瀬川夏姫の章・序 揺籃への侵入

 薔薇の剪定は地道で、気を遣う作業だ。病んだ枝、か細く元気のない枝は切り落とす。新枝は一定の長さにそろえ、全体的には始める前の三分の二程度まで間引く必要がある。

「……夏姫様。そろそろ休憩にいたしましょうか?」

 W1に声をかけられて、夏姫は自分がいかに作業へ没頭していたのかに初めて気づいた。温室の中は蒸し暑い。軍手の甲で額を拭う。「そうね。この区画を片付けたら一息入れるわ」

「ここに来られた頃に比べれば、ずいぶんと上達なさいましたね」

 相変わらず一部の隙もない装いで近づいてきたW1は──作業着に軍手姿の夏姫よりよほど良家の子女らしい──夏姫の手がけていた植え込みを一瞥した。馬鹿にしたような眼差しではない。

「でしょう? 私はやればできる子なの」

 夏姫は自信たっぷりに胸を張ったが、なぜか目を逸らされた。「……ええ、そうですね」

「何かしら? 今、すごく気を遣われたようなスメルがあなたの方から漂ってきたんだけど……」

 ──波風の極めて少ない、穏やかな日々が続いていた。

 結論から言えば、拷問も処刑もなかった。下手をすると未真名市でマルスと血みどろの戦いを繰り広げていた頃より、遥かに平穏な時間が夏姫の周りで流れていった。この庭園の手入れ自体「時間を持て余しているならどうか」とヨハネス本人から示されたものだ。だが夏姫は一も二もなく飛びついた。脱走計画は頓挫どころか無期限延期になりそうであったし、当てもなくフィットネスバイクを漕ぎ続けるのにうんざりしかけていたからだ。薔薇の芳しい匂い、土の臭い、鼻をつく肥料の臭い。そういったものに触れていた方が、まだましだった。

 W1とも温室の手入れを通し、以前に比べればずっと会話の数が増えた。彼女も彼女で忙しいらしく、それ以外の会話はなかなかできなかったが……(17回目の誕生日を、夏姫はこの邸宅で迎えた。W1は小さなケーキに蝋燭を立てて祝ってくれた)。夏姫自身、彼女のことを嫌うのが非常に難しくなりつつあった。

 ぱちん、と病んだ枝を切り取り、次の枝に移ろうとして──夏姫は自分がやるべきだったことが、今や曖昧になりつつあるのを感じずにはいられなかった。

(何やってるんだろう、私……)

 囚われの身であっても命の危険はない。どころか、安全な住居を当てがわれ、三食シャワーベッド付きでぬくぬくと暮らしている。死んだり投獄されたりした仲間から見れば裏切り者と指弾されても仕方のない状況だ。

 それでも、皆に会いたかった。自分を知っている人たちに会いたかった。

 龍一や崇、テシクや百合子に会いたかった。

 急に鼻の奥が熱くなった。顔を汗とも涙ともつかないものが流れ、夏姫はそれを手の甲で乱暴に擦った。W1はこういう時だけは、彼女をそっとしておいてくれることはわかっていた。

「精が出るな」

 不意に間近で声が響き、夏姫は飛び上がった。いつの間にか、プレスビュテル・ヨハネス本人が夏姫の顔を珍しいものを見たと言わんばかりの顔で眺めていた。いつもと同じ、高価な生地が意味をなさないほどの地味な背広姿だ。

「……何よ。皮肉のつもり?」語調が強くなったのはもちろん照れ隠しだ。

「薔薇に皮肉を言う趣味はない。手入れに誤魔化しが効かないからな」ヨハネスに泣き顔を見られたことは確実なのだが、少なくとも彼はそれについておくびにも出さなかった。かえって夏姫の方が居心地悪くなった。

 少し離れたところで作業していたW1が血相を変えて走り寄ってくる。「陛下、言ってくだされば私の方から……」

「よい。用があるのは私だ。自ら出向いた方が手っ取り早い」幾分か温度の低い語調でそう言い、ヨハネスは夏姫の手入れしていた部分を検分した。「実際、始めた頃よりは上達した。は掴めたようだな」

〈犯罪者たちの王〉その本人に褒められるのは、やはり何度聞いても妙なものではある。「……まあね。花に罪はないもの」

「君の場合は『ごはんにも』と付け加えるべきだな」

 切り返されて夏姫は真っ赤になった。隣ではW1が笑いを堪えて背を震わせており、夏姫は自分を入れる穴を真剣に探し始めた。いや、なければ自分で掘って入りたい。

「話したいことがある。私の部屋まで」そこまで言ってヨハネスは夏姫を頭から爪先まで一瞥し、踵を返した。「シャワーを急ぐ必要はない。若い娘が身支度に時間をかけることくらい、私でも知っているからな」

 ヨハネスが温室を出ていくまで口をぱくぱくさせていた夏姫は、ようやく物が言えるようになってからW1に向き直った。「ねえ今のどう思う? あの『若い娘の生態なら詳しいんです知り尽くしてますう〜』と言わんばかりの態度、あれで気を遣ったつもりなのかしら!? あのくらいの歳の爺様ってみんなああなのそれともあの人が特別失礼なのどう思う!?」

「……どうして私にそれを聞くのですか?」


 見事なまでの仏頂面で夏姫はヨハネスの部屋を訪れた。言われるまでもなく身支度は一部の隙もなく整えてある。嫌がらせのつもりでいつもよりたっぷり時間をかけた(特にシャワーは)が、出迎えるヨハネスの表情には苛立ちの欠片もなかった。

「調子は悪くないようだな」

「……おかげさまで」だいぶばつの悪い思いで夏姫はそう答えた。理由はどうあれ、今の境遇は食客同然である。

「結構。病人をこき使うつもりはない」ヨハネスは一枚の大判封筒を示した。「中身を見たまえ」

 まさか龍一たちの死体写真じゃないでしょうね、いくらか冷やりとしながら夏姫は中身を取り出す。

 数秒間、目を瞬かせる。少なくともそのようなものは想像していなかった。

「……これは何?」

「フィリピンの全寮制女子校、アセンプション・バギオのパンフレットと入学手続書類一式だ。良家の子女のみが通える、国の将来を背負って立つエリート官僚の未来の花嫁学校、だな。全盛期の遺物と言えばそれまでだが、そのような『ブランド』にこだわる者はどの国にでもいる」

 夏姫はまじまじとヨハネスの顔を見てしまったが、ひび割れた仮面のような顔はあくまで大真面目のままだ。

「君にはそこへ潜入してもらう。アジア圏のITで財を成した華僑の娘という偽装身分も用意してある。潜入し、そこで起こっている一切を記録し、なおかつ。それができたら、相良龍一にかけた『生死問わずデッド・オア・アライヴ』を取り消す」

 沈黙が降りた。夏姫がヨハネスの言葉を吟味するのに必要な時間だった。

「私が言うことを聞くと思うの?」

「わかっていないな。君に選択肢はない」あのアイスブルーの瞳が、またも正面から彼女を見据える。「なるほど、世に自分以外の誰が八つ裂きになろうと蒸し焼きになろうと意に介さない、血も涙もない女は確かにいるだろうさ。だが君はそうではあるまい。不幸にも」

 絶句する夏姫にヨハネスは薄く笑ってみせた。「それとも、他に何か必要かね? 爆弾付きの首輪か? スイッチ一つで殺人ウィルスに早変わりするナノマシンか?」

「……一つだけ聞かせて」凍りつく怒りを押し殺しつつ、夏姫はパンフレットの表紙に指を滑らせた。「なぜ私に? あなたの組織って、そんなに人手不足なの?」

「むしろ、君が見て確かめるべき案件だからだ」アイスブルーの瞳は揺らがない。「今はこれ以上は言えない。幸運を祈る」

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