本編第二部 古都の追憶は夏空の彼方へ(ヴォーレ13歳の春)
初顔合わせ
五月のうららかな陽気だ。
ライラックにラベンダー、スイートアリサム……春たけなわのイリュリアでは街中いたるところで花が咲き乱れ、甘やかな香りが漂っている。
窓のからは明るく温かな光がさしこんできて、どこまでも澄みわたる蒼い空が人々を外へと誘うかのよう。
対照的に室内はピリピリとした空気に満ちている。
せっかくの風薫る季節に似つかわしくない肌が粟立つような怖気がして、俺は密かにため息をついた。
というのも、今日はこの国の王太子候補である第一王子、クセルクセス殿下とその側近候補の顔合わせの日なのだ。
窮屈な礼装だけでも息苦しいのに、学園長や侍従長のみならず、王弟マリウス・メリタ・アルディエイ殿下といった高い地位にある大人たちの視線に晒され、値踏みされているような感覚にどうにも落ち着かない。
更に言えば集められている「側近候補」の顔ぶれも気が重くなる一因だ。
無論、側近候補に選ばれるような高位貴族の子弟どうしだ。幼少時から母親たちの茶会などに連れられて全く顔を知らない間柄ではない。
しかし、気心が知れているかと言えばそれはまた別の話だ。
殿下の婚約者であるアハシュロス公爵家のアマストーレ嬢は貼り付けたようなあからさまな作り笑顔が腹の底を伺わせず、同室しているだけで何とも居心地が悪くなるし、彼女の義弟であり
コンタビリタ侯爵家のアッファーリは切れ者と評判の財務大臣マッテオ卿のご子息とは思えぬほど軽薄で、妙に卑屈なところがあるのが苦手だ。
ポテスタース伯爵家のヴィゴーレに至ってはほぼ面識がない。七歳から騎士を目指して修行を始めた彼は社交の場に出る事がほとんどなく、どんな人間なのか見当もつかないのだ。
去年の秋に起きたダルマチアとの小競り合いで手柄を立て、この春に叙任を受けて正騎士として勤務にあたっていると聞いてはいるが、顔合わせの刻限が間近に迫っているにも関わらず、まだ姿を現さない。
(まさか初顔合わせから遅刻するつもりか? 現役の騎士だと聞いているが、存外いい加減な奴かもしれない)
これから五年間、どう考えても波長が合いそうにない人間と共に身勝手で癇癪持ちな性質で知られたクセルクセス殿下を盛り立てていかなければならないと思うと、どんどん憂鬱になってくる。
俺がまたこっそりため息をつきたくなった時のこと。「こつん」と窓から軽い音がした。
いぶかしく思ってそっと近寄ると、窓の下から十歳くらいの赤毛の子供がぶんぶんと両手を振っていた。
「すみません、窓をあけてください!!」
子供は人懐っこい笑顔でそう言っている。不思議に思いながらも窓を開けると、彼は高く飛び上がり、タンッタンッと軽い音が二回響いたと同時に目にも鮮やかな紅い塊が窓から飛び込んできた。
(なんて跳躍力だ。ここは三階だぞ)
どう見ても自分よりいくばくか歳下にしか見えない子供の常人離れした身体能力に俺は唖然とする。
「ありがとうございます。おかげでなんとか間に合いました」
窓から飛び込んでくると言う暴挙に及んだとは思えぬ愛くるしい笑顔と声で礼を言われ、俺はますます混乱してしまった。
(女の子? いや軍服を着ている。まさかこの子がヴィゴーレ・ポテスタース?)
琥珀色の大きな瞳が際立つあどけない顔立ちは高く澄んだ声と
しかし、着込んでいるのは歳に似合わぬ飾り気のない軍服で、黒に近い藍色と銀の縁飾りから第二騎士団の准士官である事が知れる。
「なんだ? ここは山猿の来るところではないぞ」
嘲るような目で子供を見下しながら吐き捨てるように言うアルティスト。
たしかに窓から飛び込んでくるなんて、高位貴族の子弟の振る舞いとは到底思えない。
しかも燃えるような真紅の髪は肩下あたりでざんばらに切られてボサボサで、着こんだ士官服もところどころ汚れたりほつれたりしたままだ。よく見ると顔にも赤黒い汚れがこびりついたままである。
「君はいったい?」
「遅くなりました。第二騎兵連隊第二中隊所属、ヴィゴーレ・ポテスタース准尉です。よろしくお願いします」
彼はかつりと踵を鳴らすと敬礼して名乗りを上げた。きびきびとした動作もはきはきした話し方もいかにも軍人らしく、貴族の子弟として家名を名乗るのではなく、騎士として部隊と階級を名乗る辺りに彼の矜持が伺える。
もっとも、小柄な体格も可愛らしい童顔と変声前の声も、どこからどう見ても騎士……どころか同い年の少年にすら見えない。
むしろあどけなく愛らしい姿や声と、いかにも軍人らしい態度や口調のギャップが何とも言えないアンバランスさを醸し出し、どこか危うげな印象だ。
「時間ギリギリではないか。それに何なんだ、その格好は!?」
学園長が不愉快そうに咎めるのもむべなるかな。
王族に目通りするならこんな普段の勤務用の軍服ではなく、礼服を着用すべきところだ。
にもかかわらず、平服で現れたのみならず、あちこち薄汚れ、髪もボサボサのままなど言語道断の蛮行だ。
「申し訳ありません、急な一斉検挙で総員出動命令が出たものですから。こちらにも伝令が来たはずですが」
答えるヴィゴーレは全く悪びれない。間に合ったのだから良いだろうと言わんばかりの態度に、ついつい眉をひそめてしまった。
「そういう問題ではなかろう。今日は殿下にお目通りになる日なんだ。そんなものは放っておいてこちらを優先すべきではないか」
「お言葉ですが、本官が殿下の側近候補を務めるるのは学園内に限ったもので、原隊の任務を最優先にするというお話だったはずです。本日の一斉検挙はこのイリュリアに巣くった麻薬の密売組織を摘発する大切なもの。一名たりとも戦力を欠くことあたわず、部隊の総力を持って任務にあたるべしとの上官の判断でした」
不機嫌に言う学園長をヴィゴーレは真っすぐに見つめ、きっぱりとした口調で胸を張って言い切る。
王族の側近になることよりも、本来の任務の方がはるかに大切だと言わんばかりの口調に俺は再び唖然としてしまった。
思わず彼の顔をまじまじと見つめるが、彼はあどけない顔に似合わぬ強い意志がこもった瞳で真っすぐに学園長を見据えていて、こちらの視線など全く意にも留めていないようだ。
「しかし……っ」
「まあまあ。ポテスタース准尉はこの首都の治安維持にあたる
なおも叱りつけようとした学園長を片手で制し、マリウス殿下が苦笑交じりにたしなめる。さりげなく家名ではなく階級で呼ぶのは彼の矜持を尊重してのことか、それとも軍の諜報部を指揮する殿下の立場のあらわれか。
何にせよヴィゴーレの身分や家格にはそぐわぬ特別扱いがどうにも面白くない。
横目でちらりと見た限りでは、学園長やアルティストも露骨に不愉快な顔をしていた。
アッファーリは興味津々といった態で眼を輝かせ、他の大人たちやアマストーレ嬢は感情を表に出さないので何を考えているのかわからない。
「その様子だとかなり激しい戦闘もあったんだろう? 怪我はなかったのかい?」
「お気遣いありがとうございます。少々てこずりましたが大事ありません」
殿下の労わるような言葉にヴィゴーレははきはきと答えた。自分の任務に誇りを持っているのだろう。
学園長に対する時の挑むような態度はなりを潜め、瞳を輝かせて素直に嬉しそうにしている。
「しかし、いくら遅れそうだからって窓から入って来たのは行儀が悪いぞ。ここは貴族の子弟が集うところなのだから、学園内ではそれに応じた立ち居振る舞いを頼む」
「申し訳ありません、以後気を付けます」
悪戯っぽく笑って殿下がたしなめると、今度は素直にうなずいた。
学園長に対する時とあからさまに態度が違う。
(学園長に反抗的なのは、それだけ側近になるのが嫌なのか)
やはり身勝手な奴だと思う。それと同時に何を考えているのだろうとも。
俺だって好きで側近候補になった訳ではない。家の都合で父から命じられ、仕方なく来ているのだ。他の二人も、婚約者のアマストーレ嬢だってそうだろう。
クセルクセス殿下と顔を合わせた事は数えるほどだが、尊大で癇性な彼は強烈な選民意識と従兄のイリル殿下への劣等感に凝り固まっている。
どんな些細なきっかけで機嫌を損ねるかわからない我儘王子のご機嫌取りなど、誰もしたくないに決まってる。
しかし、王権が揺らいで内戦にでもなれば、シュチパリアのような小国は近隣諸国やその背後の諸大国にすぐに飲み込まれてしまう。実際、たった50年ほど前までは砂漠の大国オスロエネの実質的な支配下にあったのだ。
だから、多少問題のある後継者であっても安定した政権を築けるよう、有力貴族が側近として支えて行かねばならないのだ。そこに個人の感情が入り込む余地はない。
侯爵家の嫡子である俺も個人の感情を抜きに従わねばならないのだ。
たかが伯爵家の三男坊が、王家からの指名を受けたにもかかわらず、自分の希望と都合を振りかざすなど、赦されるはずがない。
「そろそろ時間だ。せめて髪をまとめておきなさい」
俺の苛立ちを知ってか知らずか、殿下に促されたヴィゴーレが手早く髪をうなじのあたりでくくる。次いでぱたぱたと軍服をはたいてホコリを落とした。
もっとも、あちこちほつれたりおかしなシミができている部分までは直しようがない。
その態度に更に苛立ちが募り、思わず口を開きそうになった時だ。
「シュチパリア王国第一王子、クセルクセス・トスカ・アルディエイ殿下のおなりでございます」
侍従の先触れで扉が開いた。
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