第38話

 重い瞼を開けるとそこには5年前と同じ光景がナツの視界を刺激する。

 白い、何も無い、薬品のにおいが微かに残っている病室。いつも通りだった。

 なんでだったかな、と記憶を辿ってみる。


 夏祭りの花火を見る間もなく、ナツは突発性の発作によりソラたちの前で吐血をしてしまい、救急車にて、この病院へと搬送されたのだ。せっかく楽しみにしていた花火を見られなかったことに対してはとても残念に思う。

 さて。長年こういった発作と付き合っていると大体自分の体に何が起きたのかをなんとなく把握できるようになる。今回は胃の内膜が破れたことによる吐血といったところだろう。5年前にも同じ症状で手術をした記憶がある。あの時は久し振りに外出の許可が出てはしゃいでいたら倒れたのだったっけ、とナツは思い出して、少し過去の自分を恥ずかしく思った。

 だが今回の痛みはあの時の比ではなかった。

 結論、ナツの体の限界はそこまで来ているということになる。口元にあてられている酸素マスクが邪魔になり、外そうと手を動かしてみる。しかし右手が何かに固定されているような感覚に違和感を持った。


 ――ん? なんだ?


 恐る恐る動かない右手に目を向ける。動かない正体はソラだった。ソラがナツの右手を握っていたのだ。しかしなんだか可笑しいことに気付く。肩を落として俯いて……まるで泣いているようだった。


「…………ソ、ラ?」


 ナツが名前を呼ぶと、彼は肩をびくつかせて、でも下を向いたまま何も言わなかった。


「……ソラってば」


 もう一度呼んでみるが、それでも反応は先程と変わらずだ。いや、握っている手の力が増した、ように感じた。

 安心させようと、ナツは優しく呼び掛ける。


「……手、痛いよソラ」


「ごめん」


 それでもまだソラは彼の手を離さない。若干握っていた手を緩めたようだが、まだ握っている。急に緩められたものだからじんわりと手に血が巡っていく。

 その感覚に『ああ、生きてるなぁ』と思い知らされる。


「……どうしたんだよ。いつものソラらしくない」


「……。」


 だんまりだった。こういうことはあまり言いたくはないけれど、ナツはふと脳裏に浮かんだ言葉を呟いてみた。


「僕はまだ死んでないだろう」


 その言葉を聞いた瞬間、握られた手が更に強く握られる。


「痛いよ……」


「……こうなるって知ってたのに、俺は、何も出来なかった……」


 “こうなると知っていた”というワードに少し疑問を浮かべたが、まあこの際どうでもいいだろう。


「救急車を呼んで、病院まで連れて行ってくれただろ」


「いや、」


「病院だって、ちゃんと主治医がいる病院に変えてくれた」


「たまたまだろ」


「思い出してくれたんだろ、僕があの時のお兄ちゃんだって」


「……確証は無かった」


「――! なんなんだよさっきから! ウジウジウジウジと! けほっ、こほ」


「ナツっ」


「やっと、こっち向いたな」


 まだ完全に治ったわけではない為、今大声を出したおかげで少し胃のあたりの傷を刺激してしまった気がするが、この腑抜けに喝を一発入れなければ気が済まない。ナツは手が完全に解放されたので酸素マスクを取り外し、ソラの頬を両手で包んだ。


「ソラは何も悪くない、助けてくれただろ。……というか助けられた本人がこう言うんだからこれが正解! ね?」


「……うん……! ごめん」


 ソラはやはり泣いていた。


 ――可愛いやつめ。


 コンコンと病室のドアをノックされる。ナツは「はい」と答えると、このタイミングで入室してはならない気がする人物が入室してきた。


「う、魚波先生……」


 ――なんてタイミングだ……!


「ソ、ソラ、僕はもう大丈夫だから! 明日のこともあるし、早く帰ったらどうかな?」


「……うん。少し帰る。また後で」


 その声には元気が無く、ナツは内心汗だくだった。ソラが部屋から退室する際、ソラの父にしてナツの当時の主治医、雅治と彼が何やら話していたように見えたのは疲れの所為だろうか。


 救急車の中でナツが『魚波』と発した時、ソラはもしかしてとは思っていた。いやまさか、という期待も捨てきれなかったことは認める。


 ――最悪だ。


 今一番会いたくない人物がナツの病室へ入ってきた。

 魚波雅治。ソラの父親で、つい先程思い出した、ナツの入院時の主治医だった男。ナツが救急車で運ばれている時、確かにこの男の名前を口にしていた。その時ソラの中で合点がいったのだ。あの時入院していた“お兄ちゃん”がナツであると。

 ナツは知っていたのだ。ソラたち親子のを。その所為か心配そうな表情で空気を読むように退室を促していた。

 そんな彼の必死のフォローも空しく、ソラは大人しくその場を離れる。帰り際、彼は一言父親に対し、こう言い放った。


「絶対に死なせるなよ」と。それに対して雅治はこう答えた。

「勿論だ」と。


 病室から出ると日の光が眩しく感じられた。今まで俯いていた所為でもある。待合室ではカイとリクが座って待っていた。かれこれ5時間以上はこの場にいただろうか。疲れが垣間見えた。カイはぐずぐずと鼻をすすりその目は涙で赤くなっていた。リクはそばでそれをなだめていた。


「カイ、リク」


「――ソラちんっ」


「ソラ、ナツくんどうだった?」


「うん。目、覚ました。多分もう大丈夫」


「良かった……良かったぁ」


 カイはその報告に感激し泣き崩れたが、表情は安堵の様子だった。ソラもリクも少し安心する。とりあえずは、ナツが今日(正しくは昨日)死ぬという最悪の未来は免れたようだ。だが、予断を許さない状況に変わりない。


「はあ……このままじゃ……」


 何を弱気になることがある魚波空。今は、とにかく整理するんだ。思い出せ。10年前はどうだったかを。


「……ソラ。少し、話したいことがあるんだ」


 リクがあの夜と同じように、ソラの目の前に立つ。なんとなく話の内容の予想は出来ていた。あの時は聞くことが怖かった為、逃げてしまっていた。だがもう逃げることはできない。逃げてはダメだ。


 ――覚悟を決めろ、魚波空!


「ああ、なんだっけ。あの時の話しそびれたこと……だよな」


「そう。簡潔に聞くよ。ソラ、じゃないだろ」


「えっ――」


 あまりにも突然のことでソラの思考が止まり、そして当たり前だが、その言葉にソラの心の整理は付いていかなかった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 今なんて……?」


「だから、お前も10年後の世界から来たんだろう?」


「……お前、今……10年後って」


「そうだ。オレも、10年後から今この世界に来ている」


「『オレも』ということは……カイも……」


「そう」


 とんでもないことが現在目の前で起きている、と思う。自分でもそんなことありるのかと思っていた現象を、彼らは既に腑に落としていたのだ。


「どうして、」


「10年前に届いたナツくんからの手紙を、ソラが結婚するって聞いて、これは良い機会だからと思って読んだんだ。……読んだら次にはこの時代に来ていた。カイも、同じだったらしい。この世界に来てすぐに確認したから間違いない」


 ナツに関わったアナザーデイズのメンバー全員が、ナツの死ぬ10年前へといざなわれた。なんてファンタジーだ。頭の理解はやはり追いつかない。


「……ねぇ、ソラちん。ぼくたちどうしてこの世界に来たのかな?」


 いつの間にか手洗いに行っていたカイが戻ってきた。昔から彼は妙に悟くタイミングが良い。ソラたちが今置かれている状況を少なくとも察したところだろう。


「カイ……。そうだな。まずは今までのことを状況整理しよう」


 ひとまずは状況整理だ。ナツの体調はとりあえず回復に向かっている。この場は後にしてロビーにあるカフェに三人は向かった。

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