テルマエ・イリュリア(コニー視点)其の一
正式に法務補佐官となってかれこれ1か月。だいぶ業務にも慣れてきた。
今日も割り当てられた書類の処理を終え、なんとか定時で退庁できそうだと内心喜んでいたところ、視界の隅を見慣れた赤い尻尾がよぎった。
「ヴォーレ?」
廊下に顔を出して声をかけると、彼は長い三つ編みを
「コニー! ちょうど会いたかったんだ。明日の日曜日、空いてる?」
足取りだけでなく、声までが弾むようだ。
「ああ、特に用はないが……」
社交シーズンがちょうど終わったばかりの今は毎夜のように夜会が催されることもない。脳内でスケジュールを確認しながら答えると、彼は笑みを更に深くして浮き立つように言った。
「だったら明日一緒に
キラキラと期待に満ちた瞳で見上げられれば否やはない。
「もちろん構わないが……何か法務省に用があったのではないか?」
「あ、もう終わったんだ。次の叙勲で少尉に昇進する事になって。ついでに授爵もするから、その手続き」
彼は三か月ほど前に起きた元王太子クセルクセス殿下の毒殺未遂事件で表向きは殉職したことになっている。その際、それまで受けた爵位も白紙になって「平民出身の平騎士」という建前で原隊に復帰した。
しかし、その後も着々と実績を積み上げて来たので、改めて昇進と授爵を行う事になったらしい。
いずれも書類の上だけとはいえ、めでたい事には変わりない。
「そうか。それではお祝いをしないと」
「うん、だから明日は二人でお祝いしよう」
心から嬉しそうな様子にこちらの心も浮き立ってくる。
「せっかくだからプールで泳ごうよ。この夏は忙しすぎて海に行けなかったから。あとは
瞳を輝かせて指折り数えながらうきうきと明日の予定について話すヴィゴーレ。やりたい事が多すぎて、なかなか決まらないらしい。
この国の
まず最初に
それからオイルマッサージを受けて
熱い湯で火照った身体は
入浴後は談話室で会話やチェスを楽しむのがイリュリア市民の常だ。図書館も併設されていて、ゆったりと寛ぎながら好きなだけ読書を楽しむことも可能だ。
「とりあえず汗が引くまでは図書館で本を選ぶのはどうだ?俺も読みたい文献があるし」
ガラス張りの温室になっている
帰りは劇場で芝居や音楽を楽しんだり、市場をひやかしても良い。
「うん、それから美味しいもの食べよう。ちょうど良い出し物があったら劇場にも寄ろうね。あと帰る前に市場ものぞきたいな」
結局、全部楽しむことにしたようだ。
日頃我が身を顧みずに王都の安寧を守るため無茶な任務にも自ら身を投じる彼のことだ。たまには羽を伸ばすのも良いと思う。
当日、入浴前に軽く汗を流す予定なので運動用の動きやすい衣服を着て、街歩き用の服は着替えとして持って行く。
休日なので従僕がついて来ようとしたが、帰りに使いを出すからと待ち合わせ場所で先に帰す事にした。少し渋い顔をされたが、ヴォーレが一緒だからいざという時の護衛は不要と告げれば不承不承に納得したようだ。
こんな時ばかりはしがらみの多い身分がわずらわしくもなるが、その分大切なものを守る力も持てるのだから致し方あるまい。
待ち合わせ場所ではヴォーレが既に待っていて、俺が馬車を降りるのを認めるとすぐに駆け寄ってきてくれた。
いつだって朗らかな親友だが、今日はひときわ機嫌が良いようだ。
「コニー! 今日はつきあってくれてありがとう!」
「いや、俺も久しぶりに来たかったから。誘ってくれてちょうど良かった」
星をまき散らすかのように輝かしい笑顔を振りまく友人を見ていると、それだけでもう楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
「まずは
「うん、軽くランニングでもしよう。それからマッサージ受けて、
ガラス張りの高い天井に覆われた
南国の花特有の甘やかな芳香が漂う中、ランニング用のコースを軽く一周するとやや汗ばんできた。
「ね、今度はレスリングする?」
正直、現役の騎士の中でも腕利きである彼と組み手をしてもまったく歯が立たないとは思うが、ニコニコと楽し気に誘われては断れるはずもなく。
数秒後。
「もう、コニー隙が多すぎ。いくら護衛がつくと言っても少しは身を守れないと」
「すまん。……しかしお前ほど腕の立つ襲撃者というのもそうそういないと思うぞ」
構えるとほぼ同時に懐に入られたかと思うとなすすべもなく投げられて、そのまま関節をを極められてしまった。彼が何をどうしたのかさっぱり見えなかったし全くわからない。
「筋肉はしっかりついてるみたいだし、鍛錬すればもっといい動きができると思うよ」
「う……善処する」
組み付いたままご丁寧にあちこち触って筋肉のつき具合まで確かめられ、笑顔で言いきられてしまうといたたまれない。
「あれ?ポテスタース……?」
驚愕の混じった声に声の方を見上げると、赤みがかった金髪の長身の男が呆然とした顔で立っていた。たしかウェルテクス・ラハム……軍閥貴族の中心的な存在であるラハム侯爵家の三男坊だ。
俺たちとは学園の同期で、騎士科では首席だったはず。
「そんな……どういう事だ……?」
ヴォーレは幽霊でも見たかのように顔色を悪くしてこちらを凝視する彼の様子に不思議そうに目を瞬かせると、ふと思い至って俺を放して立ち上がった。無論、俺もすぐに立ち上がる。
「驚かせてごめん、そういえば表向き殉死したことになってたんだよね」
「表向き……? 本当は生きていたのか」
ヴォーレが悪戯っぽく笑って言うと、ラハムが呻くように言葉を絞り出した。
なるほど、表向きの発表通りにヴォーレが死んだと思っていたから本当に幽霊だとでも思ったのか。
俺は現場に居合わせて事情を知っているし、いつも一緒にいるからすっかり忘れていたが、全く事情を知らない人間がいきなり出くわせば驚くのも無理はない。
「まぁ、殿下が廃太子になるくらいの騒ぎだったから、誰も責任を取らないって訳に行かないでしょ。……そういう事だから、気が付かなかったことにしてくれる?」
「あ……ああ」
ラハムの顔色は依然として悪い。まだ幽霊だと思っているのか、それとも胸糞悪い上層部の決定に動揺しているのか。
「軍ではよくあることだからさ。次の叙勲まではただの平民の騎兵だよ。もうじき爵位を頂くことになってるけど、ポテスタースの姓はもう使えないから気軽にヴォーレって呼んでくれると嬉しいな」
「なるほど。それでは俺の事はテックスと呼んでもらえないか?」
「うん! 知ってる人は知ってるけど、表向きは死んだことになってるから、僕が生きてるってことは人には言わないでね」
ヴォーレがいつも通りの笑顔で右手の人差し指を唇に当てて言うと、ようやくラハムの顔色も戻って来た。
「ああ、約束する。……それにしてもこれだけ目立つ人間を書類の上だけ死んだことにして始末をつけるとは、随分とお粗末だな」
「それは僕もそう思うけど……処分を決めた人にそう言ってよね。上の決定に逆らえる立場じゃないんだから」
少し頬を膨らませて憤然と言うヴォーレに、ようやく人心地ついたらしいラハムが苦笑を返した。
「そうだ、良かったら少し組手していかない?お風呂の前に一汗かいておきたくて」
「いいのか?俺では全く相手にならんと思うが」
「それは買い被りだよ。稽古のつもりで軽くやってみよ?」
確かに俺ではあまりにも相手にならない。たとえ新米でも近衛の一員であるラハムの方が少しは良い運動になるだろう。
遠慮しながらも向き合って構えたラハムに対し、ヴォーレは自然体で立っているだけに見える。
出方を待っている素振りに、自分から仕掛けるしかないかとラハムはまず掴みかかってみるが、避けるまでもなく軽く手を添えるだけであっさり
ラハムは最後に鋭い突きを放ったが、ヴォーレが突きかかってきた腕にそっと自分の腕を沿わせながら軽く引いてくるりと身をひるがえすと、回転しながら綺麗に投げられてしまった。
尻もちをついたところにヴォーレがいい笑顔で手を差し伸べる。
「スピードもパワーもあるけど、ちょっと無駄が多いかな? 最後の突きはすごく良かったよ。後は避けられた時にすぐ止められるような細かいコントロールかな?」
「格闘もすごいな……これも師匠から?」
確かに学校で教わる通り一遍の格闘技とは全く違う。どうやら騎士科で教えられたものともだいぶ違うようだ。
感心したようにラハムが尋ねると、少し苦笑して間があいてしまう。師匠の話はヴォーレにとっては鬼門だが、何も知らないラハムに悪気はないのだろう。
「違うよ、これはバージル……第四旅団にいる友達に教わったの。一族に伝わる格闘技なんだって。彼、チュルカだから」
チュルカとはシュチパリア北部の山岳地帯に住む遊牧民族だ。第四旅団は王国北部の山岳警備と国境警備を司る。
なぜそんなところに友人がいるのだろう?
そんな彼の疑問を感じ取ったのか、ヴォーレは苦笑したまま理由を説明してくれた。
「僕たち第二旅団は監査もかねて、毎年合同演習で半月くらいあちこち行くから。僕はいつも第四に行くんだ」
「なるほどな。まだまだひよっこで上の人に言われた事をこなすのがやっとの俺とは大違いだ」
「大丈夫、最初は誰だってひよっこだよ。しっかり上司や先輩の話を聞いてきちんと頑張っていれば自然に実力も経験も身について行くものだから」
悔し気に感嘆するラハムにヴォーレがにこにこと言えば、奴の表情もすっきりと明るくなった。
「それじゃせっかく身体も温まってきたことだし、みんなでお風呂入ろう?」
うきうきとヴォーレが誘うとラハムも実に嬉しそうに頷いた。
……もしかして、今日はこのまま一緒に行動する事になるのか?
何とはなしに気まずいものを感じながら、俺も二人に続いて更衣室を兼ねた
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