相良龍一の章・序 追跡者たち
──僕は18で陸軍に入り、20代の終わりまでアフガンに派兵され、そして36で馘首されました。僕に軍以外のどこで働けばいいんですか? ハンバーガーのパテをひっくり返す仕事だけじゃ、今月の家賃だって払えないんですよ。
もちろん社会復帰プログラムのことは知っています。国や軍が僕たちに無関心だなんて思っていません。でも僕たちを甘く見ているとは思います。確かに医療事務や土木工事は立派な仕事だけど、それは僕たちのやりたい仕事じゃないんです。
僕たちは善良な人々を脅かす〈アメリカの敵〉と戦って、殺したいんです。
【ミネソタ州セントポール在住 匿名希望】
──今のところ、HWの導入に踏み切った先進諸国の中で『だぶついた』つまり人員削減の対象となった兵士たちをどう扱うかについての結論を出せた国は存在しません。それは巨大になりすぎた国家規模の『暴力装置』を国家が自らの手でいかに解体するかという、前人未到の領域だからです。いわゆる
我が国も含め、各国政府はこの問題について今以上に真剣に取り組むべきです。戦う相手と奉仕すべき国家を見失った、失業した元兵士の群れは、いずれ深刻な社会不安を引き起こすでしょう。
【ソウル国防大学・未来戦研究室所属 軍事アナリスト ソン・ギフン氏】
──ええ、卵子を提供したことを後悔してはいません。当時私は離婚したばかりで、3歳になる子を抱えて途方に暮れていました。仕事はほとんどありませんでしたし、頼れる係累もありませんでしたから……あのプログラムがなかったら、親子で安定した暮らしを手に入れることも、こうしてインタビューに答えることもできなかったはずです。
でも、ときどきたまらなくなります。ニュースの映像で私が一度も行ったことのない外国の戦場を行進するHWの隊列を見るたび、ひどく胸を締めつけられるのです。あの中に私が提供した卵子で生まれた『子』もいるのかって。
おかしいですよね。私にそんなことで気に病む資格なんてないのに。
……ごめんなさい。大丈夫です。ただ時々、こうなるんです。
【イリノイ州イーストセントルイス在住 匿名希望】
──まあ、いい時代になったんじゃないのか? 今やあの
そのおかげで俺の上がりが減ってるのは、ちょっと複雑な気分なんだが……。
【国籍不明 フリーランスの傭兵〈
【〈のらくらの国〉壊滅から一年後の初夏──ペルー、
サッカーボールを蹴りながら角を曲がり、「彼ら」の住居を見た瞬間、少し嫌な予感がした。あの二人が、車に荷物を積み込んでいるのだ──彼らのささやかな財産である、ここへ来た時に乗っていた車に。
「リュウ! アレク!」
リュウと呼ばれた方──大柄な青年が振り向く。「急で悪いな。ここを出て行かなきゃならなくなった」
「どうして? 別に行く当てがあるわけじゃないんだろ?」
「確かにそうは言った。でも、出ていく時は出ていくつもりだった。本当にごめん」
「アレク? アレクも出ていくの?」
助手席の青年──アレクは一言も言わず押し黙っている。その顔もまた、少年が初めて見るものだった。
「リュウたちを困らせるんじゃない。出て行きたくなったら出ていく、それがここの決まり事だろう」漁網を手入れしていた父親が口を開く。「止めはしない。だがあんたら、せめて明日の朝まで待って出発したらどうだね。いくら車があるからって、この時刻から峠越えするのはとても勧められないよ」
「そうも言っていられないんです。今までお世話になりました」
「……そうか。わかった。寂しくなるな」
「だったら、リュウ、せめて手紙を書いてよ!」運転席に乗り込んだ青年に、少年はウィンドウにぶら下がるようにして懇願した。「二人とも、これから世界中を旅するんだろ? そこから絵葉書を送ってよ!」
「……いいとも。約束するよ」
その瞬間、青年の顔によぎった翳りの意味を理解するには、少年はまだ幼すぎた。
二人を見送ってからも、少年はボールを蹴りながら黙然とたたずんでいた。別にやりたいことがあるわけではなかったが、それでも何となく家に入りたくなかった。
土煙と車のエンジン音が近づいてきて、少年は顔を上げた。いかついバンが通りから近づいてきていた。
今日はどういう日なんだ、と父親が呟くのが聞こえた。「あの二人が出て行ったと思ったら、今度は観光客か?」
ハンドルを握るのは
だが変な奴ら、と思った。どこがどうとは説明できないが、変な奴らに見えた。
やあ坊や、と運転席の小男はウィンドウの隙間から気さくな調子で声をかけてきた。「ちょっと聞きたいんだが、こんな奴らを見なかったかね」
見る前から予想できなくもなかった。小男が取り出したのはあの二人の写真だった。隠し撮りされたものなのか、写真の中のリュウもアレクも視線をこちらに向けていない。二人ともひどく固い表情で、そのせいで別人のように凶悪な容貌に見えた。
「我々は国際指名手配中のテロリストたちを捜索しているんだ。ぜひとも協力してもらいたい」
あの二人がテロリストと言われてもぴんと来ない。羅馬はその蹴りで人を殺せる、と言われた方がまだ信じられそうだ。
黙っていた父親が口を開く。「すると、あんたたちは警官なのかい?」
「いや。ただ、捜査機関からの依頼を受けて動いている。まあ、下請けみたいなもんだと思ってくれ」
嘘だ。理由はわからないけどとっさにそう思った。こいつらは警官どころか、探偵でさえない。もっと別の……恐ろしい奴らだ。
「…… もうここにはいない。
ちらりとこちらを見た父親を、少年は目つきだけで制した。「そうだ。西だ。間違いないよ」
小男の反応よりも、後部座席の大女の反応がよほど恐ろしかった。だが大女はこちらを見て、ただ黙っているだけだった。
「
どこまで信じたかはわからないが、小男は結局それ以上何も言わず車を発進させた。見送りながら、少年は全身の震えを抑え切れなかった──間違いない。あいつら、リュウとアレクを殺しに来たんだ。
その時になって初めて、少年は肩に置かれた父親の手も小刻みに震えているのに気づいた。
車の中で、大女はわずかに口元を緩めた。「聡い子だな。私の反応に気を配っていた。確実に誰かをかばう顔だった」
運転手の小男がちらりとバックミラーに目をやる。「じゃ、どうする? 引き返して親子一緒にお仕置きするか?」
「馬鹿らしい。そんな手間がかけられるものか」
「手間をかけるまでもないみたい」タブレットを手にしていた女が面倒臭そうな口調を崩さず言う。「〈
「やはり東か……行け。市街へ逃げ込まれる前に追いつく」
「……なあ、慎重になるのはわかるが、いくら何でも俺たち四人じゃ少なすぎないか?」
「ならばヘリをチャーターし、銃と爆薬を山ほど持った壊し屋どもを二十人ばかり詰め込み、『ワルキューレの騎行』を爆音で流しながら押しかければいい」運転手の疑問に、女は重々しく答える。「それで何度もしくじったからこそ、私たちの出番がある。相良龍一の『獣の勘』は侮れない。現に今回だって、我々の接近を察知していち早く逃げたのだからな」
「そりゃそうだが……」
「遠距離から狙撃しようにも、その直前に逃げられるのだからどうにもならない。そこに〈最後のヒュプノス〉までも加わると、もう手がつけられん。だから、逃げられても追いつけられる者を集めた。足の速い者、そして足を止められる者をだ」
かろうじて舗装されただけの路面を、龍一の運転する4WDはひた走る。
天には銀の粒を散らしたような満天の星空。スモッグの邪魔を受けない無数の輝きは、美しさを通り越して空恐ろしくなるような眺めだ。だが、今の龍一たちにそれを鑑賞する余裕はない。
「……さっきラジオのニュースで聞いたんだけど、もうすぐあの未真名市に警視庁直結の犯罪予測システムが導入されるんだってさ。ちょっと複雑な気分だけどな……でも、あの街では犯罪者よりも犯罪者じゃない人たちの方が多いんだし、真琴たちが安心して暮らせるんだったら、悪い話でもないかもな」
出発以来、一言も口を開かないアレクセイに努めて明るく話しかけるが、返事はない。話題の選択を間違えたか、と思っていると、彼がぽつりと呟いた。
「……桟橋近くに住んでいるお爺さん、知っているだろう」
「あ? ……ああ。あの身寄りがない人か。そう言えばよくあそこへ行っていたな」
「今度、一緒に釣りをする約束だったんだ。……守れなかったけど」
車外の星空を眺めているとも、暗い窓に映った自分の顔を見つめているともつかないアレクセイの顔に、表情はない。
「お爺さんとだけじゃない。あの子にドリブルを教える約束だって破ったままだ……〈ヒュプノス〉の頃は考えもしなかった。約束を守るのがこんなに難しいだなんて……」
どう答えたらいいのか、龍一はわからなかった。再会仕立ての頃に比べれば、アレクセイはずっと表情が豊かになった。日に何度かは笑うようになり、住民からの頼まれ事を断らないどころか、率先して自分から申し出るようになった。
〈ヒュプノス〉でなくなって、ではどうすればいいのか。おそらく彼なりに、その答えを模索しつつあるのだろう。
それが突然断ち切られた。治りかけの傷口から、無理やり瘡蓋を剥がされたようなものだ。ある意味、龍一よりよほどこたえているのかも知れない。
だが、今の龍一には何もしてやれない。
「……少しきついが、この車なら明日明け方にはフリアカへ着けるだろう。そこで数日様子を見て……リマの人口密集地へ紛れ込む。状況によっては、コロンビアへ抜ける必要が出てくるけどな」
「その先は?」
静かな声だが、意味は充分すぎるほど龍一に伝わった。龍一が自分の言葉に感ずる薄っぺらさを、アレクセイはとうに見抜いていたのだ。
首尾よくリマに到着して、潜伏にも成功したとして、それでどうなるのだろう。コロンビアへの脱出がかなったとして、その先は? ヨハネスの刺客たちが国境を越えてさらに追ってきたらどこへ逃げるんだ?
今回だってそうだ。龍一たちも、あのコミュニティに最初から快く受け入れられたわけではない。船の修繕や漁網の手入れなど、彼らの頼まれ事を日々引き受け、そうしているうちに乏しい食料や電池や日用品をやり取りするようになり、やがて食事に招かれ──だんだんと打ち解けていったのだ。
そして、今日その全てが無に帰した。
認めるしかなかった。この一年、どこへ逃げてもヨハネスの手は伸びてくる。それを思い知らされただけの一年間だった。
ネットどころか、衛星の監視下からも外れたような辺鄙な地へ逃がれても同じだった。現地の人々に溶け込み、ささやかな寝ぐらを確保し……そして、追っ手が迫ると何もかも放り投げて逃げ出す。長い時には一ヶ月、短ければ数日。だがいずれも、結果は同じだった。
いや、既に出ている答えから目を背け続けただけの一年間、と言うべきかも知れない。龍一は密かに唇を舐めた。
「アレクセイ、一つ提案があるんだが……」
「待った」
アレクセイの声色が変わった。「その話は後だ。僕らは見られている」
「確かか?」
「ああ。とても高くから……たぶん、ドローンの類だろう。僕らの手持ち装備じゃ落とせない」
この車に積んであるのは数日分の水と食料、本格的とはとても言えないキャンプグッズに、武器と言えば刃物数本(しかも、その大半は台所包丁だ)に、鹵獲した年代物のAK47、それにわずか数個の手榴弾くらいしかない。
それにしても驚異的な察知能力である。龍一も勘には自信があるが、人ではなく獣やドローンのような機械相手の『気配』となるとかなり心もとない。アレクセイ自身にも細かい理屈はよくわからず「ただ、できるんだ」としか説明できないらしいが。
因果なものだ、と思う。自分以外の〈ヒュプノス〉が全て絶えても、もう〈ヒュプノス〉ではなくなったとしても、〈ヒュプノス〉の技術と勘は手放せないのか。
アクセルを踏み込む。蹴飛ばされたように車が加速する。
「駄目だ、龍一……こちらの位置を捕捉されている以上、どれだけ飛ばしても追いつかれる」
「……らしいな」
バンが小高い丘の上で停まる。「この辺りでいいだろう。始めろ〈
「あいよ」呼ばれた金髪の女は後部座席から降り、ジャケットを放り投げてタンクトップ一枚の上半身を剥き出しにした。上背にふさわしい引き締まった筋肉だが、腕の数箇所に埋め込まれた──あるいは突き出した鈍く輝く金属パーツがシルエットを異様に見せている。
「行けるか?」
「風もほとんどない。やれるさ」
さらにバンの後部から細長い金属ケースを下ろして開ける。中に詰まっているのは、2メートルを優に越す金属の槍だ。顔が映るほどに磨き上げられた、無垢のタングステン塊が数十本。
「もったいねえなあ……それ特注だから高えんだろ?」
「そういうセコいことばっかり言ってるから金が貯まんないんだよ、〈
「それに、高速の移動目標をロケット砲や対戦車ミサイルで狙うのは難しい」と大女。「確実に当てられれば、それに越したことはない。まずはこれで先手を取る」
「ど真ん中にぶち当てていいんだよね、〈
「ああ、構わないぞ。それで死ぬなら、その程度の奴らだ」
〈投槍器〉の左右の眼球が、生身ではありえない速度で収縮と拡大を繰り返した。「〈鷹〉との視界リンク完了。ナビ頼む」
タブレットを手にした〈恐竜〉が指を走らせる。「こちらでも確認した。コリオリ力補正、弾道計測完了。やれ」
「おうよ」
彼女は槍を大きく振りかぶった。同時に腕や胸部に埋め込まれた金属パーツが展開、冷気を吸い込み膨張・加熱した駆動装置の強制冷却を開始。二の腕まで走る黒い線が裂け、内部の人工筋肉を露わにした。
大の男が持ち上げることさえ難しい長大な純タングステンの槍が、砲弾さながらの速度で打ち出される。
数キロ近い距離を一瞬で駆け抜けた槍は、地球の重力に引かれ放物線を描いて落下に移る。
落下する槍は〈鷹〉の視界情報、およびGPSにより槍の尾部に位置するリボン状の誘導フィンにより軌道を微調整、目標に向けて一直線に落下する。それは砲弾ではなく、もはや槍ですらなく、純然たる運動エネルギー兵器だ。
天から落下した槍は時速百キロ近い速度で走る車を、まるで濡れた段ボールのように貫通した。接触の火花にガソリンが引火、炎上──する前に、解放された運動エネルギーにより車体が爆薬でも仕掛けられたかのように粉々に吹き飛ぶ。
「命中を確認。見事だ」
〈恐竜〉の賞賛に、しかし〈投槍器〉はかぶりを振った。「おかしい。不意打ちとは言っても、この程度でくたばる奴らか?」
「……確かに、呆気なさすぎるな」
「逃げる間もなく消し飛んだんだろ。遥か高みから降ってくる『鉄槌』を相手に、どうやって逃げるってんだ?」
「そういう愉快な思いつきは決して嫌いではないが」タブレットを操作する〈恐竜〉の目がわずかに細まる。「やはりな。運転席にも助手席にも死体がない」
「槍が降ってくる寸前に飛び降りたってこと?」
「そうでなくてはな。……積荷を下ろせ。予定通り
〈恐竜〉は助手席で膝を抱えてうずくまっている少年に呼びかけた。「出番だ、〈
返事こそしなかったが、少年は顔を上げた。暗い、死んだような目つきに、熱に浮かされたような輝きが宿っている。
「危なかった……車にこだわってたら今頃俺たちは粉々だな」
燃える車の残骸から百メートルと離れていない灌木の影で、龍一は額の汗をぬぐう。
「同感だけどほっとしてもいられないよ。僕らの知らない、全く未知の攻撃手段だ」
「確かに、今までの奴らとはだいぶ毛色が違うな……」龍一は灌木から少しだけ顔を出してみた。まるで標本を留める虫ピンのように、長大な金属棒──それとも槍か? ──が車の残骸を串刺しにしている。「てっきりロケット弾かミサイルでもぶち込んでくるかと思ったが」
「車を失った以上、今夜中に峠を越えるのは無理だ。どうする?」
未知の敵。越えて逃げるには険しすぎる山々。仮に退けたとして、第二第三の追手が用意されていないとは断言できない。
龍一の逡巡は短かった。「迎え撃つ」
たとえ今までの繰り返しになるとしても──いや、だからこそここでは死ねない。
「
身支度を整えながら、〈軽騎兵〉はうわごとのように呟き続けていた。黒のライダースーツに、同じく黒のフルフェイスヘルメットをかぶり、自分の「愛車」へ向き直る。おぼつかない視線と口調に反し、その手順に淀みはない。
「僕は速い……僕は速い……」
彼を待っているのはバッテリーに繋がれて充電中の電動ミニバイクだ。一般のミニバイクよりさらに一回り小さい。全長は1メートル足らず、全高50センチ未満。2個のタイヤの上に楕円形のボディをそのまま乗せたような形で、ハンドルこそ着いているものの、風防すらない。幼児向けの玩具と言われてもおかしくないサイズだ。
「僕は速い……僕は速い……」
充電用ケーブルを外し、バイクに跨がる。ハンドルのグリップスターターを捻るとエンジンが目覚め、乗り手に軽い振動を与える。極めて軽量・低燃費の固形式高分子燃料電池と、小型・高出力の発動機を併用しているため、エンジン音は驚くほど静かだ。
鋭い呼気とともに少年はバイザーを下ろした。即座に戦術コンピュータとリンク、バイザー内に戦術情報が投影される。「……
翼があればそのまま飛びかねない勢いで電動ミニバイクは疾走を開始。速さを考えれば驚くほどの静けさで、急な斜面を物ともせずに見る見る登っていく。
「やるなあ。俺も負けてらんねえぜ」〈蜘蛛〉は懐から無針注射器を取り出した。ラベルに〈NECTER〉と書かれたそれを、躊躇いもせず自分の鼻腔に突き刺す。しゅっと圧縮空気の漏れる音が微かに聞こえ、引き抜くと同時に鼻汁が漏れ出した。
きったないね、と〈投槍器〉が顔をしかめる。「せめて腕に打ったらどうなんだい。ただでさえ不健康な眺めなのに」
「ぬかせ。粘膜から吸収させないと意味がないんだよ……俺の目と腕はこれから倍以上に増えるんだぞ」
手の甲で鼻水を拭いながら、彼は頭部と顔の半分までもすっぽりと覆い隠す異様な形状のヘルメットをかぶる。バイザーのないそのヘルメットには8個のカメラアイが配置され、まるで蜘蛛の複眼のようだ。
彼が背負った金属製のケースから、折り畳まれていたアームが展開する。
「準備はできたな? 始めるぞ」
「何だ……?」上空の〈鷹〉と視界を共有する〈投槍器〉が声色を変える。「あいつら、この先の高台で火を焚いてやがる」
「ほう? 誘いにしてもずいぶんと露骨だな」
「がっかりさせてくれるよ。逃げられないからって、やけを起こすとはね」
「一概に愚かしいとも言えないな。どのみち、車もなしに〈鷹〉の目を振り切るのは不可能だ。向こうが決着を急ぎたいのなら、拒む理由もない」
満天の星空の下を、黒々とした、小山のように巨大な人影が歩いてくるのを龍一は認めた。焚き火を前に、舌が焼けるほど熱いコーヒーを啜りながら、龍一は反射的に傍らのAKへ手を伸ばしたくなるのを堪えた。敵意を見せたが最後、あのとんでもない破壊力を持つ未知の兵器で消し飛ばされてしまう。それに、向こうがすぐに殺す気がないのであれば好都合だ。
焚き火の近くへ巨大な影が立った。まったく、見れば見るほど大きな女だった。龍一が自分の体格にやや自信がなくなってくるほどの体格だ。縮れた髪を強引に後ろへ撫でつけて結び、落ちくぼんだ眼窩の奥の目は暗く黒い。刻まれたように固く引き結んだ口元と割れた顎が、女の容貌をさらに魁偉に見せていた。美しいとはお世辞にも言えない顔立ちだが、この世には美しさより大切なことなぞ幾らでもあると言わんばかりの面構えは、確かに一見の価値があると思った。
「
大女は首を振った。「結構だ。だが、火には当たらせてもらおう」
「
どっかりと大女が腰を下ろす。あの暗く黒い眼差しが、焚き火越しに龍一を見据えた。
「ずいぶんと達者にスペイン語を喋るな。逃亡生活で覚えたのか?」
「そんなところだ。必要に迫られると、案外何とかなるもんだな。あなたたちのお仲間にさんざん追いかけ回されると、外国語学校に通う暇もないし」
大女はその軽口に付き合わなかった。「もう一人はどこだ」
「さあ? 少なくとも、俺と彼の身の安全が保証されるまでは言えない」
保証か、と大女は吐き捨てた。「どうやってその保証とやらをすればいい? 〈犯罪者たちの王〉に追われる男に対して」
「俺が誰を敵に回そうと、約束事は約束事じゃないのか。少なくともこんな土と砂ばかりの荒れ地まで追っかけ回される謂れはないね」
「ある人が私に言ったことがある」大女の口調がやや変わった。「自業自得でない悲劇など存在しないそうだ。マクベスだろうがハムレットだろうが、誰一人その法則から逃れた者はいない、と。だからもしお前がプレスビュテル・ヨハネスに追われる理由に心当たりがないのであれば、それは悲劇どころか、血みどろの喜劇だ」
「肺腑をえぐる言葉だ」苦笑するしかなかった。「俺たちを殺す気満々だな」
「〈犯罪者たちの王〉からは悪くない金額を提示された。お前にそれを上回る金があり、なおかつ〈最後のヒュプノス〉の脳を無傷のまま差し出すなら交渉の余地がないこともない」
「それを聞いて安心したよ……交渉は決裂だな」
龍一は飲み干したカップを置いた。自然な動作で、手に握り込んだ包みを焚き火に放り込んだ。大女の目が自然にそれに吸い寄せられる。
焚き火が爆発した。
かろうじて周囲を照らしていただけの炎が十倍近くも膨れ上がり、大量のアルミ片を撒き散らして弾けた。同時にもうもうと黒煙が立ち昇り、たちまち龍一と大女を隔てる。
「愚かしい……!」黒煙の向こうから聞こえる低く嗄れた声は、隠し切れない怒りに満ちていた。「〈槍〉に跡形もなく消し飛ばされた方が遥かにましだった、と思うことになるぞ」
「ああ、くそっ!」上空の〈鷹〉と視界をリンクさせていた〈投槍器〉も、当然視界を塗り潰されて罵声を発することになった。「〈鷹〉の目を潰せれば勝てるとでも思ってんのか? 直接ぶち当てればいいだけの話だろうが。〈蜘蛛〉、あんたの目を借りる。ぬかるんじゃないよ!」
『誰に向かって言ってやがんだ?』
アレクセイは身を低くして走る。見渡す荒れ地に身を隠せそうなものと言えば、ひねこびた灌木か、一抱え程度の岩塊くらいしかない。
(あの投げ槍をどうにかしない限り、どこへ逃げようと無駄だ。俺が注意を引きつける間に、君は槍投げ選手を見つけてくれ)
龍一の言葉を思い出す。彼なりの気遣いとわかるからこそ、一層気が重い。
何しろ今の彼は〈ヒュプノス〉ではないのだ。
掌に汗が浮いているのを感じる。〈ヒュプノス〉であった頃はそんなものとは無縁だったのに。
(でも、だったら僕はなぜここにいるんだ……?)
そんな場合ではないとわかっていても考えずにはいられない。自分の命を狙う敵を殺せず、かつての
右手首に装着した〈糸〉の射出機から意識したことのない重みを感じる。こんな様で戦えるのだろうか。
答えは彼の意識よりも先にやってきた。何かを感じ、〈糸〉を振るう。
何かが宙で断ち切られて軽い音を立てて転がる。何かの矢──吹き矢か、小型のボウガンから射出されたごく短い矢。
「やるな。錆は心臓まで回ってねえみてえだな、〈ヒュプノス〉」
声の方に、アレクセイは反射的に〈糸〉を振るった。切断機能は切ってある。殺すことはできなくても、絡め取って戦闘能力を奪うことならできる。
だが、相手は軽々と身を翻してそれを躱し、そればかりか彼の背後に回り込んだ。
「……!」
とっさに顔をのけぞらせなければ、目を真一文字に裂かれていた。切り裂かれた彼自身の頭髪が数本、宙に舞う。
そして彼は見た。一対の手に小型のボウガン、そしてそれぞれの手に刀剣を握り締めた幾つもの手を。
異形のシルエットだった。8個のカメラアイを内蔵したヘルメット、さらに6本腕を背面の金属ケースから展開させた姿は、まるで直立した人間サイズの蜘蛛だ。
「どうした? 自分より早く動ける相手は初めてか? 近接戦闘は〈ヒュプノス〉の専売特許じゃねえんだよ」小柄でさほど屈強にも見えない体格の男だった。生身の両手には武器を持たず、コントローラーのような機器を握り締めている。ヘルメットのブレイン・マシンインターフェイスと、手元の機械操作の両方を併用しているのだろう。「ましてや最近じゃ、殺しの世界でも技術革新がお盛んでな」
相手の武器は近接仕様だ。距離を取りさえすれば、ボウガンの矢は叩き落とせる──まるでその考えを見透かしたように、
「距離を取ればどうかなるって思ってんだろ?」
「!」
とっさに飛び退ったアレクセイの、足元が爆発した。
大量の土砂が大波のように彼を押し流した。むせて口の中の砂利を吐き出しながら、彼はボールのように二転三転し、ようやく止まる。さっきまで立っていた地面に、長大な金属の棒が突き立っている。
槍だ。とてつもなく大きくて長くて重い金属の槍。
(これは……手品の種がわかったってどうなるものでもないよ、龍一!)
直撃を食らったら串刺しでは済まない。身体のどこに当たろうが、文字通り四分五裂で吹き飛んでしまうだろう。それに加えてあの正確さ。
まだ収まらない土煙を鈍い光が切り裂く。右左に加え、上と下。避け切れず、こめかみと左肩を浅くではあるが切り裂かれる。
「自分だけが殺しの
視界を霞ませる煙幕とアルミ片の中を、AKを手に龍一は走る。腰には山刀。手榴弾も一個持ってはいるが、正直あの〈槍〉相手ではどこまで効果があるかは怪しいものだ──それ以上の武装があったところで意味があるとは思えないが。
そう、今の俺がするべきはアレクセイが「槍投げ選手」を見つけるまでの時間稼ぎだ。正直、能力があるというだけで今のアレクセイを死闘に送り出すのは酷ではある。だがあの「槍」で狙われている限り逃げ場はない。対処は彼に任せるしかない。
(あの女の方も、どう見ても只者じゃなさそうだが……)
不意に、無意識に龍一の皮膚が総毛立った。何かが近づいている。それも、とてつもなく危険なものが。
何だ?
煙を切り裂いて突進してきた黒い塊を、龍一は二、三回転して避けなければならなかった。一瞬遅れて全身からどっと汗が噴き出る。音がまるでしなかったのだ。油断など微塵もしていなかったのに。
黒い塊が音もなく急停止、反転して停まる。寸詰りの、バイクと呼ぶにはあまりにも小さなボディにまたがった黒づくめのライダーが、確かにこちらを見つめている。まごうかたない敵意と殺意を込めて。
(バイク……なのか?)
乗り物にしてはあまりにもちゃちなサイズだ。バイクというより、子供向けの玩具の自動車に近い。だがそれにしても何という速さ、何という静けさだろう。龍一がその接近を察知できなかったのだ。
ライダーの右手が閃光を発した。くぐもった発射音が響き、龍一の爪先から数十センチと離れていない距離を弾着の土煙が突っ走る。消音器を装着した小型の短機関銃。防弾チョッキを貫く威力はなくとも、生身の龍一には充分な脅威だ。
同じ飛び道具相手なら容赦はしない。AKを構え、数発放つ。だがあろうことか、ミニバイクは真横に移動してこれを避けた。車輪が車体と完全に並行に動くようになっているのだ。速さは全く衰えず、しかもバランスは完全に保たれている。
「くそ!」
遠ざかるミニバイクにさらも数発撃つ。だがまるで当たらず、バイクはまたも煙の中に消えた。投石機でジェット機を狙うようなものだ。全力疾走に移ってから百キロを越えるまで瞬きの間しかかかっていない。恐るべき加速性能だ。
あれは……奇妙な既視感を覚える。かつて俺が乗っていた〈スナーク〉じゃないのか?
そのものではない。しかし、酷似している。何らかの理由で〈スナーク〉の技術が闇市場に漏洩したのか……しかしあれを設計・開発した〈虚空〉がそれを許すだろうか?
歯噛みする龍一が、何かを感じてAKを横殴りに振るう。
その一振りが弾き飛ばされた。振るった両手にじいんと痺れが走る。まるで鉄塊を殴りつけたような感触。
煙を押し退けるようにして、あの大女が突進してくる。
「勝利に奇策は必要ない。ただ合理的な戦術と、今取り得る戦術の最適解のみが勝敗を決する」
(……!)渾身の前蹴りが来る。とっさにAKを構えてブロックする。
衝撃どころか、爆発が起きたのかと思った。ボールのように全身が吹っ飛び、赤ちゃけた砂と土と石ころの上をごろごろと転がる。
「……それともお前は、小細工なしでは勝てないのか?」
何かが傍らに落ちてがらがらと音を立てた。ぞっとした。大女の蹴りをまともに受け止めたAKが、飴細工のように折れ曲がっていた。
身を起こした龍一に向け、またもあのミニバイクが突っ込んでくる。恥も外聞もなく逃げる龍一の足元へさらに銃撃が浴びせられる。反撃どころか、逃げ回るので精一杯だ。
あのコンビネーションを崩さなければ勝ち目はない。
だが、どうやって?
遥か天空から落下してくる槍が撒き散らす土砂に、もう何回吹き飛ばされただろう。しかも、心なしか正確さを増してきているように思える。
いや、気のせいではない。おそらく上空からの視界を諦め、蜘蛛男と視界を共有して関節照準で〈槍〉を放っているのだ。
それに加えて、まさに縦横無尽に襲い掛かる蜘蛛男の刃。
「こそ泥だったペテロは主との出会いを経て己が罪を改悛し、主とともに磔にされた強盗バラバは主が処刑された後敬虔な信徒となった」
湾曲した刃と鋭く尖った錐刀が寸分の狂いもなく襲いかかる。飛び退いて逃げようとした足が伸縮機能でリーチを延ばした腕に掴まれ、無様に地へ叩きつけられる。口の中の砂利を吐き出す間もなく、複数の腕が刃を振り下ろしてくる。アレクセイは転げ回って逃げるしかない。
「……それじゃ〈ヒュプノス〉が己が罪を悔いて殺しをやめたらどうなるかって? ただの間抜けってんだよ。お前のご同類が世界中で何人殺したと思ってやがんだ?」
笑うしかない。返す言葉が思いつかない。虫一匹殺せない今の僕が、何でここにいるんだ?
龍一が身を隠そうとした岩が、重戦車のごとき突進で粉々に砕かれる。あおりを食らって吹っ飛ばされ、またも地べたを転げ回る。
何かの身体強化には違いない……だがそれがわかってもどうしようもない。銃撃が無慈悲に追い立ててくる。早い。しかもこの遮蔽物もろくにない荒れ地ではどうしようもない。逃げながら足がもつれた。灌木に突っ込んでしまう。鋭い枝が腕を傷だらけにするが、もう既に傷だらけなので気にもならない。
ふと、頭の中で何かが弾けた。
笑ってしまう。こんなところに反撃の手段があるじゃないか。これが合理的な戦術か? どっちかと言うとイカれた、やけくその思いつきに近いな。
枝を折り取り、腰の山刀を抜いて余計な枝をこそげ落とす。できたのは1メートルにも満たない、しかもよくしなる木の枝だ。
そう、よくしなる。硬さではなく弾力性、それが重要だ。
(僕は速い。僕は誰よりも速い……)疾走する〈軽騎兵〉は、反転してさらに銃撃を見舞うつもりだった。〈恐竜〉は足止めに徹するだけでいい、とは言ったが、あの様子では標的は逃げ回るのに必死だ。小口径の拳銃弾だろうと、顔面に全弾叩き込めば確実に死ぬ。
グリップを捻り、さらに速度を上げる。金属の愛馬は囁き程度のエンジン音すら立てず、心地よい振動を尻に伝えてくる。
(僕は速い。僕は速い……僕は誰よりも速い……!)
ふと、彼の心中に違和感がよぎった。標的が──相良龍一が逃げるのをやめ、こちらに向き直ったのだ。
(何だ……?)
追い詰められて自暴自棄になったか。だったら話は楽だが、どちらかというと落胆に近いものを覚える。そんな弱虫を殺したって、〈恐竜〉は褒めてくれないからだ。
だったら轢き殺してやる。勝負を投げ出す弱虫の卑怯者には、とびっきり惨めな死に方を与えてやろう。
速度がさらに上がる。視界の中で見る見る大きくなる標的が、何かを振り上げている──木の枝のようなもの、いや、どう見てもただの木の枝にしか見えない。一体何なんだ?
バイザーの戦術情報が変化、標的の顔を大写しにする。口元が動いている……何かを言おうとしているようだ。
──
それが日本語だと、〈軽騎兵〉が理解できたか。理解できてもその意味までわかったかどうか。次の瞬間、それは重要ではなくなった。
時速百キロ近くの速度で走る〈軽騎兵〉のヘルメットに、神速で振り下ろされた小枝が叩きつけられたからだ。正確には突き出された小枝に時速百キロ近くでヘルメットをぶつけた、と言うべきか。
自分が宙を舞っていることが理解できなかった。金属の愛馬から投げ出され、小石のように大地を転がっていることが理解できなかった。
そんな馬鹿な、意識が途絶えるまで彼には信じられなかった。僕よりも、ずっとずっと疾いなんて……。
突き込まれる錐刀を避ければ反対側から銃剣が襲いかかり、山刀とカランビットナイフが上下から同時に振るわれる。
今やアレクセイの全身は傷だらけだった。腕や肩だけでなく、背まで数箇所切り裂かれている。翻って彼の振るう〈糸〉は蜘蛛男を捕らえるどころか、虚しく空を切るばかりだ。
認めるしかない。速さで完全に翻弄されている。相良龍一を殺すために特別な調整を受けた〈ヒュプノス〉であるこの僕が。
「当てが外れてがっかりしたか?」数メートル先でたたずむ蜘蛛男の表情はヘルメットで読めないが、歪んだ無精髭だらけの口元は余裕を隠そうともしていない。「てめえらの身体能力なんて、もう
よく見れば、彼が背負う箱からは足に向かってもフレームめいた金属パーツが伸びている。運動補助、いやあの動きからすると身体機能強化も兼ねているのだろう。
「前から〈ヒュプノス〉は目障りだったんだ。どんな困難な標的でも確実に仕留める殺し屋なんて、俺たちみたいな零細業者としては商売上がったりだ。こういう形で吠え面をかかせられるのは、まあ生きてきた甲斐があったってもんだがな……今となっちゃてめえには希少生物の標本程度の価値しかねえ。最後の〈ヒュプノス〉としてのな」
最後の〈ヒュプノス〉。
その言葉に朦朧としていたはずの意識が一瞬、鮮やかさを取り戻した。
「あ? 遊んでないでさっさとケリをつけないと〈槍〉で粉々にするって? ほざくな、最低でも脳は無傷で確保しろと言われただろ。〈恐竜〉にお仕置きされるのは俺じゃなくててめえだからな」
蜘蛛男が悪態をついているのはどこかに潜む「槍投げ選手」相手だろう。だが、アレクセイはそれを半分ほども聞いていなかった。
地上最後の〈ヒュプノス〉。龍一はそれについて何も言及しなかった──だから、それを他人から言及されたのは初めてだった。
『だが私たちは確信している──いつの日か、ただ一人生き残ったお前を核とした、最後にして最初のヒュプノス、〈新世代のヒュプノス〉が勃興し、再び世界を覆い尽くすことを。不死鳥が自らを焼く炎の中から蘇るように』
〈
その言葉を心から信じたわけではない。
だが生きなければ──確かめることすらできない。
「……
「あ?」
「君のおかげで、僕のやりたいこと、そしてやるべきことを見出せた。……視界が晴れたよ」
アレクセイの口元に微笑が浮かんでいる。
それを見て蜘蛛男が何を感じたのかはわからない。だがだらしなく緩んでいたその口元は、別人のように厳しく引き締められている。
「手を出すな」一言だけ告げ、相手の罵声すら聞かず通信を切る。
どちらからともなく、相手に向けて走り出した。助走すらなくほぼ全力で。
鋭い呼気とともに蜘蛛男が複数の腕を鞭のごとく振るう。上下左右、刃物に加えてボウガンの射撃まで。
避けられるなら避けてみろ、〈ヒュプノス〉!
「お望み通りに」
「え……?」
蜘蛛男が間の抜けた声を漏らしてしまったのも無理はない。アレクセイはその攻撃全てを躱し、なおかつ全ての腕の上に直立していた。
「少し難しく考えていたよ。腕はたくさんあっても、根元は一つ。真上から押さえつけてしまえば、後はひとまとめだ」
「そんな……」何かを抗議しようとした蜘蛛男の、
腕が全て根から寸断されて地に落ち、ヘルメットが二つに割れて呆気に取られた持ち主の顔をさらす。
次の瞬間、剥き出しになった蜘蛛男の頭頂部に、アレクセイの肘が鉄槌よろしく振り下ろされた。
「あの間抜け……! 何が『手を出すな』だい、返り討ちにされたじゃないか……!」
数百メートルと離れていない別の高台で〈投槍器〉は毒づいていた。糸を切られた人形のように崩れ落ちた〈蜘蛛〉の姿がまだ目に焼きついている。
努めて冷静さを取り戻す──仕方ない、まだ手はある。幸い、こちらの位置はまだ勘づかれていない。目視による直接照準で〈槍〉をぶち当てることは可能だ。
〈恐竜〉にお仕置きされるのはてめえだぞ、〈蜘蛛〉の言葉が今さら身に染みたが、やむを得ない。〈恐竜〉と〈軽騎兵〉は相良龍一の対処にかかりきりだ。そこに〈ヒュプノス〉が合流すれば、もう収拾はつかなくなる。あいつはここで仕留めるしかない。
意を決し、〈槍〉を握り締め、振りかぶろうとした彼女はぎょっとして身体を強張らせた。
あの〈最後のヒュプノス〉がこちらを見ていた。
「……そう、そこしかない。この高台全域を見渡し、自在に君の〈槍〉を届かせられる地点は極めて限られる」呟きながらアレクセイは苦笑。「もっとも、確信を得られたのはたった今なんだけどね」
見られている。こちらの居場所がばれている!
構うものか、〈投槍器〉は恐怖を戦意でねじ伏せた。いや、かえって好都合だ。今投げれば、回避する間も与えずあいつを消し飛ばせる!
渾身の力で投擲しようとした、その腕に違和感を感じる。思いついて目を凝らした。何だろう──腕に、きらきらと光る極細の、蜘蛛の糸のような何かが絡みついている。
それが〈ヒュプノス〉の〈糸〉だと気づいて、彼女の全身を本物の恐怖が貫いた。
「残念。僕の方が早かったね」
「!?」
想像もしなかった──したくなかったほど間近で響いた〈ヒュプノス〉の声に、今度こそ彼女は恐慌に陥った。手にした〈槍〉を直接突き出す猶予すらない。
予想なんてできるわけがない。ここからあそこまで何歩離れてると思ってるんだ!?
〈ヒュプノス〉の渾身の蹴りが胸板を直撃し、彼女は悲鳴すら上げずに高台から放り出された。
「皮肉なものだね。僕が龍一に叩きのめされたのと同じ方法で勝ちを拾うなんて」
意識のない女の身体を、血まみれの全身で引き上げるには結構な苦労が必要だった。もちろん、切断機能はオフにしてある。
安全なところまで女を引き上げると、アレクセイはその場に座り込んでしまった。我ながら情けないが、どうしようもない。
「さて、後は龍一を逃がすことができれば言うことなしなんだけどな……」
「槍投げ選手」を無力化した以上、相手を必ず殺す必要はない。とは言え、それが容易ではないこともわかっていた。
ヘルメットを脱がせてみると、その下から現れた顔は想像よりずっと幼かった。苦しげだが微かに息があることを見て取り、龍一はやや安堵した。同時におかしなもんだな、と思う。自分を殺そうとしていた奴が生きていてほっとするなんて。
「妙なものだな。自分を殺そうとした者が生きていて安心するとは」
まるで彼の心情を代弁するような声だった。龍一は振り向く。あの大女が立っているが、今のところ攻撃の意思は見せない。今のところは。
「血も涙もない殺し屋まではもう何歩か距離があってね」どれほど距離があるのかは、もう自分でも判然としないが。
「血も涙もない、か」大女の表情は動かなかったが、意外にも何らかの感慨をもたらしはしたらしい。「昔は私にもあった。優しさや思いやりがな……今となってはそれに言葉以上の意味を見出せないが。それを持ち合わせた者は、私を置いて皆死んだ」
「言うほど冷酷非情には見えないがな」
「知ったふうなことを」大女の声に微かな苛立ちが混じったが、まだ攻撃はしなかった。「私が思い知らされたのは、たとえ何もかもが台無しになっても人生は続くということだ」
今度は龍一がその言葉を反芻する番だった。何もかもが台無しになっても、か。
二人は改めて対峙する。「私に大人しく首を捩じ切られるつもりはないんだな?」
「ない。俺たちを見逃すつもりは?」
「ない」
それで充分だった。二人は激突した。
突きと蹴り、あるいは拳と肘が交差する。だがそれを「交差」と呼んでよいのか──龍一は、こうも己の拳と蹴りがこたえない相手と戦ったのは初めてかも知れなかった。
「……!」
文字通り腕の一振りで、ガードしたその上から力だけで強引に吹っ飛ばされた。龍一の身体はもう何度転がったかわからない。がんがんと鳴る頭をどうにか支え、目の前の壁のような胸板を殴りつける。びくともしない。分厚いゴムを何重にも巻きつけた巨岩を殴っているような感触だ。
「もう一度言ってやろう。小細工なしでは勝てないのか?」
効果がないどころか、腹に一発入れられた。一瞬呼吸が止まって前のめりになったところを腕の関節を決められ、背後から喉を締め上げられる。そればかりか、龍一の爪先がぎりぎりと地面から離れ始めた。
これは本当にまずい──死に物狂いで女の腹や膝を後ろ足で蹴りつけるが、一向に効いた様子がない。このままでは生身で絞首刑にされてしまう。
「自分を上回る力には手も足も出ないか……〈軽騎兵〉をいなした時はもう少しやるかと思ったが、私の目が曇っていたようだ」
もはや気の利いた返事をするどころではない。視界が赤を通り越して暗くなり始める。口元から勝手にだらだらと涎がこぼれ始めた。
苦し紛れに振り回す手が……懐の何かをかすめた。一個だけ持っていた手榴弾。
声を限りに咆哮した。声が出ている間は気道を確保できる。考えている暇はない。躊躇いなく手榴弾のピンを抜き、足元に落とす。
「貴様……!」
大女の拘束が緩んだ。胸板だか腹筋だかを渾身の力で蹴り、跳ぶ。咳き込みながら新鮮な空気を吸い込む。確かに脱出はできたが──しかし、大女の次の行動は予想外だった。手榴弾から遠ざかるどころか、その上に覆いかぶさったのだ。
鈍い爆音。
大女の五体が弾け飛ぶことはなかったが、さすがにただでは済まなかった。上半身の衣服は弾け飛び、生身の皮膚がべろりと──いや、それは「生身の」皮膚なのか。違う。垂れ下がった皮膚はまるでゴムのようで、その下からは白く滑らかな機体表面が、
そんな馬鹿な。
「……HW……? いや……全身義体なのか……?」
「最近の軍事技術の進歩は凄いな。いや、闇市場の医学の、と言うべきか?」大女は自分の滑らかな〈機体〉を見下ろして苦笑する。苦笑いするしかない、といった笑い方だ。「全身、ではないな。首から下、ほぼ全身の三分の二を置換しているから半身義体と言うのがせいぜいだ」
「……」
「そんなに不思議な眺めか? 私には選択の余地はなかった。任務にしくじって残る生涯を病院のベッドの上で暮らすか、以前の身体より頑丈になるかを迫られれたらな……たとえそれが得られた報酬の大半を
これが、俺たちが、〈月の裏側〉が負けたその結果なのか。
狂ったように笑い出したくなった。声を限りに叫びたくなった。それができなければ、何もしたくなかった。
「言っただろう? 台無しになった後でも人生は続くのさ。〈王国〉からは悪くない報酬を約束されている。あいつらは少なくともケチではない。この身体を買い取り、なおかつ新しい人生を始めるには充分な額だ」
俺はこの一年間、何を迷っていたのだろう。何から目を背けていたのだろう。
俺が世界から逃げたって世界の方で俺を逃がしてくれない、それだけの話じゃないか。
腕を振った。血の滴が大女の顔面に飛ぶ。目を直撃する寸前に腕で防がれたが、大女は顔をしかめた。「この期に及んで、まだ小細工に頼るか?」
「小細工も俺だ!」龍一は吠えた。「俺をぶち殺したけりゃ、小細工ごとぶち殺してみやがれ!」
「ほざいたな……!」
正面から拳圧が迫る。だが、避けない。自ら相手の拳に頭部をぶち当てる。拳が着弾するタイミングは狂わせたとは言え、頭が弾けそうな衝撃──それでも歯を食いしばり、真下から大女の腕を抱え込む。
「義体でも人間型には違いないだろうが……!」人間を模した以上、関節の構造は生身と大して変わらないはずだ。自ら腕に飛びついてぶら下がり、足を絡めて捻りながら投げようとし、
眩い閃光が生じた。
「龍一……!」
高台から降りて駆け寄ろうとしたアレクセイは、その光を見た。
(何だ……?)爆薬や閃光弾の光ではない。夜の底をさらに照らす、暗く黒い光。なぜだろう──いつか、どこかでその光を見たように思う。
何か、ひどく不吉な予感がした。
衝撃で龍一はまたも地面に転がった。何だ、俺は失敗したのか? 逃げなければ、すぐに反撃が来る……。
だが予想に反し、大女は呆然と立ち尽くしたままだった。自分の右腕があった箇所を見つめて。
自分が握り締めていたものに気づいて、龍一はぎょっとした。根元からもげた大女の右腕だった──しかも、各々のパーツがしゅうしゅうと煙を上げ、腕の付け根に至ってはサクランボのように赤熱しながら溶けかけている。まるで強力なトーチで切断されたような有様だ。
「……何をした!?」
大女が初めて愕然とした表情を見せる。
龍一はそれに答えようとして──その答えも、答えを返す必要もないことに気づいた。
力一杯、もげた右腕を投げつける。たやすく避けられたが、大女の顔面が一瞬で怒気に塗り尽くされた。
「潰す……!」
大女が吠えて走り、負けずと龍一も走った。最後の力を振り絞って。
ああ、俺は何を迷っていたんだろう。視界が晴れていく。本当にこの一年、俺は初めから見えていた答えに目を背けていただけだった……!
大女の拳は上から、龍一の拳は真下から。
クロスカウンター。龍一の拳が、寸分の狂いもなく大女の顎を打ち抜いた。
どう、と土煙を上げて大女の巨体が倒れ込む。
龍一もその場にへたり込んでしまった。全身が血まみれの擦過傷だらけ、おまけに鈍器で殴られまくったように痣だらけだ──しかし少なくとも、生きてはいる。
(……何だったんだろう、今の?)
自分の腕を見てさらに驚くことになった。こびりついた自分の血が──淡く黒く輝いている。自分の目がおかしくなったのかと凝視するうちに、燐光は消えた。そうだ、大女の腕がもげたのも、
(俺の血がかかったところ、か……?)
試しに臭いを嗅ぎ、感触も確かめてみるが、ただの粘ついた血だ。
「龍一!」
「アレクセイか……」互いに傷だらけだったが、大した怪我はなさそうだった。
「何があったんだい……?」
「さっぱりわからん」そう言うしかない。「気がついたら勝ってた」
「君らしいな」アレクセイは苦笑する。それで済まされるのも複雑だ。
大女が身じろぎする。動けはしないが、生きてはいるようだ。
台無しになっても人生は続く、か。
「とどめは刺さないのかい?」アレクセイに問われて、龍一は首を振る。そんな発想すらなかった。「俺は刺さない。君は?」
「……いや」彼もまたかぶりを振った。
「〈犯罪者たちの王〉に伝えておけ」倒れたままの大女に言う。どうせ本人にではなくとも、
それだけ言って、踵を返した。
「とりあえず目の前の問題は片付けたけど、問題は山積みだね……」
「ああ。車もなくしたしな。一晩中歩き続ければ、明け方ぐらいに峠を越えられると思うが……」
互いに苦笑いしかない。殺し屋たちと切った張ったするよりもハードな道のりになりそうだ。
「……龍一。さっき言ったことは本当かい?」
「ん? ……ああ。少なくとも嘘を言ったつもりはないな」
〈犯罪者たちの王〉を探す。生きるために。逃げ隠れをやめるために。もう一度、日の下を堂々と歩くために。
「それについて、当てはあるのかい?」
「ない」これまた首を振るしかない。「でもこれからの行動は、全てそれを根底にして考えるつもりだ」
「……夏姫のことも含めて?」
「そうだな」たとえ殺されていたとしても──いや、だったらなおさら骨を拾ってやらないといけない。「それに根拠はないが……殺されてはいないだろ。そんな気がするんだ」
あいつもそう簡単に殺されるタマでもないからな、笑う龍一と対照的にアレクセイはどこか思いつめた顔を上げる。「一つ、君に謝らないといけない」
「うん?」
「君が本当に正面から〈犯罪者たちの王〉に立ち向かうつもりなら、行くべき場所がこの地上にたった一つだけ、あるんだ」
思わずまじまじと顔を見つめてしまう。「マジか。行く当てがあるんだったらもっと早く……いや、すまん。言わない方がいいって思ったから、言わなかったんだな」
ああ、とアレクセイは頷いた。「これから行くところはね、なまじの覚悟では足を踏み入れてほしくないんだ」
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