便利な世の中

 郵便局は無人だった。隊長は勝手知ったる様子でカウンターの奥に通し下へ進んだ。後ろ暗いことをするときは地の底だ。転移魔法で移動させようというのは分かった。


「やったな、マルセル。転移魔法を体験できるらしいぜ?」


 おれは首を後ろに振った。マルセルはぎこちない笑顔を作った。怯えを必死に隠そうという笑みだ。必ず守ると約束したのに、なんでそんな顔をするのか。分からない。


 地下は古式ゆかしい魔術的空間だった。

 王都の図書館のそのまた奥底でカビ臭くなった本に描かれているような魔法陣、囲む十七人の黒ローブ。勇者が利用していた転移魔法を常人の身で再現するための構造だろう。


 おれとマルセルは魔法陣の中心に立たされ、その周囲をにわか兵士が囲んだ。

 隊長が他の連中に目配せし、おれの短剣を吊るベルトを携えたまま、正面に立った。


「……あんたも一緒に来るのか?」

「……ああ。おかげで、私も人生初の体験ができるよ」

「なら、おれに感謝だな」

「それはもうしてる」


 隊長が言い切るかどうかというとき、黒ローブの詠唱が始まった。舞台上で胡散臭い司教役が物語るとき流れるコーラスのような低音。忌々しいことに、鼓膜の震えに応じて眼球の奥を掻きむしられるような痛みを覚えた。

 音圧で揺れる空間の只中で、ふいに隊長が顔を近づけ、おれのツールバッグを撫でた。


「聞けウイットネス。ダスキーヒルを出たのは七人、帰ってきたのは四人だ」


 なんだって? 思わず顔をあげると、空間が歪んだ。まるで荒海に乗りでた船旅だ。船になんて乗ったこともねぇけど。足元が波打ち、躰が引き伸ばされ、瞬く合間に千切られる。意識と躰が風に吹かれた細雪のような細な粒となった。息が詰まった。吸い方が思い出せない。呼吸とはどのような行為か。最悪だ。崩れていく意識の中でおれは思った。


 単純な罠だったのでは。


 恐怖に捕まりかけたとき、目に光が戻った。歪んだ空間が瞬時に形をなし、意識が頭に固着し、肺が息を取り込み、酒精が勢いよく躰をめぐり、おれは吐いた。


「……最悪」


 マルセルがこめかみを揉んでいる。頭上から隊長の重苦しい息が降ってきた。


「二度とやりたくない……が、私はもう一度だな」


 言って隊長は背を向け、待ち受けていた銀仮面に黒服を合わせた間抜けな仮装行列の先頭に、おれの短剣をベルトごと渡した。


「武器はこれだけらしい」


 先頭の銀仮面が頷き、後ろに目配せした。黒頭巾を携えふたり組が近づいてきた。 

 ふたり組は一言も発さずにおれの頭に布を被せた。マルセルの小さな悲鳴が聞こえた。


「今、おれの相棒に悲鳴を上げさせた奴。てめぇは殺す」


 言った瞬間、襟首を捕まれ、おれの腹に拳がめりこんだ。思わずうめいた。情けない。


「てめぇも殺す」


 もう一発、腹を打たれた。こいつは今ぶっ殺す。そう内心で決めた。おれは拳の持ち主を手繰った。微かな呻きが聞こえた。おかげで頭の位置が分かった。


 おれは秒以下でクソバカの首に腕を絡めた。黒服たちがどよめいた。いい気分だった。腕に力を込めると、顎に拳が飛んできた。脳が揺れた。おれは構わず捻った。腕の中でボグンと頭が弾んだ。目の奥で火花が散った。


 罠にハマりつづけるには都合がよかった。


 黒服が大騒ぎしていた。ざまーみろだと思った。四方八方から足がすっ飛んできた。全身を毬のように蹴り回され、意識が遠くなった。大したものだとでもいうような隊長の微かな笑い声が聞こえた。マルセルがやめてと叫んだ。


 黒服は全員ぶっ殺す。おれは決めた。蹴りは止まらなかった。一発ごとに躰が軋んだ。心置きなく殺れると思うと笑いが止まらなくなった。誰かが力任せにおれを引き起こし、背中を突き飛ばすようにして歩かせた。


「ぶっ殺してやる」


 呟くたびに頭に衝撃が走った。口から粘る液体が散り、黒頭巾の内側が鉄臭くなった。よろめきながら階段を昇ると、生暖かい空気が肌に触れた。昼と夜の合間だ。鼻血が吹き出し詰まっていたが、それでも分かるぐらいはっきりと、安っぽい脂の匂いがした。


 ラードで揚げた厚切りベーコンにベーコンエッグを乗せ、重ね焼きしたベーコンで包み、パンみたいに分厚いベーコンにバターをたっぷり塗って挟んだ地獄直行便の匂いだ。

 

 便利な世の中になったとおれは思った。

 クソムカつくのは、便利な世の中で馬車に乗せられる不自由さだった。酒と転移と馬車が混ざり、血反吐混じりのゲロを吐きそうだ。それでも、おれはほんの少しだけ安堵した。


 頭の端っこに隊長の言葉が残っている。

 ダスキーヒルを出たのは七人で、帰ってきたのは四人。

 彼は見ていた。勇者が魔王討伐に出立し、三人の仲間を失って帰ってくるのを。


 死んだのは誰だったのか、いずれ聞きに戻ってもいいだろう。

 たったひとつの楽しみがひとくさりの不愉快を忘れさせてくれる。

 傍らの幽かに震える気配に、おれは声を張った。


「どうだマルセル! これが俺の取材だ!」

「……話しかけないで。今、記事の草案を考えてるの」


 おれは爆笑した。馬車を操る黒服も、同乗している黒服も、別の馬車でついてきている黒服たちもがぎょっとした。

 きっとしていた。

 じゃなきゃ、嘘だ。

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