黒い蓮

 マルセルのところに戻ると、彼女は両目いっぱいに涙を溜めていた。


「で、デックス……あ、あ、あな、た……」


 浅い呼吸。見るまでもなく怯えているのが分かった。状況にではなく、おれにだ。


「無事か? 怪我は?」


 こういうとき、すぐに近づくのは得策ではない。まずは自分の無事をたしかめさせ、自分が生きているという事実と、自身の置かれていた状況を理解させる。 

 狙い通り、マルセルは自分の躰をあらため、辺りを見回し、両目を強く瞑った。震える喉でゆっくりと息を吸い、吐き出す。そして、嘔吐した。これもよくある反応だ。

 おれはマルセルから少し離れて膝をつき、呼びかけた。


「怪我してねぇか? それだけ教えてくれ」

「……大丈夫、みたい」


 マルセルは苦しそうに喉を鳴らし、弱々しい笑みを浮かべた。


「ごめん、デックス。助けてくれたのに」

「気にすんな、マトモな証だ。死体は見なくていい。立てるか?」


 こくりと頷き、マルセルがゆっくり息をしながら立った。血の匂いにやられたらしく、また吐いた。口元を拭い、叩きつけるようにして銃を置いて言った。


「こんなんじゃ、ダメだ……!」

「ダメじゃねえっての。慣れてるほうがおかしいんだよ、実際」

「……じゃあ、なんでデックスは慣れてるのよ……」


 おれは苦笑した。


「戦災孤児の嗜みだよ」


 おれはバズギーの躰を仰向けにした。肩周りと腕がよく鍛えられており、腹も出っ張ってない。衣服は獣臭いが、汚れは自分でつけたものだろう。


「……武器は上等、ひとりを除いて訓練もされてた。若いのは経験に乏しい……若いのだけじゃないか。こいつもだな。王都の兵士――特別な訓練を受けたやつ……」


 バズギーの両袖をまくった。異常なし。首筋。垢の筋すらない。

 マルセルがじれったそうに言った。


「――それか、なんなの?」


 靴を脱がしズボンの裾をめくると踝のすぐ上に、花をモチーフにした刺青があった。


「花の刺青がある――ってことは、聖教会だったりしてな」

「聖教会!? 花の刺青があるからってそんな――」

「元・軍人なら、すぐに見せられるところにいれる。仲間に見せるからな。聖教会の敬虔な信徒は終生を神の僕として生きると誓い、証に墨を入れる奴がいる。そうだろ?」

「それは、そう、だけど――ッ!」


 マルセルは言葉を切り、後ろに転がる男のズボンの裾をまくりあげた。思ってたよりタフなのか、単に聖教会批判を受けて奮い立ってるだけなのか。黙っているのが怖かった。


「……どうした? そっちにもあったか?」

「……ある……嘘でしょ……? そんな……」


 マルセルは何も言わずにこちらに来て、バズギーの刺青を見て深く息をついた。


「……これは蓮の花。蓮は汚泥に根を伸ばして、花を咲かせたらすぐに散ってしまう」


 マルセルは目眩をこらえるようにテーブルに寄りかかった。


「蓮の根は泥の下で繋がってるの。だから結束の強さを示す。葉は水を弾く。汚泥にまみれても汚れない絶対の信仰に例えられることがある」


 気づけば、おれの手は血返しの短剣に触れていた。予言の発祥は違えど穢を嫌うのはどこも同じだ。血返しの短剣は穢れた霊魂を地に返すとされるが、聖教会でいう穢とは。

 おれは喉の乾きをおぼえ、舌先で唇を湿らせた。


「……聖教会にいるだけで植物学の権威になれそうだな」

「薬草の提供は聖教会の役割のひとつだから、ありうるかもね」


 マルセルは両肩を抱くように腕を組んだ。


「――でも、この蓮はちょっと違う。花弁が黒く塗りつぶされてるでしょ? だから、もしかしたら、黒蓮なのかもしれない」

「だったらなんだってんだ?」

「黒い蓮なんて見たことある? 私はない。でも、聖教会が印章として正式に採用している花は、古代の聖人たちの逸話にまつわる花って決まってる。全部実在する花なの」

「……正式に? じゃあこいつらは非公式の教徒ってか?」

「信仰に正式も非公式もない……って言いたいけど、聖教会も内側にはいくつも違う宗派を抱えてる。いくつか認められてないのもあるのは事実ね。……蓮はずっと南の土地の花で、王都のあたりには自生していないから……」


 蓮の植生に興味はない。だが、象徴学の話なら別だ。

 水仙を象徴に定る聖教会は、五枚の花弁になぞらえて五という数字を多用する。位階の最高位たる教機につくと水仙を意味するダフォディルに名が変わるが、その下に五つの補佐機関があり、枢機卿とも称される機関の長五人もまた五枚の花弁をもつ花の名に変わる。


 刺青の蓮の花弁は五枚ではきかない。何十、何百という花弁の集合体。五を象徴に据える癖がある聖教会において、蓮は正統な花とはいえないだろう。


「聖教会のルーツは王都よりずっと南だろ?」

「そう。聖教会を中心に見ると、王都は大陸の北端にある。……蓮の花は、ルーツよりももっと南の花。デックスの葉巻なんかを栽培してるあたりかな」

「葉巻。そりゃだいぶ南だな」


 ずっと昔、少々想像力が逞しくなりすぎたファンからもらった投書を思い出した。


『魔王なんて存在しない。すべては聖教会が支配地域を広げるために仕組んだ……』


 バカバカしい、と笑えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る