Sin and Punishment
アイダカズキ
プロローグ 世界は変貌した
『……次のニュースです。未真名市の臨海開発区域、通称〈のらくらの国〉跡地上空に出現した〈
また市民団体からは、〈のらくらの国〉市街戦で破壊された周辺地域の修復も遅々として進まない中、大規模かつ高コストの大型施設を建設することについて懸念の声が上がっており……』
『なお、同件に対し統一朝鮮政府はスポークスマンを通じ、〈割れ目〉の共同研究から我が国が外されていることは大変に遺憾であるとの声明を……』
【同刻 ロシア領カフカース山脈某所 極秘生物化学兵器研究開発プラント】
人里離れた険しい山と森の間に位置するその施設を、土地の者は皆知っているが、話題にする者はいない。何の得にもならないどころか、命に関わるからだ。
元は旧ソ連時代、至るところにあった「存在しない」研究施設の一つである。冷戦が終わり、旧ソ連がロシアになった後も、その施設が衆目にさらされることはなかった。むしろ「ロシアの敵」に対するあらゆる手段を模索するために、施設の存在は厳重に隠匿されていた。
無論、施設自体のセキュリティも厳重を通り越してパラノイアじみていた。研究施設は一個軍の攻撃にも耐えられる要塞としても設計され、半年近くの籠城に耐えられる水と食料さえ完備されている。近隣のロシア軍基地からも常時監視されており、敵対勢力の攻撃を察知次第、ただちにヘリボーンを含む緊急即応部隊が出動する。
今、その広大で強固な施設全体に、死の静寂が舞い降りつつあった。
おびただしい、そして奇妙な死に様の死体が無数に転がっていた。そしてその数は刻一刻と増えつつあった。
白衣の研究員も、ベテランの兵士も、誰一人としてその奇妙な死から逃れられなかった。ある者は業火に炙られたように全身の皮膚を焼け焦がされて死に、ある者は急に呼吸の仕方を忘れたように緩慢な窒息死を遂げ、ある者は体温の調節ができなくなったように部屋の隅へうずくまって凍え死んでいる。
膨大な死に埋め尽くされつつある施設の廊下に、ぺたぺたと音立てて裸足の足音が響く。やや遅れてもう一つの裸足の足音。
「……ええ、大丈夫よ〈蒼の騎士〉。死は撒き終わったから。機密データの吸い出しも順調。コピーが終わり次第、オリジナルのデータは抹消。同時にデータの概要を西側の主要メディア、それに国内外の独立系ジャーナリストへ送付する。レクチャーの内容はちゃんと覚えてる。子供扱いしないで。そっちはどう? ……そう、それならよかった」
独り言のように虚空へ向かって話すのは、白一色の貫頭衣にも似たワンピースを着た十歳前後の少女だ。髪は黒、肌は浅黒い。目の色は──黒の布で目隠しをしているため不明。彼女に手を引かれて歩くのは、やはり白のシャツとズボンを身につけた同じ年頃の少年。こちらも黒の布で目隠しをしている。
「声に出す必要はない? ごめんなさい、まだ頭の中で考えれば伝わるってわかってるのに、慣れてないの。おかしいわね。人の殺し方にはあっという間に慣れたのに」
少女は突如歩みを止めた。背後の少年がぶつかりそうになり、かろうじて止まる。
「懲りない奴らね。百人来たら百人、千人来たら千人死ぬだけなのに」
施設の天井が爆音とともに崩壊し、瓦礫を撒き散らしながら小型トラックほどもある金属塊が落下してきた。大型の鋏じみた一対の近接戦闘用アーム、あらゆる地形に対応できる無数の節足、大口径の機関砲を内蔵した湾曲する尾。ロシア軍の大型市街掃討戦用陸戦ドローン〈
さらに天井の大穴からは、ファストロープで完全武装の兵士の群れが降り立つ。生物化学戦を想定しているのか、ガスマスクと化学戦用スーツで身を包んだその姿はこちらはこちらで奇形の昆虫じみている。
だが少女は平然としており、傍らの少年も一言も発さない。
「警告はなし……見られたくないものを見られた以上、生かして捕らえる発想はないのね。こちらも全員、生かして返す気はないけど」
少女は傍らの少年の手を握り、何かを言おうとして──言葉を詰まらせた。
だがすぐに息を吸い込み、今度ははっきりと言葉を発する。
「神は私に、あらゆる強者を殺す毒を与えられた」
初めて傍らの少年が動いた。右手の握り拳をゆるゆると口元に持っていき、ゆっくりと開く。開いた掌の中には、わずかに燐光を発する一握りほどの綿のような塊がある。
ふっ、と息を吹くとそれに応じ、タンポポの綿毛のような淡い光が周囲に舞い散った。幻想的ですらある光景に、殺気立っていた兵士たちの間に戸惑うような空気が広がる。
幾人もの悲鳴と血飛沫が上がったのはその一瞬後だった。まるで本物の昆虫が殺虫剤を浴びせられたように、〈蠍〉が鋏と尾を振り回しながら味方のはずの兵士たちへ襲いかかっていた。そのセンサーとカメラに、あの燐光がびっしりとこびりついている。
「だから言ったでしょう? 一人も生かして返さないって。私たちは〈白の騎士〉なんだもの」
ふと、少女の口元がわずかに歪んだ。「あいつったら……また遊んでる」
【同刻 ジブラルダル海峡 イギリス軍ミサイル駆逐艦〈グローリー〉艦橋・
「……駄目です。我が方のエウローパ軍港だけでなく、スペイン軍側のアルミナ軍港からも応答ありません」
「どうなっているんだ……」通信士からの報告に、艦長は呆然と呟く。
最も狭い区域でわずか14キロ程度しか離れていないジブラルダル海峡は、古代から軍事上・海上交通上の要所である。北岸ジブラルダルにはイギリス軍の、南岸セウタにはスペイン軍が駐屯し、それぞれ軍港として機能している。
数時間前──海峡を通じての麻薬密輸ルート摘発のために近辺海域のパトロールを行っていた〈グローリー〉はイギリス・スペイン両軍からの、まるで悲鳴のような救援要請をほぼ同時に受け取った。いずれも「正体不明の敵による攻撃を受けている」と報告した後、通信士が聞き返す前に通信は途切れた。
半信半疑のまま向かった〈グローリー〉を迎えたのは、果たして報告通り、両岸の軍港から立ち上る大量の黒煙だった。数千の兵士と数万の非戦闘員を抱える軍事拠点は、ほぼ完璧に壊滅していたのだ。
「……エウローパもアルミナも、まともに反撃すらできず破壊されたのか? 敵対勢力の接近すら察知できずに?」
だとしても妙です、と蒼白な顔の副官が応じる。「たとえ軍港に配置された無数のレーダーとセンサーを掻い潜ったところで、大火力のみで両軍の駐屯地を沈黙させることなど不可能です。核でも使用すれば話は別ですが、使用された形跡はありません」
艦長は唸った。副官の言う通りだったからだ。
「哨戒ヘリを出せ。とにかく情報を集めるんだ」
「了解」
救援要請まで受けていながら何もわかりませんでした、とは報告できない。友軍の壊滅ともなればなおさらだ。
「……哨戒ヘリ、ロストしました! 海中からのミサイルと思われます!」
「潜水艦だと!? ……総員、対潜戦闘用意!」
命じながらもますますおかしい、と艦長は疑問を深めた。潜水艦に搭載できるサイズの通常弾頭のみで破壊し尽くせるほど、軍港の防護はやわではない。核が使用された形跡がないのは既にわかっている……。
「ソナーに反応! 海中を移動中の
ソナー手の声が裏返ったのも無理はない。現存するあらゆる潜水艦の最高速度が30ノット前後、原潜ですら40ノット前後であり、60ノットを越える海中での高速移動など、魚雷でもなければ不可能だからだ。
「アンノウン、さらに速度上昇! 我が艦に向けて突進してきます!」
「回避行動取れ! 取り舵!」命じながらも、艦長はこれはもう無理だ、と頭の片隅で思っていた。潜水艦だろうが魚雷だろうが、この速さで狙われたら回避しようがない……。
だが、いつまでたっても衝突の衝撃は身体に伝わってこなかった。
「アンノウン反転。遠ざかっていきます……」
「舐めやがって……!」士官の虚脱したような報告も副官の歯ぎしりも、艦長は咎める気にもなれなかった。あいつは明らかにこちらを愚弄しているのだ。
「艦長、ご覧ください! セウタ側の沿岸です……!」
悲鳴じみた報告に艦長含めCICの総員がモニターに目をやり、絶句する。
まるで巨象が水中から這い上がるように、大量の水を撒き散らしながら巨大な鉄の塊がセウタ側に上陸しようとしていた。だが、何という大きさか。その場の全員が自分の目より先に、まず自分の正気を疑っていた。
戦術AIによる画像補正を経てもなお、遠近法がおかしくなるような超巨大戦車だった。軍港で擱座しているタンカーや、〈グローリー〉と比べても勝るとも劣らないサイズだ。しかもそんなものが海中を魚雷並みの速度で泳ぎ、駆逐艦を翻弄する小回りを発揮したのか。
戦艦に匹敵する超巨大砲塔が滑らかに動き、黒々とした砲口を〈グローリー〉に向けた。
「あいつだ……」静まり返ったCICの中で、艦長は呆然と呟いた。「エウローパもアルミナも、あの化け物にやられたんだ……」
「神は私に……」
怪物どころか要塞じみてすらいる超巨大戦車のコクピットで、赤のカーリーヘアを振り乱した女が犬歯を剥き出しに獰猛な笑みを浮かべる。「あらゆる大軍を蹴散らす、軍馬を与えらえた!」
要塞砲、あるいは要塞破壊砲に近いサイズの巨砲が吠える。
数キロ近くを瞬時に駆け抜けた超巨大砲弾は〈グローリー〉の艦橋を爆散させただけでなく、艦体の三分の二近くを抉り取った。
「……はー、終わった終わった」赤のカーリーヘアを海風になびかせながら、女はハッチから顔を出した。顔には黒の布で目隠しがされているが、気にした様子もない。「戦闘能力は完全に奪ったし、今度は生き残りもいるからいいよね」
目隠しに覆われた視線の先では、海に投げ出された〈グローリー〉乗員の救出作業が早くも始まっている。彼女はおもむろに腰のポーチからゼリービーンズを一粒取り出し、口に放り込んだ。「いやあ、一仕事終えた後の一粒は格別だね」
『何が一仕事よ? 不手際で仕事を増やしておいて』
突然頭の中に響いた幼い娘の声に、彼女は顔をしかめる。「双子ちゃんかい。わざわざ話しかけてくるってことは、そっちの『おつかい』は終わった?」
『ええ、あなたよりはよほど早く確実にね。「殺しすぎて目撃者がいなくなりました」って本気で言ってるの? せめて一人か二人くらい残しておくのがそんなに難しい? 馬鹿なんじゃないの?』
「怒るなって……反省はしてるんだよ。ちゃんとやりすぎた分の埋め合わせはしたじゃないか」
『あなたが調子に乗らなければ、わざと助けを求めさせて救援をおびき寄せるなんて真似、初めからせずに済んだ。〈戦争〉の騎士が聞いて呆れる』
そこまで聞いて、赤髪の女は目を細めた。「こんなの戦争でも何でもないよ。ただの虐殺さ」
『……』
「それにしても、ああ、まともな戦争はなかなかできないもんだね。確実に勝てる戦いなんて、十回二十回ならともかく、百回や二百回となるとさすがに倦んでくるよ」
『……贅沢』
「言うなって」女は苦笑。「〈戦争〉の名を冠する騎士なら夢見たっていいじゃないか。この世のどこかにあたしの全力をぶつけられる相手がいないかってさ……そう簡単に逃げ出したりしない、そう簡単にぶっ壊れたりしない、あたしの敵がさ」
『それならなおのこと、〈王〉の勅命には忠実に従うことね。あまりお遊びが過ぎると、私もかばってあげられない』
「へえ、かばってくれてたのかい? 嬉しいよ、
『今度その呼び方をしたら、本当に怒るからね』
「了解だよお姉ちゃん」
遠く東の空から聞こえてきたヘリのローター音に女は目を細める。黒煙を見て飛んできたのだろう、スペイン軍のアグスタ戦闘ヘリが2機、こちらへ接近してくる。
「デザートにしては食い足りないねえ……」溜め息を吐きながらも、女はハッチに身を滑り込ませた。数秒と待たずに超巨大戦車の装甲がめきめきと音を立てて飴細工のように変形し、翼を広げた蝙蝠のようなシルエットの超大型ステルス爆撃機と化していく。超大型ステルス爆撃機はロケットのようにほぼ垂直に飛び立ち、回避行動を取る暇すら与えず2機の戦闘ヘリを運動エネルギーのみで瞬時に爆散させた。
「さて、次はどこで戦争するかねえ……」
『勅命を忘れないで。私たちが撒くべきは恐怖と混乱であって、虐殺ではないのよ』
「そいつはあたしじゃなく、見境なく〈死〉を撒くあいつに言っておくれな」
【同刻 南アフリカ──マカド空軍基地】
南アフリカ・リンポポ州に位置する南アフリカ国防軍マカド空軍基地は、南アフリカ空軍最大規模の軍事拠点である。主戦力としてスウェーデン製サーフ・グリペン戦闘機2航空隊を擁し、広大な敷地内には兵舎・格納庫だけでなく空軍航空学校を含む空軍の主要施設がある。
その広大な敷地に、今、耳障りな警報がこの世の終わりのように鳴り響いていた。
急ブレーキの音とともに軍用トラックから降り立った警備兵たちが配置につく。いずれも防弾ヘルメットとボディアーマー、ベクターR5カービンライフル、そして銃を構えたまま使用できる暴徒鎮圧用の防弾シールドで身を固めており、重装備を物ともしない俊敏な動きで包囲を完成させる。
包囲の中心には横転した警備車両と切断された兵士の手足、首、真っ二つになった銃器、無数に転がる空薬莢。
そしてそのさらに中心に、立ち尽くす一人の女がいる。身長は2メートルに近く、女性としてはかなりの長身だ。
異様な風体の女だった。青空よりもさらに鮮やかな青いドレスが、くるぶし近くまでを覆い隠している。ドレスの裾が熱風に翻り、サンダルすら履いてない華奢な女の裸足を露わにした。
前が見えているかどうかすら怪しい、伸び放題の振り乱した金髪が、女の顔をほぼ覆い隠している。
女の手にはおびただしい鮮血で濡れた古風な装飾の
「侵入者に告ぐ。お前は完全に包囲されている! 十秒以内に刃物を捨て、地に伏せよ! 抵抗しなければ命は保障する!」
仲間の死に早くも猛っている警備兵たちを目で制し、警備部隊の指揮官はスピーカーで女に呼びかける。友軍兵士を殺されて腹の底が煮えたぎっているのは彼も同様だったが、だからこそ警備プロトコルには従わなければならないと内心で言い聞かせている。
無数の銃口に囲まれながらも、女は答えない。
「繰り返す! お前は完全に包囲されている! 刃物を捨てて……」
「
突如として女の口から漏れた聞き慣れない異国の言葉に、警備兵たちはヘルメットの下で瞬きの回数を増やし、指揮官は眉をひそめた。士官学校で高等教育を受けた彼のみが、それが中国語であることを理解できたのだ。
白に近い金髪に、洗われた骨のように白い肌。どこから見てもアングロサクソンの白人女だが、それにしても中国語とは妙だ。
「抵抗は無駄だ。投降すれば、小官の名誉にかけて命は保障……」
「
「……構えろ!」指揮官は命じた。女が音もなく振り上げた軍刀に、本能的な危険を感じての叫びだった。その判断は正しかったが、結果としては遅すぎた。女が軍刀を横凪に振るった瞬間、死の風が吹き荒れた。
肌が削げ、骨が両断され、もがれた手足がアスファルトの上で転がりながらさらに幾重にも切り裂かれる。人の肌も、ボディアーマーも、銃器も、包囲網の一角を成していた軍用車両も、等しく細切れになって敷地内に数百メートルの範囲で散らばった。
死の風は警備陣を壊滅させただけにとどまらなかった。駐機するグリペン戦闘機の機首が次々と滑らかな切断面を見せて落下し、監視塔が半ばから斜めに切断されて倒壊し、無数の裂け目を走らせた燃料タンクが引火して周囲の人も物も巻き込んで爆発する。建物の内外を問わず血煙と肉片が舞い散り、滑走路は刃物で滅多刺しにされた人肌のように幾度も幾度も切り裂かれ、引き裂かれた。
軍刀の一振りで、南アフリカ空軍最大の軍事拠点は見る影もなく壊滅していた。もう断末魔どころか、悲鳴も、助けを求める声さえ聞こえてこない。
「上
熱風が、女の顔から乱れた金髪を滑り落とした。女の顔が露わになり、血のように赤い唇と、通った鼻梁と、そして黒い布の目隠しを露わにした。
自分のもたらした破壊の全てに感心を失ったように、女は地上の殺戮とは無縁のように澄み渡る青空を見つめる。目隠しに覆われた彼女の視線の先には、宇宙がある。
【同刻 赤道上空数万メートル──静止軌道上】
ジェット戦闘機すら飛行不可能な高度を、宇宙服はおろか、呼吸機器すら装着していない人影が滑るように飛ぶ。
短く刈った頭髪。黒の目隠し。大柄で逞しい身体を包む黒一色の法服。そして手には古びた青銅の天秤。〈のらくらの国〉で龍一と死闘を繰り広げた〈黒の騎士〉だ。
『ハイ、〈黒の騎士〉。ご機嫌いかが?』
『〈赤の騎士〉か』声に出さず、頭の中で返事をする。考えただけで会話できるのは、便利ではあるが不便でもある。『君に心配される謂れはない。自らの勅命に心を砕け』
『心配しているのはあたしじゃなく、あの双子ちゃんなんだけどなー』
『〈白の騎士〉のことか。それこそ無用な心配だ。私はあの二人の親ではなく、あの二人も私の子ではない』
『だから余計なお世話だって? はっ。このわからず屋の田吾作野郎』
〈四騎士〉に加わって以来、こんな直裁的な罵倒を浴びるのは初めてだった。『いい加減にしろ。同じ〈四騎士〉でも言っていいことと悪いことがあるだろう。君にどうとも思われたくはないが、度が過ぎると容赦しないぞ』
『容赦しないって? 望むところだよ。あんただってこんなトンチキ女に罵倒されっぱなしか? 言いたいことがあるんなら言えばいいじゃないか。あたしたちが本気でぶつかり合わなくなって、どれくらい経つ?』
言い返そうとしてやめた。こんなネジが数本ばかり外れた
『へいへいわかりましたよ。
誰がダディだ、と言い返そうとする寸前に向こうから切断された。つくづく勝手な女だ。
くすんだ青と、くすんだ白を幾重にも纏った星を背景に、太陽電池の羽を広げた衛星が見えてくる。アメリカ合衆国のミサイル防衛網──弾道ミサイル発射を探知する早期警戒衛星だ。
地上のオペレーターが気づいたらしい。〈黒の騎士〉の接近に衛星は姿勢制御用バーニアを吹かして逃れようとするが、当然逃げ切れるものでもない。
だがその時、巌のような〈黒の騎士〉の顔面がわずかに動いた。後方から接近してくる何かを捉えたのだ。数は二つ。
ドラム缶にバーニアを取り付け、前方から長い砲身──酸素を必要とする火薬式ではなく、おそらく
(有人の、軌道戦闘機か)
公表されていない機体だ。セオリーを無視した直裁的な攻撃に、米航空宇宙軍もそれなりの手を打ってきたということか。
先頭の一機が、続いて後方の一機がレールガンを放つ。タイミングをずらしての
彼は避けず、黙って弾いた。右手の天秤をかざす。
「神は私に、あらゆるものを裁く天秤を与えられた」
無音のはずの宇宙空間で、天秤が甲高く震えた。踏み潰されたアルミ缶のように軌道戦闘機が潰れた。中の人間も生きてはいるまい。驚愕した僚機がなおも放とうとする第二弾を彼は待たない。天秤をかざし、もう一機も潰す。
彼は勝利の余韻に浸らなかった。無言のまま、改めて衛星に天秤を向け──動きが止まる。眼下の、青と灰に近い白の星が何かの記憶を告げていた。
パパ、僕、大きくなったら宇宙飛行士になりたいんだ。日本の何とかってお金持ちだって行けたんだもの、僕だってもっといろんなこと勉強して身体を鍛えればできないはずがないよ。そうだ、その時はパパもママも招待するね──
(……くだらない)
こんなものは知らない。そうだ、これは私の記憶ではない。
だから、手も震えていない。そうだ、この通り。
再び天秤が甲高く唸る。指一本触れられることなく、太陽電池とチタンから成る一機数億ドルの早期警戒衛星が丸められた紙のように、静かに潰れていく。あらかじめ脳裏に叩き込んでいたスペックを思い起こす──早期警戒衛星は最低でも3機の稼働状態の同衛星が必要であり、一機が損なわれただけでも性能は大きく低下する。
だがもちろん彼は、他の2機も見逃すつもりはない。
パパ、見て! お星様があんなに一杯!
(……だから、これも幻聴だ)
そうに決まっている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「どうだね、アンジェリカ。これが〈四騎士〉だ──しかも彼ら彼女らにしてみればこの程度、全力とは程遠い。
「まさか、これほどとは……」共に壁の大型モニターに注視しながらも、放牧している馬群を見守る牧場主のような態度のヨハネスと対照的に、若い女性秘書の目は本物の驚愕に見開かれていた。
「驚くには当たらない。今まで数百トンの鉛とコンクリートで封印されていた〈人間サイズの戦術核〉が、ようやくふさわしい真価を発揮しつつあるというだけだ……各国へのHWの支給状況はどうなっている?」
「順調です。殊更に〈四騎士〉によって海上・航空戦力を大幅に喪失したことで、各国の軍は急速に地上戦力への依存を余儀なくされています」
彼女はそこでわずかに言い淀んだ。「ただ……米軍からの要求が群を抜いて激しく、他国への在庫までも圧迫する可能性があります。
ヨハネスはやや思案する顔になった。「大口の顧客とは言え、他国に回す商品を削ってでも都合しろとはな。御国を背負っているとつくづくお強いことだ……まあいい。在庫にはまだ若干の余裕がある。都合してやりなさい」
「可能ですが……よろしいのですか?」
「自分たちの行為を理解していないのは彼らであって、私ではない」
ヨハネスの声は静かで、穏やかで、乾き切っていた。「彼らは全力で走っているつもりで、真っ逆さまに落ちているのだ」
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