夏休みが始まってしまった。

安藤一家に流れるDNA

「今日のオーダー、どう思う?」


 電話口から唸り声が聞こえた。彼女、相当悩んでいるらしい。


『まあ、一番のタカユキはいつも通りとして。カズキ様はスタメン復帰で二番か。いいね』


「様?」


『ん?』


「ああ、いや、続けてどうぞ」


『まあ、タイラー二度目の離脱は痛いけど、カズキ様なら大丈夫でしょ。ネタフリは不調だけど、そろそろ上げてくると思うし、サノスは神だし。ただ、あー』


「五番?」


『ホセ。正直あたしは加齢が原因の不調だと思ってる。一昨年の肉離れ前なら余裕なホームランだった打球が届かなくなっている』


「凡フライが増えたよね」


『うん。というか、トシロウ様の打順を上げてほしい』


「様?」


『ん?』


「ああいや、続けてどうぞ」


『柴田きゅんが七番は妥当だなあ。その後も無難』


「そっかー」


『うん』


 電話から相槌が帰ってきた。

 彼女の本日の横浜のスタメン評を聞いて、僕から一言。


 安藤さん、君は間違いなく安藤一家の遺伝子を引き継いでいるよ。

 同級生が中学野球オタクでなくて本当に良かったと感じる今日この頃。


『鈴木君は、夏休みの宿題終わったー?』


「まだだよ。計画的にやってるけどね」


 夏休みが始まって、早三日。今日までの日々は、バイトに明け暮れる日々だった。社会人になってから、夏休みのない日々が普通だったからか、そこまで苦痛は感じない。


 とはいえ、つい先日青春を謳歌してやるぞ、なんてのたまった時から考えると、少しだけ肩透かしを食らった気分だった。

 一念発起した僕の決意も空しく、翌週には僕達は夏休みに入り、うやむやになった感情が気分を害する日々が続いていた。あんな大層なこと言っておいて、バイトに明け暮れる毎日とかマヂ笑える。いや、まったく笑えない。


『あたしは終わったー』


「早いね」


『ドリルとか読書感想文だけだもん。自由研究とかあって時間がかかった昔とは違うよ』


「ほへー、優等生だねえ。あ、ネオ君だ」


『スタメンに出すなら、ナゴドでスタートさせてあげてほしかったけどなあ』


 ネオ君は内角のストレートに三振だった。

 一回表、中日の攻撃はヒット一本こそ出たものの、無得点。


『きゃー、ネクストにカズキ様ー!』


「う、うるせえ」


 耳をふさぎ、ぼやいた。

 タカユキは五球目を打ち上げて、レフトフライ。


『きゃー! きゃー!』


 カズキが打席に入ると、安藤さんのボルテージは一層高まった。


『センター返しー! しかも初球! 久しぶりのスタメンで初球を痛打! 緊張だってあっただろうに、素晴らしいよ! 素晴らしいよカズキ様ー!!! しかも塁上で超クール!!!』


 思わずスピーカーを切った。うるさすぎ。というか、スピーカーオフにしたのに、まだキャーキャー聞こえてくるぞ。

 途端、自室の扉を蹴られた。


「うるさいよ、高広」


「サーセン」


 "母"に叱られた。僕でなく彼女を叱って欲しいのですが。

 まったく、『今日バイトないの? 野球始まるね』、なんてメッセージに反応するんじゃなかった。


『今テレビ点けたとこ』と返した途端、電話がかかってくるし、その挙句がこれだ。

 

 少し声が落ち着いたタイミングを見計らって、スピーカーボタンをタップした。


「あー、安藤さん。ごめん。少し落ち着こうか。近所迷惑になっちゃうよ」


『え、そうだった? ごめーん。カズキ様のこととなると、いつも振り切れちゃうの』


「うん。相当振り切れてたね」


 自覚があるなら控えて欲しい。

 カズキ様に続く打者が倒れ、この回はこちらも無得点で進んだ。


『そういえば、白石さんから聞いたよ。新しいスマホ欲しさに、前のスマホでキャッチボールして、スマホを壊すは、お母さんにスマホ代払ってもらえないわ、大変だったみたいだね』


「何だその話は?」


 事実無根である。というか、支離滅裂だ。信じる彼女も彼女だし、何を思って白石さんはそんなホラを吹いたのだ。

 ただ、スマホを代えるにあたって母から資金援助がなかったことは事実だ。家出したことに腹を立てていたのか、スマホをたたきつけた床が凹んだことに腹を立てたのか。

 どちらにせよ、非は僕にあった。おかげでゲーム機用にためていたお金が吹き飛んでしまった。


『なんか白石さん怒ってたよ? 鈴木君からまったく連絡が来ないって』


 ははあ。その腹いせによくわからないホラを吹いたのか。

 ははあ。

 ……はあ。


『勉強ちゃんと進んでいるのか心配してたよ? 副委員長として示しがつくように振舞って欲しいとか言ってた』


「まあ、頑張る」


 歯切れ悪く喋る僕に対して、電話口からため息が漏れた。


『何さ、白石さんと喧嘩でもしたの?』


「いや、そういうわけじゃない」


『じゃあ何さ』


「いや、何だ。ちょっと気まずいだけ」


 思い出されるのは、夏休み前、白石さんと動物園に行ったあの日。元の肉体を殺され腹を立てていたとはいえ、振り返れば相当彼女に迷惑をかけてしまった。それに、女々しい態度も見せてしまった。どんな言葉で話しかけていいのか、正直思い付かない。とどのつまり、とても話しかけ辛い状態なのだ。


『駄目だよ。あんまり無下にしちゃ』


「わかってます」


 正論過ぎて頷く他ない。


『もう。それじゃ、今日中にちゃんと電話してあげてね』


「今日中!?」


 安藤さんの指示は、なんとも大雑把だった。


『早く話せば傷口が広がらなかったのに、放っておいた鈴木君が悪いんでしょ?』


「仰るとおりです」


 正論はやめてくれ。居た堪れなくなる。

 いつかの平田君みたく、僕もハラスメントを訴えようかな。ロジハラだっけか。

 

『そう。放っておいたら、君はすぐ忘れるんだもん』


 突如、安藤さんは思い出したかのように不満を漏らした。


「何の話?」


 心当たりはない。


『ほらー』


 安藤さんは続けた。


『野球、一緒に行くんじゃなかったの?』


 ああー。そんなこと言った気がする。


「あったねえ」


『あったね、じゃないよ』


 安藤さんの声が冷たい。


『白石さんとは動物園行ったのに、あたしとの約束はすっぽかすんだー。へえー』


「そんなことないさ。必死に調整していたよ?」


 口から出任せである。


『なら、いつ連れて行ってくれるの? ねえー』


 はい、瓦解しました。下手に取り繕うべきじゃなかったね。

 電話口からため息が漏れた。


『実はさ、明日の試合のチケット、あたし持っていてね?』


「え、マジ?」


『うん。元々はお姉ちゃんと一緒に行くつもりだったんだけど、お姉ちゃん、転職先見つけて、引越しの準備でそれどころじゃなくなっちゃってね? どう、一緒に行かない』


「行く行く!」


 うわー、野球見にいけるのなんてどれくらい振りだろう。少なくとも、去年は行かなかったな。


『やった。じゃあ明日だけど、現地集合で十五時半集合ね』


「え、早くね? 開門って十六時半からでしょ?」


『色々グッズも見たいの。サノスのグッズとかあんまり持ってないし』


「そっかー。どうせだから、僕もユニフォームでも買おうかな」


『うん。じゃあ決まりって……きゃー!!!』


「うおっ」


『カズキ様二打数二安打! もうサイッコウ! 愛してるー! きゃー!』


 うるせえ。僕は再び、耳を塞いだ。

 扉が再び蹴られた。もう叱る言葉はない。本気で怒っていらっしゃるようだ。


「あー、僕早速ちょっと白石さんに電話してみるよ。じゃあ」


『きゃー! えっ、ちょ--』


 ブツッ


 少しだけ身の危険を感じて、咄嗟に電話を切った。どうやら正解だったらしい。母はリビングの方へ戻っていったみたいだ。

 無理矢理電話を切ったが、リダイヤルされることもなさそうだ。


「……言っちゃったしな」


 そして、僕は逡巡していた。白石さんに電話をするべきか。

 でもなー。恥ずかしいなー。


「ええいままよ!」


 勢いで白石さんに電話をかけた。

 ワンコールも待つことなく、電話は繋がった。受付嬢のいる会社だってこんなに早く取られることはないってくらい、すぐに電話が取られて、少し僕はびっくりしていた。


『も、もしもし』


「もしもし、白石さん?」


 久しぶりに聞く彼女の声は、少しだけ戸惑っていた。


『鈴木君、こんな時間にどうかしたの?』


「こんな時間って、まだ七時だろう?」


『えぇ、そう。そうだったわね』


 君まで緊張しているのはやめてくれー。こっちまで照れてしまうだろうに。


『それで、どんな用なの?』


「えぇと」


 用、ねえ。そんなのねえよ。つまんないオヤジギャグもそこそこに、僕は言葉に困った。大した用事が見つからない。


『どうしたの? もしかして、また熱でもぶり返したの?』


「ああ、いや」


 イカン。言葉に詰まっていることを心配されてしまった。


「えぇとだね」


 どうしよう。どうしよう。

 何かないか。何かないか。


 ……あ。


「実はさ、明日安藤さんと野球を見に行くことになったんだ。それで、どんなお土産が欲しいかなって」


 良かったー。喋れた。

 しかし不思議だ。返事がない。


「白石さん?」


『そんなの好きにすればいいじゃない!』


「うおっ」


 素っ頓狂な声をあげている内に、電話は切られていた。


「えぇ、何故?」


 とにもかくにも、どうやら僕はまた白石さんを怒らせてしまったようだ。

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