第6話
星川夏人の人生はいつから狂っていただろうか。
大きく変わったのは7年前、市のピアノコンクールに出場した日のことだ。母親の影響でピアノを始めてから出場したコンクールでは賞を何度か獲得したことがある。
12歳のコンクールの時のこと。手応えのある演奏を終えたと自分でも思う。賞の発表を控えた時なんだか体の様子が可笑しいと感じていた。そしてそれは的中する。急に胃の辺りに激痛が走った。その所為で大衆の目前でナツはそのまま意識を失うことになる。
それが彼の人生の分岐点。狂い始めた時間であり、長い闘病生活の始まりだった。
「おーい、ナツ?」
「え?」
不意に名前を呼ばれ、ナツは現実の世界に焦点を合わせる。そうだった。今は“あの日”じゃない。ピアノコンクールがあったあの日ではないのだ。
この魚波空という少年は自分の名前を知っている。どうして知っているのかは皆目見当もつかない。幼稚園や小学校で同級生だったことがあっただろうか? なんて考える。
「どうしたんだ、急に黙りこくって」
「いや、なんでもないよ。ちょっと考え事。……それより大丈夫? それ」
ナツはまだ名前も知らない彼のことを心配した。出会いが出会いなだけに少し、どう接したらいいのか分からない。人見知りはしない方だと自負していたのだが。
それとナツが指摘したのは彼の手押している自転車のことだった。彼は坂からまるでスキーをしているかの如くスピードを出して更にナツの頭上を飛び越えて川へ落ちたのだ。結構な勢いで川に入ったものだから自転車の前輪と、かごがひしゃげてしまっていた。ぎこぎこと変な音が出ている。
時刻はすでに20時を回っていた。水遊びをするには早すぎる5月に、二人びちゃびちゃになっての帰路である。なんだか馬鹿馬鹿しかった。夜風が制服にあたる。乾ききっていないので酷く寒い。ナツが寒そうな表情をするとソラが申し訳なさそうな顔をした。
「大丈夫に見えるか? 壊れるなんて聞いてねえよ……」
『いや、突っ込んできたの君だよね? 勝手に僕の宙を飛んできて、勝手に自転車を壊したんだよね?』そう言いたくなったが、彼があまりにも分かりやすく気を落としていたのでナツは何も言わずにいた。
「足も挫くし、寒いし、最悪だよ」
「ほんとだね」
とぼとぼと二人は歩いていく。隣で足を引きずっている音が痛々しい。
「そういえば君の名前聞いてないね。教えてよ。なんて呼べばいいのか分からないし、ここで知り合ったのも何かの縁だと思うから」
ソラは一瞬渋ったように思えたが、それはどうやら勘違いだったらしい。
「――ソラ」
「え?」
「魚波空。ソラでいい。俺もナツって呼んでるから」
「そう。じゃあソラ。……うん、その方がしっくりくるね」
「……」
ソラはナツに名前を呼ばれる度、少しだけ表情を曇らせる。
「ねえ、ところで僕たちは今どこに向かってるんだい?」
「俺ん家。濡れたまま帰らせるのもあれだし。近いから寄ってけよ」
「……あー、うん。ありがとう」
ナツは少しだけ答えを渋った。ソラには帰る場所がある。その『当たり前』に本能が気付きたくなかったと後悔していた。
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