史跡観光
人は本当に
悲しみは時が癒やすと言う者もあるが、悲しみは傷ではないので癒やされやしない。ただ慣れていくだけだ。慣れは強さではなく、感受性の鈍麻を意味する。
それを癒やしと呼び習わすのは、痛みを忘れた
「――じゃあ、なんでそう教えられる? 生ける屍体は自分が死んでるって分からねぇけど、周りの人間となんか違うのは分かる。ひとりぼっちは寂しい。あとは分かるな?」
「ワカルー」
軽快に進む馬ぞりの荷台、横に座るマルセルは親のコネで初舞台を踏んだ女優のような口調で言った。まったくの無表情。虚ろな瞳。目の下にドス黒いクマ。毛糸の手袋に包まれた手には今週号の『網の目』クロスワード面。豚でも解ける、通称ブタトケ。
「……嘘だろ? おい、マルセル、まだ一文字も埋まってねぇぞ?」
「ダヨネー」
「お前、朝からずっとそんな調子じゃねぇか。ほら見ろ、もう森抜けたぞ?」
「ソレナー」
まったく会話が噛み合わない。マルセルがどういう生き方をしてきたか知らないが、彼女なりの防衛的会話術なのだろうか。
人は誰しも、別の物事に集中したいときに使う無気力な会話術をもつ。それを使用しているのであれば、マルセルはひと晩かけて膨らんだ苦悩と対峙しているのかもしれない。
先日、ジョー婦人にゴッツイ一撃を食らった直後は、まだ普通だった。ほとんど月明かりだけが頼りになった帰り道でも、聞き取れないほどの声量でぶつくさ何か言いつづけるくらいの気力があった。
それが、一晩過ぎたらこのザマだ。
おれはマルセルの肩にショールを掛け直し、御者が指差す先にそびえる旧魔王軍砦跡にため息を吹きかけた。雪道を掘り進むぶっとい足の馬の鼻息にすら優るため息だった。
雄大な大自然と言えば聞こえがいいが、何もないと言えばそれまでになる雪原の奥地に、その砦はある。だがその姿は、ひと目で昨日ジョー婦人が見て行けと言った意味が分かるようだった。突貫で作ったにしては出来が良く、崩壊の跡もどこか整っている。
「……なぁ、おっちゃん。これ、戦後に修復されたのか?」
そう尋ねると、御者のおっちゃんは砦を一瞥して首を左右に振った。
「悪いねぇ、ちょっと分からないんだ。俺がこっちに来た頃にゃ、もう観光地でね」
「……おっちゃんも聖教会かい?」
「もちろん! って、まさかお兄さんは違うのかい?」
「考えてるトコでね」
「なんだいそりゃ」
御者は笑いながら砦の正面口に馬ぞりを乗り付けた。おれは受け答えまでする精巧な自動人形と化しつつあるマルセルの手を引き、荷台から降ろす。肩掛け鞄の中身を減らしたのか、意外にも足元はしっかりしていた。
「……大変だねぇ、お兄さん」
御者のおっちゃんが気の毒そうな顔をして言った。
「……あい?」
「昨日、鐘を鳴らしたの、お兄さんだろ? きっと治るよ、彼女さん」
「…………あい、どうも……」
その教会に眠る方のご親族にやっつけられちまったんですへへへ、とは言えなかった。何がどうしてそうなったのか知らないが、鐘の一件は住民たちの好意が生み出した無理やりなシンジツによって、ひとまずの許しを得たらしい。
「んじゃ、俺はそこの馬小屋んとこで焚き火起こして待ってるからさ。あんまり慌てないでゆっくり見て回ってくるといいよ。彼女さんを大事にな」
「……あい、どうも……」
マルセルの罵声が欲しいと願う日が来るとは。
おれは御者を見送り、延々とブタトケを見つめるマルセルと手を繋いで砦に入った。砦から出てくるときに復活していたら――というか復活させるつもりだが、そのときは御者が新たな鐘の音伝説を語るのだろうか。
「だとすりゃ、ごめんなさいだよ、フリーキー・ジョー」
おれは風に乗せて呟いた。
ブギーマンブーツが音を消し、マルセルの靴音だけが高い天井に響く。すでに観光資源化した史跡とはいえ、建物内部は綺麗なものだ。笑えるのはそこかしこの壁にそこでどのような戦闘があったのか見てきたように説明するプレートがあることくらいで、人の手で作られたのならなんの変哲もない要塞だ。
――そう、人の手で作られたのなら。
魔王軍の悪行については王都の聖教会やら図書館やらで腐るほど見つかる。だが、内容は写本と見紛うほど似たりよったりだ。魔王軍がどういう戦ってきたのか伝える資料は驚くほど少ない。しかも、そういう貴重な資料を手に入れられたとしても誰かの主観を通しているのに変わりなく、結局は自分の目で見てたしかめないと信用できない。
「なーんで魔物の砦に地下牢なんてもんがあるんだか……なぁ? マルセル?」
古びた木の格子を前に振り向くと、マルセルは薄暗い中なおブタトケを見ていた。
「ソレナー」
「……ッ、てめぇ! マルセル! いい加減、正気に戻りやがれ!」
おれは全力で叫び『網の目』を奪った。
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