同僚との思い出

 日が経つにつれ、段々と昔の記憶が不鮮明になっていく。でも、それすらも疑問に思うことなく、僕は今の人生の波に飲まれていっていた。どうしてなのか、と考えたことはあった。でも、全てが超常現象の一言で語りつくせるほど、今僕に起きている現象は前代未聞で、不可解で。結局何もわからずに、ぼんやり考えてまた忘れるという時間が過ぎていっていた。


 いつか、昔の自分のことを全て忘れてしまうのかもしれない。

 そう思うと寂しい気持ちもあった。でも、まるで嵐の中の荒波に浮かんだ一隻の船のように、僕は抗う術もなくそれすらも忘れていっていた。


 多分、だからだと思う。

 彼女の。

『安藤真奈美』のことを、僕が忘れていたのは。


「安藤です。よろしくお願いします」


 今や僕がどんな職種で仕事をしていたかも覚えていないが、まだ覚えている彼女と初めて顔を合わせた時の印象は、元気のある上司受けしそうな女性、ということだった。

 事実、それは間違いではなく、彼女は面白みのない僕よりも随分と早く部署に馴染んでいった。


 ただ、そんなある日、彼女が暗い顔で残業をしていたことがあったことを、今更ながらに思い出す。

 上司達はもう帰ったような時間。オフィスに残された人は、僕と彼女だけ。しかも、泣きそうな彼女。

 先輩として、ここはフォローしなければならないのだろうな。先輩風を吹かし、僕は彼女に声をかけた。


「何かあった?」


「え」


「いや、君がこんな時間まで残業なんて珍しいから」


 少し嫌味交じりになったのは、多分僕も忙しい身だったから、だと思う。

 安藤さん、いいや、安藤姉は、僕の顔を伺うように覗いて、黙った。警戒でもされているのだろうか。


「ま、何となく想像つくけどね」


「はあ」


「君、○○さんに色々言われたんだろう」


 意地の悪い笑みを浮かべながら、僕は言った。あの先輩、多分ウチの会社で一番厳しい人だったからな。……今や、名前を思い出すことも叶わないが。


「言っとくけど、凹む必要はないよ。僕もしょっちゅう言われているし、あれは演技だ」


「演技?」


「そ、本気じゃない」


「何でそんなことを?」


「大学生気分の抜けない後輩のケツを叩くには叱りつけるのが一番なんだろうね。ただ、無闇に叱りつける人でもない。初犯は叱られなかったろ? 同じミスを繰り返したから叱ったわけだ」


 叱られた原因を伝えると、安藤姉は再び顔に影を落とした。


「言ったろ、凹む必要はないよ。そんなの新人の内はしょっちゅうなんだから」


「でも……」


「言っとくけど、僕は君の倍は叱られたよ」


「え?」


「君、優秀だね。僕の立つ瀬がないよ。だからもっと悪目立ちしてくれよ。これ、先輩指示ね」


 苦笑しながら笑うと、安藤姉の顔にようやく笑顔が戻った。

 ホッと一息ついて、僕は彼女の抱える業務を少しだけ手伝った。後は、どうすれば今後同じミスを繰り返さなくなるのか一緒に考えて、それを先輩に明日言うように伝えた。


「でも……」


 安藤姉は露骨に気落ちした。先輩、今回の一件で相当恐れられたようだ。


「言ったろ。あの人は無闇やたらに怒る人じゃない。キチンと君の話も聞くし、もしそれが正しくないと思えば、訂正もしてくれる」


 必死に説得するも、安藤姉の顔は晴れなかった。でも、多分あの先輩のことだから、どうして昨日は失敗したのか、と掘り返してくるんだろうなと僕は考えていた。そういう時、自ら進んで話すのと、向こうに言われたから話すのでは、相手に与える心象がだいぶ変わってくる。


「よし。なら、仕方ない。話の初めに僕の名前を出しなさい」


「え?」


「一緒に考えて決めたことにするんだ。それなら、怒られても矛先は僕に向くよ。何なら、明日朝一緒に先輩のとこへ行ってやる。ただ、話すのは君だ。僕が話したのでは意味がない」


「それじゃ、先輩に悪いです」


「いいよ」


 随分と話し込んでしまった。椅子から立ち上がって、僕は続けた。


「その代わり、後輩が出来たら同じことをしてやってくれよ」


 要は、後輩が出来るまでは会社を辞めないでくれよ、という意味をこめて言った。ウチの会社、確か慢性的な人手不足だったので、新入社員だろうと、彼女の人手は重要なマンパワーだった。彼女に辞められたら、しわ寄せは次の下っ端の僕へ来るのだ。

 といっても、やはり相手が女の子ということもあり、上司陣も勝手がわからなかったようで、元々新入社員に行くような仕事も僕に来たりはしていたのだが。それでも、彼女がいるのといないのでは段違いだった。


「でも」


 それでも尚、安藤姉は歯切れが悪かった。お人好しだなあ。


「なら、わかった。君この前の新歓で野球が趣味って言ってたろ」


「え、はい」


「僕、横浜ファンなんだ」


「え、あたしと同じです。ウチ、家族揃って横浜ファンなんです」


「マジ? 嬉しいなあ。身近に同じチーム贔屓の人がいるってのは」


 おっと、歓喜のあまり話が逸れた。


「まあそれはおいといて。今度、一緒に野球を見に行こう。それでチャラ。どう?」


 微笑んで言うと、安藤姉はようやく納得したように頷いた。


「そんなことでいいのなら」


 そうしてその晩は、最寄駅まで彼女を送り届け、社員寮に戻って眠りについたのだった。


 その翌日、緊張した面持ちの安藤姉を、先輩と引き合わせた。前夜確認、講じた対策内容を先輩に伝えると、第一声は、


「何でお前もいるの」


 と半分茶化し交じりな文句であった。

 無事先輩との調整も終えて、彼女は心底安心したようにしていたことを覚えている。


 その後からだったかな。彼女が、僕に懐いてくれるようになったのは。年が近いこともあり、なんだかんだ話かけやすい存在として認知してもらえたようで、たまに昼食も一緒にとるような仲だったことを覚えている。

 僕も相手が女性ということで、多少遠慮していたところもあったのだが、この一件以降は気兼ねなく話すようになった。確か、その時だ。彼女が結構気さくな人。というより、結構悪乗りする人だと知ったのは。たくさん話をしたなあ。仕事のこと。休みの日していること。野球のこと。二人で居酒屋で朝まで愚痴りあったこともあったかな。

 

「先輩、いつ野球連れてってくれるんですかー」


「じゃあ、今日行くか」


「今日月曜でしょ、試合ないですよ」


「知ってる」


「もう、真面目に取り合ってくださいよー」


 そういえば、あの時の野球を一緒に見に行こうという約束、果たしたんだったかな。

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