14段目 トライアングル・ラダー

 ぐるぐると頭の中を回るのは孤独と憎悪。

 なぜか浮かんでくる寂しさを心に押し戻しながら、ロウは走った。


 どうせ最初から信用なんてしていない。

 アルキュミアもイェルノも、所詮人工のシロモノ。零か一かの作られた命。感情を持たないデータだけの存在だ。


 必死で走りながら、だるくなってきた足をそれでも引き上げる。

 もっと距離を。ヤツらに追いつかれないように。


 呼吸が苦しい。頬を滴る雫は汗だ、たぶん。

 信用などしてない。裏切られたのではない。

 優しい子守歌を、受け入れてなどいなかった。今も、昔も。


 かつてロウに同じその子守唄を歌ってくれたのは、母さんマーマだった。

 誰よりも優しい、ロウの母さんマーマ

 あの頃、ロウは彼女の愛こそが本物だと思っていた。冷たい母親マーチの視線にはない、本当の愛情がそこにはあるのだと。

 母親マーチの周囲から受ける過度な期待。

 それに反発して虚しさで荒れた思春期の自分。

 マーマだけが癒してくれる――そう考えていた。

 

 「心配しなくていいのよ」、「大丈夫よ、安心して」と、最後に「愛しているわ」を。ロウだけに囁かれる愛情の発露だと思っていた。

 本当は全て、プログラムの産物なのに。

 混乱している自覚はある。走りながらずいぶん古い記憶を思い出している。


 よたつく足を踏み出したところで、足元の草に引っかかってバランスが崩れた。

 持ち直すことが出来ず、そのまま地面に倒れ込む。


 暮れかけた陽の下、緑に輝く草に両手をついた。

 四つん這いになって咳き込みながら、必死に酸素を求める。

 耳をすましても自分の息遣いの他は何も聞こえないことに安堵して、改めて身体を地面に転がした。


「……なんだって言うんだ」


 足を止めたことでようやく脳に酸素が行き渡り始め、状況を考える余裕が戻ってくる。

 反射的に逃げ出してしまったが、宇宙船なしでロウがこの星を出ることはできない。


 もう面倒臭い。どうせロウがどんなに考えたところで、母親のように瞬時に正しい答えを出すことなどできないのだ。

 無駄な時間をかけ考えることなんか止めて、このまま眠ってしまいたい。


 目を閉じかけたロウの耳に、ふと彼の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 近くに人影はない。幻聴――いや、蘇った記憶の声か。


 記憶を揺さぶるのは、必死にロウを呼ぶイェルノの声だ。

 あの声は本当に――アマルテアに操られてのことなのか?

 右手を失ってまでロウを助け、彼の語った何もかもが嘘だと?


 頭の中のイェルノの声が、失われた右手が、ロウに思考を促す。何かを見落としていると警鐘を響かせる。

 「誰かが死ぬのは二度とごめんだ」と囁いたイェルノの横顔が思い出された。あの寂しげで苦悩に満ちた横顔が。

 ――あれが嘘だなんて。

 偽物の、人工の感情だなんて、お前は本当にそう思うのか。


 ロウは土の上に起き上がった。

 ここにはもう、マーチもマーマもいない。

 生き残りたいなら――自分で考えるしかない。


 ふと、思い出す。

 建築用ロボットに襲われた時、一番最初に銃を抜いたのはイェルノだった。

 もしもイェルノがアマルテアやその『おかあさん』とやらに操られていたとしたら、抵抗などしなかったはずだ。


 つまり――イェルノは操られていない可能性がある。

 その言動には不審な点もあるにせよ、少なくとも最初から最後まで、妖精からロウを守ろうとしてくれていた。


 ロウは、深いため息をついた。

 なにはともあれ、この孤独な惑星でたった一人信頼できそうな相手を見つけられたのだ。


 疑ってひどい別れ方をしてしまったが、戻って謝れば、イェルノなら許してくれるに違いない。


 状況を整理するために、ロウは地面にイェルノの名前を書き、その上をぐるりと丸で囲んだ。

 そして、アルキュミアとアマルテアの名前も。


 今、この惑星にいる三人の名前が、ロウの周りを取り囲んでいる。

 アルキュミア、イェルノ、アマルテア。


 三角形トライアングルに囲まれて、ふと笑いがこみ上げてきた。

 まるで子どもの頃に遊んだ三角形の縄梯子、その内側にいるみたいだ。


 登るべきか降りるべきかを試されている。

 次にどの縄に手をかけるべきか、考えなければならない。

 アマルテアの名前を四角で囲みながら、思い出してみる。

 もしも、あの日記テキストの内容が真実なのだとしたら――そう、思い返せば、イェルノもアルキュミアも最初からおかしかった。

 未確認生物であるアマルテアを、何故か船内に保護したがった。

 人間に――ロウに仕えるはずの存在が、当のロウに反対されているにも関わらず。


「あれが全部アマルテアに操られてたからだとしたら、確かに話は通るか? ……いや、待てよ」


 ロウの思考が引っかかって、ぐっと時間を引き戻される。

 操られていたとしたら――それは、いつからだ?


 イェルノの訪れ、その後にバタバタと重なった船内の不調。

 この星の重力に引かれて落ちたアルキュミア。電脳を操るというその能力の効果範囲はどこまでだ。どんな生物でも、自然に落ちてくる隕石に含まれる生命の欠片で、次代へと遺伝子を繋いでいたなど――あまりにも気の長い話だ。


 では、もしもそれが――偶然ではないとしたら? 隕石は自然に落ちたのではなく、妖精セイレーンの歌に引き寄せられていたとすると。

 人間には聞こえない誘惑の歌は、まさか宇宙空間へも響くのだろうか。


 かつて隕石だけが聞いていた妖精の声が、ある日、意思のある無生物に届く。

 隕石の代わりに付近を通りがかった宇宙船の人工知能が察知する。セイレーンは、その聞き手を引き寄せ――そして、魅了された電脳を操作してこの惑星へと引きずり込む。

 もしかして、この惑星の発見と開発は――そしてアルキュミアの墜落は最初から妖精の手の内だったのかもしれない。


「もしそうなら……単にアルキュミアのコントロールを取り戻すだけじゃ済まねぇぞ。宇宙空間出てからも操られないようにしないと、元の木阿弥だ」


 ロウは頭を振って、絶望に落ちそうになる精神を立て直した。

 そもそも、今はまだその状況すらクリアできていない。まずは、どうやってこの惑星を脱出するか考えねば。


「そう言えば、惑星外射出装置マスドライバーがあるって書いてたな……」

 惑星外射出装置マスドライバー――惑星内の物資を宇宙空間に射出する為の装置だ。

 基本的には無生物を運搬するためのものなので、射出の際にはひどい加速がかかる。これを使って生身で宇宙へ出ようとすれば、多分、大気圏にも届かない内に木っ端微塵になる。


 ただし、船内に人工重力制御機能のあるアルキュミアは別だ。

 アルキュミアに乗って宇宙船ごと射出装置にかければ――生きたまま宇宙へ出られる。

 惑星から一定の距離を取れば、妖精の影響は消えるはずだ。そこまでの距離を射出装置で設定しさえすれば問題ない。


「よし。後はちゃんと動くかどうかと……いや、そもそも宇宙に出たときにアルキュミアが操られてんのはマズイか。アマルテアを連れてくなんて言い出したら困る……」


 わしわしと頭を掻いてもう一度考える。アルキュミアを騙して――言うことを聞くフリをして、マスドライバーのある場所まで連れてくる?

 その手の誤魔化し誑かしの類は、ロウは不得意とするところなのだが。

 それが梯子を登る為の一手になるのなら、やってみる価値は――と、考えたところで、ロウの頭の中に嫌な予想が浮かんできた。

 待て。操られてる以前に――


「……さっきので、ぶっ壊れてねぇだろな……?」


 先程自分でぶっ放した電子銃のことを思い出した。

 壊してやろうと意識していた訳ではないが、狙いが甘いせいでコントローラパネルにぶち当たったのが見えていた。


 だからこそ、着陸という最も危険な瞬間にさえアルキュミアは反応できず、ひどい不時着陸になったのだろう。

 アルキュミアはただの宇宙船――その人工知能だ。

 人工的で話が噛み合わなくて、ロウを愛さない母親マーチの作った――はっきり言ってロウにはオーバースペックなシロモノだ。


 だが、もしも、壊れてしまったとしたら。

 この星を抜け出せなくなるかも知れない恐怖と、知らぬ内にどこかに存在していたアルキュミアに対する執着のようなものが混ざって、ロウを慌てさせた。


 が、すぐに思い出してほっと息をつく。


「そもそも壊れてるとしたら、ハッチが開かないからオレが出てこれるワケがないか――いや待て……」


 その拍子に、別のことに気付いた。もしアルキュミアが船内にロウがいないことを察知し、自己修復に精を出しているとしたら、酸素生成機能も止まっている可能性がある。


 そして、搭乗員登録されていないイェルノには――ハッチを開ける権限がない!


「やっ――べぇ!」


 ロウは慌てて立ち上がった。

 自分の愚かさにもう何度目か絶望しそうになりながら、アルキュミアの元へと駆け戻ろうとした瞬間。


「……ロウ」


 背後から、ロウを呼ぶ甘い声が響いた。

 思わず振り向いたロウの瞳に映ったのは、背中に紅の翅を広げた艶やかな妖精の姿だった。


「ロウ、ようやく見付けた」

「――アマルテア!?」


 先ほど宇宙船に置いてきた時から、更に身長が三十cmほど伸びている。

 驚くべき早さで成長を遂げた彼女は、まるきり大人の女の顔をして紅い唇をちろりと舐めた。

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