第16話「さがす」交差と合致の映画的運動
片山慎三監督は、社会的弱者をとことん描き出す。長編映画第1作目の「岬の兄妹」も徹底的に社会的弱者を見せつけていた。本作も難病に陥った妻をある意味救うために自殺依頼をしてしまう。また、自殺志願者を殺す、あるいは殺してあげるという一種凄惨な状況を設定する。片山監督が仕掛けた映画的運動、そして追っかけをベースにしたスリル、サスペンスを散りばめ、目をそむけてしまうようなバイオレンス、映画を観を終わった後、しばらく席を立てなかった激しい余韻を残した。
娘の時間軸と父親の時間軸、SNS上におけるメッセージのやり取り、父親のスマートフォン、これらが交差しつつ合致した時に物事が起きるという映画的運動がしっかりと映像化されている。
娘の時間軸では、失踪した父親をさがす。娘は、探し人と交差した後、卓球場で合致、探し人は逃げる。娘は、自転車で狭い道を猛スピードで必死に追う疾走感は物凄い追っかけのスピードであり、なんとしても捕まえるという娘の執念が伝わってくる。探し人には逃げられるが、ただ父親のスマートフォンは手に入った。
父親の時間軸では、妻のリハビリセンターである男と交差する。妻の苦悩を取り除くために男は妻を殺してやると言う。2人が合致して妻殺しを依頼し妻は死ぬ。合致した二人は、父親が数人の自殺志願者をSNSで集め、志願者と男が合致した時8人もの大量殺戮が行われ、この男は歪んだ殺人鬼であったのだ。この映画は、まさに交差と合致の運動から成立している。さがすという行為は、様々な物事と交差しながら合致した時完結し、快感を得るのだ。
父親は、殺人鬼に協力したことを隠すため自分で殺人鬼を殺す計画を立てる。この時から娘の時間軸と交差しつつ父娘の時間軸が同期し同じ場所で父親が殺人鬼・娘の探し人を殺した現場を目撃する。ただ予期していなかったことは、父親が自殺志願者も殺してしまい、「ありがとう」と言われ、自分自身も自殺志願者を殺す合致という行為に手を染めたことだ。この殺戮のシーンは、殺人鬼への憎しみと自殺志願者への憐憫さ両面をかもしだしていて、単なるバイオレンス描写ではないことに一種の救いがあった。
冒頭の父娘が暮らすシーンは交差しているだけで、父親はすぐに姿を消す。父娘の合致は、事件が全て解決した後だ。娘はある疑念から父親のスマートフォンで自殺志願者としてSNSで発信する。即座に返信が来て、殺してあげるという行為に合致した父親はぶらりと出かける。この父親の行為が身の毛もよだつほど怖い。一度殺しをして、感謝されたときに得た「合致の快感」を忘れられないという心理がだ。返信した相手は、父親だと娘は確信する。卓球場で父娘が、ラリーをしている。何回も何回も父娘の間をピンポン玉は交差しながら父娘は会話を重ねる。やがて鳴り響くサイレンの交差音、その音はどんどん大きくなる。想像しかできないが、このラストシーンの合致は、交差と合致の運動を秀逸に描き出し、逃れられない感情の発露にうめいてしまった。
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