第52話
ナツの言葉に、カイもリクも、そしてソラも。その会場にいた彼に関わった全ての人間が時が静止したように言葉を失った。
――ナツが一度手術を……? しかもその相手が、母さん?
そんな話、聞いたことがない。ふとソラは雅治の方を見る。彼は目を伏せて、ただ沈黙していた。それが答えだと、一瞬で悟った。
今まで目を背けていた真実が10年の時を経て今日この日に知ることができる。だが、まだその現実は直視できない。
だが……。ナツが命を懸けて伝えようとしてくれたものを、ちゃんと見届けなければならない。
ここまで、10年。10年掛かった。
「……ナツ」とその時発したソラの声は、吐息よりも小さかったことだろう。
「――……と言っても一部なんだけどもね。
胃と小腸の一部を、僕は沙世子さんからもらったんだ。山代総合病院音楽会のピアノ発表会の日、僕は発作を起こした。倒れた時と……いや、それ以上に痛くて、死ぬんじゃないかって覚悟した。その日、ソラは学校があったよね。僕が起こした同じ時間、沙世子さんも発作で集中治療室に入っていたんだ。
目が覚めたら僕は生きていて、また生き残ったんだって思ったら涙が止まらなかった。
1週間してやっと歩けるようになった。手術仕立てだったから、一歩踏み出す度に激痛がした。この場から一瞬で消えたかった。死にたかった。
……病室から何分経った頃かな。僕はいつの間にか道に迷っちゃって。ふと上を見上げたら『霊安室』の看板が見えた。本能、だったのかもしれない。死にたいっていう。もうこんな痛いのは耐えられないって。
でもね、見ちゃったんだよね。
魚波先生が、泣いてるところ。
僕にはお父さんのいた記憶が無くて、魚波先生のことを本当のお父さんみたいに尊敬していたんだ。誰よりも強くてかっこよくて、いつだってそこに立っている……。でも、魚波先生も人間なんだ。
霊安室でね、沙世子さんが眠っていたんだ。とても綺麗だった。どうして眠っているんだろう、とは思わなかった。先生がこう言っていたんだ――『お疲れ様。夏人くんは無事に手術に成功したよ、沙世子』って……その時ね、全部理解したんだ。ああ、沙世子さんは僕の所為で死んじゃったんだって。未来に希望なんて持てない僕なんかの為に! 命を懸けたんだって。
普通なら、提供者のことは知ることはできないんだ。僕は、本当に、たまたま、偶然……ドナーを知ってしまった」
沙世子の話をしていると、自然と涙が溢れ出てくる。どうしてなのかは分からない。もしかしたら、ナツの中の沙世子が泣いているのかもしれない。
「…………はぁ。だからね? 僕は、僕の中にいる沙世子さんを死なせるわけにはいかなくなった。……この日から自殺は考えなくなったんだ。
きっとソラは、魚波先生を恨んでいるんだろうね。お母さんを見殺しにして他の誰かなんかにお母さんの臓器を渡したのだから。でも、魚波先生を恨まないでほしい! 恨むなら僕を恨めよ! 沙世子さんの命を奪ったのは僕なんだ…………」
ベッドシーツが一滴、二滴とナツの涙で濡れる。握ることでシーツがくしゃりとしわになる。必死だったのは目に見えた。
「……あの日から東京都の大病院に移って入退院を繰り返して、やっと退院できた。何事もなく今までの、やれてこれなかったことを取り戻していた。なのに、今年の始めにね、倒れたんだ。
またこれかと思った。入院は検査するだけ。5日もすれば退院できる。いつものことだって、そう思ってた。
――余命1年だって。その時言われたんだ。
1年だよ? たったの。沙世子さんの分まで生きなくてはならなかった途中で、目の前が、
沙世子さんからもらった臓器が悪くなってしまったんだ。他の臓器が悪化して……それが胃に移った。思いのほかダメだったんだろうね。合併症を起こした所為で倒れたんだって。
どうせ死ぬなら、沙世子さんが亡くなった場所で死にたいと決めていた。あと1年、自分の好きなことをして死にたいと、母さんに願い出て、やっとの思いでこの町に来て、そして偶然ソラに会ったんだ。
……ソラに、二度目の最初に会った時、僕はね、実を言うとあの川で自殺しようとしていたんだ。沙世子さんのお墓参りをした後、僕はもうやり残すことは無いと思った。人生に疲れていたから。でもそこに、君が現れた。しかも自転車で川に突っ込んできて。凄く驚いた。でも、僕の自殺を止めたのは君だ。君が僕を生かしたんだ。
最初は嫌だった。また少し生き永らえるなんて。でもソラに会って、カイくんやリクくんに出会って、僕はもう一度“生きたい”と思えたんだ。本当にこのことについては感謝しているよ。……でもねソラ。僕はもうこの運命を受け入れているから手術は受けない。きっと沙世子さんの血を受け継いでいる君の臓器は拒絶反応を起こしにくいとは思う。だけど、沙世子さんの一件もあるし、これ以上君たちに迷惑は掛けられない。僕の所為で二度も僕の大切な人を傷つけたくない、失いたくない。僕の為に、自分の体を傷つけなくていい。しないでほしい。お願いだから。
…………と、まあ、僕からソラに伝えたいことは伝えました。一番言いたかったことは『ドナー手術は受けないけれど、その理由はこういう理由だよ』ということです。
僕は充分生きた。生かせてもらった。沙世子さんに、ソラに、カイくんに、リクくんに……みんなに。感謝してもしきれないよ。この想いを、生きている間に伝えたかった。恩を返したかった。でも僕にはもう時間がありません。大丈夫。もう自殺したいなんて考えてないから。残りの時間、僕はちゃんと“生きる”よ。
あ、最後になりますが! ソラと沙世子さんが好きだと言っていた、ドビュッシー『月の光』を弾いてきましたのでぜひ聞いてください。ご清聴誠にありがとうございました。またどこかで会いましょう。以上“アナザーデイズ”のナツこと、星川夏人でした」
ナツはバイバイと手を振ったところで夏目に「動画を止めてください」とお願いした。電源を切ってもらったことを確認した瞬間、ナツの全身からありとあらゆる力が抜けてしまい、その場に脱力してしまう。
「夏人くん!」
咄嗟に夏目がナツの体を支えた。運が良かった。ナツはそのままゆっくりと床に座り込んだ。
「大丈夫かい?」
「……はい、伝えたいこと、全部言えたので」
呼吸がしづらい。思いのほか体が熱くなっていることに気が付いた。肩で息を整えるのがやっとだった。
「あり、がとうございました……。夏目さんのおかげで、もう、この世に悔いはありません」
「……そっか。力になってあげられて、良かったよ」
その後、約10分程度、夏目はナツのことを落ち着くまで待っていてくれた。呼吸が整ったところで、ナツはベッドへ倒れこんだ。
「あー、疲れたー」
「じゃあ、これ、編集したらまたデータ持ってくるね。今日はありがとう夏人くん」
「いいえー。こちらこそ。……あ、ねえ夏目さん」
「ん? なんだい?」
「ずっと気になってたんだけど、どうして僕のことを知っていたの? そりゃあコンクールの時に一度だけインタビューをされたことはあったけれど……」
それを聞くと、夏目はくすりと笑い、真っ直ぐな目でナツを見つめた。一息つき彼は話し始めた。
「……昔、まだこの世界に入ったばかりの頃、あまり仕事が無かったり上手くいかなかったりしてね。そんな時だった。ピアノのコンクールで賞を総なめにしている天才ピアニストがいるって聞いたんだ。それが君だった。
当時の私は仕事が上手くいっていないこともあって、本音を言えば君のインタビューも気乗りしていなかった。でもね、実際に君の演奏を生で見て、インタビューをしてみて、変わったんだ。
君の記事を書いてから仕事が上手くいくようになった。音楽関係の記事をこれまでに書いてきたけど、やっぱり君の記事がトップだ。私は君を取材したおかげでこうして食べていけてる」
「……僕にはあなたを変える程の力は無いよ」
「それでも、私は変わった。事実だよ」
「そうなんだー。……誰かは誰かを必ずどこかで変えたり、助けたり、助けられたりしてるんですねー」
それはナツ自身にも言えることだった。ソラや沙世子に救われたように。世の中できているなぁと感慨深く思う。
「じゃ、夏目さん。編集よろしくお願いしますね」
夏目が病室を出た後、ナツは思わず咳き込んだ。ずっと我慢していたから、結構な長さを咳き込む。
体の中の何かが悪くなっていいるのか、聞いたけど全部忘れてしまった。確か肺が壊死し始めているとかどうとか言っていた気がする。
「けほっ……。はあ……。本当、疲れた」
これで思い残すことはない。
後は作ってもらったデータをソラに渡してもらえれば。
咳き込んだ所為でただでさえ無い体力が奪われた。うとうとと眠くなってきてしまい、ついにはナツはそのまま気を失うようにして寝てしまった。
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