第19話「風花」映像と音が物語る
物語を知りたければ、小説や脚本を読めばいい。相米慎二は、映画を作っているのだ。実際、この映画には、物語はほとんど語られていない。スクリーンに映されるのは、カメラを通した役者から発せられる言動、風景と音だけだ。
物語を追うのではなく、ただ役者を見る、風景を見る、音を聞く、それだけで映画から多様なイメージが受け取れる。そのイメージに強引だが心地よく映画の世界に引き込まれ、ただ身をゆだねて作り手のイメージを受けていればいい。
イメージではあるが、役者の身体を通して人間の内面の感情が噴出してる。主人公の二人ともどん詰まりのどうしようもない状況に置かれていることが深く胸に刺さる。苦しさ、哀しさ、心が折れそうになる、死にたくなることを。
ゆり子は、突然死を選択する。しかしそこに何も説明はない。ただゆり子が、この世とあの世をつなぐように舞うだけだ。この幻想的な舞だけでゆり子が死を選択したイメージが伝わってくる。必死にゆり子を探す康司。こんなことで死ななくていい、死に対する二人のイメージの相違がきわだつ。康司は必死になって自殺するゆり子を助ける、康司の死へのイメージの発露が、映像となって現存させる。
映画を観るという事は、作り手のイメージを受けとることなのだ。映画は、脚本に書かれている言葉から監督が映像と音をイメージするのだ。受け手は、作り手のイメージを受け取ろうとするのだ。相米信二のこの映画は、まさに文字を映像と音を見事にイメージし、受け手もそのイメージをしっかりと受け取った、まさに作り手と受け手の幸福な合致を実現させたのだ。
生きることも映画も意味なんてない、存在するのは、ただイメージだけだと言いたげだ。生きていればいいことも悪い事も起きる。悪い事が起きた時には、悠久の自然にいだかれて「休め」、大自然にいだかれて「身をまかせれ」、その後はどのようになるかわからないという無言であるが雄弁なメッセージを発している。それゆえこの映画に救われほっと息をつけれるのだ。
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