元同僚との電話
夜、安藤宅を出てからしばらくした頃だった。
お風呂にも入り、先ほどまでの勉強の復習をしながら、僕は安藤姉の電話を待った。
「おせえ」
しかし、電話は中々にかかってこない。少々苛立ちを覚え始めた頃、僕は一つの最悪を想定していた。
「まさか、安藤さんにバレたか?」
色紙の隅とは言え、〇九〇で始まる十一桁の番号なんて、携帯番号以外ありえないもんな。しかも、その色紙には僕の名前がデカデカと書かれているわけだし。思えば、彼女に見られたら一溜まりもないじゃん。
「ま、弁明案は考えてあるしいっか」
社会人とは常に最悪を想定して、対策を事前に講じておくものなのだ。いやらしい笑みを僕は浮かべていた。
「うおっ」
そんな僕の気持ちを悟ったかのように、スマホが鳴った。
画面には、見覚えのない十一桁の番号が表示されていた。
「はい。もしもし」
「あ、鈴木君」
聞き覚えのある朗らかな声。いや、朗らかすぎる声が通話口から漏れた。こいつ、酒飲んだな?
「えっと、安藤さんのお姉さんですか?」
「ちょっと鈴木君! 駄目だよ、そんなんじゃ」
「え?」
録音でもしておいて、元の体に戻った時に聞かせてやろうか。そんな邪な感情が浮かぶが、沈めた。
「ど、どういうことでしょうか?」
「私のことは、真奈美さんと呼びなさい」
「えぇ」
「あ、何よその呆れたような声! 茜に全部言ってもいいんだよ!?」
呆れたような声ではなく、まさしく呆れた声なのだ。見た目高校生相手に、色目を使うな。
「お酒、飲んだんですか?」
「あー、また呆れたような声ー!」
うるせえ。思わず通話口から耳を離した。
「飲みましたー。あの鈴木君に、素面じゃ電話なんて出来なかったんですー」
本当、この一家における鈴木君って何者なの? 新興宗教の教祖案が現実味を帯びてきたんだけど。
「飲みすぎると体壊しますよ?」
「いいんですー。当分、仕事ないもーん」
仕事ないもーん、か。
「次の仕事は決まっているんですか?」
「ううん。ま、その内決まるでしょー。それより、そんなことのために電話したわけじゃないでしょ!」
叱られた。酔った彼女、相変わらず面倒だな。
「で、どっちなの!?」
「どっちとは?」
何のこっちゃ。そう伝えると、通話口から安藤姉の悶絶した声が漏れた。
「どっちはどっちだよ。ウチの可愛い可愛い妹に、美人の白石さん。二人も女の子誑かして」
またそれかー。もううんざりだ。
「誑かしていません。というか、別に恋愛相談をしたかったわけじゃないんです」
「えーっ!」
だから、うるせえ。
「じゃあ何よ。お姉さんも弄ぶつもり!? そのつもりなの?」
「少し落ち着いてもらってもいいですか?」
「無理でーす!」
話にならないのですが。キャハハと電話口の向こうで高笑いするかつての同僚に、僕は握りこぶしを作っていた。
僕が彼女と電話番号を交換した意味は、彼女に僕の肉体がどうなったかの探りを入れるために他ならない。ただ、こうして単刀直入にそれを切り出さないのは、僕に縁もゆかりもない鈴木君が突然、その話しをするのはあまりに不自然だからだ。
ただ、これだけ酔っているなら、特に気遣わずにさっさと僕の肉体のことを聞いても問題ないのでは、と思ってしまう。
まあ、番号も交換できた今、不自然であることを加味してまで、慌てて彼女にそのことを問う意味は薄い。これから少しづつ親密になり、話を聞きだせるタイミングを伺っていくのが吉だろう。
「えぇと、僕、日頃のお礼をあの二人にしたいと思ってまして。あの二人、いつも良くしてくれているから」
飲んだくれの相手も面倒になり、僕はさっさと事前に準備していたはったりの相談内容を口にした。
「へえ、例えば?」
「た、例えば?」
「そ、君の話具体性がないなと思って。そういうの、より具体的に言った方が相手にどうして欲しいのか伝わりやすいよ」
なんだか僕が言いそうなこと言ってる。なんだかんだ、彼女も僕の後輩だったんだなとしみじみ思ってしまう。
「ほら、はよ! はよ! お酒の肴を頂戴! 鈴木君!」
「まだ飲んでんのかよ」
というか、安藤め。僕、もとい鈴木君から恋バナを引き出すためにわざと言ったな? 見た目高校生相手にえげつないことしよる。
「えぇと、まず白石さんには、いつも色々と助けてもらってまして。それこそ、そちらでの勉強会の時も、テストで百点しかとらない彼女がいなけりゃ破綻していましたし」
「へえ、白石ちゃん頭いいんだー」
「えぇ、まあ」
「で、ウチの妹は?」
「あー、まあ、あのクラスで一番に僕に話しかけてくれたのが彼女なんです」
確か、初対面では目を丸くされたが。
「その後も、事あるごとに気遣ってくれて、本当にいい人で。だから、是非お礼をしたいと考えたんです」
「そっかー。で、どっちが本命なの?」
「ゲスい大人だなあ、もう」
是非見習いたくないものである。
電話口から高笑いの声が漏れた。
「なんだか、先輩と話しているみたいだー」
安藤は言った。
僕は体を跳ねさせた。もしや、早速聞けるのだろうか。
「せ、先輩って?」
「んー? 私の辞めた会社にね、一個上の先輩がいたの。鈴木君と話していると、その人のこと思い出すなって思って」
「へ、へえー」
そりゃ、本人だしな。僕は続けた。
「どんな人だったんです?」
「うーん。スケコマシ?」
またそれか。もういいよ。
「後は、面倒見は良かったなー。私が相談すれば、絶対にフォローしてくれたし。というか、怒られるのはいつも先輩だったなー。上司にしても、女性ってだけで私には少し言いづらいところもあったんだと思う」
「はあ、そんなもんですか」
「そう、そんなもんなんですよ」
まあ、初めは僕も扱いに困ったくらいだしな。男尊女卑とか、そういうのと関係なく、やはり異性に対しては意識してしまう感情が少しはあった。フェミニズムの方に怒られそうだが。
「まーでも、良い人だった。良い人だったんだよ」
これはあれだな。他者から計らずして自分の評価を聞くというのは、恥ずかしいものだな。顔に熱がこもっていく。
この後、この後輩に一体どんな辱めを受けるのか。そう考えて身構えていた僕は、拍子抜けしてしまう。そう言ってからしばらく、安藤は返事をしなくなった。
「安藤さん?」
「え……。ああ、真奈美さんね?」
「やかましいわ」
僕がそういうと、彼女は静かに笑った。それきり、彼女は僕の話題を出す気はなくなってしまったみたいだ。
「で、お礼をしたいからどうするの?」
「えっと、安藤さん--」
「真奈美さん」
「真奈美さんに、それでお願いがあるんです」
しつこすぎて、僕は折れた。
「何かしら?」
何かしらじゃねえよ。お姉さん風吹かすな。
「えっと、期末試験が終わった後、一緒に買い物に行ってくれませんか? 二人にお礼のプレゼントをこしらえようと思っていて、それで、大人の女性である真奈美さんの意見を是非聞きたいんです」
「ああ、いいねー。行こう行こう」
軽っ。まあ、断られるよりはましか。
「じゃあ、日付と集合場所諸々は別の機会に」
「そうだねー。学生なんだから、しっかり体休めなよ?」
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみー」
ピッという電子音の後、電話は途切れた。
スマホを充電器に挿しながら、僕はベッドに転がった。
「何だよ、あの反応」
引っかかっていたのは、彼女のあの反応。僕の話題になった途端の、まるで良からぬことがあったとでも言いたそうな、あの態度。
「……無事なのだろうか」
悶々とした感情を抱きながら天井を見ていると、強烈な眠気に襲われた。
気付くと僕は、夢の世界へと旅立っていた。
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