若いワイン
おれの前のカップが赤い液体で満たされると、バズギーが満足そうに頷いた。
「さぁ、やってくれ、『網の目』のデックスさんよ」
「やってくれって言われてもな。お祈りはいいのか?」
おれがマルセルに視線を送ると、彼女は慌てて姿勢を正した。
「え、えっと……必要なら、私が……」
声がカチコチに固まっていた。右隣にいた男が、彼女のカップのすぐ脇に何かを叩きつけるようにして置いた。ビクン、とマルセルが首を窄めた。拳銃だった。
脅しているのか。からかっているのか。どちらでもいいが、
「あぶねぇな。ホイールロックは精密機器だぞ? 壊れたらどうすんだ」
おれの真っ当すぎる指摘に、バズギーがやけに白い歯を輝かせた。
「だな。――気をつけろ。食前に別れの祈りは捧げたくない」
男がこちらを睨みながら頷いた。おれはツールバッグのベルトを外し、食卓に上げた。慣れ親しんだ鞄だが、動き回るにはどうしたって邪魔だ。
おれは鋼鉄のペンと手帳、シガーケースを出した。誰も止めようとしなかった。記者としか聞いていないのだろう。どうでもいい。
「乾杯の前に仕事道具を広げるのか?」
バズギーが言った。おれは葉巻を咥え、やるか? と差し出した。彼は首を横に振った。盗賊のくせに、葉巻は悪徳とでも思っているのだろうか。
おれは身を乗り出し、食卓に置かれた燭台を取った。背後を固めていた男が一瞬、反応した。男たちの意識はおれたちの拘束よりバズギーを守る方に向いているのだろう。
葉巻に火を灯し、一度、二度と煙を吹くと、マルセルの左隣にいた男が顔をしかめた。
「悪いね。葡萄の香りは好きでも、酒の匂いは苦手なんだよ」
「それじゃワインの味が分からないだろ?」
バズギーが言った。
おれは鋼鉄ペンの先をインク壺に浸し、手帳に速記した。
死ね、と。
「分からなくたっていいんだ。酔っぱらえればいんだから」
おれは一息にワインを呷った。若いワインによく似た強い渋みがある。舌先に感じる痺れは酒精由来ではないだろう。特別なんだろうが、決して美味いといえる銘柄ではない。
バズギーが唇の片端をあげた。
「さぁさぁ、お嬢さんも」
「えっ、あっ」
マルセルが弾かれたように顔をあげ、カップとパズギーの間で瞳を忙しく動かす。
「飲め、と言ってるだろ? 飲めよ」
マルセルの右隣の男が言った。さっき脅しをかけた奴だ。二分後に殺すと決めた。
おれはバズギーに顔を向け、細く煙を吹いた。眠たい煙が食卓の上で散った。
「とにかく、さっさと取材を始めたいんだが、いいかい?」
「殴ったのを怒ってるなら、あれはアンタが悪い。だろ? まずは食事だ」
「食事はいい。マズそうだしな。それより取材をしたい」
「まだひとり乾杯がすんでないぞ?」
言って、睨むバズギーに、マルセルは喉を鳴らしてカップを掴んだ。
おれは葉巻を強く吸い込み、細く、長く、煙を吐いた。
「飲むなよ、マルセル。何か変な薬が入ってる」
え、と手を止め、マルセルがこちらを見た。ほとんど同時にバズギーが言った。
「何を言うかと思えば……心外だよ。こっちは饗してやっているのに」
「上品な言葉を知ってんね。だったら銘柄の分からない酒を出すんじゃねえ」
おれは葉巻の煙を吹き、吸いさしを真鍮のカップに突っ込んだ。
「若いワインを特別と称するのは売ってる奴だけ。人に出す特別はもっと丸い」
「……悪いな、盗賊稼業なもんで客に酒を出すってことが少ないんだ」
「そう思ってるなら世間知らずだ、バズギー」
おれは鋼鉄ペンの先をインク壺に浸し、特別な没食子インクをたっぷりと吸わせた。
「まぁ、全部が全部あんたのせいってわけでもないさ。あんたの設定を作ったやつも相当なバカだったか――取材が甘かったんだろうからな」
「……なんだって?」
「あんたのエスリン語、綺麗なもんだ。ちゃんとした教育を受けてる。発音を消すのは難しいからな。お偉い軍人さんから盗賊に落ちぶれた、って感じの設定だろ?」
「……なんだって?」
「まぁ聞け。おれは王都のクソみたいなアパートで暮らしてんだけどよ、上の階にそういう奴が住んでるんだ。あんまし仲良かねぇが、家にあがると、美味いワインを出してくれんだ。家ン中はボロボロ、本人もヘロヘロ、なのに客には見栄を張る。そういうもんなんだ、イイトコまで昇った軍人様ってのは。設定こさえてる奴にも教えてやってくれ」
バズギーの気配が鋭さを増した。それと察したかマルセルが手にしていたカップを恐る恐るテーブルに戻した。
「ただまぁ、あんたも悪いぜ? いったいどんくらい設定を読み込んだのかしらねぇが覚えたっきりになってる。演技するなら、もっと口の利き方に気を使わないと」
「……何が言いたいんだい、デックスさんよ」
「来るときちょっと話を聞いたろ? 普通は昔の話をする時もっとボンヤリ喋るもんさ。でも、あんたは全部決め打ち。答えなんか用意してっから断定しちまうんだよ」
「……バカバカしい。たったそれだけで決めつけるのか?」
「盗賊が人と酒を酌み交わすときは、まず自分が飲むもんだ。知らなかったろ」
「……それは初耳だった」
ニッと唇を歪め、バズギーは背もたれに体重を預けた。お袋の椅子が不満げに軋んだ。
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