Fault
昼下がりに眠るのは、随分と久しい気がした。薬品の仄かな香りが鼻腔をくすぐる中、いつもより少しだけ固くひんやりとしたベッドに体を預けているのが気持ちよかった。
「白石さん、そろそろ時間よ」
どれくらいそうしていたかはわからない。でも遠くから声が聞こえた。
「白石さん、もうっ。寝坊助さんね」
「うわあっ」
重たい瞼を開けた。寝ぼけて掠れる視界が鮮明になっていく。
あたしを起こしてくれたのは、保健室の先生だった。
「もう。そろそろ時間よ?」
「時間……?」
何の?
未だ寝ぼけているあたしに、先生は少しだけ呆れたように頭を押えていた。
「部活動紹介。生徒会長として挨拶は出ないといけないんじゃなかったの?」
「あっ!」
そうだ。そうだった。
今何時だろう。チャイムにも気付かずに眠り続けてしまった。
慌ててベッドから立ち上がろうとすると、先生に制された。
「まずは体温を測りなさい」
「は、はい」
あたしは先生に差し出された体温計を受け取った。リボンを外して、Yシャツのボタンを上から三つまで外して、そこから体温計を地肌に滑らせた。体温計を脇に挟むと、脇にひんやりとした感触が広がった。
しばらくして、検温完了を告げるアラームが鳴った。少しだけ緊張しながら、あたしは体温計を脇から外して、電子モニターを見た。
……う。まだ熱がある。
誤魔化す術はないかと思案していたら、先生に体温計を取り上げられた。
「三十七度八分。少しは下がったわね」
「先生……」
懇願するように先生を見つめた。少しだけ、泣きそうになっていた。
「病人を行かせるのは忍びないんだけどねえ」
先ほどはすぐに認めてくれそうな雰囲気だったのに、先生は発表間近になって態度を翻した。
「お願いします」
こうなればあたしに出来ることはもう懇願するのみだった。ベッドに座りながら、あたしは先生に頭を下げた。
先生は、困ったように頭を掻いていた。
「しょうがない。行ってきなさい」
しばらくして、ようやく先生から認可が下りた。
「ありがとうございます」
あたしはスルスルとベッドから降りると、そのまま保健室を出ようとした。正直、慌てていた。
「ちょ、白石さん待ちなさい」
「え?」
まだ何かあるの?
出来れば後にしてもらいたい。急がないと。
「時間まだあるから、慌てないで」
そういう先生は慌てていた。扉の前で固まったあたしを捕まえて、Yシャツのボタンを締めてくれた。
正直、少しだけ恥ずかしかった。多分熱に浮かされていたこともあるのだろうが、慌てるあまり身なりを整えることすら忘れていたようだ。
「リボンもキチンと着けなさい。ジャケットも取ってくるから」
「はい……」
頬を染めながら、リボンを巻いていると、先生はハンガーにかけておいてくれたジャケットを持ってきてくれた。皺を取るように数度撫でて、
「ほら、手上げて」
とあたしを促した。
至れりつくせりな状況も、内心は恥ずかしさ以外なかった。促されるまま腕を上げて、ジャケットを通してもらった。
ボタンまで付けてくれようとしていたので、さすがにそれは自分で出来ると苦笑気味に手で制した。
「よし。行ってきなさい。親御さんも呼んでおくから」
「はい。ありがとうございます」
一礼をして、保健室を出た。保健室内では慌てるあまり気付かなかったが、今は昼休みのようだ。授業で鬱憤を溜めた生徒達が、何かに囚われたように廊下で叫んだり、じゃれあったりしていた。
まずい。
生徒会は部活動紹介当日の昼休みは、早々に昼ごはんを取り設営の準備をすることになっていた。新入生が座るパイプ椅子の準備やマイクチェックなどをするのだ。
恐らく、その準備はもう始まっている。
あたしは少しだけ足早に廊下を歩いた。
時々、頭痛によってふらつきそうにもなったが、何とか堪えて体育館に向かった。
「遅くなってすみません」
体育館に着くなり、あたしは声を張った。設営の準備を進める生徒会メンバーの視線が一斉にこちらに振り向いた。
「し、白石さん?」
鈴木君は、恐らくあたしが来るとは思っていなかったのか戸惑ったような顔をしていた。
鈴木君はパイプ椅子の設営を行っていた。新入生の配置は、中央に敷かれるカーペットで二島に分割されている。もう片方がパイプ椅子の設置が終わりそうなのに対して、鈴木君の設置はまだまだかかりそうなほど進捗していなかった。それもそのはず、向こうが二人で設置しているのに対して、彼は一人でパイプ椅子を並べていた。
「遅くなってごめん」
あたしは小走りに鈴木君に駆け寄った。
「来なくて良かったのに。まだ休んでいた方がいいんじゃないのか?」
「大丈夫。手伝う」
そういって、体育館の脇に寄せられたパイプ椅子に迫ろうとするも、
「おい、ちょっと待て」
鈴木君に手を掴まれた。
「まだ快復しきってないんだろ? 無理するなよ」
「でも。遅れたら困る」
「大丈夫だ。こっちは俺一人で何とかなるから。君は休んどけ」
「でも……」
「無理して風邪が余計悪化したらどうするんだ」
戸惑っていると、少しだけ怒気交じりに鈴木君に言われた。
生徒会メンバーの視線がこちらに集まった。
「ちょっと鈴木君、言いすぎじゃない?」
「……ごめん」
見兼ねて仲裁に来てくれた書記さんとあたしに、鈴木君は少しだけばつが悪そうに謝罪をした。
「でもさっきも説明したけど、白石さん風邪引いているんだ。体を使う椅子の設置なんてさせられない」
どうやら彼は、事前に生徒会メンバーにあたしの容態を伝えていてくれたらしい。
「まあそうだねえ」
書記さんも困ったように頭を掻いていた。
「じゃあ、白石さん。あたしと一緒にマイクチェックのほうやろうよ」
しばらく思案して、書記さんはそう提案してくれた。
「こっちは俺だけで何とかなるから、そっちを頼むよ」
鈴木君の言葉への返事もさせずに、書記さんはあたしの手を引いて歩き出した。
「頼んだよ、鈴木君」
書記さんは振り向きながらそう言った。
設営準備は予定よりも少しだけ時間オーバーして完了した。
しばらくして、新入生一同が体育館に入場した。こちらはタイムスケジュール通りだ。
椅子に座って待機していると、少しだけ熱がぶり返してきたような気がした。頭痛が酷くなる中、予定通り新入生への部活動紹介は始まった。
『皆さん、本日はお集まり頂きありがとうございます』
幾ばくか緊張げの鈴木君の声が拡声器を伝い館内に響いた。
この部活動紹介の司会は鈴木君が務める手筈となっていた。決めたのはあたし達生徒会メンバーでだ。
といっても、あたし以外の人は端から見ても生徒会に積極的に参加しているようには見えなかった。正直、鈴木君は貧乏くじを引かされたと言っても過言ではない。
司会を決める時、副会長が言っていた。
『鈴木君はほら、陸上部でしょ。運動部だしハキハキ喋れるだろ?』
そんな良くわからない理由で、鈴木君はこの場の司会に任命されたのだった。
ただ当人は、
『といっても幽霊部員で一度も部活動に参加したことはないけどね』
少しだけ不満げにぶつくさと呟いていた。
正直前日までは大丈夫だろうか、と少しばかり不安に思っていたが、今日は頭痛のせいもあり、あたしは彼の司会ぶりを品評することは出来なかった。
『次に、生徒会長の挨拶。白石生徒会長。よろしくお願いします』
「は、はい」
熱に浮かされぼんやりとしていたら、あたしの出番が回ってきたらしい。
あたしは壇上の真下に設置されたマイクまでぼんやりと歩いて、事前に覚えていた台詞を喋っていった。熱に浮かされても、意外と台詞は飛ばないものだな、と少しだけ自分に感心していたら、無事に話しきることが出来た。
マイクから一歩下がり、頭を下げた。
まばらな拍手が館内に響いた。
自分の仕事を終えると、途端に頭痛が再燃。いいや、悪化した。緊張の糸が切れたことが原因だろう。
もう限界だと思った。
それでも館内を出るまでは毅然とした態度でいようと歩き出した。
「良かったよ」
司会の前を通り過ぎると、鈴木君の囁き声が耳に入った。
そうか。良かったのか。それならば良かった。
後は彼に任せて退散しよう。
そう思ったあたしはパイプ椅子に座りなおすと、うなだれたように俯いていた。こうしないと辛いくらい、頭が痛かった。
『白石会長。ありがとうございました。続きまして、各部員による部活動紹介を致します。少々準備をさせて頂きます。このままお待ちください』
書記さんが立ち上がっていた。マイクを片しに行くのだ。
チラリと鈴木君を見た。彼はさっさと帰れとジェスチャーをしていた。
あたしは一つ微笑んで、新入生達の視線がこちらにないことを確認して、館内を後にした。
朦朧としだした意識の中、あたしは廊下を歩き、玄関を出た。
すると、こちらに気付いたパパと保健室の先生が駆け寄ってきた。どうやら先生、出張明けで代休を取っていたパパを呼びつけたようだ。
そのままあたしの身は先生からパパに引き渡され、病院に直行させられた。
検査の結果はなんてことはなかった。疲れにより免疫力の低下。それにより風邪をこじらせたのだそうだ。お医者様から抗生物質などの錠剤を処方してもらって、そのまま家に帰り、薬を飲んで寝た。
翌日には、あたしの体調はすっかりと快復していた。授業に遅れることがなく済みそうで、少しだけ嬉しかった。
ただ翌日、学校に訪れたあたしは知ることになった。
昨日の部活動紹介がどうなったのかを。
それはそれは、ショッキングな出来事があったことを。
事件が起きたのは、野球部の発表の時間。新入生達の集中も切れ始める、丁度発表の真ん中あたりの時間だったそうだ。
そこで、野球部の部員とある人が口論を起こして壇上で喧嘩をしたそうだ。
実力行使には互いに出なかったそうだが、そのある生徒の剣幕ぶりに事態は騒然となり、混乱を察した先生が収拾するまでの事態になったそうだ。
結果、部活動紹介は予定よりも十五分近く時間をオーバーして終了したそうだ。
ただの部活動紹介なのにも関わらず催し物の予定時間オーバーなんて、我が校の長い歴史で見ても過去に一度もない出来事だったそうで、そのある人は教師陣に相当お灸を据えられたらしい。
そのある人とは……。
その発表の場で司会を務めた生徒であり、あたしの発表を褒めてくれた生徒でもある……、
鈴木君だった。
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