明日へ向かう決意と対価の言葉
電車は停止して、扉が開かれた。
彼女はその場から微動だにせずにいた。電車から降りる客に少しだけ嫌そうな目をされていたにも関わらず、彼女がそれに気付いた様子はなかった。
「ごめん。言い方が悪かったね」
大原さんからの返事はずっとない。だから、思いの丈を全て話してしまうことにした。
「あの状況で、君がいじめの被害者であることはまず間違いない。それは認める。ただ、それ以前の話だ。それ以前の、そう。君は件のいじめは、あのグループ内での君への『遊び』が派生していったものと言っていたけど、それは本当かい?」
「ど、どうして?」
ようやく大原さんは口を開いたが、声は掠れ掠れだった。
「理由は色々あるよ」
その言い振りで、この仮説が見当違いでなかったことを悟った僕は肩を竦めた。
発車ベルが響いて、電車の扉が閉められた。発進する電車を見送って、僕は続けた。
「人への第一印象はあてにならない。色んな人が実際に色んな人と会って、会話して、関係を築いていってそう思うことが多々あるから言われている言葉だけど、僕も君に接してみてその言葉は正しいなって思ったよ」
僕と彼女の関係はたかだか数日のもの。それでも彼女は自らの性格を垣間見せてくれた。そして、その性格を見て僕が抱いた彼女への印象は、自殺を図った時に抱いた『暗い人』という印象から真逆に移った。
「いじめに泣き寝入りして自殺を決意した人にしては、君は『快活で勝気』だな。僕はそう思ったんだ」
数日戯れて抱いた彼女の性格であれば、僕達が手を貸すまでもなく、彼女は自ら「いじめはやめてくれ」と言えたのではないか。そう思った。
「ただ、それも報復が怖いからなら理解は出来た。確かに君も一時はそうも言ったしね。でも、先日君は僕達生徒会の手伝いを出来ないかと相談してきただろう。
それに対して僕は、君はなんて優しい子なんだとも思ったけど、こうも思った。
自殺を図るほどに自らも大変な状況なのに、どうしていじめの解決よりも他人の心配が出来るんだろうってね。
それ以外にも色々あったけど、そういった疑問と、いつか君が話してくれたいじめの成り立ちを思い出して、僕はこう仮定をしたんだ」
彼女のいじめの成り立ちはこうだった。
いじめに至るまでに、大原さんが何か特別粗相を起こしたとかそういうわけではないらしい。ただ、その場の空気。その場の流れでいじめは起こった。
じゃれあいの一環のように、周囲の連中は大原さんに対して無視を決め込む『遊び』を行った。
「君が語っていた無視を決め込む君のグループの『遊び』。その遊び、実は君が初めてされたんじゃないんじゃないのかなって。
実は君の前から、数人がこの『遊び』の標的になっていた。君は実はその子達に対して無視を決め込んだ過去もあった。
だからいじめグループの一員の中に、実は君と現状が逆転していた過去のある被害者がいたんじゃないかって思ったんだ。
そう思ったら、上級生である僕に対してスコケマシだなんて強気なジョークを言えるくらい勝気な君が、いじめに対して泣き寝入りを決め込もうとした理由も頷けたんだ」
嫌な気持ちは抱きつつも、それを言うことで場の流れを乱したくなくて、大原さんはグループ連中を咎めることはしなかったと言っていた。そういう行為に出ることで余計にそういうことへの標的にされるからとも言っていた。
もしかしたら大原さんは、そういうことをした人を過去見ていたのではないだろうか。実例があったが故に、その後の顛末を知っていたが故に、標的にされた時の報復を彼女は異常に怖がったのではなかろうか。
そして、そこまで考えると大原さんがいじめに対して泣き寝入りをした理由が理解できた。
彼女は多分、そういう逆転する立場の人がいた経緯があるから、いくらいじめが辛くても文句を言うことが出来なかったのだ。
当時彼女は、グループ内の誰かに後ろめたい行いをした。だから同じ悪さを犯した共犯者として、彼女は泣き寝入りを決め込む以外の道を閉ざされた。
あたし達は耐えたのに、何であんたが文句を言うんだ。
当時の被害者の誰かにそう咎められるのが、彼女は怖かったんだと思った。
おおよそ僕が考えていたことを伝えたが、彼女は何も言うことはなかった。寂しそうな背中が少しだけ震えているのがわかった。
駅構内の雑音が耳障りだった。向こうのホームで電車が到着して、人が降りて乗っていく。
「二人」
視界の端でそんな光景を見ていると、大原さんは口を開いた。
二人。
その人数が何を意味しているかは、聞かずとも理解できた。
「一人は今ではあのグループにいれなくなった」
多分その子が、『その場の空気を乱した』子なのだろう。
「もう一人はさっきもいた」
「そうか」
やはり。
その子から咎められることが怖くて、彼女は泣き寝入りをする道を選んだのだろう。
大原さんからすすり泣く声が聞こえた。目をワイシャツで拭っていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
大原さんは謝っていた。
「僕に謝る必要はない。言ったろ。君がいじめの被害者であったことは事実だ。辛い目にあったことは確かだろ?」
静かに彼女に近寄ると、僕は彼女の頭を数度撫でた。白石さんはいないのでセーフ。
「よく耐えたよ、君は。よく耐えたんだ」
「でも……でも、リコとヨウに酷いことをした」
その二人が、『遊び』の被害者、か。
「あたし、どうしたらいいの。……どうしたらいいのっ」
大粒の涙を流す大原さんは、ついにその場で跪いてしまった。
彼女にとって、今回のいじめは自殺を図るほど辛い仕打ちだった。
それでも今では自らがいじめられた過去よりも、当時自らが犯した過ちに対しての被害者への謝罪を述べていた。
多分、彼女は優しすぎたのだと思った。
恐らく今回の一件、大原さんのような実害を被る被害を出したのは、大原さんが最初なのではないかと僕は睨んでいた。
一人目の少女は場の空気を乱してグループから抜けた。
なら二人目は。
多分二人目は、せいぜい彼女の言っていた遊び程度の被害しか受けていないのではなかろうか。
いくらエスカレーター式の新学校とはいっても、一年である彼女達はまだ新たな関係を築き始めたばかりなのだ。
まだ六月というタイミングで、二人に実害を与えたいじめがあるとはとても思えなかった。
……いや、違うか。
いじめに上も下もないんだ。人が嫌だと思ったらそれはいじめ。
だとすれば、彼女のした行為もれっきとしたいじめ。
何より彼女は誰よりもいじめで苦しんだ。だからこそ当時の自分の浅はかな行為を許せなかったのだろう。
こうして彼女が後悔を口にするのは当然なのだろう。
「君は、どうしたいんだい」
でも。
でも、泣いていたって始まらない。始まらないじゃないか。
「酷い仕打ちをした二人に対して、君はどうしたいんだい」
僕の問いに、
「また……また友達になりたい」
大原さんは胸中を吐露した。
「友達になって、カラオケに行って、ショッピングに行って。もっと一緒に遊びたかった。遊んでみたかった」
まるでもう叶わない夢を後悔するかのように、大原さんは叫んだ。
「でも、でもそれももう叶わない」
「どうして」
「え?」
ようやく大原さんがこちらを振り返ってくれた。
僕は彼女の目線に合わせて屈むと、手を握って彼女を立たせた。
「大原さん、君に僕の金言を教えてあげるよ」
僕は、微笑んで続けた。
「失敗しても死なない」
大原さんは、呆気に取られた顔をしていた。
「どれだけ責任の生じる仕事を失敗しても、それこそ上司に怒られたってさ。人はそれだけじゃ死なないんだよ。
人が死ぬのはね、諦めた時なんだ」
脳裏では、失意の中自殺を図った鈴木君のあの時の顔が蘇っていた。
「もう一度声をかけてみなよ。そして謝ってみなよ。もう一度友達になってくれってお願いしてみなよ。失敗しても君が死ぬわけじゃない。だから勇気を出してみなよ」
「でも」
大原さんは俯いていた。何を言いたいかはわかっていた。
「失敗が怖いかい?」
大原さんは黙って頷いた。
「もし失敗したら、どうして失敗したかを考えて、次に生かせばいいんだよ」
僕は微笑んで続けた。
「人は失敗する生き物だよ。僕だって、白石さんだって。そして君だって。これまでたくさんの失敗をして、これからもたくさんの失敗をしていく。
だけどさ、だからって諦めていいわけじゃないだろ?
どれだけ怖くても。どれだけ険しくても。
挑戦せずに傍観して、何が得られるっていうんだ。一歩踏み出してみなよ。勇気を持って。
だって君はもうこの前の君と違うじゃないか。自殺を図った時とは違うじゃないか。
君はもう一人じゃない。白石さんだって僕だっている。
いくらだって頼ってくれよ。君が前に進めるなら、僕達は協力を惜しまない。だから、踏み出してみなよ」
勇気を持って。
失敗を恐れずに。
僕の思いに大原さんは、
「本当? 本当に助けてくれるの?」
再び涙を流して僕にそう尋ねた。
「勿論だろう」
……そういえば。
「いつか白石さんが言ったんだよ。『生徒会は生徒を統べる立場であるはずなのに、結局あたしは全ての生徒の顔を知っているわけじゃないんだもんね』ってさ。
殊勝な心がけだと思ったよ。
でも、僕は彼女の話を否定した。
だってそうだろう。僕達の生徒会の仕事は、君達学生の顔を一人ひとり覚えることかい? 違うだろ。
僕達の仕事は、そう。
君達我が校の生徒が皆、幸せになれるように。毎日笑顔で学校に来れるようにすることだ。
だから僕や白石さんは君への協力を惜しまない。当然じゃないか」
思ったことを言ったのだが、大原さんの反応は芳しくなかった。
しばらくの間目を丸めていた彼女は、突如先ほどまでの涙も忘れてしまったかのようにアハハと高笑いを始めたのだった。
「そうかそうか。仕事だから、か」
呆気に取られた僕を他所に、大原さんは納得気に腹を抱えていた。
「先輩は、白石さん一筋だもんね。所詮仕事だよね」
し、しくった! 確かにそういう意味になる。
僕は焦って取り繕う言葉を探そうと思ったのだが……大原さんは、あまり気にしている様子はなかった。むしろ何というか、憑き物が落ちたような、そんな清清しい顔をしていた。
「うん。わかった。あたし頑張ってみるよ。二人に謝ってみる」
晴れ晴れとした微笑で、大原さんは決意の篭った宣誓を口にした。
「罵倒されたって、咎められたって。頑張ってみる。だってこれはあたしが願ったことなんだもの。だから、頑張ってみる」
「その意気だよ」
「……うん」
晴れ晴れとした笑顔のまま、決意も固まった彼女は線路の方に向き直った。
まもなく、次の電車がやってくる時間だ。
だからなのか。
それとも僕の言葉が理由なのか。
それは僕にはわからない。
僕には結局、他人の気持ちはわからないから。
でも、これだけはわかった。
彼女は前を向く決意をしたのだ。後悔を糧に、苦痛を胸にしまい、恐怖を退け、自分の望む前に進む決意を固めたのだ。
彼女は多分、もう大丈夫だ。
僕はそう思った。
「でもその前にさ」
ただ大原さんは、顔だけこちらに向かせた。
その顔は、苦笑気味にはにかんでいた。
「二人に謝る前に、謝りたい人がいるんだ」
「へえ、誰だい」
「白石先輩。……そして」
大原さんは、大きな息を吸って続けた。
「先輩だよ」
僕は目を丸くした。
気恥ずかしさでもあったのか、それを継起に大原さんは再び前を向くのだった。
「ごめんなさい」
そして、ホームに集う人達の発する雑音にかき消されるくらいのか細い声でそう言った。
「僕は別に謝罪なんて聞きたくないよ」
僕は苦笑して、続けた。
「誰かに助けてもらった。誰かに救ってもらった。もしそういう想いを君が抱いたのなら、それに対する対価は謝罪ではないんじゃないかい?
そういう時にする対価。それはお礼なんじゃないかい?」
アハハハハ。
乾いた笑みが数度、前から起きた。
しばし、僕達は互いに何か言葉を発することはなかった。
『まもなく、○番線に、電車が参ります』
まもなく電車がやってくる。
僕達を乗せて、家へと帰す電車がやってくる。
家に帰ればご飯を食べて、お風呂に入って、そして眠って。また明日が始まる。かけがえのない明日が。僕達が前に進むための明日がやってくる。
彼女はきっともう、『諦める』ことはないだろう。
それは成し遂げたい未来があるから。助けてくれる人がいるから。
だから彼女は、もう大丈夫だ。
だから彼女は、明日を生きていける。
だから彼女は……、
「先輩、本当にありがとうっ」
今僕の方に振り返って、はにかみながら僕にお礼を言ってくれる。
電車が轟音を鳴らしてホームに滑り込んだ。
強風が彼女の髪をなびかせる。
僕は彼女に微笑んだ。
そして僕達は、明日へ進むための電車に乗り込んだ。
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