15段目 誘惑の華

 いや、とにかくイェルノを助けに行かねば――と思ってから、気が付いた。

 ここにアマルテアがいるということは、無事にハッチは開いたのだろうか。


 念のため様子を見に行きたいが、どうもアマルテアはロウを追ってきたらしく、このまま行き違うことを許すつもりはなさそうだ。


「探したのよ、ロウ。逃げるなんて、ひどい。中々追いつけなくて困ったの」


 紡がれる言葉が流暢過ぎて違和感を覚えた。


「おま……どうやってついてきた!?」


 じりじりと後退りするロウに向け、小首を傾げたアマルテアが一瞬で距離を詰めてくる。

 一気に胸元に飛び込んできたアマルテアの身体を、避けることなど出来なかった。


「――おいっ!?」

「なぜ逃げるの? わたしのこと、そんなに嫌い?」


 柔らかな身体を擦り付けられ、背筋をぞくぞくと走るのは恐怖か、それとも欲情か、咄嗟に判断がつかない。


「だってお前、何でこんな一気にでかくなりやがって……いや、違う。今はそれどこじゃねぇんだ。イェルノが大変なんだよ」

「大きくなったでしょう? 雄のフェロモンを感じて、雌は準備するものだもの」


 じりじりと追い詰められる。

 ロウが後ろに足を下げると、その下げた分と同じだけアマルテアの太腿が進み入ってくる。


 乾いた音を立てながら、背中を覆う翅が呼吸に合わせて開閉した。

 翅から落ちた鱗粉が僅かな光を受けて輝いている。


「わたし、ロウとつがいたいの」


 膨らんだ胸から唇を通って吐き出された甘い息が、ロウの鼻先をくすぐってきた。むっちりとした二の腕に強く抱かれながら、ロウはふと思い出す。

 この妖精が求めるものがあの日記の通りならば――つまり、ロウはこのイキモノのつがいとして求められているということなのだろうか。


 いや、思い返せば、アマルテアは最初から言っていた。「わたしをおかあさんにして」と。

 精を奪い子をなすことだけが目的なら、果たしてロウがこのイキモノを恐れて、ここまで逃げ回る必要はあるのだろうか。


 人間ではないのは確かだ。

 だが、見た目は人間とさして違わない。翅だの触覚くらいはさしたる問題でもない。


 異星の生命体とは言えイキモノだ。

 命すらない人形よりはよほどいいはずだ。

 ロウは腕を上げ妖精の腰へ回した。嬉しそうに擦り付けられた太腿が、内股をなぞっていくのを感じる。地面へ引き寄せられ、心ならずもアマルテアの身体を押し倒すような態勢になった。


 首元に埋められた濡れた舌の感触に身を震わせつつ――ちらりと考える。

 では――ただコレを欲しがってるだけのイキモノに、例の日記の主は、何故ああも怯えていた……?


「ありがとう。わたし、ロウの子どもを頑張って育てるから。ロウも頑張ってね」

「なにをだよ」

「子どもを育てるのはわたし、わたしに栄養を提供するのが、あなた」


 絡んだままの四肢を止めて、ロウは顔を上げた。


「……栄養?」

「母胎が健康を保つためには、十分な栄養が必要」

「栄養ってのは――」

「ぜんぶ美味しく食べてあげるね。聞いた話だと、ニンゲンはノウミソが美味しいらしいけど。最初にするか最後にするか、ノウミソってどこにあるのかしら……?」


 アマルテアの指がロウの背中を撫で上げる。

 うっとりと笑う表情には、影一つ見当たらない。


 ――どうやらやはり、人間とは相容れないイキモノらしい。


「いや……いくら詰まってねぇオレの脳味噌でも、食われるのはさすがに困る」

「じゃあどこが美味しい? 腕? 足? どこを食べれば栄養がある?」


 当然のように問い返されて、純粋な性欲と――食欲を湛えた紅い瞳をうんざりと見下ろした。


「なるほどな……だからあの日記の主はお前らを相手に決然と戦ったワケだ」

「戦う? わたしはそんなつもりないよ」


 きょとんとした顔で見上げてくる。

 アマルテア自体は言語教育のお陰で多少の言葉が通じる。もしも会話も出来ないシロモノならそれは――捕食する側とされる側、カマキリの雄と雌のように生き残りを賭けた生存闘争になるだろう。


 ロウは身を起こそうと腕に力を込めた。

 なにもかも馬鹿馬鹿しい。そもそもついこの前までまでよちよち歩きだった子どもを相手に、そんな気になるワケがない。

 身を離したロウを見て、不思議そうにアマルテアが擦り寄ってきたが、片手で後頭部を押さえ込みそれ以上近づかないように止めた。


「ロウ」

「おい、ちょっと待て。そんなことより、まずはアルキュミアの様子を見にだな――」

「待てない。早くちょうだい」


 ロウの手を振り切り翅を震わせると、ふわりとその身体が宙に浮いた。

 柔らかい身体の割に、ロウの腕力を遥かに超えた力を持っている。


 腕を突っ張ったはずが、逆に力任せに引き寄せられて、再びアマルテアの胸に顔を沈めるしかなかった。


「ロウのばか。寂しいくせに、なんで我慢するの?」


 寂しい、んだろうか、これは。

 肉欲と寂しさを等号で結ぶつもりはない。

 だが、この暖かさに包まれる安心感を求めていなかったのかと言われれば、それは嘘かも知れない。


 紅い翅が、また小刻みに羽ばたく。

 どこか満ち足りたような思いで瞳を閉じそうになって――ふと、周囲を七色に輝く鱗粉が舞っていることに気付いた。

 空気と一緒に吸い込まれた鱗粉が、肺の中から指先まで冷やしてく感触。


 ――あ、これ。もしかしてダウナー系のドラッグに近い成分なんじゃねぇか。

 ようやく、かつての開発者達が、この惑星を破棄した理由を完全に理解した。

 人体はこのイキモノに勝てない。

 侵されて犯されて、そして食い尽くされる。

 電脳を持ち込んだところで、『歌』で支配権を奪われる。


 強いて言えば、電脳を持たず自律では動かない密閉された機械装備でも纏って、妖精達を殲滅出来れば勝てるだろうか。

 もちろん、そんな状況を想定していないベリャーエフINC.指示下の開発チームが、そんな前時代的なシロモノを持ちこんでいたとは思えないが。


 なんとか思考を止めず、必死に現実にとどまろうとしてみたが、徐々に身体から――いや、頭の芯から力が抜けていく。

 今にも膝を突きそうなロウの耳元で、妖精が囁いた。


「……ねえ、どうしてロウは寂しいの? ロウのお母さん――マーチとマーマが一緒にいないから? それとも、アルキュミアとイェルノには愛がないから?」


 アマルテアが何故それを知っているのかと、投げられた質問を不思議に思う余裕もない。

 問いかけは、今や消えかけた意識の最後の命綱だ。


 どうしてオレは寂しいんだ。

 リュドミーラは――マーチは、オレを愛さなかった。愛さないまま勝手に死んだ。

 マーマは……オレを愛してる振りをした。人工知能には愛なんてないのに、愛してる振りをしたまま勝手に死んだ。人工知能には愛なんて――


「――いいや、人工知能にだって愛はあるさ!」


 ロウの耳を涼やかな声が震わせたような気がした。

 高くも低くもない独特の声――その声が、記憶の中のマーマの幻聴なのか、それとも別の誰かの声なのか、咄嗟にロウは判断しかねた。


 が、眠りに落ちかけていた意識がその声で浮上する。

 ポケットに手を入れる。

 指に当たった固い感触を引き出して――電子銃の銃口を目前に向けた。

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