僕は今……
冬よりも短い夜が明けて、小鳥達がさえずるような早朝。期末テストも終わって、部活動が再開となった今日、僕は朝練のために早々と家を出た。季節は夏といえど、さすがにこの時間に家を出れば、茹だるような暑さも感じられず、ほどよい気分で学校へ向かえた。これが自分の朝練のためであれば、こんな清清しい気持ちで登校出来なかったろうな、と僕は思う。
そう、僕は部活動に参加などしていない。それなのに、なんの朝練をするのだと皆は思ったことだろう。帰宅部にもついに朝練が導入されたのか、とか、そんなしようもないことを考えた人は少なくないことであろう。そんな人達には、謝罪をしようと思う。誤解する表現を使って申し訳なかった、と。
つまり何が言いたいかというと、僕は自らの朝練のために家を早く出たわけではない。早朝通学、なんなら早朝通勤にも、僕は無縁な男であった。早朝通勤するくらいなら家に帰らなかったからね。しょうがないね。
「お、おはよう」
駅までの道中、眠たそうに大あくびをする少女に、僕は声をかけた。
「あ、ヒロちゃん。早いねえ」
「ああ、今日から部活動再開だろ?」
「え、ヒロちゃん。部活なんてしてたっけ」
「いや、してないけど」
そう言うと、博美さんは足を止めた。
振り返ると、意味がわからないと言いたげに口をあんぐりと開けていた。
「なら、なんでこんなに早く学校に?」
「そりゃ、早くに学校に行った方が有意義な時間を過ごせるからさ」
この言葉に嘘はない。僕がわざわざ毎日早い時間に学校に向かう理由。それは、今隣にいる少女が朝練をしているからに他ならない。
彼女の演奏、安眠効果抜群だわ。演奏が始まってしばらくすると、僕はいつも眠りについてしまうのだ。何度安藤さんに叱られながら起こされたかわからない。
あれ、これ別に有意義な時間を過ごしていないのでは?
「ほへー」
僕の正気でも疑っているのか、不思議な声で彼女は喚いた。
「そんな人だっけ。ヒロちゃん」
「おいおい、見くびってもらっちゃ困るぜ」
おどけて言うと、彼女は僕の言葉が全て冗談だと思ったのか、怪しく笑った。
「クラスの中でも、僕は結構な優等生で通っているからな」
「そんなこと言って、いつもテストではあたしとドベを争ってたじゃん」
「その時の僕はもういないってことさ」
「またまたあ。ほら、正直に言って? テストどうだったの?」
博美さんは僕の答えも待たず、あっけらかんと言っていた。
「勿論。あたしは駄目駄目だったー。夏休みの補習、また一緒に受けようね。ヒロちゃん」
「え、補習?」
おいおいマジか。そんなに点数悪かったの?
「もしかして、補習があること忘れてたの? ヒロちゃんも間抜けだなあ」
絶句していると、博美さんはこちらの様子がおかしいことに気付いたらしい。
「え、どうしたの?」
「……まあ、補習頑張ってくれよ」
「そんなこと言って、ヒロちゃんも大差なかったんでしょう?」
「失礼な」
僕はスマホを操作して、一枚の画像を博美さんに見せた。画像には、僕が承認欲求を満たすために撮った期末テストの答案用紙が写っていた。点数は全て八十五点以上。
「アハハ、ヒロちゃん。画像の加工うまいねえ。こんなものまで作っちゃって」
そこまで言われると、僕はもう彼女に哀れみの視線しか送れなくなっていた。そこまで同類の離脱を認めたくないのか。
「え、まさか本当に?」
「達者で、な」
元気付けるように言うと、博美さんは口をポカンと開けて佇んだ。彼女が放心するのが、電車の中でまだ良かった。練習に遅刻することは、多分ないだろう。
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「こんにちは、安藤さん」
「真奈美ね。真奈美」
期末テストが終わって、いつかのお願いどおり、僕は安藤姉と買い物に繰り出した。目的地は池袋にした。ここには雑貨屋だったり本屋だったり、少し歩くだけで結構なお店が揃っている。
いけふくろうの前で待ち合わせをした僕達だったが、出会って早々安藤姉は面倒くさかった。
「今日は素面なんですか?」
「こんな暑い日に、呑んでこようとは思わないよ」
よく意味がわからないが、聞くだけ無駄な気がして、僕は苦笑した。
「で、どこ行こうか」
「サンシャイン通りの方行きましょう。あっちにはハ○ズがあるし」
そう言うと、何故か安藤姉に爆笑された。周りの視線が痛い。
「何か?」
「女子高生相手にハ○ズってどう?」
「いいじゃないですか。ギフトを買うにピッタリでしょ」
「例えば、どんな物買う気?」
え?
どんな物って。
「タンブラーとか、ハンディファンとか?」
「実用的かっ」
実用的でない物を買ってどうするんだ。そんなの物置に行くだけだぞ。
「まあ、いいか。とりあえず行こうよ。暑いし」
暑いから行くとはどういうことだろう。まあ、確かに今日は暑い。このままでは茹蛸にでもなりそうだ。額に伝う汗も止まらないし。
ハ○ズに着くと、僕達は上から巡ろうと話し合い、七階でエスカレーターを降りた。八階はペットショップだったので、さすがに関係ないからと立ち寄らなかった。
「ええ、行こうよー」
無類の猫好きの安藤は不服そうだった。二十四歳にもなって見た目高校生に茶目っ気を見せるなよ。大人気ない。そんなことを思って、高校生になり散々醜態を晒した自分の姿を思い出した。
うん。あまり悪乗りしない程度ならいいんじゃないかな。
安藤姉を引っ張って、僕は店内を巡った。
立ち寄ったのは、スマホのアクセサリーグッズのコーナー。スマホの防水カバーや望遠レンズ、スマホスタンド等が並んでいた。
その後ろには林檎機種のカバーが多量に並んでいる。その光景を目の当たりにすると、この国はどうしてこうも林檎のスマホばかり推すのだろうかと首を傾げたくなる。今や世界シェアは韓国メーカー。格安スマホを扱う中国メーカーに負けているという始末なのに。
まあ、僕も韓国・中国メーカーのスマホを使う気はあまりない。やっぱ、スマホは国産でしょう。
だから私はエクス○リア。
まあ、それも元の体の時の話だが。鈴木君の愛用するスマホは、やっぱり林檎製だった。これだけなじっておいてなんだが、これはこれで使いやすいね。
「へー、防水ケースなんてあるんだー」
安藤姉が手にとって感心したように言った。
「意外」
「何が?」
「いやあ、てっきり持っているものかと。真奈美さん、遊び人っぽいし」
誰にでも人当たりのいい態度。僕なんかと垣根なく接せられる対応力。彼女はきっと陽の者だ。そんな彼女が、こんな陽キャ御用達のものを持っていないことが、僕には大層意外だった。
「人を見た目で判断しちゃいけません」
「褒めてることなのに?」
陽キャって、別に彼女を貶している言葉ではないと思うんだけど。誰とも仲良く出来るなんて、それだけで才能ではないか。
「これでも忙しくてさ。去年のお盆休みなんて仕事で全部潰れたよ」
「ああ、なるほど」
そういえばそんなことあったな。夜な夜な愚痴の電話が来て、こっちも疲れているのに中々電話を切らせてもらえなかったことを思い出した。
「じゃあ、仕事辞めれて清々しました?」
少し意地の悪い質問をしてみた。
「うーん。それは微妙かなあ。なんだかんだ愛着あったんだろうね」
わかるわー。
この体になってみて、たまに会社の皆は元気かと考える時、あるもの。まあ、それも何故かすぐに忘れてしまうのだが。
「でもま、後悔はあるね。うん」
含みのある言い方だった。
しばらく僕達は何も言葉を発さずに、特に何も買うことなく、このフロアをぶらついた。
「お」
そんな時、僕はボードゲームのコーナーで足を止めた。うわあ、懐かしい。カタンだ。大学の時に友人がこれを研究室に持ってきて、プレイしてみたら凄く面白くて、社会人になった後に購入したんだよな。よく家に大学の友達を呼んで、徹夜でやったもんだ。
「鈴木君、ボードゲームとかするの?」
「いや、しないけど」
鈴木君の部屋にそれっぽいのはなかったな。トランプやウノすらなかったし。
「でも、男の子なら誰でも好きだと思いますよ、こういうの」
クスクスと、安藤姉は笑った。
「何か?」
「いやあ、本当。君、先輩に似ているよ」
僕はまた体を跳ねさせた。
「な、何でです?」
「先輩もボードゲーム好きだったの。私、こう見えてもお酒強くてね。よく二人で飲みに行っては、散々愚痴を聞かせた挙句、その先輩を酔い潰していたの」
最低だな。嘘偽りが一切ない事実なのが、余計に最低だ。
「そして、先輩を甲斐甲斐しく介抱してあげて、そのまま部屋に泊まった時もあったんだけど。その時家捜しして、ボードゲームをいくつか見つけたの」
え、そんなことしてたの?
そういえば、朝目を覚ましたら安藤がいて、肝を冷やした日があったような気がするのだが、こいつ僕の心配を他所にそんなことをしていたのか。
本当、後輩じゃなかったら許せなかったわ。でも、後輩だから許せる。というか、憎めないというのが正解か。
心の中で僕は彼女をなじった。
「その先輩、たまに大学の友達を集めてボードゲームを徹夜でやっていたんだって」
「へえ、そんなことしてたんですね」
「そ。それ以外にも、君の話し方とか、本当先輩にそっくり。論理的っぽく感じさせつつ、その実何も考えずに喋っている感じとか」
僕をなじるのはいいが、鈴木君をなじるのは辞めてやれよ。いや、今こうして彼女と喋っているのは僕だから、どう転んでも僕だけがなじられているのか。
「その先輩とは色々あったよ。この前も話した通りに、あの人スケコマシだったから。ろくでなしだったね」
楽しそうに安藤姉は続けた。
「残業中も先輩がいる日は楽しかったなあ。話し相手になってくれるし、先に仕事が終わっても、待ってくれるし。奥手な癖して、夜道一人で帰るのは危ないからって、駅までは必ず送ってくれてたし」
皮肉交じりに言われても、恥ずかしい台詞がポンポンと飛び交う。正直、今すぐ彼女を止めたい気持ちに、僕は駆られていた。でも、なんて声をかけて止めるべきかわからなかった。
「でも、結局そういう関係にはなれなかったなあ。それだけが残念」
僕は彼女の言葉を聞いて、頬を赤らめると同時に息を呑んだ。これは僕の身が今どうしているかを聞く絶好のチャンスではないか。そう思った。
「真奈美、さん……」
僕は、彼女に声をかけて、その事を酷く後悔していた。
安藤姉は、まるで大切な者を失ってしまったかのように、上の空で遠くを見ていた。その顔からは、悲壮感しか感じられなかった。
「本当、何で置いていっちゃったんだよ。バカ」
「え?」
置いていった?
どこへ。まさか。
全身から血の気が引いていくのがわかった。
まさか。
予見していなかったわけではない。でも、心のどこかでは信じたくなかったのだと思う。今でも元気に仕事を遅くまでしていると、言ってもらいたかったのかもしれない。
だから僕は今、実の後輩が不意に滑らせた言葉に、強いショックを覚えていた。それこそ、雷に打たれたような衝撃を肌で感じていた。
「お、置いていったって?」
口の中が急激に乾いていく。それでも、言葉を止めることは出来なかった。
聞きたくはないのに、聞かずにはいられなかった。
僕は。
僕の体は……。
「え、アハハ。ごめん。口走っちゃったね」
安藤は今更取り繕うことが出来ないことを悟ると、苦笑を浮かべていた。えーと、とうまい言葉を捜しているように唸った。
「その先輩、死んじゃったの」
不意に、視界が真っ白に染まっていくような錯覚を覚えた。馴染み始めたこの体が、途端に別人の体であると主張を始めたように、拒絶反応にも思える発作が起きた。
息が荒れて、額から大粒の汗が滴った。
「そ、それ……。それって……!」
取り乱す僕に、安藤はついに苦笑を浮かべることしか出来なくなった。
「少し、休憩しよっか。まだ集まったばかりだけどさ」
彼女に連れられて、僕達は手頃なカフェに入った。
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