡れになった龍一が平板な口調で呟く。「さんざん待たされた上にこの仕打ち、さっきから『どうしてくれようか?』と哲学的な問いばかり浮かんでくるよ」
「ごめんて。出発前にいろいろあったのよー」
「すまなかった。怪我はなかったか?」大して深刻そうには見えない白人女とは対照的に、副操縦席から身を乗り出した肌の浅黒い女が生真面目そうな口調で問う。中東系の顔立ちという以外、国籍はわからない。「依頼は受けている。リュウとアレクだな?」
「そうだけど、あなたたちが〈代理人〉の遣い?」
「んふ、半分正解で半分間違いかなー。この度は当サービスをご利用いただき、まことにありがとうございます。私がアイシャ、こっちがパオラよ」
「〈代理人〉自らが出迎えを?」
「要するに何でも屋だからねー。今んところは社長一人、社員一人の零細なのよー」
パオラと呼ばれた女が副操縦席からワイヤーロープを取り出す。「〈島〉までは曳航する。そちらのボートに引っ掛けてくれ」
「わかった」
水上艇に曳航され、救命ボートはようやく水上を滑り出した。龍一は少なからず安堵する。とりあえず日干しは免れたわけだ……。
「えー、ところでアイシャさんだったか、島まではこのまま直行するのか?」
「アイシャでいいよー。……んー、正確にはちょっと遠回りする必要があるかなー。最近ハイチ=ドミニカ連邦海軍や沿岸警備隊の取り締まりが増えててねー」
「捕まったらどうなるんだ? 臨検されるのか?」
「のんきねー。ここらの臨検は撃ってから確かめるのよ。〈島〉の周辺は誰何なしで撃たれても文句の言えない立入禁止海域なんだから」
龍一は動揺のあまりボートから落ちそうになった。「狙撃されるじゃないか!」
「狙撃どころか穴だらけにされること請け合いね。連中にとっちゃ報告書を書く手間も省けるし」
「請け合ってくれなくていいよ!」
「『オキナワ』以降、米軍はこの海域に対するプレゼンスを完全に喪失したからな。以前よりハイチと国土を共有していたドミニカ共和国が事実上『接続』されてしまっても、国際社会は見て見ぬふりだ」どこか苦々しげな口調でパオラが呟く。「そして自前の戦力で海域の安全保障を行わざるを得なくなったハイチ=ドミニカ連邦に、ロシアと中国が露骨にすり寄り始めた。大量の兵器供給という形でな」
またオキナワか、やや陰鬱な気分で龍一は思った。こんなところにまでオキナワが影を落としている。
「そもそもこうも海賊が増えたのは、軍事費増大のために政府が強権発動したからなんだが」とパオラ。「そして税が払いきれずに職を追われ、あるいは財産を没収された人々が難民と化して〈海賊の楽園〉目指して逃げ出し、それを阻止するべく政府が取り締まりを強化する」
「よくある話ねー」
「ああ。本当によくある、救いのない話だ」
本当によくある救いのない負のドミノ倒しだ、と龍一は溜め息を吐きたくなる。
「あれ……これはちょっとまずいかも」アイシャが舌打ちする。何が、と問う間もなく、後方から一隻の高速艇が急接近してくる。鋭角なシルエットは明らかに民間船ではない。哨戒艇だ。
『こちらはハイチ=ドミニカ連邦沿岸警備隊だ! 前方の水上艇、ただちに停止せよ!』
「あいつら、最近は特に犯罪予測システムで私らの航路を先読みして待ち伏せするようになったのよねー。どうせそれもロシアや中国のお下がりなんだろうけど、侮れないわ。イヤねー、仕事熱心な警官なんて地獄に落ちればいいのに」
「犯罪予測システムは犯罪者だけでなく犯罪者を見逃す警官も監視するからな。それよりアイシャ、このままだと私たちの方が先に地獄へ落ちそうだぞ」
哨戒艇の船首に据えられた遠隔操作式12.7ミリ機銃は、陽光の下で鈍く輝きながら間違いなくこちらに鎌首をもたげている。
「まさか、俺たちを見捨てて逃げないよな……?」
「んー、それも考えたんだけど」考えないでほしい。「客商売としては前金もらっといて逃げるのもねー。今後の信用に関わるし」
「しかし、このままじゃ追いつかれる。どうする?」
救命ボートを曳航する水上艇と、哨戒艇とでは初めから勝負にならない。
「そんなに難しく考える必要もないんじゃないかなー。ボートを諦めれば空を飛べるんだから」
「え」龍一が間の抜けた声を漏らしたのはアイシャの言葉を理解できなかったからではない。理解したくなかったからだ。
絶望的な気分で周囲の者を見ると、パオラは処置なしといった顔でかぶりを振り、アレクセイは早くもワイヤーによじ登り始めている。
龍一は自分の顔面から血の気が引く音を聞いた。「馬鹿なことはやめろ! 俺は
「大丈夫よー。私たちもそうじゃないから」
「何が大丈夫なんだよ!」
「すまないがリュウ、フックを外してくれないか? 君は泳いで哨戒艇から逃げられるかも知れないけど、僕らは生身の人間なんだ」
「どいつもこいつも話聞けよ!」
「じゃ、しっかり掴まっててねー。振り落とされても拾ってあげらんないから」
「い、いや待て……俺もフックを外すだけでいいのはわかってるんだが、手が言うことを聞かなくて……!」
アレクセイが黙って〈糸〉を放ってフックを外した。龍一の悲鳴は急上昇にともなうプロペラとエンジンの轟音でかき消された。
ほぼ垂直に近い角度で水上艇、そしてワイヤーにしがみついたアレクセイと龍一の身体が急上昇する。眼下の哨戒艇が見る見る小さくなっていく。
「ねえ、二人とも生きてるー?」息も絶え絶えの龍一たちを確かめるとアイシャはさっさと前方に向き直る。「落ちてないね、よかったー」
「よくないよ! この高さから落ちたら水だってコンクリと同じ硬さになるって聞いたぞ!」怒鳴ったつもりが情けない掠れ声にしかならなかった。腹の底から大声を出したら手が滑りそうだからである。
「そうだねー、落ちたら怪我の心配はしなくていいよー。一発で死ぬから」
「断言してくれなくていい!」
「アイシャ、いい加減にしろ。彼らに限界が来る前に急げ。このままだともらった前金が彼らの葬儀代になってしまうぞ」
「私をそんな悪魔だと思ってんの? ……ほら、見えてきたよー」
水上艇が急速に高度を下げ始めた。前方に半月系の入り江と、そして島の全貌が見えてくる。
息を飲んだ。
大半が緑に覆われていたが、切り開かれた居住区は大都会とまでは行かなくとも、『街』と呼んで差し支えない規模だった。メインストリートらしき大通りの左右には飲食店や書店、自動車修理工場、床屋や楽器店や映画館らしきものまで見られる。
特に目を引くのは、入り江の一部を拡張して作られた港だった。ガントリークレーンや乾ドッグまで備えた本格的な港に、漁船やタグボート、あるいは漁船を改造したらしき大型の船舶や、旧式とはいえ魚雷艇などの戦闘艦までもが(しかもその大半が『マッドマックス』のように派手派手しくデコレーションされている)停泊している。
「すげえ……」龍一は島の威容に目を見張らずにはいられなかった。規模だけなら〈のらくらの国〉に匹敵するか、店舗のバリエーションなら遥かに凌ぐかも知れない。
「……龍一!」
「えっ? あっ」
掴み直そうとして間に合わず、龍一はほぼ垂直に落ちた。
全力でワイヤーにしがみつき続けた末に海に落ちて着衣のまま泳ぐのは、さしもの龍一にもハードな体験だった。ようやく足がつく浅瀬に這い上がって口から大量に海水を吐き出しながら、今ここで刺客に襲われたら一貫の終わりだな……と考えていた龍一の傍らに誰かが近づいてきた。
「アイシャたちが新入りを連れてくるとは聞いたが、これ以上はないくらい派手な登場の仕方だったな」
声に顔を上げると、そこに立っていたのは龍一と大して変わらない巨躯を持つ禿頭で黒人の大男だった。人の良さそうな笑顔で右手を差し出してくる。「ダニエルだ。このへんじゃダニーで通ってる」
「ああ……ありがとう、ダニー」ありがたく手を握る。ごつい体格に反してしなやかな手指だ。「リュウと呼んでくれ。来て早々みっともないところを見せた」
「いいんじゃないか? 皆に大ウケしてるしな」
彼の背後の浜辺では、老若男女取りそろえた半裸もしくは全裸に近い人々が、顔中を口にする勢いで大笑いしている。まあ確かに、自分でなければ龍一も大笑いしているだろう。
「おっと、そうだ、言い忘れてた」ダニーは芝居がかった調子で片目をつぶり、片手を広げてみせる。「ようこそ〈海賊の楽園〉──人類最後の海賊島へ」
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