そうだ、墓地に行こう。
恐怖というのは病気の一種だ。だが、臆病神に憑かれるなどと言うように、人々は恐怖が自らの外側にあると思い違いしている。人生で一度しか罹らない病があるように、一度でも極限の恐怖を体験すれば、二度と足は竦まなくなる。
問題は、極限の恐怖とは、何か。
それは死すら生温い悍ましきもの――。
「――人間ってのは、真の悪を目の当たりにしたとき恐怖に罹らなくなるのさ」
「……またワケ分かんないことを……それじゃ、その真の悪ってのはなんなの?」
マルセルは器用にも片手で馬の手綱を操り、もう片方の手で顔を覆った。疲労の色が濃く見えるのは気のせいじゃないだろう。
「ていうか、逃げるんじゃなかったの!? これ、どこ向かってんの!?」
「言ったろ? 墓地だよ、墓地」
村の共同墓地。それも聖教会式ではなく、土着信仰で眠りの森と呼ばれていた場所。
おれは振り落とされないようにマルセルの腰に腕を回した。細いが、やわっこかった。
「真の悪ってのはなかなか難しいお題目なんだが……もう分かってるだろ?」
「知るか! っていうか近い! そんなにぎゅっと掴むな!」
「勘弁してくれ。マジで怖いんだ。なんか話してないとおれが吐く」
「ちょっと!? そのまま吐いたらマジで振り落とすからね!?」
「分かったから、話を続けてくれ」
おれはこみ上げてきたものを飲み下し、腕に力を込めた。
ぞぞぞ、とマルセルが背筋を伸ばし馬が不満げに首を振った。
「ああもう! 真の悪!? どうせ聖教会とかいうんでしょ!?」
「惜しい。聖教会ってのはかなりの悪党だが、結局は組織だ。何かの集合体ってのは真の悪にはなりえない。小賢しい思考を寄り集めたら黒く見える、そんな感じだよ」
マルセルが手綱を引き、馬が鼻息を散らしながら歩様を緩めた。
「……じゃあ、何?」
答えは分かって聞いてます。そんな感じだった。
おれは背後からマルセルの鎖骨に顎を埋めて唱えた。
「勇者カーライル」
「言うと思った。ていうか、ほんとに近いって」
マルセルは首を捻っておれの頬から逃れた。
「だったら、なんで私はまだ怖いの? カーライル様なら取材で何度も見てるのに」
「なかなか良い質問だぞ、マルセルくん」
おれは甘い香りを追って頬を寄せた。マルセルの仰け反りが強まった。
「それは多分、マルセルの見てきたカーライルってのが、全部ニセモノだったんだろうよ」
――沈黙。
マルセルは手綱から片手を離し、おれの額をぺちっと叩いた。
「マジで、ちょっと離れて。やばい」
「何がやばい?」
「やばいもんはやばいの! っていうか! あれじゃないの!?」
マルセルが真っ赤になって怒りながら馬の鼻面の先を指差した。雪林の隙間に比較的若い木々が生え、その奥に、
「――クッソ、あいつら……聖教会式の墓なんぞ建てやがって」
遠目に見ると巨大な蛾のような、五枚の花弁をモチーフにした墓標が建っていた。台座にはまっすぐ花弁を広げる花が供えられ、雪も払われている。前にいた盗賊を埋めたというのもあながち間違いではないのかもしれない。
「……つっても、宗派くらいは考えてもらいたいもんだよ」
おれはボヤきながら馬を降りた。
マルセルがおれと馬を見比べ、墓を眺め、嫌そうに言った。
「……なんで、お墓なんかに来たの?」
「なんかとはなんだよ。死者を敬うのは聖教会だって同じだろ」
「それはそうだけど……」
何やら歯切れが悪い。見ると、マルセルは表情を固くしていた。体調不良、疲労、苛立ちに不満に――あとは何があるだろうか。
「村に残れば追手が怖い。ハルメニーに戻っても夜明けは遠い。だったらここで夜を明かして日が昇る頃に戻るのが一番いいだろ」
「そ、そうだけど……そうだけどぉ……」
「何モジモジしてんだよ、らしくねぇ」
マルセルは一瞬ムッとした。
「……ご、ゴーストとか、出ない……?」
「……マジかよ。そんなんが怖かったのか?」
「な、何!? 悪い!?」
突然の咆哮に馬が鼻息を立てながら前足をあげた。マルセルが慌てて手綱を引いて馬をなだめる。おれは、また少し安堵した。人殺しと夜を過ごすのは怖いとか、『仲間』を呼べなそうで嫌だとか、そういう理由ではないらしい。
「幽霊だのアンデッドだのが怖いってんなら安心してくれ。ちゃんと出るから」
「ああ、よか……よくない! 出るの!?」
「出るよ。おれもガキの頃に見た。っていうか、話したし色々と教わった」
「はぁ!? ちょっ――」
「でも、おれは生きてるだろ?」
「えっ」
マルセルは難しい顔をして言った。
「それは……そうだけど……」
「聖教会で幽霊をどう教えてんのかしらねぇけど、おれの村じゃ遠い親戚だよ。穢れた魂は別のモンに姿を変えちまうから幽霊になって出てきたんなら正常。怖がるのは失礼だ」
「えっ……えぇ……?」
「ホントだよ。おれはここの幽霊に人相手にどう戦えばいいのか教わったんだ」
「……ちょっと、やめて。っていうか、デックスも嘘吐くんじゃない」
「はぁ? だから嘘じゃないってっての。曾祖父さんの大叔父だって言ってたぞ」
「…………だから、やめて」
マルセルは両手で顔を覆った。なにひとつ嘘は言っていないのだが――まぁ、いい。
おれはマルセル(と馬)を連れて墓地に入った。
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