動物園へ向かうことにした
「鈴木君、いつまで寝ているの」
朝寝ていると、耳元で少女の声が聞こえた。
鈴木とは誰のことやら。さっさと起きてやれよ、鈴木君とやら。
「もうっ、起きなさいよ。約束、すっぽかすつもりかしら」
しかし、鈴木君とやらに話している割には随分と声が近い。まるで、僕を起こしているみたいじゃあないか。
……って。
「お、おはよう。白石さん」
そうだ。僕今、鈴木高広の体にいるんだった。
昨晩物思いに耽って中々寝付けなかったせいで重い瞼を開けながら、僕は苦笑気味に答えた。
「もう。いつまで寝てる気だったのよ」
白石さんは、昨晩着ていたパジャマから既に着替えを済ませていた。白色のロングスカートに、灰色でニット素材のノースリーブは夏らしい雰囲気を醸し出していた。
「似合ってらっしゃいますね」
こういう時はまず服装を褒めろ、と誰かに昔言われた気がする。そのおぼろげな記憶に倣って褒めたのだが、なんだか照れてしまって、よくわからない敬語を使ってしまった。
白石さんは頬を染めていた。
「もうっ」
「あいた」
顔を軽く叩かれる。本来は痛みなどないほどの強さなのに、ついつい痛がってしまったのは、彼女が目を狙ってきたからだ。
照れた振りをして、どうやら彼女は初めから僕の眼球を狙っていたらしい。末恐ろしい。
「ほら、寝癖付いてる」
白石さんの手櫛が僕の髪を数度撫でた。
「シャワー、浴びて来なさい」
ただ、白石さんは僕の寝癖が頑固であることを悟ったらしく、そう言った。
「昨日の服、洗濯機にかけて乾燥機にも回してあるわ。脱衣所に畳んであるから」
「ああ、そりゃどうも」
至れり尽くせりだなあ。このままここに住んでもいいかも、だなんて呑気な思考が脳裏に浮かぶ。
「いや、そんなの駄目だよな」
ここまで尽くしてくれたからこそ、僕は彼女にこれ以上恩を重ねてはいけないと考えを改めた。この環境に甘えてしまっては、僕はきっと駄目になる。そしてきっと、彼女も不幸にする。
物思いに耽っていると、随分と長くシャワーを浴びてしまったみたいだ。僕は服を着て、リビングに出た。
「昨日と違って、随分と長かったわね」
「ああごめん。ボーッとしてた」
「上せたのかと思って心配したじゃない」
「それはごめん」
なんだか、謝ってばかりだ。
「ま、いいわ。朝ごはんを食べましょう」
僕は時計をチラリと見た。ただいまの時刻、十時半。
「朝にしては少し遅いね。ごめん」
「構わないわ。さ、早く食べましょう」
トーストと目玉焼きという簡素な食事をさっさと平らげると、僕達は家を出る支度をした。といっても、彼女は中々起きない僕のせいで準備万端だし、所謂家出中の僕も取りとめた準備はなかった。
靴を履き、外に出た。照りつけるような熱射が襲う。
「今日も暑いね」
「夏だもの」
家の鍵をかける白石さんの声は少し明るい。多分、動物園を楽しみにしているのだろう。
「さて、ここから上野動物園はどれくらい?」
「ざっと十五分ね」
「へえ、て、近っ!」
鈴木高広の家はそんなに上野に近くなかったような。それこそ、電車で乗り継いで三十分くらいはかかったぞ。その距離を、僕は物思いに耽って歩いていたのか。いや、どんだけ物思いに耽ってたんだ。
「さ、着いてきて」
連れられるがまま、僕は歩いた。すると、確かに十五分くらいで上野駅が目に入った。
うわあ、懐かしい。殺されたあの身で、地方へ転勤に出ていた頃、旧友と会うべく東京に降り立つ僕は、いつもこの上野駅で新幹線を下車していたのだ。周りの景色も、どこか覚えがあった。
「ところで鈴木君、動物園に来たことは?」
「ハハハ。笑わせないでくれよ。愚問だね」
本当、愚問だ。
「勿論、ない」
子供の頃は田舎暮らしだったし、社会人になってからはブラックだったからな。無論である。
「何でそれで自信満々なのかわからないわ」
「そういう白石さんは?」
「一度もない。昔から親は忙しかったから」
「何だ、初めて同士か」
「あなたが言うと卑猥な言葉に聞こえる」
そういうことを思う君が卑猥なのでは?
「僕みたいな紳士がそんなことを言うわけないだろ」
「あら、昨日あっちの跨線橋であたしに乱暴したくせに、そんなこと言うんだ」
白石さんが駅から北の方を指さした。どうやら、僕と彼女が昨日会った跨線橋は向こうにあるらしい。
というか待て。人聞きが悪いぞ。
抗議の視線を寄越すと、白石さんはアハハと笑っていた。
首都高速の下を通り、歩道橋を渡って、僕達は上野恩賜公園に入った。恩賜公園と呼ばれるだけあって、かなり広い敷地面積を誇っているようだ。グー○ルマップ参照。
「あ、ゴッホ展だって」
上野の森美術館に、デカデカとしたポスターが飾ってある。
「ねえ、面白そうだよ」
「駄目よ。今日は動物園に来たんだから」
年甲斐もなくはしゃぐ僕に、白石さんは呆れた様子でそう言った。
「えぇ、でもゴッホ展、三ヶ月くらいしかやってないみたいだよ?」
ポスターの下にある日付から、そう言った。
「なら、また来ればいいじゃない」
「えぇ」
こういうの、誰かと行くから面白いと思うんだけどなあ。一人で行っても、絵に疎い僕は多分楽しめないだろうなあ。
「いつ行くか、連絡してね」
「え、ああ。うん」
何だ、二人で行く気だったのか。
ちゃっかり次回の約束を取り付けられつつ、僕達は公園内を散策した。
目的地の動物園は、もうすぐだ。
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