クロスワード

 ランチにしては遅く、昼下がりには早い。日銭稼ぎのライターが高等遊民を気取るには高尚すぎるカフェテリアで、おれとマルセルはテラス席に腰を下ろした。仮にマルセルと出会わない人生があれば、一生のうちに一度以上は座らない席だろう。


「……おい、ほんとに奢りでいいのか?」

「いまさら何? 約束したでしょ? まぁ、最初の貸しを返してくれてもいいけど」


 ここぞとばかりに勝ち誇るマルセル。近づいてくるウェイトレスの気配はお屋敷で過ごすメイドのそれだ。悔しいが貸しを作ったままではいられないらしい。


「お決まりになりましたら、お手数ですが……」


 小鳥が囀るような声調で話し始めたウェイトレスは、パン、と軽やかに両手を打った。


「もしかして、『網の目』のマルセル様ですか?」


 マルセルはメニューを受け取ったばかりの手を空中に留め置き、小首を傾げた。


「えっと……?」

「ああっ! ごめんなさい! うちの店主がマルセル様のファンで……もしよろしければ少しお時間を頂けませんか!?」


 その言葉に、おれは微かな違和感を覚えた。『網の目』はメジャーな新聞ではない。そのうえ記者の名前を知っていたとしても、顔まではわからないはずだ。

 しかし、ウェイトレスからは敵意も殺意も感じられない。あの日から今日まで、いざとなったら躰を張ってでも守るつもりでいるが、


「……マルセルを貸すのはいいんだけどさ、なんか特典あんの?」


 とりあえず冗談めかして真意を尋ねた。ちょっ、とマルセルが身を乗り出す。

 ウェイトレスは、にこやかに腕を広げた。さぁどうぞこちらに。そう言わんばかりに。


「ウチのお店、カウンターに『網の目』を置いているんです。もし宜しかったら……」


 答える気はないらしい。目を合わせた瞬間、ウェィトレスは心配するなと頷いた。


「……行ってやれよ、マルセル。ファンサービスなんて初めてじゃね?」


 おれの言葉に、マルセルは心外と言わんばかりに肩を怒らせた。


「デックスのおかげで、二回目ですけど?」

「……ああ、まぁ……なんだ。読者は大事だろ? お互いにさ」

「……そうね」


 マルセルは大きく肩を落としながら息をついた。


「それで、どこに行けばいいの?」

「はい♪ マスターはカウンターに入っていますので、是非♪」

「はいはい。デックス、なんでも好きなの頼んでくれていいから」


 そう言ってマルセルは席を立ち、店内へと歩いていった。おれはウェイトレスに渡されたメニューを見ながら、尋ねた。


「……見てもどんな料理か分かんねぇや。お勧めがあったらそれをくれ」

「かしこまりました♪ では、まずこちらをどうぞ♪」


 ウェイトレスは封蝋のついた便箋をテーブルに置き、去っていった。


「……なんだ、これ?」


 聖教会が用意したのだろうか。それとも、おれの予想が間違っていて、ご存命のカーライルが寄越したのか――。

 封蝋に刻まれた印章は、おれの左腕にある刻印と同じ、白樺の枝で描かれた梟だ。

 おれは手の震えを押さえ込みながら開いた。一枚の上質な便箋が入っていた。白い正方形のマス目が十字を作り、交差するマスから斜め下方へと黒塗りのマス目が伸びている。例えるなら、聖教会式の、五枚の花弁を模した墓標が近いだろうか。


 墓標のすぐ下には大きなクエスチョンマークがあり、ヨコの鍵、タテの鍵と称する文章がある。クロスワードパズルだ。難易度で言えば豚でも解ける――ブタトケレベル。


 ヨコの鍵は『見たものを伝える者の名』。

 タテの鍵は『シンジツを伝える新聞の名』。

 おれはツールバッグを探り、鋼鉄ペンにインクを吸わせた。


「お久しぶりね、デックスさん」


 背後から聞こえた声に、おれは危うくペンを取り落とすところだった。すぐに首を振ろうとしたが、それを牽制するように今も耳に残る穏やかな声が続く。


「振り向かないようにね?」


 記憶をたどるうちに、おれは笑っていた。


「ジョー婦人?」

「だった者。かしら」


 ジョー婦人だった者。彼女はすでに死に、この世にいない。はずだ。

 おれは声が上ずりそうになるのをこらえながら尋ねた。


「どうして、ここに?」

「デックスさんが記事を書いてくれないから、かしら。どうして死人に遠慮をしているの?」

「遠慮というより、迷っていた、という感じです」

「とっても、デックスさんらしくない。カッコ悪い。すぐに書くべきね」

「ご忠告ありがとうございます。しかし――」


 いったい誰の手を借り、どうやって生き延びのたのか。誰の手から逃れたというのか。

 背後から聞こえてくる声は楽しげに言った。


「デックスさん、手が早いのね。普通だったらお小言をいわなきゃだけど、今回ばかりは手の早さが良い方に向いてしまったみたい」

「手の早さ、ですか?」

「郵便局の女の子、覚えてる? デックスさんの容疑が晴れたのはあの子のおかげ」


 郵便局の子――ホーヴォワークを立つ前の夜を共に過ごし、おれとマルセルが街を離れるのを知っていたひとり。ジョー婦人殺害の嫌疑を晴らすには彼女の証言が不可欠だ。


「……でも、どうやって?」

「デックスさんったら。お忘れかしら? もうおばあちゃんだけど、私は雪狐と呼ばれた狩人なの。考えてみて。今の子たちが、を見破れると思う?」


 不覚にも、おれは笑ってしまった。

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