16段目 人間は電気羊の夢を見るか
「――いやああぁあぁっ!」
電子線の当たる鈍い音と同時にアマルテアの悲鳴が響く。
同時に、突き放すようにアマルテアから距離を取り、後ろに後ずさった。
「ロウ!」
――幻聴じゃない。
後ろから駆け寄ってきた細い腕が、背中を支えてくれた。聞き慣れた声とその感触に、泣きたくなるほど安堵する。
「イェルノ。やっぱ無事だったか」
「俺のことはいい。とにかくあなた、ここを離れて。生身で一定量以上吸うとマズイんだ」
悲鳴を上げ続けるアマルテアから距離を取り、ロウを座らせる。
正面から目を合わせると、あの深い碧の瞳がにこりと笑った。
「顔色悪いよ、ロウ。俺を置いてくなんてするから」
「……おま、今『吸うとマズイ』って言ったな? しってたのかよ、アマルテアの鱗粉の――」
「ロウはあんまり近づこうとしなかったから、言わない方が心配させなくてすむかなって思ってたんだよ。いや、悪かった、悪かったって。そんなに怒らないで。とにかく――俺が様子を見てくるから」
「おい、危ないだろ!?」
「大丈夫だよ、あなたと違って作用する生体がないから」
残った片手をぱっと開いておどけてみせると、止める間もなく、イェルノは泣きわめくアマルテアの方に向かった。
「大丈夫かい、アマルテア。傷になったの? 見せてごらん」
「イェルノ! ロウったらひどいの……」
「ああ、腕を掠めたのか。痛そうだね、応急処置をしておこう」
「そうでしょう? そうなの……」
アマルテアの態度があっさりと軟化した。言葉よりイェルノの態度自体に安堵した様子だ。
ポケットから取り出した応急処置セットでの手当てを素直に受け入れつつ、イェルノに向けてなにやら愚痴っぽいことをこぼしている。
ロウの視線に気づいたイェルノが、ウィンクを送ってきた。
苦笑で答えようと手を上げると、隣のアマルテアが拗ねた顔でふいと横を向いた。
「ロウは、嫌い。痛いことするから」
「それはお前が――」
「アマルテア、そう言うなって。少しやり方がまずかったんだ。あなたの鱗粉は、ロウには少しばかりキツすぎる」
「だって……」
「コントロールできるよう、練習しなきゃね。ロウも……アマルテアはまだ子どもなんだ。恐ろしい力を持ってこんななりをしててもね。だから、子どもにするようにゆっくり言い聞かせなきゃならない」
「あんた――おい、そいつにあんたも操られてるんじゃないのか? 生命体には鱗粉で、電脳には歌で相手を支配しようとするのが、そいつらの生態だろう。人工知能の入ってるあんたも、操られてるからそんな呑気なことを……」
食ってかかるロウに、イェルノは困った顔で首を傾げて見せた。
「その話をしようと思ってたんだけど、途中で邪魔が入っちゃってさ」
「なんだって?」
「先に謝っておくよ、ロウ。中途半端にしか話せなかったせいで、誤解させるようなことになって悪かった。あなたが危惧するようなアマルテア達セイレーンによる洗脳は、俺もアルキュミアも受けちゃいない」
「それが本当なら話は早いがな、洗脳されてるかもしれないヤツの言葉を、オレが素直に信じると思うか?」
そう皮肉りながらも、既に信じてしまっている自覚がロウ自身にはあった。
そんな気持ちが、イェルノに伝わっているかどうかは定かではないが。
イェルノは知ってか知らずか、肩をすくめて笑う。
「そう言うだろうと思ったからさ、ちゃんと証拠を見せてあげる。だからアルキュミアに戻ろう、一緒に」
「……ああ、いいぜ」
既に日が落ちていた。
暗闇がじわじわと地表を包んでいる。
なんの準備もせずに出てきたせいで、一人ではアルキュミアまで戻れそうにない。最も、二度と戻らないつもりで出てきたのではあったが。
「アマルテアは少し離れてついておいで。これ以上あなたの鱗粉を吸うと、ロウが自力で歩けなくなっちゃう」
おとなしく頷いた妖精を尻目に、イェルノはロウの隣に並んだ。
歩き始めたところで何となく悔しくなって、ロウは距離を取って飛ぶアマルテアの姿をちらりと振り返った。
「あんたの言うことなら聞くんだよな、アレ」
「あなたの言葉も聞くよ、ちゃんと話しかければね。言っただろう、ただの子どもみたいなものだ。だから、理解できる言葉で話しかけられれば大人しく従う。なんなら、あなたの方が人の言うこと聞かないくらいだよ」
悪戯っぽい声で言われて、咄嗟に言い返そうとした――が、アルキュミアの内側で電子銃を撃ち逃げ出したことを思えば、あまり強いことは言えない。
「……そんなに人工知能が信用できない? それってやっぱり、
問われて、ロウは素直に頷いた。
「なにがあったか、聞いてもいいかな?」
「大した話でもないけどな」
そう前置きして、ロウは語り出した。
幼いロウが最も信じた人物であり、そしてひどく傷つけられた相手――ロウの
――Hush-a-by baby, on the treetop――
記憶の中で歌う子守唄が耳に蘇る。
イェルノの瞳の碧が、ロウを正面から見詰めている。
その色が――真摯な空気がマーマを思い起こさせた。決してこちらには向けられないリュドミーラの瞳の代わりに、いつもロウを見守る優しい視線。
そんなものは、最初からすべて幻想だったのに。
「十二歳のときだ。オレが家に戻ったとき、普段は穏やかなマーマがひどく冷やかな……感情が抜け落ちたような顔で出迎えた。マーマ曰く、マーチが――リュドミーラが事故にあったんだそうだ」
「『
記憶を探る様子のイェルノに対し、ロウは自嘲気味に唇を曲げる。
「そんなニュースはねぇよ。だって、結局それは、マーマの嘘だったんだから」
「アンドロイドが、
「そんなワケないって言うんだろ? ああ、オレもそう思ってた」
ロウだって信じていた。人工知能を、ではない。
他でもないマーマがロウを裏切ることなどないと思っていた。
信じていたから、マーマに従って家を出た。
真夜中、手を握り合って暗い路地を歩く間、ロウの胸に浮かんでいたのは焦りと恐怖――マーチに何があって、彼女は無事なのかという心配だけだった。
「笑っちまうよな。何だかんだ言っててもそのときのオレはただのガキだった。
笑ってくれよ、とロウが告げても、イェルノは小さく頷いただけだった。
ロウの目から視線を外さず、まっすぐに見つめたまま。
先に逃げたのは、むしろロウの方だ。片手で自分の瞳を覆って、視線を遮った。
「オレがマーマのおかしさに気付いたのは、向かっている方向が住宅街の奥だって気づいてからだ。子どもとの二人連れだ、普通ならエアタクシーにでも乗って移動するだろう? だけど、マーマが向かってたのはそっちじゃなかった。しかもずっと凍ったような無表情でさ。普段なら、もっとオレのこと気遣ってくれるはずなのに、それもなくて。なのに、オレはマーマの様子がおかしいことに気付かなかった。それまでずっと一緒に暮らしてた相手なのに。何かちょっと変な感じだって……それくらいしか思わなかったんだ」
普通とは違う状況だったのだから仕方ないと、無関係な他人ならそう言うだろう。だが、そんな言葉はロウには信じられなかったし、何の意味もなさなかった。
家族なら――気づいて当たり前だ。そうとしか思えなかった。
「その結果、オレは殺されそうになった。なんとか生き延びたが、死人だって出る騒ぎになった」
「……それは」
「オレの知らない内に、マーマに非正規プログラムがインストールされてたのさ。思い当たりはいくつもあるよ。だってオレ、ちょっとヤバそうなところにもネットを繋いで遊ぶことだってあったし」
思えば、無意識のうちにリュドミーラを信用していたのかもしれない。彼女なら、そんなものは排除してくれるはずだと。
だが、そんなことはなかった。残ったのは、ロウの罪だけだ。
「犯人は、オレを誘拐して
「誘拐事件……ああ、そっちの方なら、うん……俺も知ってる」
イェルノが深いため息をつく。
ロウは隣から目を逸らしたまま、顛末を語った。
「よく知ってるな。マーチが手を回してデカいニュースにならないようもみ消したってのに。誘拐犯はオレを連れて立てこもったが、結局は追い詰められた。逃げ道がなくなったところで突入してきた
「……三年前だね」
「そうだ。捜査官が何人も死んだ。犯人と……マーマももしかしたら自業自得かもしれないけど、生命以外にも腕や足を失った捜査官だっている。ぜんぶ、オレがうかうかして……マーマが操られて……そのせいだろ」
ロウはそこで言葉を切った。
ふと気付けば、隣を歩いていたはずのイェルノの姿がない。
振り向くと、立ち止まったイェルノは青ざめた顔で、ロウを見上げていた。白いTシャツの胸元を掴む左手が、少しだけ震えている。
その顔色の悪さを同情と判断して、ロウは苦笑して見せた。
「可哀想とか大変だったとか、慰めは言わなくて良いぜ。
「――ああ、なるほど。運命は非情だな」
ロウの言葉を止めた声は、冷たくはなかったが、優しさもまたそこにはなかった。
不思議な思いで、イェルノの眼を見つめ直す。そこにあるのは表情のない――それこそ、人形のような無反応だった。
「……イェルノ?」
「三年前の事件か、なるほどなるほど。だからあいつら、俺を止めたのか……」
ここにはいない誰かを嘲笑するように唇を歪めて――再び、ロウに視線を据える。
「で、あなたは何が言いたいの? マーチもマーマも失って、寂しい自分は可哀想ってこと?」
「なんだよ、それ。別にオレはそんなこと言ってないだろ。ただ……あんたが聞いたから、答えただけで……」
答えただけでオレは悪くない――とは、言い切れなかった。
見つめれば、可哀想な過去に陶酔して慰めて欲しい自分が確かにいる。誰かの愛など信じられなくなっても仕方ない、と言って欲しい自分が。
イェルノなら――きっと、そうしてくれると思ったのだ。
自分の声に、怯えが含まれているような気がした。何が怖いのかまでは、暴きたくなかった。ただ咄嗟に怒鳴りそうになって――その瞬間を奪うように、ふぅ、とイェルノの薔薇色の唇から深い息が漏れた。
「ね、ちょっと落ち着いてごらん。あなた、いつだって自分が見たくないものを隠そうとしてる。俺を無視しようとしてたのもそうだし、アルキュミアに必要以上に冷たく接していたのも」
「なにを――」
「あなたはただ、愛してると自覚することが怖いんだ」
はっきりと言い切る声が突き刺さって、目の前の碧がぐらりと揺れたように見える。
ロウが一番怖がっていたことが、イェルノの手で暴かれていく。絶対に目を向けたくなかった自分が。
本当は、誰も愛してなんかいないと答えたかった。
――だって、愛する者に裏切られるのは、赤の他人から切り捨てられるよりも、辛いことだから。最初から愛がないことよりも、期待した通りに貰えないことの方が、苦しいから。
強く眉を寄せたロウを見て、イェルノはそっと歩み寄ってくる。
その持ち上がった左手が、イェルノ自身のこめかみを指した。
「今まで黙っててごめんね。もうこの際だから言っちゃうけれど、俺のここに入ってるの、人工知能じゃないんだ」
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