第8話

「ソラー、風呂が沸いたぞー」


 居間でお茶を頂いているところにソラの祖父、新太郎が来る。


「お、君がソラを助けてくれたっていう子かい。ありがとうね」


「いえ、僕は特に何もしていないんですが……」


「それでもいいんだよ。ソラもソラで反省しているようだしなあ」


「うるせえよ!」


「はあ……」


「もういいから。ナツ! 先に風呂入れよ。俺は後でいいから」


「うん。じゃあお先に頂きます。ありがとう」


 ナツはぎこちなくお礼をし、ソラに教えてもらった風呂場へと向かった。彼にとって服を脱ぐことは正直あまりしたくないものであった。7年前のことを思い出すからである。

 上部のカッターシャツを脱ぐと腹部に一本の線が見える。これはあの日、緊急を要する手術が必要だとされた時のあとだった。これを見る度に、どうしてこうなってしまったんだろうという負の感情が彼を苦しめる。きっと周りから見たら痛々しい古傷の痕。痛みこそないがたまに後遺症なのかひどく痛む時がある。今日がその日ではなかったことが唯一の救いだったと言えるだろう。


「はー……」


 湯船に浸かったのは実に久し振りだった。最近は湯船に浸かる時間が無かったからその温かさに不思議と感動した。これが幸せだと実感する。この幸せは死ぬ時まで心に留めておかないと。生きていると実感できる幸せを。


 ――ああ、そういえば。唯一郎さんに連絡してなかったな。心配しているだろうか。


 ふと、現在の同居人である実の叔父、星川唯一郎ゆいいちろうのことを思い出す。ナツは現在プチ家出を決行している最中なのだ。その為、ある意味最後の砦と言っても過言ではない叔父の家に今は泊まっている。と言っても条件付きだが。


「あ、そういえば僕、今日携帯持ってたっけ」


 思えば今日は色んなことがあった。記憶を辿ると手にしていたものは家の鍵のみでその他の荷物は持っていなかったと今になって気付く。もちろん、携帯もない。


「もういっか。今日くらい」


 何もかも、どうでもよくなっていたナツは気の済むまで湯船に浸かることに集中した。

 気が緩み、脱衣所に戻ると恐らく彼の服らしきものがそこに用意されていた。これを使えということだろうか。少し気が引けたが今は他に着るものが無い。仕方なくナツはそれに着替えた。ほんの少しだけ大きかった。

 居間に戻るとソラが何やら携帯と睨めっこをしていた。あまりにも集中しているようだったので声を掛けようか一瞬迷ったが、とりあえず礼を言わなければと彼の肩を叩いた。


「ソラ、お風呂ありがとう。あと服も」


「ん。顔色も良くなったな。服のサイズは……ちょっと大きかったな」


「いや、そんなことない。いい感じ」


「そか。じゃあ俺もちょっと入ってくるわ。出たら住所教えてくれよ。送ってくから」


「あ、うん」


 少し、残念に思ってしまった自分がいたことにナツは驚きを隠せなかった。自分の心の声に幻滅した。優しさに毒されて甘えてしまうところだったことに悔しさが込み上げる。


「……あほらし」


「夏人くん」


「は、はい!」


 ふいに新太郎に名前を呼ばれた。


「家の人が心配しているだろう。廊下に固定電話があるから話してきたらどうだい?」


「あー……。はい。お借りします」


 歯切れの悪い返事に新太郎は眉を潜める。


「家に帰りたくないのかい?」


「い、いや! そういうわけじゃ……」


「だったらまずは一声、電話をしてやらんとなあ」


 ナツは新太郎に促され、唯一郎に連絡をすることになった。


「本当にいい人たちだなあ」


 これほど心配してくれている恩人に助けられているというのに、その優しさがとても痛いほど嫌になる。だからだろうか。受話器を取ることを、躊躇ためらったのは。


「おや。まだ連絡してなかったのかい」


 今度は美舟がナツに声を掛ける。


「あ……いや……」


「今日はもう遅いから泊まっていくかい?」


「いやいや! あ、お風呂ありがとうございました」


「夜ご飯も食べていくかい? 余りものしかないんだけれど」


「あ、大丈夫です。あまりお腹空いていないので。すみません」


「そうかい。……親御さんにはちゃんと連絡するんだよ。たとえ気乗りしなくても伝えられる時に伝えなければ一生後悔するかもしれないこともあるからね」


 美舟はナツにそう言い残して奥の部屋へと戻っていった。彼女の言葉は全てを悟ったかのようなものだった。心の中に何かがつっかえる感覚がもどかしい。

 しかし人生の大先輩の言うことは聞いておいて損はない。ナツは覚悟を決めて躊躇ったその手を、勇気をほんの気持ちだけ出して受話器を取ったのだった。

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