問いかけ
GW初日。
太陽すら昇っていないような時間、僕はアパートの外で件の人物を待っていた。
「うー、寒い」
いつもならこの時期になると暑くなってくるのに、今年は冷夏になるだなんてテレビのワイドショーで言っていた。最近ずっと同じ台詞を聞いている気がするが、気のせいだろうか。
まあ、そんなことはいい。
彼女、まだだろうか。家は出たと連絡が入っていたのだが。
体を摩りながら彼女を待つと、一台の軽自動車がこちらに近づいてきた。僕の真横で止まると、助手席のパワーウィンドウが開かれた。
「安藤……真奈美さん。おはようございます」
「おはよー。久しぶりだね。鈴木君」
運転席でハンドルを握っているのは、安藤真奈美。通称安藤姉。
元の体で僕とは同じ会社の先輩後輩にあって、後になって知ったが一時は好意を抱かれていたらしい。しかし、この体となってしまった今では、同級生の友達の姉という間柄である。本当、人生何があるかわからない。
「こんなに朝早くから僕のために、ありがとうございます」
一応年上を敬おうとしたら、それはもう高笑いをされた。酷い。近所迷惑だから止めろ。
「何がおかしい?」
「アハハ。何でもないよう。いいから乗りなよ。寒いでしょう?」
「それじゃあ、失礼します」
「ハハハ。私に敬語とか似合わなーい」
余計なお世話だ。折角敬ってやっているのに、そんな態度じゃもう止めようかな。そう思ったが、下手なことして機嫌を損ねても嫌なので、一睨みするだけに留めた。
「じゃあ、早速行こうか」
「よろしく」
エンジン音と共に、車がゆっくりと発進していく。
ふと、思った。
「そういえば安ど……真奈美さん。車持っていましたっけ?」
「ん。ないよ。これもお父さんの車。あたしペーパードライバーだからさ」
エヘヘ、と安藤は頭を掻いていた。
そっか。
ペーパードライバーじゃあ、しょうがないな。
……え?
「えっ、安藤お前。ペーパードライバーなの!?」
思わず身じろいでいた。今日は隣県まで繰り出す予定で、高速道路だって使うのに……それ大丈夫か? 人選ミスったか?
でも、僕の正体を知るのは彼女だけ。つまり彼女しか頼る宛はなかったわけで。
明らかに動揺する僕を見て、慎重そうにハンドルを両手で握る安藤は途端に不機嫌そうに顔をしかめていた。
「何よー。折角車まで出してあげてるのに」
「ああ、その……ごめんなさい」
まあ、そうだな。ご好意でしてくれている人に対して、今の態度はあまりに失礼だった。僕はシートベルトを握りながら謝罪していた。
「信じてないでしょ?」
「そんなわけないだろ?」
うん。嘘だけどね。無論、安藤も承知しているようで、頬を膨らませていた。
「にしても、ご両親よくペーパードライバーに車貸してくれたな」
最早弁明も不可能なので、シートにもたれながら、僕は率直な思いを聞いた。
「いやー、色々言われたよ? 傷物にして返されても困るからやめなさいとかなんとか。でも、鈴木高広の名前を出したら事故らなきゃオッケーって一発だった」
安藤はそれはもう清清しい笑顔で言っていた。
「ちょっ、僕の名前出したの?」
「出したよ。そういえば、茜も聞いてたな」
「おいおい、それ白石さんにバレるやつじゃないか!」
つい先日隠し事はしないと彼女に約束したばかりなんですけど。
文句を付けると、安藤は豪快に笑い飛ばしていた。
こ、こいつ……。
「大丈夫。いつかの時みたく、白石さんへのプレゼント選びの協力ってことにしておいたから。アウトレットに一緒に行って、色々見てあげるだけって言っておいたわよ」
「な、なるほど」
さすが安藤! 根回しの出来る女!
自慢げに鼻を鳴らす安藤は、最寄のICから高速に乗っていった。合流地点でテンパっていたのはご愛嬌である。
何とか高速にも乗れて、一先ず安心した頃に、僕達は再び話し始めた。
「それにしても、そういう話なら安藤さんが付いてきそうなものだったけど。よく回避出来ましたね」
「そんなの簡単。私が車を運転するって言えば一発だったよ!」
おい。
何で再び不安にさせるようなことを言うんだ。あ、僕が聞いたからか。聞かなきゃ良かった。
命の危険を感じたものの、何だかんだ順調そうに車は進んでいった。
「でも、アウトレットには実際に後で行くからね? 茜が白石さんにバラさないとも限らないし」
「うい」
簡素な返事をよこすと、
「場所は入間でいい?」
「入間かい。八ヶ岳とか御殿場じゃ駄目なの?」
「どっちも遠回りになるしー。何よりレジャー客とかち合いそう」
「確かに。じゃあ入間で」
「了解です」
車は順調に進んでいく。早朝、というか深夜にも近い時間に家を出たおかげで、車の込み入り具合はまだそこまででもなかった。
「それで。先輩はどうして今日、地元に行きたいとか言い出したの?」
小仏トンネルを越えた辺りで、安藤は尋ねてきた。
今日僕が安藤に依頼したのは、地元までの僕の運搬だった。初めはいつかこの体で地元に行った時同様、特急電車で行くつもりだったが、空席がなかったから、唯一僕の正体を知る彼女に頼むことにしたのだった。
「僕の体と彼が眠る墓に行きたいんだよ」
前方をぼんやりと見ながら、僕は言った。
安藤は驚いたような顔をしていた。
「でも先輩、前お墓に行った時に自分の体とは決別してたじゃない」
「うん。だから今日は、僕の体に会いに行くわけじゃない。鈴木君に会いに行こうと思ってる。
まあ、話しかけても彼が返事をしてくれるわけじゃないけどね」
僕は苦笑しながら頭を掻いた。
「鈴木君に……」
「うん」
しばらく、車の轟音だけが響いた。
「どうして?」
先に口を開いたのは、安藤だった。
「君にも一度見せたね。鈴木君の遺書。覚えているかい?」
「覚えてる。忘れられるはずがない」
安藤はハンドルを握る力を強めていた。
「遺書で彼は、自分の人生を虚無だと謳っていた。だから自殺した、と。でも、実は最近色々あって彼の過去を知る機会があってさ。それで、少しだけ疑問に抱いたんだ」
「何を?」
「まあ、色々さ」
僕は続けた。
「君に教えてもらったことだが、彼が肩を怪我して野球を辞めたのは二年の秋。実はその後。鈴木君、生徒会役員になっているんだ」
「へえ、そうだったんだ」
やはり、野球小僧が一変、生徒会役員というのは想像出来なかったのか、安藤は大層驚いたように目を丸くしていた。
「うん。それで思った。彼、野球が出来なくなった後、心機一転を図って生徒会役員になったんだろうって。
でも、鈴木君は事件に巻き込まれた。
彼の野球での実績を妬んだ後輩から、新入生への部活動紹介で挑発されたんだ。平たく言えば、『野球も辞めた意気地なし』みたいな感じでね。
それで彼は、激高してしまった」
「それは怒るよ。怪我をしたのは意気地とは関係ない」
「そう。でも鈴木君は、結局事態を重く見た学校サイドに一人だけ叱られた」
「何で? ありえない」
「鈴木君、肩の怪我を隠していたんだ」
「え?」
「彼は周囲に肩を怪我していたことを隠していたんだ。それで、彼が辞めた真相を学校内部で知る人は限りなく少なかった。そして、彼に酷いことを言った後輩より、身勝手に辞めておいて下らない挑発に噛み付いた鈴木君が悪いとなってしまった。まあ他にも理由はあったようだが、それは一旦省くよ」
「なるほど。あたしは中二の秋、彼の投げた試合、というか怪我した試合を見に行ったから、その後彼が表舞台に戻ってこないことから考えても、肩の怪我によって選手生命を絶たれていたことをわかっていたけど……中学の同級生程度では、その事を知るはずもなかったんですね?」
「そういうこと」
「それで鈴木君。落ち込んで自殺を決意したのね……」
「いいや、それは違う」
僕は首を横に振った。驚いた瞳をしている安藤を横目に続けた。
「鈴木君、実はこの後生徒会をサボるようになったんだ。そして昨日わかったことだけど、彼は生徒会を休んでいる間、リハビリに執心していたようだ」
「それって……」
「多分鈴木君は、後輩に煽られたことで内心で燻っていた闘志に火がついたんだよ。それに多分、学校内で肩の怪我を言いふらさなかったのもそれが原因だ。彼、まだ多分野球に対する思いを諦めきれていなかったんだ。
何とか再起してやろうと、必死にリハビリに励んだんだ。
……でも、結果は今の僕を見てもわかるよね。
彼は結局、肩の怪我を直すことが出来なかったんだ。
むしろ、ある日正式に医者に選手生命が絶たれたことを告げられたのかもしれない」
大学病院の通院履歴を見る限り、鈴木君がオーバーペースで通院を続けていたのは六月十一日まで。多分、この日に鈴木君が全てを諦めるきっかけになる何かがあったんだろう。
「そうして彼は絶望の末、野球も続けられず、心機一転を図って入った生徒会すら追放されてしまったんだ。
そして彼は結局、遺書通り虚無の人生を送らざるを得なくなり……失意の中、自殺を図った」
憶測の部分もあるとはいえ、おおよその彼の行動にこれで説明がつく。
車は墓地最寄のICを降りた。
すっかり静かになった車内で、僕達は何も言葉を発さずにいた。エンジン駆動音だけが響いた。
「鈴木君、足掻いたんだね」
「え?」
安藤は複雑な表情でハンドルを握っていた。
「私、鈴木君は肩の怪我以降はすぐに野球を辞めたと思っていたの。でもそうじゃなかったんだ。彼、足掻いたんだ。
失礼なこと考えてたな、あたし。中学野球ファン失格だよ」
「中学野球は、プロ野球よりも、ましてや高校野球よりもメディアへの露出が少ない。いくらコアなファンとはいえ、気付けなくて当然だよ。いつか動向を追えなくなって、当然だよ」
安藤は悔しそうに、唇をかみ締めていた。
再び車内に沈黙が流れている内に、車は彼の眠る墓地にたどり着いた。砂利が敷き詰められた駐車場に車を停めると、僕達は車から出た。
「お疲れ様」
「ううん。全然だよ」
しおらしくなった安藤に、僕は微笑んだ。
砂利道を歩いて、水汲み場で桶に水を溜めた。
僕が桶を持って、急勾配の坂を昇り始めた。
「鈴木君、可哀想だね」
坂を昇る内に、安藤の息は荒れ始めていた。
「確かにね」
僕は同意をして、続けた。
「でも僕はこうも思っている。
鈴木君は、こうなることを実はわかっていたんじゃないかって」
「え……」
安藤は墓に着く手前で足を止めた。僕の言葉に、意味がわからないと言いたげだった。
「こうなることがわかっていた、という言い方はおかしかったね。戻れるべき生徒会という居場所を捨てた、というのが正しいかな。
生徒会に戻れないイコール彼の人生が虚無になることは決まっていたと言っても過言じゃないだろ。それくらい薄い望みな賭けだった」
「居場所を……捨てた?」
「言ったろ? 鈴木君は野球が出来なくなり、心機一転するために生徒会に入ったんだ。でも彼の行動は、部活動紹介以降は明らかに生徒会をないがしろにするものだった。
発表の場で問題を起こした上で、生徒会活動すらサボるようになれば、信頼を失っていずれそこにいられなくなるのは当然じゃないか。
さすがの彼だって、それに気付かないはずがないと僕は思う」
ひとしきり話すと、安藤はようやく生気を取り戻したようだった。
「でも……でもそれって。それって……!」
「そうだね」
僕はコクリと頷いた。安藤も鈴木君の遺書を読んでいた。だから気付いた。気付いて、疑問に思わずにはいられなかった。
見上げれば、彼の眠る墓はもう目と鼻の先にあった。
最後の数メートルを昇りきり、僕は墓の前に立った。
僕は、彼の遺書の一文を思い出していた。目を瞑れば、一言一句違わず思い出せた。
『いや、そもそも野球をしている時だって、俺の人生は虚無でしかなかったのかもしれない。幼い頃、母さんと俺を捨てて出て行った親父を見返すことだけを目標にして、復讐のために練習をしてきた』
「本当にそうだったのか?」
僕は、彼の眠る墓に尋ねた。
「本当に君は、復讐のためだけに野球をやっていたのか?」
声を荒げて、尋ねた。
「君は肩の怪我のことを周囲に隠した。部活動紹介で野球を辞めたことを指摘され、茶化されれば怒った。そして……自らの新たな居場所と銘打った生徒会を裏切るような形で捨てた。
そこまでして君は……。君は野球をもう一度やろうとした……!
それなのに君は、本当に復讐だけのために野球を続けてきたのかっ!?」
返事はなかった。僕の言葉に、疑問に答えてくれる人は、もうこの世には誰一人としていなかった。
悔しかった。
悔しくて悔しくて……唇をかみ締めたら、血が滴っていた。
でも痛みはなかった。
そんなことよりも、僕はこの胸に広がるモヤモヤを払いたかった。
誰もこの感情を晴らしてくれる人はいない。そんなことはわかっていた。わかっていたんだ。
でも……。
でも僕は、叫ばずにはいられなかった。
「鈴木君。君は本当は……本当は、野球が好きだったんじゃないのか!?」
遠くで、電車の走る音が聞こえた。
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