第22話「友だちのうちはどこ?」

 フィクションの映画には、前提条件がある。もし少年が小賢しく濁った目付きの子供であったら、映画の結末のような要領のよい行為をしただろう。ただ、主人公の少年は、性格が無垢であり、何の疑いを持たない純真な目付をした少年なのだ。学校では、先生の怒声を浴び、家に帰れば、母親から手伝いを命じられるが、少年は何の文句も言わず従順に純真な目付のまま従うのだ。

 確かに自分にも純真な目付きの時があったのだろう。今は世間ずれして濁った目付きになってしまったことを思うと、少年の純真な目付きに一種の憧憬を感じ、自分がその時に戻って友だちのうちを走って探す少年を心の中で応援したくなるのだ。

 少年の周りにいる、先生・母親・祖父は、自分の立場を振りかざす、この大人たちの目付は、濁った目をしていて、少年の何も疑わない純真な目付きと対極であることを描写することで一層少年の純真な目付きに引きつけられるのだ。

 友だちのうちを走って右往左往しながら何軒も何軒も探し、人に尋ねると素っ気なくされたり、また親切だけど歩くスピードの遅い老人を相手にしても少年の純真な目付きは何一つ変わらない。少年が友だちのうちを走って探す姿をカメラはじっくりとらえている。日が暮れだす、友だちにノートを返さないと、でも家にパンも買わないといけない、時間の制約の中、走る姿から焦り、息遣いがカメラから伝わってくるのだ。そして、ついに友だちのうちを見つけられず帰宅した時の少年の落胆の顔。

 終幕、少年は学校に遅刻し、先生のノートチェックがドキドキしている友だちに迫るとき、少年は学校に着き、友だちにノートを渡す。この時の二人の満面の笑顔に心が躍った。友だちにノートを返す、ただそれだけが主題の映画が、何故これほどまでの感動を生むのだろうか。それは、少年の純真な目付きに尽きるのだ。大多数の大人達がなくしてしまったもの、純真な目付きであったその時に帰還させてくれたからだ。過ぎ去ったあの日に。

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