第53話

 ナツの映像が終わった。ソラはただ静かに涙していた。それを止めることができなかった。沙世子の一部がナツにあった。ナツは一度ドナー手術を受けていた。その苦しみを知っているからこそ、彼は手術を受けないとかたくなに拒んでいたんだ。


 ――父さんは母さんを見殺しにしたわけじゃなかった。


 なのに、小さい頃のソラは雅治が沙世子を殺したんだと、思い込んでいた。


 ――父さんは分かっていて、悪者であることを買っていたんだ。


 たった1時間と少しの動画。その時間でソラは沢山のことをナツから教えてもらった。情報量が10年分あって処理が追い付かないけれど、何故か幸せな気分だった。ソラはすっかり今が自分の結婚式だということを忘れていたが、それくらい、ソラは胸がいっぱいだった。

 奏子が前に出る。


「……兄は、10年前のこの日、9月1日に亡くなりました。死ぬ日が分かっていたかのようにこの動画を撮っていたんだと思います。そんな兄とソラくんが出会って、点と点がつながり、なんの因果か妹の私がソラくんと結婚することになりました。とても、嬉しいことです」


 奏子が続けて先程の映像の説明をする。この式にはソラたち、ナツについて知っている人以外がほとんどだ。それでも、彼の伝えたい言葉たちは彼のことを知らない人たちにも届いたのか皆鼻をすすっていた。


「思えば、私がソラくんと出会うことも見越していたのかもしれません。未来予知かよ、と今でも思います。……そして、兄さんがこのVTRの中で言っていたドビュッシー『月の光』。映像の兄さんと私で連弾をして、私の挨拶とさせて頂きます」


 奏子の中では、きっと母親に対しての“手紙”は兄の想いを伝えること、そして長年の夢であったことだろう兄との連弾をすることで感謝を伝えるのだと決めていたのだ。

 彼女には付き合った当初からずっと言っていた言葉がある。


「兄さんと連弾をすることが母さんの夢だった」


 幼い頃からナツは唯子にピアノに縛られ続けて生きていた。病気になり入院しがちの生活に代わると、いつの間にか奏子に目が向けられ、天才ピアニストであった『星川夏人』は消えざるを得なかった。奏子的にはそれが許せなかったのだという。


「色んなプレッシャーと戦っていた兄さん。兄さんはお母さんの夢を叶えてあげることが夢だったの。でも、あの事があってから二人には修復できない溝ができちゃって」


 それ以来、二人の溝が修復することは無かったのだという。彼女はそれを一番身近に見ていた。だからこそ一番の理解者であり、悲しい思いもしてきた。


「ピアニストになる夢もあったけど、兄さんみたいな人をこれ以上出さない為に看護師になった。兄さんが死んでから、兄さんの夢を叶えるのが私の夢になった。……だからごめんね。普通の結婚式、できなくて」


 そんなことを式の前日に言われた。ソラは奏子を尊敬している。だからこそ、その考え方を尊重した。こうなるとは予想していなかったが……。奏子が嬉しいのであればソラも同じ気持ちだった。

 奏子が披露宴会場に設置してあったピアノの椅子に座る。そして両手を鍵盤に静かに置いた。その姿はまるであの時音楽室で見たナツのようだった。奏子がスクリーンを見て待つ。映像が再び動き出し、ナツが登場する。姿は制服であった。いつ撮影したものなのだろう。少し顔が疲れているように見える。ということはあの動画を撮影した後日に撮ったのだろう。

 そういえば以前、奏子が実家に演奏室があると言っていた。きっとナツは唯子と和解できたからこそ最期のお願いをしたのだろう、とソラは予想した。少し小さい音楽ホールみたいな場所でナツが演奏を開始する。と同時に奏子も演奏を始めた。

 その音色は優しい風を巻き起こし、会場中を包み込んだ。


 ドビュッシー、『月の光』。

 沙世子とナツが愛した音楽。ゆっくりとした出だしが柔らかい印象を持たせる。心なしか奏子が楽しそうに弾いていた。映像の中のナツも楽しそうだ。少し汗を掻いているようで、顔が紅潮している。そのまま彼が倒れてしまうのではないかと心配になったが、難なく演奏は無事に成功し終わった。

 奏子は勿論のこと、ナツに対しても拍手喝采が起きた。

 そのことはソラたちにとってとても誇らしいものとなった。自分のことではないのに、まるで自分のことのように嬉しい。

 奏子が椅子から立ち、そして客席に一礼しソラの方を向いた。その瞳には涙が滲んでいた。

 彼女は、ありがとう、と掠れた声でお辞儀をしたのだった。

 司会者が拍手を終え、ソラにマイクを渡した。今、ソラは目の前にいる人たちにいったい何を言えばいいのだろう。心の中がぐちゃぐちゃで、ナツのこと、沙世子のこと、雅治のこと……。とりあえず心を落ち着かせる為にひと呼吸置いた。


「えと……なんか、しんみりしちゃってすみません。新郎の魚波空です。今回の主役のはずだったんすけど、ナツに……さっきの映像の彼に食われちゃいましたね」


 ははは、と数人が笑う。カイとリクが笑ったことは何故か分かった。


「さっきも出演していた彼、星川夏人とは、10年前に出会いました。それよりも前に会ったことは覚えていなかったけれど、なんだか初めて会った気は俺も無かったです。まさか俺の母さんの一部を持っていただなんて、思いもしなかった。……ナツの口から、ナツのドナーになることが母さんの最期の望みだったことを知れて良かった。今まで憎んでいたけれど、本当のことを話してくれていたらって思っていた。でも、どんな形であれ俺の中の誤解は無くなったから。今まで、ごめん、父さん」


 ソラは久し振りに父の顔を見た気がした。物心ついた時に見た父親とは違った顔をしていた。こんなに優しい表情をしていただろうか。記憶の中のものはもう、信じないと決めた。だからこそ、今は父のことを真っ直ぐ見なくてはと思ったのだった。


 ――見れてる。


 苦手だった雅治のことをこうして見られる日が来るなんて、きっと、ソラの周りの人たちは誰も想像できなかっただろう。


「そして、俺の人生を変えてくれたナツ。彼には感謝してもしきれない。君はもうそこにはいないけれど、直接は伝えられないけれど。母さんの一部を受け取ってくれてありがとうと。自殺を考えた日があっても、一瞬でも踏み止まってくれてありがとうと伝えたいと思います。

 そして最後になりますが、ここから俺たちは新たな一歩を心置きなく踏み出すことができます。一重にこれは皆さんのお力添えや協力があってこそと実感しております。

 本日はこのような場にご来場頂きまして、誠にありがとうございました」


 一礼し、司会者にマイクを返す。

 言いたいこと、伝えたいことは全て言うことができた。映像越しではあったけれど、元の世界でも生きているナツに会うことができた。


 ――お前は本当に、俺たち“アナザーデイズ”の誇りだよ。


 スクリーンに映る笑顔の彼にソラはそう心の中で呼び掛けたのだった。

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