毬
増田朋美
毬
その日、杉ちゃんと蘭は、用事があって静岡にでかけた。静岡駅近くの百貨店で買い物をして、さあ富士へ帰ろうかと思ったが、その前に昼食を食べていなかったので、駅の近くにあるレストランへ食事に行くことにした。レストランは空いていた。杉ちゃんたちが案内をされたときは、近くのテーブルに座っている一組の男女と、お母さんとちいさな子供が座っている席し埋まっていなかった。杉ちゃんたちは、その男女が居る席の、隣の席に座らされた。一体誰かなとおもったら、男性の座っている椅子には白い杖が立てかけてあったので、誰だかすぐに分かってしまった。
「あれえ、涼さんじゃないか?」
と、杉ちゃんがいうと、涼さんも声色で杉ちゃんだとわかってくれたらしい。
「どうもこんにちは、今日はどうされたんですか?」
「いやあね、ちょっと買い物にいってきただけのことです。涼さんこそ、ここでどうしたんですか?」
と、蘭が言うと、
「そうですか、僕はクライエントさんとお話をしています。こちらの女性が、そのクライエントさんです。」
と、不自由な目で女性を紹介した。目の不自由な涼さんは、女性の居るところを示せなかった。
「こんにちは。」
と、女性が、杉ちゃんたちに一礼したため、杉ちゃんたちも、
「涼さんの友達なんだ。僕の名前は影山杉三で、こっちは親友の伊能蘭だよ。」
「伊能蘭です。よろしくおねがいします。」
と、自己紹介した。
「ありがとうございます。私の名前は上村詩織と言います、先月から、涼先生にはお世話になっています。」
と、彼女はそういった。
「そうなんだね。涼さんになんか話すってことは、悩みがあるの?なんか全然そんなふうに見えないけど。それとも鍼とかそういうことかな?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「い、いやあ、私は、ちょっと聞いてほしいことがありまして。なんだか自律神経が弱くなっているとお医者さんからいわれましたので。」
詩織さんはそう答えた。
「自律神経ね。なかなか偏見の多いところだが、気を抜かずに頑張ってくれ。」
と、杉ちゃんは言った。
「自律神経とは、それはまた大変ですね。それではなかなか周りの人にも理解されないのではないですか?もしかしたら、変な風に勘違いされて、誤解をされてしまうことだってあるのでは?」
蘭は、心配になってそういう事を言った。蘭という人は、そういう悩んでいる人を見かけると、方っておけない性分なのだった。
「ええ、なんか言いにくいことで、正直、ここでお話するのも、ためらってしまうようなことなんですが、涼先生は、自分は目が見えないから話してしまえばいいと。本当は話さなきゃいけないことなんですけどね。でもどうしても、話せなくて。」
詩織さんは、申し訳無さそうに言った。
「そうですか。じゃあ、ここに居る僕達に話してみたらどうだ。三人よれば文殊の智慧というじゃないか。そういう重たい相談ってのはよ。できるだけ、簡単に済ましてもらったほうが、良いって事もあるぜ。」
と、杉ちゃんにいわれて、詩織さんはどうしようという顔になった。
「それに、リストカットとかそういうのの跡を消したいとか、そういう悩みならば、この蘭にお願いして、刺青で隠してもらえ。」
杉ちゃんにいわれて、詩織さんは思わず、刺青師なんですかと言った。
「ええ、まあ僕に与えられた肩書はそういうことになっております。一応、刺青の師範免許も所持しております。」
蘭がそう言うと、
「そうなんだ。そういう人が来てくださったなら、お話しなければならないですよね。私、娘がいるんです。今、保育園に通っています、五歳児です。娘は、私のことがとても好きですし、私も、娘のことは嫌いではありません。ですが、なんでかわからないんですけど。」
と、彼女はそう言い始めた。
「なんでかわからないけど、娘さんに何かしてしまうんですか?」
と蘭が聞いた。すると杉ちゃんが、
「止めるな止めるな。こんな時、ちゃんと成文化させろ。」
というので、彼女は、申し訳無さそうな顔をして、
「娘を、叩いたり放置したりしてしまうんです。先日、娘が、お餅を片付けないので腹を立てて、娘の頭をものさしで叩いてしまいました。そうしたら、頭を五針も縫う大怪我をさせてしまいました。主人にも、お前はどうかしてる、貴美子にそんな事するなんてとしかられてしまいました。」
ここまでを一気に話した。確かに彼女の話が本当であるのなら、それは大問題である。多分娘さんの名前は貴美子さんというのだろうが、もしかしたら、テレビのニュースで話題になりそうな、事件になってしまう可能性だってありえない話ではない。
「それで、頭を怪我した日、娘さんを病院に連れて行ったのは誰ですか?」
と涼さんが聞くと、
「その日は、たまたま主人が休みだったものですから、主人に連れて行ってもらいました。私は、呆然としてしまって、何も言えませんでした。主人のお母さん、つまり、貴美子にとっては、おばあちゃんですが、おばあちゃんからも叱られてしまいました。」
と、詩織さんは答えた。
「それで、貴美子さんは今どこに?」
涼さんが聞くと、
「保育園に行ってます。」
と、詩織さんは答えた。
「そうですか。では、今日は、貴美子さんを連れて、保育園からお帰りになるわけですね。それもまた大変だと思います。僕は、そういう人を何回か見たことありますよ。別に宣伝しているわけではないですけど、彼女たちは、二度と子供さんに暴力を振るわないために、刺青をして、誓いの言葉を入れるとか、子供にまつわる文様を入れたりしました。そういうことなら、僕もお手伝いできるかもしれません。体に彫るということは、そういう事を長続きさせるためでもあると思うんです。まあ確かに、偏見とか、そういうものもありますけど、昔の人達は、悪事のためだけに入れたわけではありませんから。」
蘭は、にこやかに笑ってそういう事を言った。
「そうですか。私、こんな事を話してしまうと申し訳ないのですが、なんだか嬉しいです。だって、私のしていることに、笑ってくれる人なんていないでしょう。みんな、子供になんてひどいことをするんだと叱るでしょう。それをしないでくれる方なんて、初めて見ました。本当に蘭さん、ありがとうございます。」
詩織さんは、ちょっと涙を見せて、そういう事を言った。
「なんだか、そういう事を言ってくれて、私ちょっと気が楽になりました。私がしたことは、たしかに許されないことだとは思いますが、それを、なんとかしようとしてくれる人に、初めてあったんです。だから、ホント、そういう事を言ってくださって、嬉しいです。」
「いやあね、事実はただあるだけのことだと思わなくちゃ。お前さんが、貴美子さんにそうやってしまうのも、怪我をさせたのも、まずそれに対してどうするかを考えることだよな。それに、善悪の判断は必要ないの。」
「でも大体の人は、それに善悪をつけてしまって、まるで自分が偉くなったかのように言うので、それで確かに傷つくんだと思います。それよりも、どうしたら貴美子さんをものさしで叩く必要がなくなるかを考えましょう。」
杉ちゃんと涼さんは相次いでそういう事を言い合った。詩織さんは、嬉しそうな顔をして二人を見た。
「まずはじめに、事件があった日のことを思い出してみましょうか。貴美子さんがおもちゃを片付けなかったというのが理由だそうですが、おもちゃを片付けない他に、何か気に触る事を言ったりしましたか?」
と涼さんが聞くと、
「ええ、本当に何もないんです。今思えば、何もありません。ただ、貴美子に、おもちゃを片付けてから、ご飯を食べてねといったんですが、貴美子は返事をしなかったため、それで頭に来たんです。そんな事言うと、なんでそんなことで、ものさしで叩くような真似をしたと叱られますけど。」
と、詩織さんは答えた。
「つまり、あなたがおもちゃを片付けるようにと言ったことに、貴美子さんは反応しなかったので、それで叩いた。これで間違いありませんか?」
涼さんがまた聞くと、
「ええ、それに間違いありません。それ以外に事は起きていませんでした。本当です。それ以外に、あの子がちょっかいを私に出した事もなかったんです。口答えをしたとか、そういう事もありません。ただ私は、貴美子が、返事をしなかったことに頭に来てしまいました。私って、異常ですよね。それだけで、貴美子をものさしで頭を五針縫うほどの怪我をさせたんですから。私、おかしいですよね。」
と、詩織さんは、ちょっと苦しそうに言った。
「確かに異常事態だな。頭を五針縫うって言ったら、結構な大怪我だぜ。」
杉ちゃんがそう言うと、詩織さんは、やっぱり、といって泣き出してしまった。
「まあ、泣きたくなる気持ちはわかりますが、次に貴美子さんにそうしない為の対策を考えましょう。まずあなたは、無視をされたことで強い怒りを感じた。これは確かですか?」
と、涼さんは言った。
「はい。そうだったんだんだと思います。それで私は、怒ったんですから。それでは、行けないですよね。私、子育てが面倒だとか、そういう事を思ったわけではありません。でも、無視をされたことに怒って、それで娘を叩いたのです。」
「わかりました。杉ちゃんさんの言った通り、事実は事実で、あるだけのことなんですから、それについて善悪の判断はここではつけないことにしましょう。それよりも、これから、貴美子さんの事を考えていかなければなりませんから、そちらの方へ、コマを進めなくちゃ。」
涼さんは、詩織さんをそう言って励ましたが、詩織さんは泣くばかりだった。それだけ後悔していれば、許してくれる事もあるだろうなと思われるけど、心の傷というのは、本人が進もうとしなければ解決しないのである。
「涼さん、少しだけ泣かせてやってください。今は、思いっきり泣かせてあげることが必要だと思います。」
蘭は、目の見えない涼さんに言った。こういうところは晴眼者に比べると劣るところではある。涼さんは、わかりましたよとだけ言って、少し黙った。
不意に、誰かのスマートフォンがなった。誰のだろうと思ったら、詩織さんのカバンにあるスマートフォンがなっているのだった。蘭が詩織さん、スマートフォンなってますよ、というと、詩織さんは、ああ、すみませんといって、涙も拭かずにスマートフォンを取った。多分相手は、保育園の保育士さんだろうなと思われる、若い女性の声だったが、その内容は、こういうものであった。
「お母さん!いつまで待たせるんですか!今日は半日預かってほしいと言っていたはずなのに、お昼過ぎてもまだ迎えに来ないなんて!」
「あ、ああ、ごめんなさい!」
詩織さんは、急いでそういう事を言った。
「すぐに迎えに参りますから、もう少し待っててください。」
そう言って詩織さんは電話を切った。これではなにも解決法などなかったのではないか、と蘭は思ったが、
「ごめんなさい。保育園から、お咎めが来てしまいました。すぐに迎えに行かなくては。」
と詩織さんは涼さんにお代を渡して、急いで帰り支度を始めた。蘭は、ここで別れてしまうのも、なんだか可哀想だなと思ったので、
「もし、ぐちを漏らしたいとか、そういうことがありましたら、僕のうちに来てください。これ、僕の住所です。多分それを、カーナビの画面に入力してくだされば、すぐに来られると思います。」
と、急いで自分の名前と住所と電話番号を手帳に書いて、そのページを破って彼女に渡した。多分、涼さんに話を聞いてもらうだけでは、解決できない問題だと思った。精神科とか、そういうものにかかっても、薬を出されるだけで、何も根本的な事は解決できないのは、蘭も知っている。それを解決するのは、非常に難しいだろうと思う。
「ありがとうございます。本当に今日は、三人の方に話を聞いて頂いて、嬉しかったです。」
と、彼女はそう言って、急いでレストランにお金を払うと、走って出ていってしまった。なんだか本当に、子育て中のお母さんと言うものは、忙しすぎるなと蘭は思った。何か子供さんを安心して預けて、ゆっくり自分と向き合う暇もないのが、お母さんなのだ。疲れてしまってもしょうがないことでもあった。
その数日後、蘭がいつもと変わらず下絵を書いていると、インターフォンが勢いよくなった。この鳴らし方は杉ちゃんだとすぐに分かった。買い物に行く時間には、まだ二時間近く先のはずなのに、杉ちゃんはもう来訪していた。しかも、別の人物も一緒らしい事は、蘭にもすぐに分かった。この家だと杉ちゃんが説明している声が聞こえたので。
「おーい、蘭。こないだ会った、上村詩織さんが、訪ねてきたよ。お前さんに用事があるんだって。」
杉ちゃんは、蘭の家の玄関ドアをガチャりと開けてしまった。
「こんにちは。上村です。」
と、詩織さんの声もする。蘭は、どうぞ上がってください、というと、じゃあ、上がらせてもらうと、杉ちゃんと詩織さんは、蘭の家の中に入ってきた。
「まあ、素敵なお家じゃないですか。刺青師の方のお宅なんて、もっと怖い雰囲気があるのかなと思っていました。」
詩織さんは、蘭の家の居間をみてそういう事を言っている。確かに、異様な雰囲気もないし、普通の、一般的な人が住んでいる家であった。
「怖い雰囲気はありません。気にしないで気軽に入って来てくれればいいと思うので。それで、今日はどうしたんですか?」
と、蘭は、詩織さんをテーブルに座らせながら、そう聞いたのであった。
「はい、先生に、二度と、子供に暴力を震わせないような文様を彫ってもらいたいんです。」
と詩織さんは言った。
「ああ、そうなんだね。つまりまた、娘さんに、何かしたのかな?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ。主人に叱られました。貴美子が一生懸命話しているのに、なんで無視をするのかって。自分が無視をされたら、あれだけ怒ったのにって。」
と、詩織さんは答えた。
「そうですか。僕は涼さんみたいな、聞くことに専門的知識があるわけじゃないけど、他に刺青を入れにきたお客さんでも、そういう事を話してくれる方はいます。もしかしたら、あなたも無視をされていた経験があったのでは?」
蘭は、できるだけ優しく詩織さんに言った。
「ええ、そうですね。私も、あれから、色々考えたんです。無視をされてあれほど起こることはあったのかなって。思い出すのも苦しくて涙が出そうになりましたが、そういうことだと自分に言い聞かせて、思い出してみました。」
ここで涼さんなら、リラックスして話してもらうために、何か処置を施すのだと思う。体のことで言ったら、麻酔と同じことだ。今、杉ちゃんと蘭がしていることは、麻酔無しで傷口を縫合しようとしているのと同じようなものだった。
「私、父親はいませんでした。母は、男なんて絶対信じないって言ってました。母は、私を育てるために、一生懸命働いてました。昼間は看護師の仕事してたんですけど、私が居るから夜勤なんかはできないから、パート扱いで、それでは足りないから夜は、内職してました。ファイルを組み立てたりとか。私は、お母さんに話したかったけど、邪魔するなといわれて、無視されて、寂しかったということがありました。」
彼女はやっと、傷ついている心の部分を口にした。例えて言えば、腫瘍が現れたようなものだ。
「ウンウン、わかったよ。それでお前さんは無視されて寂しいと思っていたのか。お母さんにしてみれば、お前さんのことを愛していないなんてことは絶対ないと思うよ。そのために内職とかしてたんだからな。お前さんは、偉大なる勘違いをしていたというわけだ。」
杉ちゃんが、できるだけ簡潔にそれをまとめた。
「大丈夫だよ。ただの勘違いだもん。きっと今のお前さんだったら、娘さんが居るわけだし、お母さんがその当時、無視をしていたのも、仕方ないことだったんだなってわかるんじゃない?」
「そうかも知れないんですけど、私は、それがどうしても、思い出すと、ものすごい寂しい気持ちでいっぱいになってしまいます。母は、再婚とか絶対しませんでした。私は、お父さんがいてくれたら、こういう忙しいときに、話し相手になってくれるんじゃないかなと思っていましたが、それは、叶いませんでした。」
彼女は、申し訳無さそうに言った。
「そうですか。それは、寂しかったんですね。きっと、子供時代は善悪の判断などうまくできませんから、強烈な感情として残ってしまったのでしょう。それは、人間であれば誰でもあることです。そういうところが、人間は、機械ではなく、人間であるとも言えるんです。」
と、蘭は、優しく笑って答えた。
「本当に私は、そう感じてしまって、悪い女性ではなかったのでしょうか。周りの人には、なんでそんなに甘えてるんだとかいわれましたけど、それは、関係ないのでしょうか?」
「だから言っただろ。善悪をつけちゃだめだ。寂しかったなら、寂しかったとちゃんと言う方が大事だよ。黙って耐えてるなんて、昔は良かったかもしれないけど、今はそうじゃないからね。」
そういう彼女に、杉ちゃんは、にこやかに笑っていった。できるだけふたりとも笑顔でいてあげることが、彼女を救うことなのかもしれなかった。
「それでは、彫るところはどこにしますか?」
と蘭が聞くと、
「二度と貴美子に手を出さないようにするために、右腕に入れてください。」
と、詩織さんは答えた。
「でも、何を入れたら良いのかはわかりません。私、日本の柄とか、そういう事は勉強したことがなかったんです。」
「ああ、そういうことなら、毬を入れましょう。毬は、昔、幼い年齢なのに、無理やり嫁いでいく若い娘さんに、嫁ぎ先で孤独にならないように、と作られたものなんだそうです。孤独にならないことが、あなたが貴美子さんに手を出さない秘訣だと思うので、それにしましょう。それで、僕は必ず、彫った人には言うのですが、刺青というのは、二度と入れる前の自分には戻れません。だから、それ以上に、より良い自分になれるように努力していってください。」
蘭が、そう言うと、詩織さんは、涙をこぼしながら言った。
「子供の頃私がしたような勘違いは、貴美子にはさせません!」
毬 増田朋美 @masubuchi4996
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