ピンク頭と夜の虹

 うかつにも月虹亭げっこうていに一人で立ち寄ってしまった僕がまんまとおびき寄せられたと悟った時にはもう遅かったようだ。

 まだ明るい時間のはずだと言うのに、飾り窓の外が真っ暗だ。

 案の定、扉を開こうとしてもびくともしない。


 店内を振り返ると、いつの間にか不思議な光沢のある白いワンピース姿になった店主の女性は、両手で僕の頬を挟むようにして顔をまじまじと覗き込んでくる。

 僕にはいつの間にこんな間合いに入られてしまったのか、全く分からなかった。得体の知れない恐ろしさが込み上げてきて、思わず震えそうになるのを必死で堪える。


「うふふふふ。おびえちゃって、可愛い子。

 大丈夫よ、殺したりなんかしないわ。ちょっと素直になってもらうだけだから」


 ピアスにカフス、ブレスレット……全身に仕込んだ護符がぴしりぴしりと音を立てて次々壊れていくのが空恐ろしい。

 いったいどんな術をどれだけ使われているんだろう。

 この世の魔術の理を超越した存在に、これはただの人間ではないと直感した。


「あらあら、どんだけお守り持ってるのかしら、この坊やは」


 ころころと玉を転がすような、美しくて甘やかだが、多分に嘲りを含んだ声が右の耳から左の耳へと素通りしていく。

 他の音は全く聞こえない。

 心なしか窓の外の闇もひときわ濃くなったように感じられる。


 全ての護符が弾け、頭を握りつぶされるような圧迫感とともに意識が朦朧としていくのを感じる。

 視界がぼやけ、プリズムみたいに輝く女性の瞳しか見えなくなってきた。瞳の中央にぽっかりと空いた黒い黒い瞳孔に吸い込まれそうだ。

 意識がだんだん曖昧になり……


 ダメだ、ここで引きずり込まれたら傀儡になる。

 何をするつもりかはわからないが、コイツの思い通りにさせてはならない。


 おそらくエステルを「転生」させた「女神様」というのはこいつの事だろう。

 何が目的かはわからないが、彼女があれほどまでに他者を陥れ破滅させたがっていたということは、こいつも不特定多数の人の破滅を望んでいるはず。そして、その上で次期国王であるクセルクセス殿下を意のままに操ろうとしている。

 きっと、コイツの横暴を許してしまえば、破滅はシュチパリア一国におさまらず、周辺の国々を巻き込んで多くの犠牲者を出すだろう。

 

「うぁあああああ……っ」


 必死に抵抗すると、頭を万力でしめあげられてるような凄まじい頭痛が襲いかかってきた。

 頭の中で何かがぶちりぶちりと切れたような感覚がある。


「うふふふふ、もうお守りもないのによく頑張ること。

 おねえさん、根性のある子は好きよぉ……」


 舐め回すような粘つく視線がたとえようもなく不快だが、僕はただうずくまって呻きながら辛うじて睨みつけるのがやっとの状態だ。悔しいが敵わない。

 でもコイツに屈するのだけは嫌だ。たとえこの生命と魂を贄に差し出しても、コイツの思い通りにさせてはいけない。


 ぶちりぶちりと僕の中で何かが弾けて、そのたびに生命がすり減っていくのを感じる。自分の無力さが情けない。

 誰でもいいからコイツの企みを邪魔して欲しい。そのためなら僕の生命も魂も、惜しみなく差し出そう。

 どうかこの世界そのもののために、こいつの横暴を止めさせて欲しい。


 この世界そのものにそう誓った瞬間。

 ぞわり、と闇が深くなった。

 苦しい息の下、ぼやけた視界の中で巨大な満月が目に入る。

 ここは室内だったはずなのに、何故……?


 琥珀色の月が急速に欠けていき、それが猫の爪よりも細くなって完全に欠けると、闇に閉ざされるかわりに月が真紅に染まった。

 そして中天から何かがぶらりとぶらさがり……


「その誓い、しかと承りましたよ」


 目の前の女性の甘やかな毒を吹き飛ばすような、涼やかで凛とした声があたりに響くと猛烈な腐臭が鼻を突き、虹色の瞳の女性が凄まじい形相で月を振り返った。


 僕が見ることができたのはそこまでだ。

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