第17話「MEMORIAメモリア」自然の神々の歴史の中に記憶は宿る

 登場人物がストーリーを織りなすといった類の映画ではない。一応主人公のジェシカという女性にスポットをあてるが、このジェシカすら存在しているのかあやしくなってくる。ジェシカの出会っている人は、時系列なのか、そもそもジェシカは実在して出会う人と出会っているのか。

 ジェシカが聞く爆裂音は何か、実在しない音、記憶なのか。だが、ジェシカの記憶とは限らない。大通りで信号待ちしていた男性が、爆裂音を聞いて慌てて逃げ出す。ほかの人は、何も感じないでただ立っている。この男性も記憶として爆裂音を知っているのだ。ジェシカだけの記憶ではないのだ。

 では、私の記憶は、私のものなのか。誰の記憶も交じってはいないのか。全く確信が持てない。アピチャッポン・ウイーラセタクン監督のこの映画は、時空を飛び越えてスクリーンに存在しているからだ。エリナンは、映画の時系列描写では、若かった。しかしジェシカの風貌が全く変わらないのにエリナンは老けてしまった。この映画は、時系列でなく時空を超えているのだ。では何故ジェシカは老けないのか。この難問を突き付けられ、ひたすらスクリーンを見つめることしかできない。

 記憶は、どこにあるのか。エリナンの記憶をジェシカは共有していた。何故他人の記憶を共有できるのか。ジェシカもエリナンも映像化されているが、今この時の存在ではないのだ。彼らは、過去において記憶を共有できる関係性にあったのだ。その記憶は、石の中にあったのだ。山の爆発が描写される、過去の話として。ジェシカとエリナンは、その時記憶を共有できる関係性にいたのではないかと想像が膨らむ。アピチャッポン・ウイーラセタクン監督は、一つの提示をする。エリナンが眠るとき、仮死状態になり、その時記憶はない。この眠る、仮死こそが時空を超える原点ではないか。人は死ぬ、しかし、死は一時の眠りだけなのかもしれないのだ。記憶は、人から自然に宿る。映画の後半にかけて、石、木、雲、山、土、川、これら自然は歴史とともにある。緑生い茂る山々、草木に囲まれた川、空に鎮座する雲が奥行を持って迫ってくる。まるで神々が宿っているように。

 記憶は、ある特定の個人が持っているものではなくこれら自然をとおして人間の中に記憶されるのではないか。物事をゼロから作り出す、ゼロから考え出すとよく言う。それでは、ゼロから作り出だす考える素は、何か。それは、自然の神々、八百万の神々からインスピレーション、すなわち神々の歴史の記憶にほかなならい。

 記憶喪失した人はどのようになるだろうか。確かに今までの記憶はなくす。しかし、歩くことも走ることもできる。何故、赤ちゃんのようにハイハイしないのか。そこには、何らかの記憶があるからだ。それが自然・歴史の神々の記憶にほかならないからだ。私達は、今存在しているのか、私の記憶は、私だけのものか、それらの疑問から解き放たれた。私は何者でもない。自然の神々、歴史の神々が私の記憶を現存させているだけだ。そして生きている記憶していると思っているだけなのだ。もうジタバタしなくていい。神々に身をゆだねるだけでいいのだ。じっと自然の神々の声に耳を傾けているだけでいいのだ。

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